赤坂城軍の事

 遥々と東国より上りたる大勢ども、未だ近江国へも入らざる前に、笠置の城、已に落ちければ、無念のことに思うて、一人も京都へは入らず。或いは伊賀、伊勢の山を経、或いは宇治、醍醐の道を横切つて、楠兵衛正成が楯篭つたる赤坂の城へぞ向ひける。石川河原を打ち過ぎ、城の有様を見遣れば、俄に拵へたりとおぼえて、はかばかしく堀をもほらず。僅かに塀一重塗つて、方一、二町には過ぎじとおぼえたるその内に、櫓二、三十が程掻き双べたり。これを見る人毎に、「あな、哀れの敵の有様や。この城、我等が片手に載せて、投ぐるとも投げつべし。あはれ、せめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし。分捕高名して、恩賞に預からん。」と思はぬ者こそなかりけれ。されば、寄せ手三十万騎の勢ども、打ち寄ると均しく馬を踏み放ち踏み放ち、堀の中に飛び入り、櫓の下に立ち双んで、我先に打ち入らんとぞ争ひける。
 正成は、元来、籌を帷幄の中にめぐらし、勝つ事を千里の外に決せんと、陳平、張良が肺肝の間より流出せるが如きの者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭めて、舎弟の七郎{*1}と和田五郎正遠とに三百余騎を差し副へて、よその山にぞ置きたりける。寄せ手はこれを思ひもよらず、心を一片に取りて、唯一揉みに揉み落とさんと、同時に皆四方の切り岸の下に著いたりける処を、櫓の上、狭間の蔭より、指しつめ引きつめ鏃を揃へて射ける間、時の程に手負、死人、千余人に及べり。東国の勢ども、案に相違して、「いやいや、この城のていたらく、一日二日には落つまじかりけるぞ{*2}。暫く陣々を取りて役所を構へ、手分けをして合戦を致せ。」とて、攻め口を少し引き退き、馬の鞍をおろし、物具を脱いで、皆帷幕の中にぞ休み居たりける。
 楠七郎、和田五郎、遥かの山より見下して、時刻よし、とおもひければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木蔭より、菊水の旗二流れ、松の嵐に吹き靡かせ、閑かに馬を歩ませ、煙嵐を巻いて押し寄せたり。東国の勢、これを見て、敵か御方かとためらひ怪しむ処に、三百余騎の勢ども、両方より鬨をどつと作つて、雲霞の如くにたなびいたる三十万騎が中へ{*3}、魚鱗懸かりにかけ入り、東西南北へ破つて通り、四方八面を切つて廻るに、寄せ手の大勢、あきれて陣を成しかねたり。城中より三の木戸を同時に颯とひらいて、二百余騎、鋒を双べて打つて出で、手先を廻して散々に射る。寄せ手、さしもの大勢なれども、僅かの敵に驚き騒いで、或いは、繋げる馬に乗つて、あふれども進まず。或いは、外せる弓に矢をはげて、射んとすれども射られず。物具一領に二、三人取りつき、「我がよ、人のよ。」と引き合ひけるその間に、主討たるれども従者は知らず、親討たるれども子は助けず。蜘の子を散らすが如く、石川河原へ引き退く。その道五十町が間、馬物具を捨てたること{*4}、足の踏み所もなかりければ、東條一郡の者どもは、俄に徳附いてぞ見えたりける。
 さしもの東国勢、思ひの外にし損じて、初度の合戦に負けければ、楠が武略、侮りにくしとや思ひけん、吐田、楢原辺に各打ち寄せたれども、やがて又押し寄せんとは擬せず{*5}。ここに暫く控へて、畿内の案内者を先に立て、後づめのなきやうに山を刈り廻し、家を焼き払うて、心やすく城を攻むべきなんど評定ありけるを、本間、渋谷の者どもの中に、親討たれ子討たれたる者多かりければ、「命生きては何かせん。よしや、我等が勢ばかりなりとも、馳せ向つて討死せん。」と憤りける間、諸人、皆これに励まされて、我も我もと馳せ向ひけり。
