大塔宮熊野落ちの事

 大塔宮二品親王は、笠置の城の安否を聞こし召されんために、暫く南都の般若寺に忍んで御座ありけるが、笠置の城、已に落ちて、主上{*1}囚はれさせ給ひぬと聞こえしかば、虎の尾を履むおそれ、御身の上に迫りて、天地広しといへども、御身を蔵さるべき所なし。日月明らかなりといへども、長夜に迷へる心地して、昼は野原の草に隠れて、露に臥す鶉の床に御涙を争ひ、夜は孤村の辻に佇みて、人を咎むる里の犬に御心を悩まされ、いづくとても御心安かるべき所なかりければ、かくても暫しは、と思し召されける処に、一乗院の候人按察法眼好専、如何にして聞きたりけん、五百余騎を率して、未明に般若寺へぞ寄せたりける。
 折節、宮{*2}に附き奉りたる人、一人もなかりければ、一防ぎ防ぎて落ちさせ給ふべき様もなかりける上、透間もなく、兵、既に寺内に討ち入りたれば、紛れて御出であるべき方もなし。「さらば、よし。自害せん。」と思し召して、既に押し肌脱がせ給ひたりけるが、事叶はざらん期に臨んで腹を切らんことは、いと易かるべし。もしやと隠れて見ばや、と思し召し返して、仏殿の方を御覧ずるに、人の読みかけて置きたる大般若の唐櫃三つあり。二つの櫃は、未だ蓋を開けず。一つの櫃は、御経を半ば過ぎ取り出だして、蓋をもせざりけり。この蓋を開けたる櫃の中へ、御身を縮めて伏させ給ひ、その上に御経を引きかづきて、隠形の呪を御心の中に唱へてぞおはしける。もし捜し出だされば、やがて突き立てんと思し召して、氷の如くなる刀を抜いて、御腹にさし当てて、兵、「ここにこそ。」と云はんずる一言を待たせ給ひける御心の中、推し量るも尚浅かるべし。
 さる程に、兵、仏殿に乱れ入つて、仏壇の下、天井の上までも残る所なく捜しけるが、余りに求めかねて、「これ体の物こそ怪しけれ。あの大般若の櫃を開けて見よ。」とて、蓋したる櫃二つを開いて、御経を取り出し、底を翻して見けれども、おはせず。蓋開きたる櫃は、見るまでもなしとて、兵、皆寺中を出で去りぬ。宮は、不思議の御命を継がせ給ひ、夢に道行く心地して、猶櫃の中におはしけるが、もし兵、又立ちかへり、委しく捜す事もやあらんずらんと御思案あつて、やがて前に兵の捜し見たりつる櫃に、入り替はらせ給ひてぞおはしける。案の如く兵ども、又仏殿に立ちかへり、「前に蓋の開きたるを見ざりつるが、覚束なし。」とて、御経を皆打ち移して見けるが、からからと打ち笑うて、「大般若の櫃の中をよくよく捜したれば、大塔宮はいらせ給はで、大唐の玄弉三蔵こそおはしけれ。」と戯れければ、兵、皆一同に笑うて、門外へぞ出でにける。これ、ひとへに摩利支天の冥応、又は十六善神の擁護に依る命なりと、信心、肝に銘じ、感涙、御袖を潤せり。
 かくては南都辺の御隠れ家、暫くも{*3}叶ひ難ければ、則ち般若寺を御出でありて、熊野の方へぞ落ちさせ給ひける。御供の衆には、光林房玄尊、赤松律師則祐、木寺相模、岡本三河房、武蔵房、村上彦四郎、片岡八郎、矢田彦七、平賀三郎、かれこれ以上九人なり。宮を始め奉りて、御供の者までも、皆柿の衣に笈を掛け、頭巾眉半ばに責め、その中に年長ぜるを先達に作り立て、田舎山伏の熊野参詣する体にぞ見せたりける。この君、元より竜楼鳳闕の内に人とならせ給ひて、華軒香車の外を出でさせ給はぬ御事なれば、御歩行の長途は定めて叶はせ給はじと、御供の人々、かねては心苦しく思ひけるに、案に相違して、いつ習はせ給ひたる御事ならねども、賤しげなる踏皮、脚巾、草鞋を召して、少しも草臥れたる御気色もなく、社々の奉幣、宿々の御勤め、怠らせ給はざりければ、路次に行き逢ひける道者も、勤修を積める先達も、見咎むる事もなかりけり。
