備後三郎高徳が事 附 呉越軍の事

 その頃、備前国に児島備後三郎高徳といふ者あり。主上、笠置に御座ありし時、御方に参じて義兵を挙げしが、事未だ成らざる先に笠置も落とされ、楠も自害したりと聞こえしかば、力を失うて黙しけるが、主上、隠岐国へ遷されさせ給ふと聞きて、弐心なき一族どもを集めて評定しけるは、「『志士、仁人、生を求めて以て{*1}仁を害する事無し。身を殺して以て仁を為す事あり。』といへり。されば、昔、衛の懿公が北狄のために殺されてありしを見て、その臣に弘演といひし者、これを見るに忍びず、自ら腹を掻き切つて、懿公が肝を己が胸の中に収めて、先君の恩を死後に報じて失せたりき。義を見て為さざるは勇無し。いざや、臨幸の路次に参り会ひ、君を奪ひ取り奉りて、大軍を起こし、たとひ骸を戦場に曝すとも、名を子孫に伝へん。」と申しければ、心ある一族ども、皆その議に同ず。「さらば、路次の難所に相待ちて、その隙を伺ふべし。」とて、備前と播磨との境なる船坂山の嶺に隠れ伏し、今や今やとぞ待ちたりける。
 臨幸、余りに遅かりければ、人を走らかしてこれを見するに、警固の武士、山陽道を経ず、播磨の今宿より山陰道に懸かり、遷幸を成し奉りける間、高徳が支度、相違してけり。さらば、美作の杉坂こそ究竟の深山なれ。ここにて待ち奉らんとて、三石の山よりすぢかひに、道もなき山の雲を凌ぎて杉坂へ著きたりければ、主上、はや院荘へ入らせ給ひぬと申しける間、力なくこれより散り散りになりけるが、せめてもこの所存を上聞に達せばやと思ひける間、微服潜行して時分を伺ひけれども、然るべき隙もなかりければ、君の御座ある御宿の庭に大きなる桜木ありけるを、押し削りて、大文字に一句の詩をぞ書きつけたりける。
  {*k}天、勾践を空しうする莫かれ  時に范蠡無きにしも非ず{*k}
 御警固の武士ども、朝にこれを見つけて、「何事を如何なる者が書きたるやらん。」とて、読みかねて、則ち上聞に達してけり。主上は、やがて詩の心を御覚りありて、竜顔、殊に御快く笑ませ給へども、武士どもは敢へてその来歴を知らず、思ひ咎むる事もなかりけり。
 そもそもこの詩の心は、昔、異朝に呉、越とて、ならべる二つの国あり。この両国の諸侯、皆、王道を行はず、覇業を務めとしける間、呉は越を伐つて取らんとし、越は呉を亡ぼして併せんとす。かくの如く相争ふ事、累年に及ぶ。呉越、互に勝負を易へしかば、親の敵となり、子の讎と成つて、共に天を戴く事を恥づ。周の季の世に当たつて、呉国の主をば呉王夫差といひ、越国の主をば越王勾践とぞ申しける。
 或る時、この越王、范蠡といふ大臣を召して宣ひけるは、「呉はこれ、父祖の敵なり。我、これを討たずして、いたづらに年を送る事、嘲りを天下の人に取るのみにあらず。かねては父祖の骸を九泉の苔の下に羞づかしむる恨みあり。然れば、我今、国の兵を召しあつめて、自ら呉国へ打ち越え、呉王夫差を亡ぼして父祖の恨みを散ぜんと思ふなり。汝は暫くこの国に{*2}留まつて、社稷を守るべし。」と宣ひければ、范蠡、諌め申しけるは、「臣、ひそかに事の仔細を計るに、今、越の力を以て呉を亡ぼさん事は、すこぶる以て難かるべし。その故は、先づ両国の兵を数ふるに、呉は二十万騎、越は僅かに十万騎なり。誠に小を以て大に敵せず。これ、呉を亡ぼし難きその一つなり。次には、時を以て計るに、春夏は陽の時にて忠賞を行ひ、秋冬は陰の時にて刑罰を専らにす。時今、春の始めなり。これ、征伐を致すべき時にあらず。これ、呉を滅ぼし難きその二つなり。次に、賢人の帰する所、則ちその国強し。臣聞く、呉王夫差の臣下に伍子胥といふ者あり。智深うして人を懐け、慮り遠くして主を諌む。かれ呉国にあらん程は、呉を亡ぼす事難かるべし。これ、その三つなり。
