巻第五
持明院殿御即位の事
元弘二年三月二十二日、後伏見院第一御子{*1}、御年十九にして天子の位に即かせ給ふ。御母は竹林院左大臣公衡の御娘、後には広義門院と申せし御事なり。
同じき年十月二十八日に、河原の御禊ひあつて、十一月十三日に、大嘗会を遂げ行はる。関白は鷹司左大臣冬教公、別当は日野中納言資名卿にてぞおはしける。
いつしか当今{*2}奉公の人々は、皆一時に望みを達して、門前市をなし、堂上花のごとし。中にも梶井二品法親王尊胤は、天台座主に成らせ給ひて、大塔、梨本の両門跡を併せて御管領ありしかば、御門徒の大衆群集して、御拝堂の儀式、厳重なり。しかのみならず、御室の二品法親王法守、仁和寺の御門跡に御移りあつて、東寺一流の法水を湛へて、北極万歳の聖運を祈り給ふ。これ皆、後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝{*3}なり。
いつしか当今{*2}奉公の人々は、皆一時に望みを達して、門前市をなし、堂上花のごとし。中にも梶井二品法親王尊胤は、天台座主に成らせ給ひて、大塔、梨本の両門跡を併せて御管領ありしかば、御門徒の大衆群集して、御拝堂の儀式、厳重なり。しかのみならず、御室の二品法親王法守、仁和寺の御門跡に御移りあつて、東寺一流の法水を湛へて、北極万歳の聖運を祈り給ふ。これ皆、後伏見院の御子、今上皇帝の御連枝{*3}なり。
宣房卿二君奉公の事
万里小路大納言宣房卿は、元より前朝{*4}旧労の寵臣にておはせし上、子息藤房、季房二人、笠置の城にて生け捕られて、遠流に処せられしかば、父の卿も罪科深き人にてあるべかりしを、賢才の聞こえありとて、関東、別儀を以てその罪を宥め、当今に召し仕はるべきの由、奏し申す。これに依つて日野中納言資明卿を勅使にて、この旨を仰せ下されければ、宣房卿、勅使に対して申されけるは、「臣、不肖の身なりといへども、多年奉公の労を以て君の恩寵を蒙り、官禄共に進み、あまつさへ政道輔佐の名をけがす{*5}。『君に事ふるの礼、その罪あるに値うては、厳顔を犯して道を以て諌め諍ふ。三度諌めて納れられざる時は、身を奉じて以て退く。匡正の忠あつて阿順の従無し。これ、良臣の節なり。もし諌むべきを見て諌めざる、これを尸位といふ。退くべきを見て{*6}退かざる、これを懐寵といふ。懐寵、尸位は、国の奸人なり。』といへり。
「君、今、不義の行ひおはして、武臣のために辱しめられ給へり。これ、臣が予め知らざる処に依つて、諌言を献ぜずといへども、世人、豈その罪なきことを許さんや。なかんづく{*7}長子二人、遠流の罪に処せらる。我、已に七旬の齢に傾けり。後栄、誰がためにか期せん。前非、何ぞ又恥ぢざらんや。二君の朝に仕へて、恥を衰老の後に抱かんよりは、伯夷が行を学びて、飢ゑを首陽の下に忍ばんにはしかず。」と、涙を流して宣ひければ、資明卿、感涙を押さへかねて、暫しはものをも宣はず。
ややあつて宣ひけるは、「『忠臣は、必ずしも主を択ばず。仕へて而して治むべきを見るのみ。』といへり。されば百里奚は、再び秦の穆公に仕へて永く覇業を致さしめ、管夷吾は、翻つて斉の桓公を佐けて、九たび諸侯を朝せしむ。『主、以て鉤を射るの罪をいふことなく、世皆、皮を鬻ぐの恥を如何ともせず。』といへり{*8}。なかんづく{*9}武家、かくの如く許容の上は、賢息二人の流罪をも、いかでか赦免の御沙汰なからんや。
「それ伯夷、叔斉は、飢ゑて何の益かありし。許由、巣父、遁れて用ゐる{*10}に足らず。そもそも身を隠して永く末葉の一跡を断つと、朝に仕へて遠く前祖の無窮を輝かさんと、是非得失、いづれの処にあるや。鳥獣と群を同じうするは、孔子の執らざる所なり。」と、資明卿、理を尽くして責められければ、宣房卿、顔色誠に屈伏して、「『罪を以て生を棄つる時は、則ち古賢、夕に改めよといふの勧めに違ひ、恥を忍んで苟しくも全うする時は、則ち詩人、何の顔ばせかあるといふの譏りを犯す。』と、魏の曹子建が詩を献ぜし表に書きたりしも、理とこそ存ずれ。」とて、遂に参仕の勅答をぞ申されける。
中堂の新常灯消ゆる事
その頃、都鄙の間に、希代の不思議ども多かりけり。
山門の根本中堂の内陣へ、山鳩一つがひ飛び来つて、新常灯の油錠の中に飛び入つてふためきける間、灯明、忽ちに消えにけり。この山鳩、堂中の闇さに行方に迷うて、仏壇の上に翅を垂れて居たりける処に、承塵の方より、その色朱を注したる如くなる鼬一つ走り出で、この鳩を二つながら食ひ殺してぞ失せにける。
