巻第四

笠置の囚人死罪流刑の事 附 藤房卿の事

 笠置城攻め落とさるる刻、召し捕らはれ給ひし人々のこと、去年は歳末の計会{*1}に依つて、しばらく差し置かれぬ。新玉の年立ち返りぬれば、公家の朝拝、武家の沙汰始まりてのち、東使工藤次郎左衛門尉、二階堂信濃入道行珍{*2}、二人上洛して、死罪におこなふべき人々、流刑に処すべき国々、関東評定の趣、六波羅にして定めらる。山門、南都の諸門跡、月卿雲客、諸衛の司等に至るまで、罪の軽重に依つて、禁獄、流罪に処すれども、足助次郎重範をば六條河原に引き出し、首を刎ぬべしと定めらる。
 万里小路大納言宣房卿は、子息藤房、季房二人の罪科に依つて、武家に召し捕らはれ、これも囚人の如くにてぞおはしける。齢已に七旬に傾いて、万乗の聖主は遠島に遷されさせたまふべしと聞こゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんとおぼえて、我が身さへ又楚の囚人となりたまへば、ただ今まで命ながらへて、かかる憂きことをのみ見聞くことの悲しければと、一方ならぬおもひに、一首の歌をぞ詠ぜられける。
  長かれと何思ひけむ世の中のうきを見するはいのちなりけり
 罪科あるもあらざるも、先朝{*3}拝趨の月卿雲客、或いは出仕を停められ、桃源の跡を尋ね、或いは官職を解せられ、首陽の愁ひを懐く。運の通塞、時の否泰、夢とやせん、幻とやせん。時移り事去つて、哀楽互に相替はる、憂きを習ひの世の中に、楽しんでも何かせん、歎いても由なかるべし。
 源中納言具行卿をば佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕つて、鎌倉へ下したてまつる。道にて失はるべきよし、かねて告げ申す人やありけん、相坂の関を越え給ふとて、
  帰るべき時しなければこれやこの行くをかぎりのあふ坂の関
勢多の橋を渡るとて、
  けふのみと思ふ我が身の夢の世をわたるものかは勢多の長橋
 この卿をば道にて失ひ奉るべしと、かねて定めし事なれば、近江の柏原にて切り奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「如何なる先世の宿習によりてか、多くの人の中に、入道、預かり参らせて、今更かやうに申し候へば、且は情を知らざるに相似て候へども、かかる身には力なき次第にて候。今までは、随分天下の赦しを待ちて、日数を過ごし候ひつれども、関東より失ひ参らすべき由、堅く仰せられ候へば、何事も先世のなす所と思し召し慰ませ給ひ候へ。」と、申しもあへず、袖を顔に押し当てしかば、中納言殿も、不覚の涙すすみけるを押し拭はせ給ひて、「誠にそのことに候。この間の儀をば、後世までも忘れがたくこそ候へ。命の際の事は、万乗の君、既に外土遠島に御遷幸のよし聞こえ候上は、その以下の事どもは、中々力及ばず。殊更この程の情の色、誠に存命すとも謝し難くこそ候へ。」とばかりにて、その後は、ものをも仰せられず。硯と紙とを取り寄せて、御文細々とあそばして、「便りにつけて、相知れる方へ遣はして給はれ。」とぞ仰せられける。
 かくて日已に暮れければ、御輿さし寄せて乗せ奉る。海道より西なる山際に、松の一叢ある下に、御輿を舁き据ゑたれば、敷皮の上に居直らせ給ひて、又硯を取り寄せ、しづしづと辞世の頌をぞ書かれける。
  {*k}逍遥生死  四十二年  山河一革  天地洞然{*k}
六月十九日某。と書いて、筆を抛げうつて手をあざへ{*4}、座を直し給ふとぞ見えし。田児六郎左衛門尉、後ろへ廻るかと思へば、御首は前にぞ落ちにける。哀れといふも疎かなり。入道、泣く泣くその遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を弔ひ奉りける。いと惜しきかな、この卿は、先帝{*5}、帥宮と申し奉りし頃より近侍して、朝夕の拝礼怠らず、昼夜の勤厚、他に異なり。されば、次第に昇進も滞らず、君の恩寵も深かりき。今かく失せ給ひぬと叡聞に達せば、いかばかり哀れにも思し召されんずらんとおぼえたり。
