師賢登山の事 附 唐崎浜合戦の事
尹大納言師賢卿は、主上の内裏を出御ありし夜、三條河原まで供奉せられたりしを、大塔宮より様々仰せられつる仔細あれば、「臨幸の由にて山門へ登り、衆徒の心をも伺ひ、又、勢をもつけて合戦を致せ。」と仰せられければ、師賢、法勝寺の前より袞竜の御衣を著して、瑤輿に乗り替へて{*1}山門の西塔院へ登り給ふ。四條中納言隆資、二條中将為明、中院左中将貞平{*2}、皆衣冠正しうして、供奉の体に相従ふ。事の儀式、まことしくぞ見えたりける。西塔の釈迦堂を皇居となされ、主上、山門を御憑みあつて臨幸成りたるよし披露ありければ、山上、坂本は申すに及ばず、大津、松本、戸津、比叡辻、仰木、絹河、和仁、堅田のものまでも、われさきにと馳せまゐる。その勢、東西両塔に充満して、雲霞の如くにぞ見えたりける。
かかりけれども、六波羅には未だかつてこれを知らず。夜明けければ、東使両人、内裏へ参りて、先づ行幸を六波羅へ成し奉らんとて打つ立ちける処に、浄林房阿闍梨豪誉がもとより六波羅へ使者を立て、「今夜の寅の刻に、主上、山門を御憑みあつて臨幸成りたる間、三千の衆徒、悉く馳せ参り候。近江、越前の御勢を待ちて、明日は六波羅へ寄せらるべき由、評定あり。事の大きになり候はぬ先に、急ぎ東坂本へ御勢を向けられ候へ。豪誉、後づめ仕つて、主上をば取り奉るべし。」とぞ申したりける。
両六波羅、大きに驚きて、先づ内裏へ参じて見奉るに、主上は御座なくて、唯、局町{*3}の女房達、ここかしこにさし集ひて泣く声のみぞしたりける。「さては、山門へ落ちさせ給ひたる事、仔細なし。勢つかぬ前に山門を攻めよ。」とて、四十八箇所の篝に畿内五箇国の勢を差し添へて、五千余騎、追手の寄せ手として、赤山の麓、下松の辺へさし向けらる。搦手へは佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑後前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝に、美濃、尾張、丹波、但馬の勢を差し添へて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄せかけたり。
坂本には、かねてより相図を指したる事なれば、妙法院、大塔宮両門主、宵より八王子へ御上りあつて、御旗を揚げられたるに、御門徒の護正院の僧都祐全、妙光坊の阿闍梨玄尊を始めとして、三百騎、五百騎、ここかしこより馳せ参りける程に、一夜の間に御勢六千余騎になりにけり。天台座主を始めて、解脱同相の御衣を脱ぎ給ひて、堅甲利兵の御かたちにかはり、垂跡和光のみぎり忽ちに変じて、勇士守禦の場となりぬれば、神慮も如何あらんと、計り難くぞおぼえたる。さる程に、六波羅勢、已に戸津宿の辺まで寄せたりと、坂本の内、騒動しければ、南岸の円宗院、中坊の勝行房、早り雄{*4}の同宿ども、取る物も取りあへず、唐崎の浜へ出で合ひける。その勢、皆かち立ちにて、しかも三百人には過ぎざりけり。
海東、これを見て、「敵は小勢なりけるぞ。後陣の勢の重ならぬ前に、かけ散らさでは叶ふまじ。続けや、者ども。」といふままに、三尺四寸の太刀を抜いて、鎧の射向の袖をさしかざし、敵の渦まいて控へたる真中へかけ入り、敵三人切り伏せ、波打際に控へて、続く御方をぞ待ちたりける。岡本房の幡磨竪者快実、遥かにこれを見て、前につき双べたる持楯一帖、かつぱと踏み倒し、二尺八寸の小長刀、水車に廻して躍り懸かる。海東、これを弓手にうけ、兜の鉢を真二つに打ち破らんと、隻手打ちに打ちけるが、打ち外して、袖の冠板より菱縫の板まで、片筋かいにかけず切つて落とす。二の太刀を、余りに強く切らんとて、弓手の鐙を踏みをり、已に馬より落ちんとしけるが、乗り直りける処を、快実、長刀の柄を取り延べ、内兜へ鋒上がりに二つ三つ、透間もなく入れたりけるに、海東、あやまたず喉笛を突かれて、馬より真さかさまに落ちにけり。快実、やがて海東が上巻に乗りかかり、鬢の髪を掴んで引き上げ、首かき切つて長刀に貫き、「武家の太将一人、討ち取つたり。物始めよし。」と悦んで、あざわらうてぞ立ちたりける。