 由良の湊を見渡せば、沖漕ぐ舟の梶をたえ{*4}、浦の浜ゆふ幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥。紀伊路の遠山渺々と、藤代の松に懸かれる磯の浪、和歌、吹上をよそに見て、月に瑩ける玉津島、光も今はさらでだに、長汀曲浦の旅の路、心を砕く習ひなるに、雨を含める孤村の樹、夕をおくる遠寺の鐘、哀れを催す時しもあれ、切目の王子に著き給ふ。
 その夜は、叢祠の露に御袖を片敷きて、夜もすがら祈り申させ給ひけるは、「南無帰命頂礼三所権現、満山護法、十万の眷属、八万の金剛童子、垂跡和光の月明らかに、分段同居の闇を照らし、逆臣忽ちに亡びて、朝廷再び輝く事を得せしめ給へ。伝へ承る、両所権現は、これ伊弉諾伊弉冉の応作なり。我が君、その苗裔として、今朝日、忽ちに浮雲のために隠されて、冥闇たり。豈傷まざらんや。玄鑑、空しきに似たり。神、もし神たらば、君、何ぞ君たらざらん。」と、五体を地に投げて、一心に誠を致してぞ祈り申させ給ひける。丹誠無二の御勤め、感応、などかあらざらんと、神慮も暗に計られたり。
 夜もすがらの礼拝に御窮屈ありければ、御肱を曲げて枕として、暫く御まどろみありける御夢に、鬟結ひたる童子一人来つて、「熊野三山の間は、尚も人の心不和にして、大義成り難し。これより十津河の方へ御渡り候て、時の至らんを御待ち候へかし。両所権現より案内者に附け参らせて候へば、御道しるべ仕るべく候。」と申すと御覧ぜられ、御夢は則ち覚めにけり。「これ、権現の御告げなりけり。」と、憑もしく思し召されければ、未明に御悦びの奉幣を捧げ、やがて十津河を尋ねてぞ分け入らせ給ひける。その道の程、三十余里が間には、絶えて人里もなかりければ、或いは高峯の雲に枕をそばだて、苔の筵に袖を敷き、或いは岩漏る水に渇を忍びて、朽ちたる橋に肝を消す。山路、本より雨無うして、空翠、常に衣を湿す。見上ぐれば、万仞の青壁、刀に削り、見下せば、千丈の碧潭、藍に染めり。
 数日の間、かかる嶮難を経させ給へば、御身も草臥れ果てて、流るる汗、水の如し。御足は欠け損じて、草鞋、皆血に染まれり。御供の人々も、その身鉄石にあらざれば、皆飢ゑ疲れて、はかばかしくも歩み得ざりけれども、御腰を押し、御手を引いて、路の程十三日に、十津河へぞ著かせ給ひける。宮をば、とある辻堂の内に置き奉りて、御供の人々は、在家に行きて、熊野参詣の山伏ども、道に迷うて来れる由をいひければ、在家の者ども、哀れみを垂れて、粟の飯、橡の粥など取り出だして、その飢ゑを相助く。宮にもこれ等を参らせて、二、三日は過ぎけり。かくては始終、如何在るべしともおぼえざりければ、光林房玄尊、とある在家の、これぞさもある人の家なるらんとおぼしき所に行きて、童部の出でたるに家主の名を問へば、「これは、竹原八郎入道殿の甥に戸野兵衛{*5}殿と申す人のもとにて候。」といひければ、「さてはこれこそ、弓矢取つてさる者と聞き及ぶ者なれ。如何にもしてこれを憑まばや。」と思ひければ、門の内へ入つて、事の様を見聞く処に、内に病者ありとおぼえて、「あはれ、貴からん山伏の出で来れかし。祈らせ参らせん。」といふ声しけり。