そもそもこの常灯と申すは、先帝{*11}、山門へ臨幸成りたりし時、古、桓武皇帝の自ら挑げさせ給ひし常灯に準へて、御手づから百二十筋の灯心を束ね、銀の御油錠に油を入れて、自ら掻き立てさせ給ひし灯明なり。これ、ひとへに皇統の無窮を輝かさんための御願、かねては六趣の群類の{*12}暝闇を照らす恵光法灯の明らかなるに思し召し準へて、始め置かれし常灯なれば、未来永劫に至るまで消ゆる事なかるべきに、山鳩飛び来りて打ち消しけるこそ不思議なれ。それを又、鼬の食ひ殺しけるも不思議なり。
相模入道田楽を弄ぶ 並 闘犬の事
又その頃、洛中に田楽を弄ぶ事昌んにして、貴賤、こぞつてこれに著せり。相模入道、この事を聞き及び、新座、本座の田楽を呼び下して、日夜朝暮に弄ぶ事、他事なし。入興の余りに、宗徒の大名達に田楽法師を一人づつ預けて、装束を飾らせける間、これは誰がし殿の田楽、彼は何がし殿の田楽なんどいひて、金銀珠玉を逞しくし、綾羅錦繍を飾れり。宴に臨みて一曲を奏すれば、相模入道を始めとして、一族大名、我劣らじと、直垂大口をぬいで抛げ出す。これを集めて積むに、あたかも山の如し。その弊え、幾千万といふ数を知らず。
ある夜、一献のありけるに、相模入道{*13}、数杯を傾け、酔ひに和して立ちて舞ふ事、やや久し。若輩の興を勧むる舞にてもなし。又、狂者の詞を巧みにする戯れにもあらず。四十有余の古入道、酔狂の余りに舞ふ舞なれば、風情あるべしともおぼえざりける処に、いづくより来るとも知らぬ新座本座の田楽ども十余人、忽然として座席に列なつてぞ舞ひ歌ひける。その興、甚だ尋常に越えたり。暫くあつて、拍子を替へて歌ふ声を聞けば、「天王寺のや、妖霊星を見ばや。」とぞはやしける。
或る官女、この声を聞いて、余りの面白さに、障子の隙よりこれを見るに、新座本座の田楽どもと見えつる者、一人も人にてはなかりけり。或いは、嘴かがまつて鵄の如くなるもあり。或いは、身に翅あつて、その形、山伏の如くなるもあり。異類異形の化者どもが、姿を人に変じたるにてぞありける。官女、これを見て、余りに不思議におぼえければ、人を走らかして、城入道{*14}にぞ告げたりける。入道、とるものも取りあへず、太刀を執つてその酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩みける跫を聞いて、化物は、掻き消すやうに失せ、相模入道は、前後も知らず酔ひ臥したり。灯を挑げさせて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集まりけるよとおぼえて、踏みけがしたる畳の上に、禽獣の足跡多し。城入道、暫く虚空を睨みて立ちたれども、敢へて眼に遮る者もなし。
やや久しうして、相模入道、驚き覚めて起きたれども、惘然として更に知る所なし。後日に、南家{*15}の儒者刑部少輔仲範、この事を伝へ聞いて、「天下、将に乱れん時、妖霊星といふ悪星下つて災ひを成すといへり。しかも、天王寺はこれ{*16}仏法最初の霊地にて、聖徳太子自ら、日本一州の未来記を留め給へり。されば、かの化者が、『天王寺の妖霊星。』と歌ひけるこそ怪しけれ。いかさま、天王寺辺より天下の動乱出で来て、国家敗亡しぬとおぼゆ。あはれ、国主、徳を治め、武家{*17}、仁を施して、妖を消す謀りごとを致されよかし。」といひけるが、果たして思ひ知らるる世になりにけり。かの仲範、実に未然の凶を鑑みける博覧の程こそ有り難けれ。
相模入道、かかる妖怪にも驚かず、ますます奇物を愛する事、止む時なし。或る時、庭前に犬ども集まつて、噛み合ひけるを見て、この禅門{*18}、面白き事に思ひて、これを愛する事、骨髄に入れり。則ち諸国へ相触れて、或いは正税官物に募りて犬を尋ね、或いは権門高家に仰せてこれを求めける間、国々の守護国司、所々の一族大名、十匹二十匹飼ひ立てて、鎌倉へ引き参らす。これを飼ふに魚鳥を以てし、これを繋ぐに金銀を鏤む。その弊え、甚だ多し。輿に乗せて路次を過ぐる日は、道を急ぐ行人も、馬より下りてこれに跪き、農を勤むる里民も、それに取られてこれを舁く。かくの如く賞翫軽からざりければ、肉に飽き錦を著たる奇犬、鎌倉中に充満して、四、五千匹に及べり。