 かの赤坂の城と申すは、東一方こそ山田の畔、重々に高く、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に塀一重塗つたれば、如何なる鬼神が篭りたりとも、何程の事かあるべきと、寄せ手皆これを侮り、又、寄すると均しく堀の中、切り岸の下まで攻めついて、逆茂木を引きのけて、討つて入らんとしけれども、城中には音もせず。これはいかさま、昨日の如く、手負ひ多く射出して漂ふ処へ、後づめの勢を出して揉み合はせんずるよと心得て、寄せ手、十万余騎を分けて、後ろの山へ指し向けて、残る二十万騎、稲麻竹葦の如く城を取り巻いてぞ攻めたりける。かかりけれども、城の中よりは、矢の一筋をも射出さず、更に人ありとも見えざりければ、寄せ手、いよいよ気に乗つて、四方の塀に手をかけ、同時に上り越えんとしける処を、本より塀を二重に塗つて、外の塀をば切つて落とす様に拵へたりければ、城の中より四方の塀の釣り縄を一度に切つて落としたりける間、塀に取り附きたる寄せ手千余人、圧しに打たれたる様にて、目ばかりはたらく処を、大木、大石を投げ懸け投げ懸け打ちける間、寄せ手、又今日の軍にも七百余人討たれけり。
 東国の勢ども、両日の合戦に手懲りをして{*6}、今は城を攻めんとする者一人もなし。ただその近辺に陣々を取つて、遠攻めにこそしたりけれ。四、五日が程は、かやうにてありけるが、「余りに暗然として目守り居たるも云ふ甲斐なし。『方四町にだに足らぬ平城に、敵四、五百人篭りたるを、東八箇国の勢どもが攻めかねて、遠攻めしたる事のあさましさよ。』なんど、後までも人に笑はれんことこそ口惜しけれ。先々は、はやりのまま楯をも衝かず、攻め具足をも支度せで攻むればこそ、そぞろに人は損じつれ。今度は、手立てを替へて攻むべし。」とて、面々に持楯をはがせ、その面にいため皮を当てて、たやすく打たれぬやうに拵へて、かづきつれてぞ攻めたりける。
 切り岸の高さ堀の深さ、幾程もなければ、走りかかつて塀に著かんことは、いと易くおぼえけれども、これも又、釣塀にてやあらんと危ぶみて、左右なく塀には著かず、皆堀の中におり浸つて、熊手を懸けて塀を引きける間、既に引き破られぬべう見えける処に、城の中より柄の一、二丈長き杓に、熱湯の沸きかへりたるを酌んでかけたりける間、兜の天返、綿がみ{*7}のはづれより、熱湯身に通つて焼け爛れければ、寄せ手、こらへかねて、楯も熊手も打ち捨てて、ぱつと引きける見苦しさ。矢庭に死ぬるまでこそなけれども、或いは手足を焼かれて立ちもあがらず、或いは五体を損じて病み臥する者、二、三百人に及べり。
 寄せ手、手立てを替へて攻むれば、城中、工を替へて防ぎける間、今はともかくもすべきやうなくして、唯食攻めにすべしとぞ議せられける。かかりし後は、ひたすら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆茂木を引いて遠攻めにこそしたりけれ。これにこそ中々城中の兵、慰む方もなく気も疲れぬる心地しけれ{*8}。楠、この城を構へたる事、暫時の事なりければ、はかばかしく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始まつて城を囲まれたる事、僅かに二十日余りに、城中兵粮尽きて、今四、五日の食を残せり。
 かかりければ、正成、諸卒に向つて云ひけるは、「この間、数箇度の合戦に打ち勝つて、敵を亡ぼす事数を知らずといへども、敵大勢なれば、敢へて物の数ともせず。城中既に食尽きて、援けの兵なし。元より天下の士卒に先立つて、草創の功を志とする上は、節に当たり義に臨んでは、命を惜しむべきにあらず。然りといへども、事に臨んで恐れ、謀りごとを好んでなすは、勇士のする所なり。されば、暫くこの城を落ちて、正成、自害したる体を敵に知らせんと思ふなり。その故は、正成自害したりと見及ばば、東国勢、定めて悦をなして下向すべし。下らば、正成、討つて出で、又上らば深山に引き入り、四、五度が程東国勢を悩ましたらんに、などか退屈せざらん。これ、身を全うして敵を亡ぼす計略なり。面々、如何計らひ給ふ。」といひければ、諸人皆、「然るべし。」とぞ同じける。
 「さらば。」とて、城中に大きなる穴を二丈ばかり掘つて、この間堀の中に多く討たれて伏したる死人を二、三十人穴の中に取り入れて、その上に炭、薪を積んで、雨風の吹き洒ぐ夜をぞ待ちたりける。正成が運や天命に叶ひけん、吹く風俄に沙を揚げて、降る雨更に篠を衝くが如し。夜色窈溟として、氈城皆帷幕を垂る。これぞ待つ所の夜なりければ、城中に人を一人残し留めて、「我等落ち延びん事、四、五町にも成りぬらんと思はんずる時、城に火をかけよ。」と云ひ置いて、皆物具を脱ぎ、寄せ手に紛れて、五人三人別々になり、敵の役所の前、軍勢の枕の上を越えて、しづしづと落ちけり。
