楠天王寺に出張りの事 附 隅田高橋並宇都宮が事

 元弘二年三月五日、左近将監時益、越後守仲時、両六波羅に補せられて、関東より上洛す。この三、四年は、常葉駿河守範貞一人として、両六波羅の成敗を司つてありしが、堅く辞し申しけるに依つて、とぞ聞こえし。
 楠兵衛正成は、去年、赤坂城にて自害して、焼け死にたる真似をして落ちたりしを、実と心得て、武家より、その跡に湯浅孫六入道定仏を地頭に据ゑ置きたりければ、今は河内国に於いては殊なる事あらじと、心安く思ひける処に、同じき四月三日、楠、五百余騎を率して、俄に湯浅が城へ押し寄せて、息をも継がず攻め戦ふ。城中に兵粮の用意乏しかりけるにや、湯浅が所領紀伊国の阿瀬川より、人夫五、六百人に兵粮を持たせて、夜中に城へ入らんとする由、楠、仄かに聞いて、兵を道の切所へ差し遣はし、悉くこれを奪ひ取つて、その俵に物具を入れ替へて、馬に負はせ、人夫に持たせて、兵を二、三百人、兵士のやうに出で立たせて、城中へ入らんとす。楠が勢、これを追ひ散らさんとする真似をして、追つつ返しつ同士軍をぞしたりける。
 湯浅入道、これを見て、我が兵粮入るる兵どもが、楠が勢と戦ふぞと心得て、城中より討つて出で、そぞろなる{*1}敵の兵どもを城中へぞ引き入れける。楠が勢ども、思ひのままに城中に入りすまして、俵の中より物具ども取り出だし、ひしひしと堅めて、則ち鬨の声をぞ揚げたりける。城の外の勢、同時に木戸を破り、塀を越えて攻め入りける間、湯浅入道、内外の敵に取り篭められて、戦ふべきやうもなかりければ、たちまちに首を伸べて降人に出づ。
 楠、その勢を併せて、七百余騎にて和泉、河内の両国を靡けて、大勢に成りければ、五月十七日に、先づ住吉、天王寺辺へ討つて出で、渡部の橋より南に陣を取る。然る間、和泉、河内の早馬、敷並を打つて、楠、已に京都へ攻め上る由告げければ、洛中の騒動、なのめならず。武士、東西に馳せ散りて、貴賤上下慌つる事、窮まりなし。
 かかりければ、両六波羅には、畿内近国の勢、雲霞の如く馳せ集まりて、楠、今や攻め上ると待ちけれども、敢へてその儀もなければ、「聞くにも似ず、楠、小勢にてぞあるらん。こなたより押し寄せて打ち散らせ。」とて、隅田、高橋を両六波羅の軍奉行として、四十八箇所の篝、並びに在京人、畿内近国の勢を合はせて、天王寺へさし向けらる。その勢、都合五千余騎。同じき二十日、京都を立つて、尼崎、神崎、柱松の辺に陣を取つて、遠篝を焼いて、その夜を遅しと待ち明かす。
 楠、これを聞いて、二千余騎を三手に分け、宗徒の勢をば住吉、天王寺に隠して、僅かに三百騎ばかりを渡部の橋の南に控へさせ、大篝二、三箇所に焼かせて相向へり。これは、わざと敵に橋を渡させて、水の深みに追ひはめ、雌雄を一時に決せんがためなり。
 さる程に、明くれば五月二十一日に、六波羅の勢五千余騎、所々の陣を一つに合はせ、渡部の橋まで打ち臨んで、河向ひに控へたる敵の勢を見渡せば、僅かに二、三百騎には過ぎず。あまつさへ、瘠せたる馬に縄手綱かけたる体の武者どもなり。隅田、高橋、これを見て、「さればこそ。和泉、河内の勢の分際、さこそあらめと思ふに合はせて、はかばかしき敵は一人もなかりけり。この奴原を一々に召し捕つて、六條河原に切りかけて、六波羅殿の御感に預からん。」といふままに、隅田、高橋、人交じへもせず、橋より下を一文字にぞ渡しける。五千余騎の兵ども、これを見て、我先にと馬を進めて、或いは橋の上を歩ませ、或いは河瀬を渡して、向ひの岸にかけ上る。
 楠が勢、これを見て、遠矢少々射捨てて、一戦もせず天王寺の方へ引き退く。六波羅の勢、これを見て、勝つに乗り、人馬の息をもつがせず、天王寺の北の在家まで、揉みに揉うでぞ追うたりける。