ここに、何者とは知らず、見物衆の中より、年十五、六ばかりなる小児の、髪、唐輪に上げたるが、麹塵の筒丸に大口のそば高くとり、金作りの小太刀を抜いて、快実に走りかかり、兜の鉢をしたたかに三打ち四打ちぞ打ちたりける。快実、屹と振り返つてこれを見るに、齢二八ばかりなる小児の、大眉に鉄漿黒なり。これ程の小児を討ち留めたらんは、法師の身にとつては情なし。討たじとすれば、走り懸かり走り懸かり、手繁く切り廻りける間、よしよし。さらば、長刀の柄にて太刀を打ち落として組み止めん、としける処を、比叡辻の者どもが田の畔に立ち渡つて射ける横矢に、この児、胸板をつと射抜かれて、やにはに伏して死にけり。後に、「誰そ。」と尋ぬれば、海東が嫡子幸若丸といひける小児、父が留め置きけるに依つて、軍の伴をばせざりけるが、猶も覚束なくや思ひけん、見物衆に紛れて跡について来りけるなり。幸若、幼しといへども、武士の家に生まれたる故にや、父が討たれけるを見て、同じく戦場に討死して、名を残しけるこそ哀れなれ。
海東が郎等、これを見て、「二人の主を目の前に討たせ、あまつさへ首を敵に取らせて、生きて帰るものやあるべき。」とて、三十六騎の者ども、轡を双べてかけ入り、主の死骸を枕にして、討死せんと相争ふ。快実、これを見て、からからと打ち笑うて、「心得ぬ者かな。御辺達は、敵の首をこそ取らんずるに、御方の首をほしがるは、武家自滅の瑞相、顕はれたり。ほしからば、すは、取らせん。」と云ふままに、持ちたる海東が首を、敵の中へがばと投げかけ、坂本様の拝み切り{*5}、八方を払うて火を散らす。三十六騎の者ども、快実一人に切りたてられて、馬の足をぞ立てかねたる。
佐々木三郎判官時信、後ろに控へて、「御方討たすな、続けや。」と下知しければ、伊庭、目賀多、木村、馬淵、三百余騎、喚いて懸かる。快実、既に討たれぬと見えける処に、桂林房の悪讃岐、中房の小相模、勝行房の侍従竪者定快、金蓮房の伯耆直源、四人、左右より渡り合つて、鋒を差し合はせて切つて廻る。讃岐と直源と、同じ処にて討たれにければ、後陣の衆徒五十余人、続いて又打つてかかる。
唐崎の浜と申すは、東は湖にて、その汀、崩れたり。西は深田にて、馬の足も立たず。平沙渺々として道狭し。後ろへ取り廻さんとするも叶はず。中に取り篭めんとするも叶はず。されば、衆徒も寄せ手も、互に面に立ちたる者ばかり戦つて、後陣の勢は、いたづらに見物してぞ控へたる。
已に唐崎に軍始まりたりと聞こえければ、御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路へ向ふ。本院の衆徒七千余人、三宮林を下り降る。和仁、堅田の者どもは、小船三百余艘に取り乗つて、敵の後ろを遮らんと、大津をさして漕ぎ廻す。六波羅勢、これを見て、叶はじとや思ひけん、志賀の閻魔堂の前を横切りに、今路に懸けて引き返す。衆徒は案内者なれば、ここかしこのつまりつまりに{*6}落ち合ひて、散々に射る。武士は皆、無案内なれば、堀崖ともいはず、馬を馳せ倒して引きかねける間、後陣に引きける海東が若党八騎、波多野が郎等十三騎、真野入道父子二人、平井九郎主従二騎、谷底にて討たれにけり。佐々木判官も、馬を射させて乗替を待つ程に、大敵、左右より取り巻きて、既に討たれぬと見えけるを、名を惜しみ命を軽んずる若党ども、返し合はせ返し合はせ、所々にて討死しけるその間に、万死を出でて一生にあひ、白昼に京へ引き返す。
この頃までは、天下久しく静かにして、軍といふことは、敢へて耳にも触れざりしに、俄なる不思議出で来ぬれば、人皆あわて騒いで、天地も只今打ち返すやうに、沙汰せぬ処もなかりけり。
持明院殿六波羅へ御幸の事
世上乱れたる折節なれば、野心の者どもの取り参らすることもやとて、昨日二十七日の巳の刻に、持明院本院、春宮両御所{*7}、六條殿より六波羅の北の方へ御幸なる。供奉の人々には今出川前右大臣兼季公、三條大納言通顕、西園寺大納言公宗、日野前中納言資名、坊城宰相経顕、日野宰相資明、皆衣冠にて御車の前後に相従ふ。その外の北面、諸司恪勤は{*8}、大略、狩衣の下に腹巻を著輝かしたるもあり。洛中、須臾に変化して、六軍、翠花を警固し奉る{*9}。見聞、耳目をおどろかせり。