 玄尊、「すはや、究竟の事こそあれ。」と思ひければ、声を高らかに揚げて、「これは、三重の滝に七日うたれ、那智に千日篭つて、三十三所の巡礼のために罷り出でたる山伏ども、路踏み迷うて、この里に出でて候。一夜の宿を貸し、一日の飢ゑをも休め給へ。」といひたりければ、内より賤しげなる下女一人、出で合ひ、「これこそ然るべき仏神の御計らひとおぼえて候へ。これの主の女房、物怪を病ませ給ひ候。祈りてたばせ給ひてんや{*6}。」と申せば、玄尊、「我等は、夫山伏{*7}にて候間、叶ひ候まじ。あれに見え候辻堂に、足を休めて居られて候先達こそ、効験第一の人にて候へ。この様を申さんに、仔細候はじ。」といひければ、女、大きに悦んで、「さらば、その先達の御房、これへ入れ参らせさせ給へ。」といひて、喜びあへる事、限りなし。玄尊、走り帰つてこの由を申しければ、宮を始め奉りて、御供の人々、皆彼が館へ入らせ給ふ。
 宮、病者の臥したる所へ御入りあつて、御加持あり。千手陀羅尼を二、三遍高らかに遊ばされて、御念珠を押し揉ませ給ひければ、病者、自ら口走つて、様々の事をいひけるが、誠に明王の縛にかけられたる体にて、足手を縮めてわななき、五体に汗を流して、物怪、即ち立ち去りぬれば、病者、忽ちに平瘉す。主の夫、なのめならず喜びて、「我、蓄へたる物候はねば、別の御引出物までは叶ひ候まじ。まげて十余日、これに御逗留候て、御足を休めさせたまへ。例の山伏、楚忽に忍びて御逃げ候ひぬと存じ候へば、恐れながらこれを御質に賜はらん。」とて、面々の笈どもを取り合はせて、皆内にぞ置きたりける。御供の人々、上にはその気色を顕はさずといへども、下には皆、悦び思へる事、限りなし。
 かくて十余日を過ごさせ給ひけるに、或る夜、家主の兵衛尉、客殿に出で、焼き火などせさせ、四方山の物語どもしけるついでに申しけるは、「かたがたは、定めて聞き及ばせ給ひたる事も候らん。誠やらん、大塔宮、京都を落ちさせ給ひて、熊野の方へ赴かせ給ひ候ひけんなる。三山の別当定遍僧都は、無二の武家方にて候へば、熊野辺に御忍びあらんことは、成り難くおぼえ候。あはれ、この里へ御入り候へかし。所こそ分内は狭く候へども、四方、皆嶮岨にて、十里二十里が中へは、鳥も翔り難き所にて候。その上、人の心偽らず、弓矢を取る事、世に超えたり。されば、平家の嫡孫維盛と申しける人も、我等が先祖を憑みてここに隠れ、遂に源氏の世に恙なく候ひけるとこそ承り候へ。」と語りければ、宮、誠に嬉しげに思し召したる御気色顕はれて、「もし大塔宮なんどの、ここへ御憑みあつて入らせ給ひたらば、憑まれさせ給はんずるか。」と問はせ給へば、戸野兵衛、「申すにや及び候。身、不肖に候へども、某一人だに、『かかる事ぞ。』と申さば、鹿瀬、蕪坂、湯浅、阿瀬川、小原、芋瀬、中津河、吉野、十八郷の者までも、手指す者候まじきにて候。」とぞ申しける。
 その時、宮、木寺相模にきと御目配せありければ、相模、この兵衛が側に居寄つて、「今は、何をか隠し申すべき。あの先達の御房こそ、大塔宮にて御座あれ。」といひければ、この兵衛、なほも不審気にて、かれこれの顔をつくづくと目守りけるに、片岡八郎、矢田彦七、「あら、熱や。」とて、頭巾を脱いで側にさし置く。実の山伏ならねば、さかやきの跡、隠れなし。兵衛、これを見て、「げにも、山伏にては{*8}おはしまさざりけり。賢うぞこの事申し出でたりける。あな、あさまし。この程の振舞、さこそ尾篭に思し召し候ひつらん。」