 「麒麟は角に肉有りて、猛き形を顕はさず、潜竜は三冬に蟄して一陽来復の天を待つ。君、呉越を併せられ、中国に臨んで南面にして孤称せんとならば、暫く兵を伏せ武を隠して、時を待ち給ふべし。」と申しければ、その時越王、大きに怒つて宣ひけるは、「礼記に、父の讎には共に天を戴かずといへり。我、已に壮年に及ぶまで、呉を亡ぼさず。共に日月の光を戴く事、人の羞づかしむる所にあらずや。これを以て兵を集むる処に、汝、三つの不可を挙げて我を留むる事、その義、一つも道にかなはず。先づ兵の多少を数へて戦を致すべくんば、越は誠に呉に対し難し。然れども、軍の勝負、必ずしも勢の多少に依らず。只、時の運に依る。又は、将の謀りごとに依る。されば、呉と越と戦ふ事、度々に及んで、雌雄、互に易はれり。これ、汝が皆知る所なり。今更に、何ぞ越の小勢を以て呉の大敵に戦ふ事かなはじと、我を諌むべきや。汝が武略の足らざる処の{*3}その一つなり。
 「次に、時を以て軍の勝負を計らば、天下の人、皆時を知れり。誰か軍に勝たざらん。もし春夏は陽の時にて罰を行はずといはば、殷の湯王の桀を討ちしも春なり。周の武王の紂を討ちしも春なり。されば、『天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。』といへり。然るに汝、今征罰を行ふべき時に非ずと、我を諌むる。これ、汝が智慮の浅き処の二つなり。次に、呉国に伍子胥があらん程は呉を亡ぼす事叶ふべからずといはば、我、遂に父祖の敵を討つて恨みを泉下に報ぜん事、あるべからず。唯いたづらに伍子胥が死せん事を待たば、死生命あり、又は老少前後す。伍子胥と我と、いづれをか先としる。この理を弁へず、我、征罰を止むべけんや。これ、汝が愚の三つなり。そもそも我、多日に及んで兵を召す事、呉国へも定めて聞こえぬらん。事、遅怠して、かへつて呉王に寄せられなば、悔ゆとも益あるべからず。『先んずれば人を制し、後るれば人に制せらる。』といへり。事、已に決せり。暫くも止むべからず。」とて、越王十一年二月上旬に、勾践、自ら十万余騎の兵を率して、呉国へぞ寄せられける。
 呉王夫差、これを聞いて、「小敵をば欺くべからず。」とて、自ら二十万騎の兵を率して、呉と越との境、夫桝県といふ所に馳せ向ふに、後ろに会稽山を当て、前に大河を隔てて陣を取る。わざと敵を討たんために三万余騎を出だして、十七万騎をば陣の後ろの山蔭に深く隠してぞ置きたりける。さる程に、越王、夫桝県に打ち臨んで、呉の兵を見給へば、その勢、僅かに二、三万騎には過ぎじとおぼえて、所々に控へたり。越王、これを見て、思ふには似ず小勢なりけり{*4}と侮つて、十万騎の兵を同時に、馬を河水に打ち入れさせ、馬筏を組んで打ち渡す。頃は二月上旬の事なれば、余寒猶烈しくして、河水、氷に連なれり。兵、手凍つて、弓を引くに叶はず。馬は雪に泥んで、駆け引きも自在ならず。されども越王、攻め鼓を打つて進まれける間、越の兵、我先にと轡を双べ駆け入る。呉国の兵は、かねてより敵を難所におびき入れて、取り篭めて討たんと議したる事なれば、わざと一軍もせで、夫桝県の陣を引き退いて、会稽山へ引き篭る。
 越の兵、勝つに乗つて、逃ぐるを追ふ事三十余里、四隊の陣を一陣に合はせて、左右を顧みず、馬の息も切るる程、思ひ思ひにぞ追うたりける。日已に暮れなんとする時に、呉兵二十万騎、思ふ図に敵を難所へおびき入れて、四方の山より打ち出でて、越王勾践を中に取り篭め、一人も漏らさじと攻め戦ふ。越の兵は、今朝の軍に遠駆けをして、人馬共に疲れたる上、無勢なりければ、呉の大勢に囲まれ、一所に打ち寄つて控へたり。進んで前なる敵に懸からんとすれば、敵は嶮岨に支へて、鏃をそろへて待ち懸けたり。引き返して後ろなる敵を払はんとすれば、敵は大勢にて、越の兵、疲れたり。進退ここにきはまつて、敗亡、已に極まれり。されども越王勾践は、堅きを破り利きを砕く事、項王が勢ひを呑み、樊噲が勇にも過ぎたりければ、大勢の中へかけ入つて、十文字にかけ破り、巴の字に追ひ廻らす。一所に合うて三処に別れ、四方を払うて八面に当たる。頃刻に変化して百度戦ふといへども、越王、遂に打ち負けて、七万余騎討たれにけり。