 楠、思ふ程敵の人馬を疲らかして、二千騎を三手に分けて、一手は、天王寺の東より、敵を弓手にうけてかけ出づ。一手は、西門の石の鳥居より、魚鱗懸かりにかけ出づ。一手は、住吉の松の蔭よりかけ出でて、鶴翼に立てて開き合はす。六波羅の勢を見合はすれば、対揚{*2}すべきまでもなき大勢なりけれども、陣の張り様しどろにて、かへつて小勢に囲まれぬべくぞ見えたりける。
 隅田、高橋、これを見て、「敵、後ろに大勢を隠してたばかりけるぞ。この辺は馬の足立ち悪しうして叶はじ。広みへ敵をおびき出し、勢の分際を見計らうて、懸け合はせ懸け合はせ勝負を決せよ。」と下知しければ、五千余騎の兵ども、敵に後ろを切られぬ先にと、渡部の橋をさして引き退く。楠が勢、これに利を得て、三方より勝鬨を作りて追ひかくる。
 橋近くなりければ、隅田、高橋、これを見て、「敵は大勢にてはなかりけるぞ。ここにて返し合はせずんば、大河、後ろに在つて悪しかりぬべし。返せや、兵ども。」と、馬の足を立て直し立て直し下知しけれども、大勢の引き立ちたる事なれば、一返しも返さず、唯我先にと、橋の危ふきをもいはず、馳せ集まりける間、人馬共に押し落とされて、水に溺るる者、数を知らず。或いは淵瀬をも知らず、渡し懸かりて死ぬる者もあり。或いは岸より馬を馳せ倒して、そのまま討たるる者も有。唯、馬、物具を脱ぎ捨てて、逃げ延びんとする者はあれども、返し合はせて戦はんとする者はなかりけり。しかれば、五千余騎の兵ども、残り少なに討ちなされて、這ふ這ふ京へぞ上りける。
 その翌日に、何者かしたりけん、六條河原に高札を立て、一首の歌をぞ書きたりける。
  渡部の水いかばかり早ければ高橋落ちて隅田ながるらむ
京童の癖なれば、この落書を歌に作つてうたひ、或いは語り伝へて笑ひける間、隅田、高橋、面目を失ひ、暫くは出仕を止め、虚病してぞ居たりける。
 両六波羅、これを聞いて、安からぬ事に思はれければ、重ねて寄せんと議せられけり。その頃、「京都、余りに無勢なり。」とて、関東より上せられたる宇都宮治部大輔{*3}を呼び寄せ、評定ありけるは、「合戦の習ひ、運に依つて雌雄替はること、古よりなきにあらず。然れども、今度南方の軍に負けぬること、ひとへに将の計の拙きによれり。又、士卒の臆病なるが故なり。天下の嘲哢、口を塞ぐに所なし。なかんづく、仲時罷り上りし後、重ねて御上洛のことは、兇徒もし蜂起せば、御向ひあつて静謐候へとのためなり。今の如くんば、敗軍の兵を駆り集めて、何度むけて候とも、はかばかしき合戦しつともおぼえず候。且は、天下の一大事、この時にて候へば、御向ひ候て、御退治候へかし。」と宣ひければ、宇都宮、辞退の気色なくして申されけるは、「大軍、已に利を失つて後、小勢にて罷り向ひ候はん事、如何と存じ候へども、関東を罷り出でし始めより、かやうの御大事に逢うて命を軽くせん事を存じ候ひき。今の時分、必ずしも合戦の勝負を見る所にては候はねば、一人にて候とも、先づ罷り向うて一合戦仕り、難儀におよび候はば、重ねて御勢をこそ申し候はめ。」と、誠に思ひ定めたる体に見えてぞ帰りける。
 宇都宮一人、武命を含んで大敵に向はん事、命を惜しむべきにあらざりければ、わざと宿所へも帰らず、六波羅より直に、七月十九日午の刻に都を出で、天王寺へぞ下りける。東寺辺までは、主従僅かに十四、五騎が程と見えしが、洛中にあらゆる所の手の者ども、馳せ加はりける間、四塚、作道にては、五百余騎にぞなりにける。路次に行き逢ふ者をば、権門勢家をいはず、乗馬を奪ひ、人夫をかけ立てて{*4}通りける間、行旅の往反路を曲げ、閭里の民屋扉を閉づ。その夜は、柱松に陣を取つて、明くるを待つ。その志、一人も生きて帰らんと思ふ者はなかりけり。
