八歳の宮御歌の事
第九宮{*1}は、未だ御幼稚におはしませばとて、中御門中納言宣明卿に預けられ、都の内にぞ御座ありける。この宮、今年は八歳にならせ給ひけるが、常の人よりも御心ざまさかさかしく{*2}おはしましければ、常は、「主上、已に人も通はぬ隠岐国とやらんに流されさせ給ふうへは、我ひとり都の内に止まりても、何かせん。あはれ、我をも君の御座あるなる国のあたりへ流し遣はせかし。せめてはよそながらも御行末を承らんか。」とかきくどき、打ちしをれて、御涙、更にせきあへず。「さても、君の押し篭められて御座ある白河は、京近き所と聞くに、宣明は、など我を具足して御所へは参らぬぞ。」と仰せありければ、宣明卿、涙をおさへて、「皇居程近き所にてだに候はば、御供仕りて参ぜん事、仔細あるまじく候が、白河と申し候は、都より数百里を経て下る道にて候。されば、能因法師が、『都をば霞と共に出でしかど秋風ぞ吹くしらかはの関』と詠みて候ひし歌にて、道の遠き程、人を通さぬ関ありとは思し召し知らせ給へ。」と申されければ、宮、御涙を押さへさせ給ひて、暫しは仰せ出ださるる事もなし。
ややあつて、「さては宣明、我を具足して参らじと思へる故に、かやうに申すものなり。白河の関と詠みたりしは、全く洛陽渭水の白河にはあらず。この関、奥州の名所なり。この頃、津守国夏が、これを本歌にて詠みたりし歌に、『東路の関までゆかぬ白河も日数経ぬれば秋風ぞ吹く』。又、最勝寺の懸かり{*3}の桜枯れたりしを、植ゑかふるとて、藤原雅経朝臣、『馴れ馴れて見しは名残の春ぞともなど白河の花のしたかげ』。これ皆、名は同じうして所は替はれる証歌なり。よしや、今は心に篭めて、いひ出ださじ。」と、宣明をうらみ仰せられ、その後よりは、かき絶え、恋しとだに仰せられず。万、物憂き御気色にて、中門に立たせ給へる折節、遠寺の晩の鐘、幽かに聞こえければ、
つくづくと思ひ暮らしていりあひの鐘をきくにも君ぞこひしき
情、中に動けば、詞、外にあらはる{*4}。御歌のをさをさしさ、哀れに聞こえしかば、その頃、京中の僧俗男女、これを畳紙、扇に書きつけて、「これこそ八歳の宮の御歌よ。」とて、翫ばぬ人はなかりけり。
一宮並妙法院二品親王の御事
三月八日、一宮{*5}中務卿親王をば、佐々木大夫判官時信を路次の御警固にて、土佐の畑へ流し奉る。今までは、たとひ秋刑{*6}の下に死して、竜門原上の苔に埋まるとも、都のあたりにてともかくもせめてならばやと、天を仰ぎ地に伏して御祈念ありけれども、昨日既に先帝をも流し奉りぬと、警固の武士ども申し合ひけるを聞こし召して、御祈念の御憑みもなく、いと心細く思し召しける処に、武士どもあまた参りて、中門に御輿を差し寄せたれば、押さへかねたる御涙の中に、
せき留むるしがらみぞなき涙河いかに流るるうき身なるらむ
同じき日、妙法院{*7}二品親王をも、長井左近大夫将監高広を御警固にて、讃岐国へ流し奉る。昨日は、主上御遷幸の由を承り、今日は、一宮流されさせ給ひぬと聞こし召し、御心を傷ましめ給ひけり。憂名も替はらぬ同じ道に、しかも別れて赴き給ふ、御心の中こそ悲しけれ。
初めの程こそ別々にて御下りありけるが、十一日の暮程には、一宮も妙法院ももろともに、兵庫に著かせ給ひたりければ、一宮は、これより御船にめして、土佐の畑へ御下りあるべきよし聞こえければ、御文を参らせ給ひけるに、
今までは同じやどりを尋ね来てあとなき波と聞くぞかなしき
一宮、御返事、
明日よりは跡なき波に迷ふともかよふ心よしるべともなれ
配所は共に四国と聞こゆれば、「せめては同国にてもあれかし。こと問ふ風の便りにも、憂きを慰む一節。」とも念じ思し召しけるも叶はで、一宮は、たゆたふ波にこがれ行く、身を浮舟に任せつつ、土佐の畑へ赴かせ給へば、有井三郎左衛門尉が館の傍に、一室を構へて置き奉る。かの畑と申すは、南は山の傍にて高く、北は海辺にて下がれり。松の下露、扉に懸かりて、いとど御袖の涙を添へ、磯打つ波の音、御枕の下に聞こえて、これのみ通ふ故郷の、夢路も遠くなりにけり。前朝{*8}御帰洛の御祈りのためにやありけん、又、済度利生の結縁とや思し召されけん、御著岸のその日より、毎日三時の護摩を、千日が間ぞ修せられける。