 同じき二十一日、殿の法印良忠をば大炊御門油小路の篝{*6}、小串五郎兵衛尉秀信召し捕りて、六波羅へ出だしたりしかば、越後守仲時、斎藤十郎兵衛を使にて申されけるは、「この頃、一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思ひ立ち給はん事、且はやんごとなく、且は楚忽にこそおぼえて候へ。先帝を奪ひ参らせんために、当所の絵図なんどまで持ち廻られ候ひける條、武敵の至り、重科双びなし。隠謀の企てる罪責、余りあり。計りごとの次第、一々にのべられ候へ。具さに関東へ注進すべし。」とぞ宣ひける。法印、返事せられけるは、「普天の下、王土にあらずといふ事なし。率土の浜、王民にあらずといふ事なし。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者、これを喜ぶべきや。叡慮に代はつて玉体を奪ひ奉らんと企つる事、なじかは止んごとなかるべき。無道を誅せんため、隠謀を企てし事、更に楚忽の儀にあらず。始めより叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし條、仔細なし。然るを、あからさまに出京の跡に、城郭の固めなく、官軍敗北の間、力無く本意を失へり。その間に、具行卿、相談して綸旨を申し下し、諸国の兵に賦りし條、勿論なり。有る程の事は、これ等なり。」とぞ返答せられける{*7}。
 これに依つて、六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道、進みて申しけるは、「かの罪責、勿論の上は、是非なく誅せらるべけれども、与党の人なんど尚尋ね、沙汰あつて、重ねて関東へ申さるべきかとこそ存じ候へ。」と申しければ、長井右馬助、「この議、最も然るべく候。これ程の大事をば、関東へ申されてこそ。」と申しければ、面々の意見、一同せしかば、法印をば五條京極の篝、加賀前司に預けられて禁篭し、重ねて関東へぞ注進せられける。
 平宰相成輔をば、河越三河入道円重、具足し奉つて、これも鎌倉へと聞こえしが、鎌倉までも下し著け奉らで、相模の早河尻にて失ひ奉る。侍従中納言公明卿、別当実世卿二人をば、赦免のよしにてありしかども、猶心ゆるしやなかりけん、波多野上野介宣通、佐々木三郎左衛門尉に預けられて、猶も元の宿所へは帰し給はず。
 尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に預けらる。この人、志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め給はざりしかば、今遠流の刑に逢へる事、露ばかりも心にかけて思はれず。盛唐の詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢うて、「路灔澦を経、双蓬の鬢。天滄浪に落つ、一釣の舟。」と、天涯の恨みを吟じ尽くし、吾が朝の歌仙小野篁は、隠岐国へ流されて、「海原や八十島{*8}かけて漕ぎいでぬ」と、釣する海士に言伝てて、旅泊の思ひを詠ぜらる。これ皆、時の難易を知つて、歎くべきを歎かず。運の窮達を見て、悲しみあるを悲しまず。況んや、主憂ふる時は、則ち臣辱めらる。主辱めらるる時は、則ち臣死す、といへり。たとひ骨を醢にせられ、身を車裂きにせらるとも、傷むべき道にあらずとて、少しも悲しみ給はず。唯時に依り、興に触れて諷詠、等閑に日を渡る。今は憂世の望み絶えぬれば、出家の志あるよし、頻りに申されけるを、相模入道、仔細候はじと許されければ、年未だ強仕{*9}に満たず、翠の髪を剃り落とし、桑門人となり給ひしが、幾程もなく元弘の乱出で来し始め、俄に病に冒され、円寂し給ひけるとかや。