と、以ての外に驚いて、首を地に著け手をつかね、畳より下りて蹲踞せり。俄に黒木の御所を作りて宮を守護し奉り、四方の山々に関を据ゑ、路を切り塞いで、用心厳しくぞ見えたりける。これも猶、大義の計略叶ひ難しとて、叔父竹原八郎入道にこの由を語りければ、入道、やがて戸野が語らひに随つて、我が館へ宮を入れ参らせ、無二の気色に見えければ、御心安く思し召して、ここに半年ばかり御座ありける程に、人に見知られじと思し召されける御支度に、御還俗の体に成らせ給ひければ、竹原八郎入道が息女を夜のおとどへ召されて、御おぼえ、他に異なり。さてこそ家主の入道も、いよいよ志を傾け、近辺の郷民どもも、次第に帰伏申したるよしにて、かへつて武家をば、さみしけり{*9}。
 さる程に、熊野の別当定遍、この事を聞いて、「十津河へ寄せんずることは、たとひ十万騎の勢ありとも叶ふべからず。その辺の郷民どもの欲心を勧めて、宮を他所へおびき出し奉らん。」と相謀つて、道路の辻に札を書いて立てけるは、「大塔宮を討ち奉りたらん者には、非職、凡下をいはず、伊勢の車間荘を恩賞に充て行はるべき由、関東の御教書これあり。その上に、定遍、先づ三日が中に六千貫を与ふべし。御内伺候の人、御手の人を討ちたらん者には五百貫、降人に出でたらん輩には三百貫、いづれもその日の中に必ず沙汰し、与ふべし。」と定めて、奥に起請文の詞を載せて、厳密の法をぞ出だしける。それ、移木の信は約を堅うせんため、献芹の賂ひは志{*10}を奪はんがためなれば、欲心強盛の八荘司{*11}ども、この札を見てければ、いつしか心変じ、色替はつて、奇しき振舞どもにぞ聞こえける。宮、「かくてはこの所の御住まひ、始終悪しかりなん。吉野の方へも御出であらばや。」と仰せられけるを、竹原入道、「如何なる事や候べき。」と、強ひて留め申しければ、彼が心を破られんことも、さすがに叶はせ給はで、恐懼の中に月日を送らせ給ひける。
 結句、竹原入道が子どもさへ、父が命を背きて、宮を討ち奉らんとする企てありと聞きしかば、宮、ひそかに十津河を出でさせ給ひて、高野の方へぞ赴かせ給ひける。その路、小原、芋瀬、中津河といふ敵陣の難所を経て通る路なれば、中々敵をうち憑みて見ばやと思し召され、先づ芋瀬の荘司がもとへ入らせ給ひけり。芋瀬、宮をば我が館へ入れ参らせずして、側なる御堂に置き奉り、使者を以て申しけるは、「三山の別当定遍、武命{*12}を含んで、隠謀与党の輩をば関東へ注進仕る事にて候へば、この道より左右無く通し参らせんこと、後の罪科、陳謝するに拠ん所あるべからず候。さりながら、宮を留め参らせん事は、その恐れ候へば、御供の人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人賜はりて、武家へ召し渡し候か。然らずんば、御紋の旗を賜はりて、『合戦仕りて候ひつる支証、これにて候。』と、武家へ申すべきにて候。この二つの間、いづれも叶ふまじきとの御意にて{*13}候はば、力無く一矢仕らんずるにて候。」と、誠に又、余儀もなげにぞ申し入れたりける。