 勾践、こらへかねて会稽山に打ち上り、越の兵を数ふるに、討ち残されたる兵、僅かに三万余騎なり。それも、半ばは手を負うて、悉く箭尽きて、鋒折れたり。勝負を呉越に伺うて、未だいづ方へもつかざりつる隣国の諸侯、多く呉王の方に馳せ加はりければ、呉の兵、いよいよ重なつて三十万騎、会稽山の四面を囲む事、稲麻竹葦{*5}の如くなり。
 越王、帷幕の内に入り、兵を集めて宣ひけるは、「我、運命已に尽きて、今この囲みに逢へり。これ、全く戦の咎にあらず。天、我を亡ぼせり。然れば我、明日に士と共に、敵の囲みを出でて呉王の陣に駆け入り、骸を軍門に曝し、恨みを再生{*6}に報ゆべし。」とて、越の重器を積んで、悉く焼き捨てんとし給ふ。又、王鼫与とて、今年八歳になり給ふ最愛の太子、越王に随つて同じくこの陣におはしけるを、呼び出だし奉りて、「汝、未だ幼稚なれば、我が死に後れて敵に捕らはれ、憂目を見ん事も心憂かるべし。もし又、我、敵のために虜らはれて、我、汝より先立たば、生前の思ひ、忍び難し。如かじ、汝を先立てて、心安く思ひ切り、明日の軍に討死して、九泉の苔の下、三途の露の底までも、父子の恩愛を捨てじと思ふなり。」とて、左の袖に涙を拭ひ、右の手に剣をひつ提げ、太子の自害を勧め給ふ時に、越王の左将軍に大夫種{*7}と云ふ臣あり。越王の御前に進み出でて申しけるは、「生を全くして命を待つ事、遠くして難く、死を軽くして節に随ふ事、近くして易し。君、暫く越の重器を焼き捨て、太子を殺す事を止め給へ。臣、不敏といへども、呉王を欺いて君王の死を救ひ、本国に帰つて再び大軍を起こし、この恥を濯がんと思ふ。
 「今、この山を囲んで一陣を張らしむる呉の上将軍太宰嚭は、臣が古の朋友なり。久しく相馴れて彼が心を察せしに、これ、誠に血気の勇者なりといへども、飽くまでその心に欲有つて、後の禍ひを顧みず。又、かの呉王夫差の行跡を語るを聞きしが、智浅くして謀りごと短く、色に婬して道に暗し。君臣共に、いづれも欺くに易き所なり。そもそも今、越の戦、利なくして、呉のために囲まれぬる事も、君、范蠡が諌めを用ゐ給はざる故にあらずや。願はくは君王、臣が尺寸の謀りごとを許され、敗軍数万の死を救ひ給へ。」と諌め申しければ、越王、理に折れて、「『敗軍の将は再び謀らず。』といへり。今より後の事は、しかしながら大夫種に任すべし。」と宣ひて、重器を焼かるることを止め、太子の自害をも止められけり。
 大夫種、則ち君の命を請けて、兜を脱ぎ旗を巻いて、会稽山より馳せ下り、「越王、勢ひ尽きて、呉の軍門に降る。」と呼ばはりければ、呉の兵三十万騎、勝鬨を作つて皆万歳を唱ふ。大夫種は、則ち呉の轅門に入つて、「君王の陪臣、越の勾践の従者小臣種、慎しんで呉の上将軍の下執事に属す。」と云つて、膝行頓首して、太宰嚭が前に平伏す。太宰嚭、床の上に坐し、帷幕を揚げさせて大夫種に謁す。大夫種、敢へて平視せず面を垂れ、涙を流して申しけるは、「寡君勾践、運極まり、勢ひ尽きて呉の兵に囲まれぬ。依つて今、小臣種をして、越王、長く呉王の臣となり、一畝の民とならん事を請はしむ。願はくは、先日の罪を赦され、今日の死を助け給へ。将軍{*8}、もし勾践の死を救ひ給はば、越の国を呉王に献じて湯沐の地となし、その重器を将軍に奉り、美人西施を洒掃{*9}の妾たらしめ、一日の歓娯に備ふべし。もしそれ、望む所叶はずして{*10}、遂に勾践を罪せんとならば、越の重器を焼き棄て、士卒の心を一つにして呉王の堅陣に駆け入り、軍門に骸を止むべし。臣、平生将軍と交はりを結ぶ事、膠漆よりも堅し。生前の芳恩、唯この事にあり。将軍、早くこの事を呉王に奏して、臣が胸中の安否を存命の中に知らしめ給へ。」と、一度は怒り一度は歎き、詞を尽くして申しければ、太宰嚭、顔色誠に解けて、「事、以て難からず。我、必ず越王の罪をば申し宥むべし。」とて、やがて呉王の陣へぞ参りける。