妙法院は、これより引き別れて、備前国までは陸地を経て、児島の吹上より船に召して、讃岐の詫間に著かせ給ふ。これも海辺近き処なれば、毒霧、御身を侵して、瘴海の気すさまじく、漁歌牧笛の夕の声、嶺雲海月の秋の色、すべて耳に触れ眼に遮ることの、哀れを催し御涙を添ふるなかだちとならずといふ事なし。
先皇{*9}をば、承久の例に任せ、隠岐国へ流しまゐらすべきに定まりけり。臣として君をないがしろにし奉る事、関東も、さすが恐れありとや思ひけん、このために、後伏見院の第一の御子{*10}を御位に即け奉りて、先帝御遷幸の宣旨を成さるべし、とぞ計らひ申しける。天下の事に於いては、今は重祚の御望み、あるべきにもあらざれば、遷幸以前に先帝をば法皇に成し奉るべしとて、香染の御衣を武家より調進したりけれども、御法体の御事は暫くあるまじき由を仰せられて、袞竜の御衣をも脱がせ給はず。毎朝の御行水をめして、仮の皇居を浄めて、石灰の壇に準へて、太神宮の御拝ありければ、天に二つの日なけれども、国に二つの王おはします心地して、武家も、持ちあつかひて{*11}ぞおぼえける。これも、叡慮に憑み思し召すことありけるゆゑなり。
俊明極参内の事
去んぬる元享元年の春の頃、元朝より俊明極とて、得智の禅師来朝せり。天子、直に異朝の僧に御相看の事は、先々更になかりしかども、この君、禅の宗旨に傾かせ給ひて、諸方参得の御志おはせしかば、御法談のためにこの禅師を禁中へぞ召されける。事の儀式、余りに微微ならんは、吾が朝の恥なるべしとて、三公九卿も出仕のよそほひをつくろひ、蘭台金馬も守禦の備へを厳しくせり。夜半に蝋燭をたてて、禅師、参内せらる。主上、紫宸殿に出御成つて、玉座に席を薦め給ふ。禅師、三たび{*12}拝礼終はつて、香を拈じて万歳を祝す。
時に勅問あつて曰く、「山に桟し海に航して、得々として来る。和尚、何を以て度生せん。」禅師、答へて曰く、「仏法緊要の処を以て度生せん。」重ねて曰く、「正当恁麼の時、如何。」答へて曰く、「天上に星あり、皆北に拱す。人間、水として東に朝せずといふことなし。」御法談畢つて、禅師、拝揖して退出せらる。翌日、別当実世卿を勅使にて、禅師号を下さる。時に禅師、勅使に向つて、「この君、亢竜の悔いありといへども、二度帝位を践ませ給ふべき御相あり。」とぞ申されける。
今君、武臣のために囚はれて、亢竜の悔いに遭はせ給ひけれども、かの禅師の相し申したりしことなれば、二度九五の帝位を践ませ給はん事、疑ひなしと思し召すに依つて、法体の御事は暫くあるまじきよしを、強ひて仰せ出だされけり。
中宮御歎きの事
三月七日、已に先帝、隠岐国へ遷されさせ給ふと聞こえければ、中宮{*13}、夜に紛れて、六波羅の御所へ行啓ならせ給ひ、中門に御車を差し寄せたれば、主上、出御あつて、御車の簾をかかげらる。君は、中宮を都に止め置き奉りて、旅泊の波、長汀の月にさすらひ給はんずる行末の事を思し召し連ね、中宮は又、主上を遥々と遠外に思ひ遣り奉りて、何の憑みのある世ともなく、明けぬ長夜の心迷ひの心地し、長らへたる物思ひにならんと、共に語り尽くさせ給はば、秋の夜の千夜を一夜に準ふとも、猶詞残りて明けぬべければ、御心の中の憂き程は、その言の葉も及ばねば、中々いひ出ださせ給ふ一節もなし。ただ御涙にのみかきくれて、つれなく見えし晨明も、傾くまでになりにけり。夜已に明けなんとしければ、中宮、御車を廻らして還御なりけるが、御涙の中に、
この上の思ひはあらじつれなさの命よさればいつをかぎりぞ