 東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ預けらる。左遷遠流の悲しみは、いづれも劣らぬ涙なれども、殊にこの卿の心の中、推し量るも猶哀れなり。
 近来、中宮の御方に左衛門佐局とて、容色世に勝れたる女房おはしましけり。去んぬる元享の秋の頃かとよ、主上、北山殿に行幸成つて、御賀の舞のありける時、堂下の立部{*10}、袖を翻し、梨園の弟子、曲を奏せしむ。繁絃急管、いづれも金玉の声、玲瓏たり。この女房、琵琶の役に召され、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語りは花の下に滑らかなり。幽咽せる泉の流れは氷の底になやめり。適怨清和、節に随つて移る。四絃一声、帛を裂くが如し。撥つては復挑ぐ、一曲の清音。梁上に燕飛び、水中に魚跳るばかりなり。
 中納言、ほのかにこれを見給ひしより、人知らず思ひ初めける心の色、日に副へて深くのみなり行けども、云ひ知らすべき便りもなければ、心に篭めて歎き明かし思ひ暮らして、三年を過ごし給ひけるこそ久しけれ。如何なる人目の紛れにや露のかごと{*11}を結ばれけん、一夜の夢の幻、定かならぬ枕をかはし給ひにけり。その次の夜の事ぞかし。主上、俄に笠置へ落ちさせ給ひければ、藤房、衣冠をぬぎ、戎衣に成つて供奉せんとし給ひけるが、この女房に廻り逢はん末の契りも知りがたし。一夜の夢の面影も名残あつて、今一度見もし見えばや、と思はれければ、かの女房の住み給ひける西の対へ行きて見給ふに、時しもこそあれ、「今朝中宮の召しあつて、北山殿へ参り給ひぬ。」と申しければ、中納言、鬢の髪を少し切つて、歌を書き副へてぞ置かれける。
  黒髪の乱れむ世までながらへばこれを今はのかたみとも見よ
 この女房、立ちかへり、形見の髪と歌とを見て、読みては泣き、泣きては読み、千度百度巻き返し、心乱れてせん方もなし。かかる涙に文字消えて、いとど思ひに堪へかねたり。せめてその人のいます所をだに知りたらば、虎伏す野辺、鯨寄る浦なりとも、あこがれぬべき心地しけれども、その行方いづくとも聞き定めず。又逢はん世の憑みもいさや知らねば、余りの思ひに堪へかねて、
  書きおきし君が玉章身にそへて後の世までのかたみとやせむ
先の歌に一首を書き副へて、形見の髪を袖に入れ、大井河の深き淵に身を投げけるこそ哀れなれ。君が一日の恩のために、妾が百年の身を誤つとも、かやうの事をや申すべき。
 按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国。峯僧正俊雅は対馬国と聞こえしが、俄にその議を改めて、長門国へ流され給ふ。第四の宮{*12}は、但馬国へ流し奉りて、その国の守護太田判官に預けらる。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「雑務の処理。」とある。
 2:底本頭注に、「貞綱の子。」とある。
 3・5:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 4:底本頭注に、「手指を組み合はせ。」とある。
 6:底本は、「篝(かゞり)」。底本頭注に、「京都の辻々の警備兵。」とある。
 7:底本は、「返答せられにける。」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
 8:底本は、「八千島(やそしま)」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本は、「強仕(きやうじ)」。底本頭注に、「四十歳。曲礼に『四十曰強而仕。』。」とある。
 10:底本は、「立部(りふはう)」。底本頭注に、「〇立部 楽人。唐代の楽人に立部と坐部とあり堂上は坐し堂下は立つといふ。」「〇梨園 唐代に坐部の楽人の弟子三百人を選んで梨園で教へた 之が梨園の弟子。」とある。
 11:底本頭注に、「浅い契り。」とある。
 12:底本頭注に、「聖尊法親王か。」とある。
 k:底本、この間は漢文。