 太宰嚭、即ち呉王の玉座に近づき、事の仔細を奏しければ、呉王、大きに怒つて、「そもそも呉と越と、国を争ひ兵を挙ぐる事、今日のみにあらず。然るに勾践、運窮まつて呉の擒となれり。これ、天の予に与へたるにあらずや。汝、これを知りながら、勾践が命を助けんと請ふ。敢へて忠烈の臣にあらず。」と宣ひければ、太宰嚭、重ねて申しけるは、「臣、不肖といへども、いやしくも将軍の号を許され、越の兵と戦ひを致す日、謀りごとを廻らして大敵を破り、命を軽んじて勝つ事を快くせり。これ、ひとへに臣が丹心の功といひつべし。君王のために天下の太平を謀らんに、豈一日も忠を尽くし心を傾けざらんや。
 「つらつら事の是非を計るに、越王、戦ひに負けて勢ひ尽きぬといへども、残る所の兵、猶三万余騎。皆、逞兵鉄騎の勇士なり。呉の兵多しといへども、昨日の軍に功あつて、今より後は、身を全うして賞を貪らん事を思ふべし。越の兵は小勢なりといへども、志を一つにして、しかも遁れぬ所を知れり。『窮鼠かへつて猫を噛み、闘雀人を恐れず。』といへり。呉越、重ねて戦はば、呉は必ずや、危ふきに近かるべし。如かず、先づ越王の命を助け、一畝の地を与へて呉の下臣となさんには。然らば君王、呉越両国を併するのみにあらず。斉楚秦趙も、悉く朝せずといふ事、あるべからず。これ、根を深くし、蔕を堅うする道なり。」と、理を尽くして申しければ、呉王、即ち欲に耽ける心を逞しうして、「さらば、はや会稽山の囲みを解いて、勾践を助くべし。」と宣ひける。
 太宰嚭、帰つて大夫種にこの由を語りければ、大夫種、大きに悦びて、会稽山に馳せ帰り、越王にこの旨を申せば、士卒、皆色を直して、「万死を出でて一生に逢ふ。ひとへに大夫種が智謀に懸かれり。」と、喜ばぬ人もなかりけり。越王、已に降旗を立てられければ、会稽の囲みを解いて、呉の兵は呉に帰り、越の兵は越に帰る。
 勾践、即ち太子王鼫与をば大夫種に附けて、本国へ帰し遣はし、我が身は白馬素車に乗つて、越の璽綬を頚に懸け、自ら呉の下臣と称して、呉の軍門に降り給ふ。かかりけれども、呉王、猶心許しやなかりけん、「君子は刑人に近づかず。」とて、勾践に面を見え給はず。あまつさへ、勾践を典獄の官に下され、日に行く事一駅に駆して、呉の姑蘇城へ入り給ふ。その有様を見る人、涙懸からぬ袖はなし。日を経て姑蘇城に著き給へば、即ち手かせ足かせ{*11}を入れて、土の牢にぞ入れ奉りける。夜明け日暮るれども、月日の光をも見給はねば、一生瞑暗の中に向つて、歳月の遷り易はるをも知り給はねば、涙の浮かぶ床の上、さこそは露も深かりけめ。
 さる程に、范蠡、越の国に在つてこの事を聞くに、恨み骨髄に徹つて忍びがたし。「あはれ、如何なる事をもして越王の命を助け、本国に帰り給へかし。もろともに謀りごとを巡らして、会稽山の恥を清めん。」と、肺肝を砕いて思ひければ、身を窶し形を替へ、簀{*12}に魚を入れて自らこれを荷ひ、魚を売る商人の真似をして、呉国へぞ行きたりける。姑蘇城のほとりにやすらひて、勾践のおはする処を問ひければ、或る人、委しく教へ知らせけり。范蠡、嬉しく思ひて、かの獄のほとりに行きたりけれども、禁門警固、隙なかりければ、一行の書を魚の腹の中に収めて、獄の中へぞ擲げ入れける。勾践、奇しくおぼえて、魚の腹を開いて見給へば、
  {*k}西伯、羑里に囚はれ  重耳、翟に走る
  皆以て王覇たり  死を敵に許すこと莫かれ{*k}
とぞ書きたりける。「筆の勢ひ、文章の体、紛ふべくもなき范蠡がわざなり。」と見給ひければ、「彼、未だ憂世に長らへて、我がために肺肝を尽くしけり。」と、その志の程、哀れにも又頼もしくもおぼえけるにこそ、一日片時も生けるを憂しとかこたれし、我が身ながらの命も、かへつて惜しくは思はれけれ。
 かかりける処に、呉王夫差、俄に石淋{*13}といふ病を受けて、身心とこしなへに悩乱し、巫覡{*14}祈れども験なし。医師治すれども癒えず。露命、已に危ふく見え給ひける処に、他国より名医来つて申しけるは、「御病、実に重しといへども、医師の術、及ぶまじきにあらず。石淋の味ひを甞めて、五味の様を知らする人あらば、たやすく療治し奉るべし。」とぞ申しける。「さらば、誰かこの石淋を甞めて、その味を知らすべき」と問ふに、左右の近臣、相顧みて、これを甞むる人、更になし。