 正成、長崎が厩の前を通りける時、敵、これを見つけて、「何者なれば、御役所の前を案内も申さず忍びやかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「これは、大将の御内の者にて候が、道を踏み違へて候ひける。」といひ捨てて、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪しき者なれ。いかさま、馬盜人とおぼゆるぞ。唯射殺せ。」とて、近々と走り寄つて、真只中をぞ射たりける。その矢、正成が臂の懸かり{*9}に答へて、したたかに立ちぬとおぼえけるが、すはだなる身に少しも立たずして、筈を返して飛びかへる。後にその矢の痕を見れば、正成が年頃信じて読み奉る観音経を入れたりける、はだへの守りに矢当たつて、一心称名の二句の偈に矢先留まりけるこそ不思議なれ。
 正成、必死の鏃に死を遁れ、二十余町落ち延びて、跡を顧みければ、約束に違はず、早、城の役所どもに火をかけたり。寄せ手の軍勢、火に驚いて、「すはや、城は落ちけるぞ。」とて、勝鬨を作つて、「余すな、漏らすな。」と騒動す。焼け静まりて後、城中をみれば、大きなる穴の中に炭を積んで、焼け死にたる死骸多し。皆これを見て、「あな、哀れや。正成、はや自害をしてけり。敵ながらも、弓矢取つて尋常に死にたる者かな。」と、誉めぬ人こそなかりけれ。

桜山自害の事

 さる程に、桜山四郎入道{*10}は、備後国半国ばかり打ち従へて、「備中へや越えまし。安芸をや退治せまし。」と案じける処に、笠置城も落ちさせ給ひ、楠も自害したりと聞こえければ、一旦の附き勢は、皆落ち失せぬ。今は、身を離れぬ一族、年頃の若党二十余人ぞ残りける。この頃こそあれ、その昔は、武家、権を執つて、四海九州の内、尺地も残らざりければ、親しき者も隠し得ず、疎きはまして憑まれず。人手にかかりて骸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳になりける最愛の子と、二十七になりける年頃の女房とを刺し殺して、社壇に火をかけ、己が身も腹掻き切つて、一族若党二十三人、皆灰燼となつて失せにけり。
 そもそも所こそ多かるに、わざと社壇に火をかけ焼け死にける、桜山が所存を如何にと尋ぬるに、この入道、当社に首を傾けて年久しかりけるが、社頭のあまりに破損したる事を歎きて、造営し奉らんといふ大願を起こしけるが、事大営なれば、志のみ有つて力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専らこの大願を遂げんがためなりけり。されども、神は非礼を受け給はざりけるにや、所願空しうして討死せんとしけるが、「我等、この社を焼き払ひたらば、公家武家共に、止む事を得ずして、いかさま、造営の沙汰あるべし。その身はたとひ奈落の底に堕在すとも、この願をだに成就しなば、悲しむべきにあらず。」と、勇猛の心を起こして、社頭にては焼け死にけるなり。つらつら垂跡和光の悲願を思へば、順逆の二縁、いづれも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とやならんと、これもたのみは浅からずぞおぼえける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「正氏。後に正季と改名す。」とある。
 2:底本は、「落ちまじかりけるぞ。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 3:底本は、「三十万騎が中に、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 4:底本は、「馬物具の捨(す)てたること」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「おし寄せんとする模様もなく。」とある。
 6:底本は、「手ごりをして、」。底本頭注に従い改めた。
 7:底本頭注に、「〇天返 兜の頂上の孔ある所。」「〇綿がみ 鎧の肩の所。」とある。
 8:底本は、「心地してける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「臂の関節に矢が立つ。」とある。
 10:底本頭注に、「名は茲俊。」とある。