とばかり聞こえて、伏し沈ませ給ひながら、帰る車の別れ路に、廻り逢ふ世のたのみなき御心の中こそ悲しけれ。
先帝遷幸の事
明くれば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道道誉、五百余騎にて、路次を警固仕つて、先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては、一條頭大夫行房、六條少将忠顕。御介錯は、三位殿御局ばかりなり。その外は、みな甲冑を鎧ひて弓箭を帯せる武士ども、前後左右に打ち囲み奉りて、七條を西へ、東洞院を下へ御車をきしれば、京中貴賤男女、小路に立ち双びて、「正しき一天の主を、下として流し奉る事の浅ましさよ。武家の運命、今に尽きなん。」と、憚る所なくいふ声、巷に満ちて、只赤子の母を慕ふ如く泣き悲しみければ、聞くに哀れを催して、警固の武士ももろともに、皆鎧の袖をぞぬらしける。
桜井の宿を過ぎさせ給ひける時、八幡を伏し拝み、御輿を舁き据ゑさせて、二度帝都還幸の事をぞ御祈念ありける。八幡大菩薩と申すは、応神天皇の応化、百王鎮護の御誓ひ新たなれば、天子行在の外までも、定めて擁護の御眸をぞ廻らさるらんと、憑もしくこそ思し召しけれ。湊川を過ぎさせ給ふ時、福原の京を御覧ぜられて、平相国清盛が四海を掌に握つて、平安城をこの卑湿の地に遷したりしかば、幾程もなく亡びしも、ひとへに上を犯さんとせし驕りの末、果たして天のために罰せられしぞかしと、思し召し慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて、須磨の浦を過ぎさせ給へば、昔、源氏の大将の、朧月夜に名を立ててこの浦に流され、三年の秋を送りしに、波、只ここもとに立ちし心地して、涙落つるともおぼえぬに、枕は浮くばかりになりにけりと、旅寝の秋を悲しみしも、理なりと思し召さる。
明石の浦の朝霧に、遠くなり行く淡路潟、寄せ来る浪も高砂の、尾上の松に吹く嵐、跡に幾重の山川を、杉坂越えて美作や。久米の佐羅山さらさらに、今はあるべき時ならぬに、雲間の山に雪見えて、遥かに遠き峯あり。御警固の武士を召して、山の名を御尋ねあるに、「これは、伯耆の大山と申す山にて候。」と申しければ、暫く御輿を止められ、内証深心の法施を奉らせ給ふ。或る時は、鶏唱に茅店の月を抹過し、或る時は、馬蹄に板橋の霜を踏破して、行路に日を窮めければ、都を御出であつて十三日と申すに、出雲の見尾の湊に著かせ給ふ。ここにて御船を艤して、渡海の順風をぞ待ち給ひける。
校訂者注
1:底本頭注に、「恒良親王か。」とある。
2:底本は、「さが(二字以上の繰り返し記号)して」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
3:底本頭注に、「かゝりは蹴鞠の場。」とある。
4:底本は、「情(こゝろ)中に動き言(ことば)外にあらはれ、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「尊良親王。」とある。
6:底本頭注に、「一本『愁刑』。厳しい刑罰。」とある。
7:底本頭注に、「第二の宮。」とある。
8・9:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
10:底本頭注に、「光厳天皇。」とある。
11:底本は、「持(も)てあつかひて」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
12:底本は、「三拝礼」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
13:底本頭注に、「禧子。」とある。
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