 勾践、これを伝へ聞きて、涙を押さへて宣はく、「我、会稽の囲みに逢ひし時、已に罰せらるべかりしを、今に命助けおかれて、天下の赦しを待つ事、ひとへに君王、慈恵の厚恩なり。我、今これを以てその恩に報いずんば、いづれの日をか期せん。」とて、ひそかに石淋を取つて、これを甞めて、その味を医師に知らせらる。医師、味ひを聞きて療治を加へ、呉王の病、忽ちに平癒してけり。呉王、大きに悦んで、「人、心有つて我が死を助く。我、何ぞこれを謝する心なからんや。」とて、越王を牢より出だし奉るのみにあらず、あまつさへ越の国を返し与へて、「本国へ返り去るべし。」とぞ宣下せられける。
 ここに、呉王の臣、伍子胥と申す者、呉王を諌めて申しけるは、「『天の与ふるを取らざれば、かへつてその咎を受く。』といへり。この時、越の地を取らず、勾践を返し遣はされん事、千里の野辺に虎を放つが如し。禍ひ、近きに在るべし。」と申しけれども、呉王、これを聞き給はず。遂に勾践を本国へぞ返されける。越王、已に車の轅を廻らして、越の国へ帰り給ふ処に、蛙、その数を知らず車の前に飛び来る。勾践、これを見給ひて、「これは、勇士を得て素懐を達すべき瑞相なり。」とて、車より下りて、これを拝し給ふ。かくて、越の国へ帰つて、住み来し故宮を見給へば、いつしか三年に荒れはて、梟、松桂の枝に鳴き、狐、蘭菊の叢に隠る。掃ふ人無くして、閑庭に落葉満ちて簫々たり。越王、死を免れて帰り給ひぬと聞こえしかば、范蠡並びに王鼫与を宮中へ入れ奉りぬ。
 越王の后に、西施といふ美人おはしけり。容色世に勝れ、嬋娟類なかりしかば、越王、殊に寵愛甚だしくして、暫くも側を放れ給はざりき。越王、呉に捕らはれ給ひし程は、その難を遁れんために、身を側め、隠れ居給ひたりしが、越王、帰り給ふ由を聞き給ひて、則ち後宮に帰り参り給ふ。年の三年を待ちわびて、堪へぬ思ひに沈み給ひける歎きの程もあらはれて、鬢おろそかに、はだへ消えたる御形、いとわりなくらうたけて、梨花一枝春雨に綻び、喩へん方もなかりけり。公卿、大夫、文武百司、ここかしこより馳せ集まりける間、軽軒紫陌の塵に馳せ、冠珮丹墀の月に瑲いて{*15}、堂上堂下、再び開ける花の如し。
 かかりける処に、呉国より使者来れり。越王、驚きて、范蠡を以て事の仔細を問ひ給ふに、使者答へて曰く、「我が君呉王、婬を好み色を重んじて、美人を尋ね給ふ事、天下に遍し。然れども、未だ西施が如き顔色を見ず。越王、会稽山の囲みを出でし時、一言の約あり。早くかの西施を呉の後宮へかしづき入れ奉り、后妃の位に備へん。」との使なり。越王、これを聞き給ひて、「我、呉王夫差が陣に降つて、恥を忘れ、石淋を甞めて命を助かりし事、全く国を保ち身を栄やかさんとにはあらず。唯西施に偕老の契りを結ばんためなりき。生前に一度別れて、死して後再会を期せば、万乗の国を保つとも何かせん。されば、たとひ呉越の会盟破れて、二度我、呉のために擒になるとも、西施を他国に送る事は、有るべからず。」とぞ宣ひける。
 范蠡、涙を流して申しけるは、「真に君、展転の思ひを計るに、臣、悲しまざるにあらずといへども、もし今、西施を惜しみ給はば、呉越の会盟{*16}再び破れて、呉王、又兵を起こすべし。さる程ならば、越国を呉に併せらるるのみに非ず。西施をも奪はるべし。社稷をも傾けらるべし。臣、つらつら計るに、呉王、婬を好み色に迷ふ事、甚だし。西施、呉の後宮に入り給ふ程ならば、呉王、これに迷ひて政を失はん事、疑ふ所に非ず。国つひへ、民背かん時に及んで、兵を起こし呉を攻めらるれば、勝つ事を立ち処に得つべし。これ、子孫万歳に及んで、夫人連理の御契り久しかるべき道となるべし。」と、一度は泣き、一度は諌めて、理を尽くして申しければ、越王、理に折れて、西施を呉国へぞ送られける。