 宮は、「この事、いづれも難儀なり。」と思し召して、敢へて御返事もなかりけるを、赤松律師則祐、進み出でて申しけるは、「危ふきを見て命を致すは、士卒の守る所に候。されば、紀信は詐つて敵に降り、魏豹は留まつて城を守る。これ皆、主の命に代はりて名を留めし者にて候はずや。とてもかくても彼が所存解けて、御所を通し参らすべきにてだに候はば、則祐、御大事に代はりて罷り出で候はんことは、仔細あるまじきにて候。」と申せば、平賀三郎、これを聞いて、「末座の意見、卒爾の議にて候へども、この艱苦の中に附き纏ひ奉りたる人は、一人なりといへども、上{*14}の御ためには、股肱耳目よりも捨て難く思し召され候べし。なかんづく芋瀬荘司が申す所、実に黙止され難く候へば、その易きに就いて、御旗ばかりを下され候はんに{*15}、何の煩ひか候べき。戦場に馬物具を捨て、太刀刀を落として敵に取らるる事、さまでの恥ならず。唯彼が申し請くる旨に任せて、御旗を下され候へかし。」と申しければ、宮、げにもと思し召して、日月を金銀にて打つて著けたる錦の御旗を、芋瀬荘司にぞ下されける。かくて宮は、遥かに行き過ぎさせ給ひぬ。
 暫くあつて、村上彦四郎義光、遥かの路にさがり、宮に追ひ著き参らせんと急ぎけるに、芋瀬荘司、はしたなく道にて行き逢ひぬ。芋瀬が下人に持たせたる旗を見れば、宮の御旗なり。村上、怪しみて事の様を問ふに、しかじかの由をかたる。村上、「こは、そも何事ぞや。忝くも四海の主にておはします天子の御子の、朝敵御追罰のために御門出である路次に参り合はせて、汝等ほどの大凡下の奴原が、左様の事仕るべき様やある。」と云つて、則ち御旗を引き奪うて取り、あまつさへ旗持ちたる芋瀬が下人の大の男を掴んで、四、五丈ばかりぞ抛げたりける。その怪力、比類なきにやにや怖れたりけん。芋瀬荘司、一言の返事もせざりければ、村上、自ら御旗を肩に懸けて、程なく宮に追ひ著き奉る。義光、御前に跪いてこの様を申しければ、宮、誠に嬉しげに打ち笑はせ給ひて、「則祐が忠は、孟施舎が義を守り、平賀が智は、陳丞相が謀りごとを得、義光が勇は、北宮黝が勢ひを凌げり。この三傑を以て、我、何ぞ天下を治めざらんや。」と仰せられけるぞかたじけなき。
 その夜は、椎柴垣の隙あらはなる山がつの庵に御枕を傾けさせ給ひて、明くれば小原へと志して、薪負ひたる山人の行き逢ひたるに、道の様を御尋ねありけるに、心なき樵夫までも、さすが見知り参らせてやありけん、薪を下し地に跪いて、「これより小原へ御通り候はん道には、玉置荘司殿とて、無弐の武家方の人、おはしまし候。この人を御語らひ候はでは、いくらの大勢にても、その前をば御通り候ひぬとおぼえず候。恐れある申しごとにて候へども、先づ人を一、二人御使に遣はされ候て、かの人の所存をも聞こし召され候へかし。」とぞ申しける。
 宮、つくづくと聞こし召して、「芻蕘の詞{*16}までも捨てずといふは、これなり。げにも樵夫が申す処、さもとおぼゆるぞ。」とて、片岡八郎、矢田彦七二人を、玉置荘司がもとへ遣はされて、「この道を御通りあるべし。道の警固に木戸を開き、逆茂木を引きのけさせよ。」とぞ仰せられける。玉置荘司、御使に出で合つて、事のよしを聞いて、無返事にて内へ入りけるが、やがて若党、中間どもに物具させ、馬に鞍置き、事の体、躁がしげに見えければ、二人の御使、「いやいや、この事、叶ふまじかりけり。さらば、急ぎ走り帰つて、この由申さん。」とて、足早に帰れば、玉置が若党ども五、六十人、取り太刀ばかりにて追つかけたり。