主上臨幸実事にあらざるに依つて山門変議の事 附 紀信が事
山門の大衆、唐崎の合戦に打ち勝つて、事始めよしと喜びあへる事、なのめならず。ここに、西塔を皇居に定めらるる條、本院、面目なきに似たり。寿永のいにしへ、後白河院、山門を御憑みありし時も、先づ横川へ御登山ありしかども、やがて東塔の南谷、円融坊へこそ御移りありしか。且は先蹤なり、且は吉例なり。早く臨幸を本院へ成し奉るべしと、西塔院へ触れおくる。西塔の衆徒、理にをれて、仙蹕{*10}を促さんために皇居に参列す。折節、深山おろし烈しうして、御簾を吹き上げたるより、竜顔を拝し奉りたれば、主上にてはおはしまさず。尹大納言師賢の、天子の袞衣を著したまへるにてぞありける。大衆、これを見て、「こは如何なる天狗の所行ぞや。」と、興をさます。その後よりは、参る大衆、一人もなし。かくては山門、如何なる野心をか存ぜんずらんとおぼえければ、その夜の夜半ばかりに、尹大納言師賢、四條中納言隆資、二條中将為明、忍びて山門を落ちて、笠置の石室へ参らる。
さる程に、上林房阿闍梨豪誉は、元より武家へ心を寄せしかば、大塔宮の執事、安居院中納言法印澄俊を生け捕つて、六波羅へこれを出だす。護正院僧都猷全は、御門徒の中の大名にて、八王子の一の木戸を堅めたりしかば、かくては叶はじとや思ひけん、同宿、手の者引きつれて、六波羅へ降参す。これを始めとして、一人落ち二人落ち、落ち行きける間{*11}、今は光林房律師源存、妙光房小相模、中坊悪律師、三、四人より外は、落ち止まる衆徒もなかりけり{*12}。
妙法院と大塔宮とは、その夜まで尚八王子に御座ありけるが、「かくては悪しかりぬべし。一まども落ち延びて、君の御行方をも承らばや。」と思し召されければ、二十九日の{*13}夜半ばかりに、八王子に篝火をあまた所に焼いて、未だ大勢篭りたる由を見せ、戸津の浜より小舟に召され、落ち止まる所の衆徒三人ばかり{*14}を召し具せられて、先づ石山へ落ちさせ給ふ。ここにて、「両門主、一所へ落ちさせ給はんことは、計略遠からぬに似たる上、妙法院は、御行歩もかひがひしからねば、只暫くこの辺に御座あるべし。」とて、石山より二人、引き別れさせ給ひて、妙法院は、笠置へ超えさせ給へば、大塔宮は、十津河の奥へと志して、先づ南都の方へぞ落ちさせ給ひける。さしもやごとなき一山の貫首の位を捨てて、未だ習はせ給はぬ万里漂泊の旅に浮かれさせ給へば、医王山王の結縁も、これやかぎり、と名残惜しく、竹園連枝{*15}の再会も、今は何をか期すべきと、御心細く思し召されければ、互に隔たる御影の隠るるまでに顧みて、泣く泣く東西へ別れさせ給ふ、御心の中こそ悲しけれ。
そもそも今度、主上、実に山門へ臨幸ならざるに依つて、衆徒の心、忽ちに変ずる事、一旦事成らずといへども、つらつら事の様を案ずるに、これ、叡智の浅からざる処に出でたり。
昔、強秦亡びて後、楚の項羽と漢の高祖と、国を争ふこと八箇年、軍を挑むこと七十余箇度なり。その戦ひの度毎に、項羽、常に勝つに乗つて{*16}、高祖、甚だ苦しめること多し。或る時高祖、滎陽城に篭る。項羽、兵を以て城を囲む事、数百重なり。日を経て城中に粮尽きて、兵疲れければ、高祖、戦はんとするに力なく、遁れんとするに道なし。ここに、高祖の臣に紀信といひける兵、高祖に向つて申しけるは、「項羽、今城を囲みぬる事数百重。漢、已に食尽きて、士卒、又疲れたり。もし兵を出だして戦はば、漢、必ず楚のために擒とならん。只、敵を欺きて、ひそかに城を逃れ出でんにはしかじ。願はくば、臣、今漢王の諱を犯して楚の陣に降せん。楚、ここに囲みを解いて臣を得ば、漢王、速やかに城を出でて、重ねて大軍を起こし、かへつて楚を亡ぼし給へ。」と申しければ、紀信が忽ちに楚に降つて殺されん事、悲しけれども、高祖、社稷のために身を軽くすべきに非ざれば、力なく、涙をおさへ、別れを慕ひながら、紀信が謀りごとに随ひ給ふ。