 西施は、小鹿の角のつかの間も、別れてあるべきものかはと、思ふ中をさけられて、未だ幼き太子王鼫与にも、いひ知らせず思ひ置き、ならはぬ旅に出で給へば、別れを慕ふ涙さへ、暫しが程も止まらで、袂の乾く隙もなし。越王は、又これや限りの別れなるらんと、堪へぬ思ひに臥し沈みて、そなたの空を遥々と眺めやり給へば、遅々たる{*17}暮山の雲、いとど涙の雨となり、虚しき床にひとりねて、夢にもせめて逢ひ見ばやと、枕をそばだて臥し給へば、添ふかひもなき俤に、せん方なく歎き給ふも、げに理なり。
 かの西施と申すは、天下第一の美人なり。粧ひ成つて一度笑めば、百の媚、君が眼を迷はして、漸く地上に花なきかと疑ふ。艷閉ぢて僅かに見れば、千々の姿、人の心を蕩かして、忽ちに雲間に月を失ふかと奇しまる。されば、一度宮中に入つて君王の傍に侍りしより、呉王の御心浮かれて、夜は夜もすがら婬楽をのみ嗜んで、世の政をも聞き給はず、昼はひねもす遊宴をのみ事として、国の危ふきをも顧みず。金殿雲を挿んで、四辺三百里が間、山河を枕の下に見下ろしても、西施と宴せし夢の中に興を催さんためなりき。輦路に花なき春の日は、麝臍を埋みて履を熏はし、行宮に月なき夏の夜は、蛍火を集めて燭に易ふ。婬乱日を重ねて、更に止む時なかりししかば、上すさみ下廃るれども、佞臣は阿りて諌せず。呉王、万事酔ひて忘れたるが如し。
 伍子胥、これを見て、呉王を諌めて申しけるは、「君、見ずや。殷の紂王、妲妃に迷ひ世を乱り、周の幽王、褒娰を愛して国を傾けし事を。君、今、西施を婬し給へる事、これに過ぎたり。国の傾敗、遠きにあらず。願かくは君、これを止め給へ。」と、厳顔を犯して諌め申しけれども、呉王、敢へて聞き給はず。或る時又、呉王、西施に宴せんために、群臣を召して南殿の花に酔ひを勧め給ひける処に、伍子胥、威儀を正しくして参りたりけるが、さしも玉を敷き金を鏤めたる瑶階を登るとて、そのも裾を高くかかげたる事、あたかも水を渉る時の如し。その怪しき故を問ふに、伍子胥、答へて申しけるは、「この姑蘇台、越王のために亡ぼされて、草深く露滋き地とならん事、遠きにあらず。臣、もしそれまで命あらば、住みこし昔の跡とて尋ね見ん時、さこそは{*18}袖より余る荊棘の露も、瀼々として深からんずらめと、行く末の秋を思ふ故に、身を習はして、も裾をばかかぐるなり。」とぞ申しける。
 忠臣、諌めを納るれども、呉王、かつて用ゐ給はざりしかば、余りに諌めかねて、「よしや、身を殺して危ふきを助けん。」とや思ひけん、伍子胥、又或る時、唯今新たに砥より出でたる青蛇の剣を持ちて参りたり。抜いて呉王の御前にとり拉いで申しけるは、「臣、この剣を磨ぐ事、邪を退け敵を払はんためなり。つらつら国の傾かんとするその基を尋ぬれば、皆西施より出でたり。これに過ぎたる敵、あるべからず。願はくは西施が首を刎ねて、社稷の危ふきを助けん。」といひて、牙を噛みて{*19}立ちたりければ、忠言耳に逆ふ時、君非を犯さずといふ事なければ、呉王、大きに怒つて、伍子胥を誅せんとす。
 伍子胥、敢へてこれを悲しまず。「諍ひ諌めて節に死するは、これ臣下の則なり。我、正に越の兵の手に死なんよりは、寧ろ君王の手に死なん事、恨みの中の悦びなり。但し君王、臣が忠諌を怒つて吾に死を賜ふ事、これ、天已に君を棄つるなり。君、越王のために滅ぼされて、刑戮の罪に伏せん事、三年を過ぐべからず。願はくは臣が両眼を穿つて呉の東門に懸けられて、その後、首を刎ね給へ。一双の眼、未だ枯れざる前に、君、勾践に亡ぼされて死刑に赴き給はんを見、一笑を快くせん。」と申しければ、呉王、いよいよ怒つて、即ち伍子胥を誅せられ、その両眼を穿つて、呉の東門の幢の上にぞ懸けられける。かかりし後は、君、悪を積めども、臣敢へて諌めを献ぜず。唯群臣、口を噤み、万人、目を以てす{*20}。