 二人の者、立ち留まり、小松の二、三本ありける蔭より跳り出で、真先に進んだる武者の馬の諸膝薙いで刎ね落とさせ、返す太刀にて首打ち落として、のつたる太刀を押し直してぞ立ちたりける。跡に続いて追ひける者どもも、これを見て、敢へて近づく者一人もなし。唯遠矢に射すくめければ、片岡八郎、矢二筋射つけられて、今は助かり難しと思ひければ、「や、殿、矢田殿。我は、とても手負うたれば、ここにて討死せんずるぞ。御辺は、急ぎ宮の御方へ走り参りて、この由を申して、一まども落とし参らせよ。」と、再往強ひていひければ、矢田も一所にて討死せんと思ひけれども、実にも宮に告げ申さざらんは、かへつて不忠なるべければ、力無く、唯今討死する傍輩を見捨てて帰りける心の中、推し量られて哀れなり。
 矢田、遥かに行き延びて、跡を顧みれば、片岡八郎、はや討たれぬと見えて、首を太刀の鋒に貫いて持ちたる人あり。矢田、急ぎ走り帰つて、この由を宮に申しければ、「さては、遁れぬ道に行きつまりぬ。運の窮達、歎くに詞なし。」とて、御供の人々に至るまで、中々騒ぐ気色ぞなかりける。「さればとて、ここに留まるべきに非ず。行かれんずる所まで行けや。」とて、上下三十余人の兵ども、宮を前に立て参らせて、問ひ問ひ山路をぞ越え行きける。
 既に中津河の峠を越えんとし給ひける所に、向うの山の峯に、玉置が勢とおぼえて、五、六百人が程、ひた兜に鎧うて、楯を前に進め、射手を左右へ分けて、鬨の声をぞ揚げたりける。宮、これを御覧じて、玉顔、殊に厳かに打ち笑ませ給ひて、御手の者どもに向つて、「矢種のあらんずる程は、防ぎ矢を射よ。心静かに自害して、名を万代に遺すべし。但し、各、相構へて、吾より先に腹切る事、あるべからず。吾、已に自害せば、面の皮を剥ぎ耳鼻を切つて、誰が首とも見えぬ様にしなして捨つべし。その故は我が首を、もし獄門にかけて曝されなば、天下に御方の志を存ぜんものは、力を失ひ、武家は、いよいよ恐るる所なかるべし。『死せる孔明、生ける仲達を走らしむ。』といふ事あり。されば、死して後までも、威を天下に残すを以て良将とせり。今は、とても遁れぬ所ぞ。相構へて人々、きたなびれ{*17}て、敵に笑はるな。」と仰せられければ、御供の兵ども、「何故かきたなびれ候べき。」と申して、御前に立つて、敵の大勢にて攻め上りける坂中の辺まで下り向ふ。その勢、僅か三十二人。これ皆、一騎当千の兵とはいへども、敵五百余騎に打ち合うて、戦ふべきやうはなかりけり。
 寄せ手は、楯を雌羽につきしとうてかづき上がり{*18}、防ぐ兵は、打物の鞘をはづして相懸かりに近づく所に、北の峯より赤旗三流れ、松の嵐に翻して、その勢六、七百騎がほどかけ出でたり。その勢、次第に近づくまま、三手に分けて鬨の声を揚げて、玉置荘司に相向ふ。真先に進んだる武者、大音声を揚げて、「紀伊国の住人野長瀬六郎、同七郎、その勢三千余騎にて大塔宮の御迎ひに参る所に、忝くもこの君に対ひ参らせて、弓を引き楯を列ぬる人は誰ぞや。玉置荘司殿と見るは僻目か。只今滅ぶべき武家の逆命に随つて、即時に運を開かせ給ふべき親王に敵対申しては、一天下の間、いづれの処にか身を置かんと思ふ。天罰、遠からず。これを鎮めん事、我等が一戦の内にあり。余すな、漏らすな。」と、をめき叫んでぞかかりける。これを見て、玉置が勢五百余騎、叶はじとや思ひけん、楯を捨て旗を巻いて、忽ちに四角八方へ逃げ散りぬ。