月に十二度、犬合はせの日とて定められしかば、一族大名、御内外様の人々、或いは堂上に座を列ね、或いは庭前に膝を屈して見物す。時に両陣の犬どもを、一、二百匹づつ放し合はせたりければ、入れ違ひに追ひ合うて、上になり下になり噛み合ふ声、天を響かし地を動かす。心なき人はこれを見て、「あら、おもしろや。ただ戦ひに雌雄を決するに異ならず。」と思ひ、智ある人はこれを聞いて、「あな、いまいましや。ひとへに郊原に骸を争ふに似たり。」と悲しめり。見聞の準ふる処、耳目異なりといへども、その前相、皆闘諍死亡の中にあつて、あさましかりし振舞なり。
時政江島に参篭の事
時已に澆季に及んで、武家、天下の権を執る事、源平両家の間に落ちて、度々に及べり。然れども、天道は必ず盈てるを虧く故に、或いは一代にして滅び、或いは一世をも待たずして失ひぬ。今、相模入道の一家、天下を保つ事、已に九代に及ぶ。この事、ゆゑあり。
昔、鎌倉草創のはじめ、北條四郎時政、江島に参篭して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日に当たりける夜、赤き袴に柳裏の衣著たる女房の、端厳美麗なるが、忽然として時政が前に来つて、告げて曰く、「汝が前生は、箱根法師なり。六十六部の法華経を書冩して、六十六箇国の霊地に奉納したりし善根に依つて、再びこの土に生まるる事を得たり。されば、子孫永く日本の主となつて、栄花に誇るべし。但し、その振舞、違ふ所あらば、七代を過ぐべからず。吾が言ふ所、不審あらば、国々に納めし所の霊地を見よ。」と云ひ捨てて、帰り給ふ。その姿を見れば、さしもいつくしかりつる女房、忽ちに伏したけ二十丈ばかりの大蛇となつて、海中に入りにけり。その跡を見るに、大きなる鱗を三つ落とせり。時政、「所願成就しぬ。」と喜びて、則ちかの鱗を取つて、旗の紋にぞ押したりける。今の三鱗形の紋、これなり。その後、弁才天の御示現に任せて、国々の霊地へ人を遣はして、法華経奉納の所を見せけるに、俗名の時政を法師の名に替へて、奉納筒の上へ「大法師時政」と書きたるこそ不思議なれ。
されば今、相模入道、七代を過ぎて一天下を保ちけるも、江島の弁才天の御利生、又は過去の善因に感じてける故なり。今の高時禅門、已に七代を過ぎ、九代に及べり。されば、亡ぶべき時刻到来して、かかる不思議の振舞をも{*19}せられけるかとぞおぼえける。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇第一御子 光厳院 。」「〇広義門院 寧子。」とある。
2:底本は、「当今(たうぎん)」。底本頭注に、「今上天皇即ち光厳院。」とある。
3:底本頭注に、「〇北極 皇位。」「〇連枝 兄弟。」とある。
4:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
5:底本は、「汚し、」。
6:底本は、「見て而して退かざる、」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
7:底本は、「中について」。
8:底本頭注に、「〇鉤を射るの罪 管仲は桓公の革帯の端にある金具を射たことがあつたが其の罪を問はず登用されて政を助け覇業をなさせた。」「〇皮を鬻ぐの恥 百里奚が虞国が亡んで後 鄙人の家に捕はれてゐたが秦の穆公は五羖羊の皮で買ひとつて国政を見させた。」とある。
9:底本は、「中に就いて」。
10:底本は、「用ふる」。
11:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
12:底本は、「群類暝闇(みやうあん)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
13:底本頭注に、「高時。」とある。
14:底本は、「城入道(じやうのにふだう)」。底本頭注に、「時顕。」とある。
15:底本は、「南家(なんけ)」。底本頭注に、「藤原武智麻呂の子孫を云ふ。」とある。
16:底本は、「天王寺は仏法」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
17:底本は、「国家」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
18:底本頭注に、「仏門に入つた男子。こゝは相模入道高時を指す。」とある。
19:底本は、「振舞(ふるまひ)をせられけるか」。
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