 范蠡、これを聞いて、「時、已に到りぬ。」と悦びて、自ら二十万騎の兵を率して、呉国へぞ押し寄せける。呉王夫差は、折節、晋国、呉に叛くと聞いて、晋国へ向はれたる隙なりければ、防ぐ兵、一人もなし。范蠡、先づ西施を取り返して、越王の宮へ帰し入れ奉り、姑蘇台を焼き掃ふ。斉楚の両国も、越王に志を通ぜしかば、三十万騎を出だして、范蠡に力を合はす。呉王、これを聞いて、先づ晋国の戦ひを差し置いて、呉国へ引き返し、越に戦ひを挑まんとすれば、前には越斉楚の兵{*21}、雲霞の如く待ち懸けたり。後ろには晋国の強敵、勝つに乗りて追ひ懸けたり。呉王、大敵に前後を包まれて、遁るべき方もなかりければ、死を軽んじて戦ふ事三日三夜、范蠡、新手を入れ替へて、息を継がせず攻めける間、呉の兵、三万余人討たれて、僅かに百騎になりにけり。
 呉王、自ら相当たる事三十二箇度、夜半に囲みを解いて、六十七騎を随へ、姑蘇山に取り上り、越王に使者を立てて曰く、「君王、昔会稽山に苦しみし時、臣夫差、これを助けたり。願はくは吾、今より後、越の下臣となつて、君王の玉趾を戴かん。君、もし会稽の恩を忘れずんば、臣が今日の死を救ひ給へ。」と、詞を卑しうし礼を厚うして、降ぜん事をぞ請はれける。越王、これを聞いて、「古の我が思ひに、今、人の悲しみ、さこそ。」と哀れに思ひ知り給ひければ、呉王を殺すに忍びず、その死を救はんと思ひ給へり。
 范蠡、これを聞いて、越王の御前に参つて、面を犯して申しけるは、「柯を伐るに、その規遠からず{*22}。会稽の古は、天、越を呉に与へたり。然るを呉王、取る事なくして忽ちにこの害に逢へり。今、かへつて天、越に呉を与へたり。取る事無くんば、越又、かくの如くの害に逢ふべし。君臣共に肺肝を砕いて呉を謀る事、二十一年。一朝にして棄てん事、豈悲しまざらんや。君、非を行ふ時、従はざるは、臣の忠なり。」といひて、呉王の使者、未だ帰らざる前に、范蠡、自ら攻め鼓を打つて兵を進め、遂に呉王を生け捕つて、軍門の前に引き出す。
 呉王、已に面縛せられて呉の東門を過ぎ給ふに、忠臣伍子胥が諌めに依つて首を刎ねらるる時、幢の上に懸けたりし一双の眼、三年まで未だ枯れずしてありけるが、その眸、明らかに開け、相見て笑へる気色なりければ、呉王、これに面を見する事、さすが恥づかしくや思はれけん、袖を顔に押し当てて、首を垂れて過ぎ給ふ。数万の兵、これを見て、涙を流さぬはなかりけり。即ち呉王を典獄の官に下され、会稽山の麓にて、遂に首を刎ね奉る。古来より、俗の諺に曰く、「会稽の恥を清むる。」とは、この事をいふなるべし。
 これより越王、呉を併するのみにあらず、晋楚斉秦を平らげ、覇者の盟主となりしかば、その功を賞して、范蠡を万戸侯に封ぜんとし給ひしかども、范蠡、かつてその禄を受けず。「大名の下には久しく居るべからず。功成り名遂げて身退くは、天の道なり。」とて、遂に姓名を替へ、陶朱公と呼ばれて{*23}、五湖といふ所に身を隠し、世を遁れてぞ居たりける。釣して芦花の岸に宿すれば、半蓑に雪を止め、歌うて楓葉の蔭を過ぐれば、孤舟に秋を戴せたり。一蓬の月は、万頃の天、紅塵の外に遊んで、白頭の翁となりにけり。
 高徳、この事を思ひ準らへて、一句の詩に千般の思ひを述べ、ひそかに叡聞にぞ達しける。
 さる程に先帝は、出雲の三尾の湊に十余日御逗留あつて、順風になりにければ、船人、纜を解いて御艤して、兵船三百余艘、前後左右に漕ぎ並べて、万里の雲にさかのぼる。時に滄海沈々として、日、西北の浪に没し、雲山迢々として、月、東南の天に出づれば、漁舟の帰る程見えて、一灯柳岸にかすかなり。暮るれば芦岸の煙に船を繋ぎ、明くれば松江の風に帆を揚げ、浪路に日数を重ぬれば、都を御出であつて後二十六日と申すに、御船、隠岐国に著きにけり。
 佐々木隠岐判官貞清、国府島といふ所に黒木の御所を作りて、皇居とす。玉扆に{*24}咫尺して召し仕はれける人とては、六條の少将忠顕、頭大夫行房。女房には、三位殿の御局ばかりなり。昔の玉楼金殿に引き替へて、憂き節茂き竹椽、涙隙なき松の垣、一夜を隔つる程も堪へ忍ぶべき御心地ならず。雞人暁を唱ふる声、警固の武士の番を催す声ばかり、御枕の上に近ければ、夜のおとどに入らせ給ひても、つゆまどろませ給はず。萩の戸の明くるを待ちし朝政なけれども、巫山の雲雨{*25}、御夢に入る時も、誠に暁ごとの御勤め、北辰の御拝も怠らず。今年如何なる年なれば、百官罪なくして、愁への涙を配所の月にしたて、一人位を易へて、宸襟を他郷の風に悩まし給ふらん。天地開闢より以来、かかる不思議を聞かず。されば、天にかかる日月も、誰がために明らかなる事を恥ぢざらん。心なき草木もこれを悲しみ、花開くことを忘れつべし。