 その後、野長瀬兄弟、兜を脱ぎ弓を脇に挟みて、遥かに畏まる。宮の御前近く召されて、「山中の体たらく、大義の計略叶ひ難かるべき間、大和、河内の方へ打ち出でて、勢をつけんために進発せしむるの処に、玉置荘司、唯今の振舞。当手の兵、万死の内に一生をも得難しとおぼえつるに、不慮の助けに逢ふ事、天運、尚憑みあるに似たり。そもそもこの事、何として存じたりければ、この戦場に馳せ合つて、逆徒の大軍をば靡けぬるぞ。」と御尋ねありければ、野長瀬、畏まつて申しけるは、「昨日の昼程に、年十四、五ばかりに候ひし童の、名をば老松といへりと名のりて、『大塔宮、明日十津河を御出であつて、小原へ御通りあらんずるが、一定、道にて難に逢はせ給ひぬとおぼゆるぞ。志を存ぜん人は、急ぎ御迎ひに参れ。』と触れ廻り候ひつる間、御使ぞと心得て、参つて候。」とぞ申しける。
 宮、この事を御思案あるに、只事に非ずと思し召し合はせて、年頃御身を放されざりしはだへの御守りを御覧ずるに、その口少し開きたりける間、いよいよ怪しく思し召して、則ち開き御覧ぜられければ、北野天神の御神体を金銅にて鋳参らせられたるその御眷属、老松の明神の御神体、遍身より汗かいて、御足に土のつきたるぞ不思議なる。「さては、佳運、神慮に適へり。逆徒の退治、何の疑ひかあるべき。」とて、それより宮は、槙野上野房聖賢が拵へたる槙野城へ御入りありけるが、これも尚、分内狭くて悪しかるべしと御思案ありて、吉野の大衆をかたらはせ給ひて、愛善宝塔を城郭に構へ、岩切り通す吉野河を前に当て、三千余騎を随へて楯篭らせ給ひけるとぞ聞こえし。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 2:底本頭注に、「大塔宮。」とある。
 3:底本は、「御隠家(おんかくれが)も叶ひ」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 4:底本は、「梶緒たえ、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「〇八郎入道 宗親。」「〇戸野兵衛 正衡。」とある。
 6:底本は、「たばせ給はらんや。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 7:底本は、「夫山伏(ぶやまぶし)」。底本頭注に、「平山伏。」とある。
 8:底本は、「山伏にて坐(おはしま)さざりけり。」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 9:底本は、「褊(さみ)しけり。」。底本頭注に、「軽蔑した。」とある。
 10:底本は、「心」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 11:底本は、「八荘司(しやうじ)」。底本頭注に、「熊野八箇の荘の役人。」とある。
 12:底本頭注に、「〇三山 本宮、新宮、那智。」「〇武命 武家即ち北條家の命令。」とある。
 13:底本は、「御意に候はば、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 14:底本頭注に、「大塔宮を指す。」とある。
 15:底本は、「下され候には、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 16:底本は、「芻蕘(すうぜう)の詞」。底本頭注に、「草や薪をとる賤人の言葉。詩経大雅に「先民有言、詢于芻蕘。」とある。
 17:底本頭注に、「卑怯の様して。」とある。
 18:底本頭注に、「〇楯を雌羽につきしとうて 盾を重ねてつき並べて。」「〇かづき襄り 楯を被き攻め上り。」とある。