紀信、大きに悦んで、自ら漢王の御衣を著し、黄屋の車に乗り、左纛をつけて{*17}、「高祖、罪を謝して楚の大王に降す。」と呼ばはりて、城の東門より出でたりけり{*18}。楚の兵、これを聞いて、四面の囲みを解いて一所に集まる。軍勢、皆万歳を唱ふ。この間に高祖、三十余騎を従へて{*19}、城の西門より出でて、成皐へぞ落ち給ひける。夜明けて後、楚に降る漢王を見れば、高祖には非ず。その臣に{*20}紀信といふ者なりけり。項羽、大きに怒つて、遂に紀信を刺し殺す。高祖、やがて成皐の兵を率して、かへつて項羽を攻む。項羽が勢ひ尽きて、後、遂に烏江にして討たれしかば、高祖、長く漢の王業を起こして、天下の主となりにけり。
今、主上{*21}も、かかりし佳例を思し召し、師賢も、かやうの忠節を存ぜられけるにや、彼は敵の囲みを解かせんために偽り、これは敵の兵を遮らんために謀れり。和漢、時異なれども、君臣、体を合はせたる、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀なり。
校訂者注
1:底本は、「袞竜(こんりよう) の御衣(ぎよい)を著して、瑤輿(えうよ)に乗(の)り替(か)へて」。底本頭注に、「〇袞竜の御衣 主上の礼服。色赤く日月星辰山竜雉藻火斧等の象を繍つたもの。」「〇瑤輿 天子の乗輿。」とある。
2:底本は、「中院貞平(さだひら)、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
3:底本は、「局町(つぼねまち)」。底本頭注に、「官女の部屋部屋の立て並べてあるよりいふ。」とある。
4:底本は、「早雄(はやりを)」。底本頭注に、「勇み立つた男。」とある。
5:底本は、「坂本様(さかもとやう)の拝切(をがみきり)、」。底本頭注に、「坂本で比叡山を拝むやうに、真向に太刀を振りかざして切る事。」とある。
6:底本は、「逼々(つまりつまり)に」。底本頭注に、「要所々々に。」とある。
7:底本頭注に、「〇本院 後伏見上皇。」「〇春宮 量仁親王。」とある。
8:底本は、「恪勤(かくご)」。底本頭注に、「〇北面 上皇御所即ち院を守護する武士。」「〇諸司 百司。」「〇恪勤 諸司に勤番する勇士。」とある。
9:底本頭注に、「〇六軍 天子の軍。」「〇翠花 天子の旗。」とある。
10:底本は、「仙蹕(せんひつ)」。底本頭注に、「行幸。」とある。
11:底本は、「二人落ち行きける間(あひだ)、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
12:底本は、「なかりける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
13:底本は、「二十九日夜半(やはん)許りに、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
14:底本は、「衆徒三百人許り」。『太平記 一』(1977年)頭注に従い改めた。
15:底本頭注に、「〇竹園 親王。」「〇連枝 兄弟。」とある。
16:底本は、「勝(かち)に乗(の)つて、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
17:底本は、「黄屋(くわうをく)の車に乗り左纛(さたう)をつけて、」。底本頭注に、「〇黄屋の車 天子の車。」「〇左纛 黒牛の尾を以て作れる天子の旗。」とある。
18:底本は、「出でたりける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
19:底本は、「この間高祖三千余騎を従(したが)へて、」。『太平記 一』(1977年)に従い補い、改めた。
20:底本は、「その臣(しん)の紀信」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
21:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
コメント