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校訂者注
 1:底本は、「求めて仁を」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 2:底本は、「汝は暫く留まつて」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 3:底本は、「足らざる処其の」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 4:底本は、「小勢なりける」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 5:底本は、「稲麻竹葦(たうまちくゐ)」。底本頭注に、「多勢群り寄する形容。」とある。
 6:底本頭注に、「後の世。」とある。
 7:底本は、「大夫種(たいふしよう)」。底本頭注に、「大夫は官名。種は名。」とある。
 8:底本頭注に、「太宰嚭。」とある。
 9:底本は、「洒掃(さいさう)」。底本頭注に、「拭き掃除。」とある。
 10:底本は、「若し夫(そ)れ請ふ、望(のぞ)む所叶はずして」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い削除した。
 11:底本は、「桮械(てかせあしかせ)」。底本頭注および『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 12:底本は、「簀(あじか)」。底本頭注に、「ざるの如き器。」とある。
 13:底本は、「石淋(せきりん)」。底本頭注に、「尿道に石の如き物の生ずる病気。」とある。
 14:底本は、「巫覡(ふげき)」。底本頭注に、「男女のかんなぎ。」とある。
 15:底本は、「軽軒紫陌(けいけんしはく)の塵に馳せ、冠珮丹[⿰王犀](くわんばいたんち)の月に瑲(さゞめ)いて、」。底本頭注および『太平記 一』(1977年)に従い改めた。底本頭注に、「〇軽軒 迅速な車。」「〇紫陌 都の道路。」「〇冠珮 冠や玉の帯び物。」「〇丹墀 丹朱で地を塗つた意。宮庭の事。」とある。
 16:底本は、「呉越(ごゑつ)の軍再び破れて」。『太平記 一』(1977年)頭注に従い改めた。
 17:底本頭注に、「雲脚の遅い。」とある。
 18:底本は、「住みにし昔の跡(あと)とて尋ね見ん時、さこそ袖より」。『太平記 一』(1977年)に従い改め、補った。
 19:底本頭注に、「遺憾骨髄に徹し歯がみをして。」とある。
 20:底本頭注に、「目くばせして誹る。」とある。
 21:底本は、「前には呉越斉楚(ごゑつせいそ)の兵」。『太平記 一』(1977年)頭注に従い改めた。
 22:底本頭注に、「〇面を犯して 顔前をも憚らずして。」「〇柯を伐るに云々 詩経に『伐柯伐柯、其則不遠。』。柯は斧の柄。柯を作るのに別に手本はない 木を伐る時用ゐる斧の柄が手本だ 即ち其の手本は身近に在る意味。」とある。
 23:底本は、「呼ばはれて、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 24:底本は、「玉扆(ぎよくい)咫尺して」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。底本頭注に、「〇咫尺し 接近し。」とある。
 25:底本頭注に、「楚の襄王が夢に巫山の神と契つた話。情交。」とある。
 k:底本、この間は漢文。