 さる程に、河内の国の住人和田孫三郎、この由を聞いて、楠が前に来つて云ひけるは、「先日の合戦に負け腹を立て、京より宇都宮を向け候なる。今夜、既に柱松に著いて候が、その勢、僅かに六、七百騎には過ぎじと聞こえ候。先に、隅田、高橋が五千余騎にて向つて候ひしをだに、我等、僅かの小勢にて追つ散らして候ひしぞかし。その上、今度は御方、勝つに乗つて大勢なり。敵は、機を失ひて小勢なり。宇都宮、たとひ武勇の達人なりとも、何程の事か候べき。今夜、逆寄せにして、打ち散らして捨て候はばや。」といひけるを、楠、しばらく思案して云ひけるは、「合戦の勝負、必ずしも大勢小勢によらず。唯士卒の志を一つにするとせざるとなり。されば、『大敵を見ては欺き、小勢を見ては畏れよ。』と申す事、これなり。
 「先づ思案するに、先度の軍に大勢打ち負けて引き退く跡へ、宇都宮一人、小勢にて相向ふ志、一人も生きて帰らんと思ふ者、よも候はじ。その上宇都宮は、坂東一の弓矢取なり。紀清両党{*5}の兵、元より戦場に臨んで命を棄つる事、塵芥よりも尚軽くす。その兵七百余騎、志を一つにして戦ひを決せば、当手{*6}の兵、たとひ退く心なくとも、大半は必ず討たるべし。天下の事、全く今般の戦ひに依るべからず。行く末遥かの合戦に、多からぬ御方、初度の軍に討たれなば、後日の戦ひに誰か力を合はすべき。『良将は、戦はずして勝つ。』と申すこと候へば、正成に於いては、明日わざとこの陣を去つて引き退き、敵に一面目あるやうにおもはせ、四、五日を経て後、方々の峯に篝を焼いて、一蒸し蒸す程ならば、坂東武者の習ひ、ほどなく機疲れて、『いやいや、長居しては悪しかりなん。一面目ある時、いざや、引き返さん。』と云はぬ者は候はじ。されば、『駆くるも引くも折による。』とは、かやうの事を申すなり。夜、已に暁天に及べり。敵、定めて今は近づくらん。いざ、させ給へ。」とて、楠、天王寺を立ちければ、和田、湯浅ももろともに打ち連れてぞ引きたりける。
 夜明けければ、宇都宮、七百余騎の勢にて天王寺へ押し寄せ、古宇都の在家に火をかけ、鬨の声を揚げたれども、敵なければ出で合はず。「たばかりぞすらん。この辺は馬の足立ち悪しうして、道狭き間、かけ入る敵に中を破らるな。後ろをつつまるな。」と下知して、紀清両党、馬の足をそろへて、天王寺の東西の口よりかけ入つて、二、三度まで駆け入り駆け入りしけれども、敵一人もなくして、焼き捨てたる篝に煙残りて、夜はほのぼのと明けにけり。
 宇都宮、戦はざる先に一勝ちしたる心地して、本堂の前にて馬より下り、上宮太子{*7}を伏し拝み奉り、「これ、ひとへに武力の致す所にあらず。唯、しかしながら神明仏陀の擁護にかかれり。」と、信心を傾け歓喜の思ひをなせり。やがて京都へ早馬を立てて、「天王寺の敵をば即時に追ひ落とし候ひぬ。」と申したりければ、両六波羅を始めとして、御内、外様の諸軍勢に至るまで、「宇都宮が今度の振舞、抜群なり。」と、誉めぬ人もなかりけり。
 宇都宮、天王寺の敵をたやすく追つ散らしたる心地にて、一面目はある体なれども、やがて続いて敵の陣へ攻め入らん事も、無勢なれば叶はず。又、誠の軍一度もせずして引き返さん事もさすがなれば、進退きはまつたる処に、四、五日を経て後、和田、楠、和泉、河内の野伏どもを四、五千人駆り集めて、然るべき兵二、三百騎差し副へ、天王寺辺に遠篝火をぞ焼かせける。「すはや、敵こそ打ち出でたれ。」と騒動して、更け行くままにこれを見れば、秋篠や外山の里、生駒の嶽に見ゆる火は、晴れたる夜の星よりも繁く、藻塩草志城津の浦、住吉、難波の里に焼く篝は、漁舟に燃やす漁り火の、波を焼くかと怪しまる。総て大和、河内、紀伊国にありとある所の山々浦々に、篝を焼かぬ所はなかりけり。その勢幾万騎あらんと、推し量られて、おびただし。かくの如くする事、両三夜に及び、次第に相近附けば、いよいよ東西南北、四維{*8}上下に充満して、闇夜に昼を易へたり。
 宇都宮、これを見て、「敵寄せ来らば一軍して、雌雄を一時に決せん。」と志して、馬の鞍をも休めず、鎧の上帯をも解かず待ちかけたれども、軍はなくして、敵の取り廻す勢ひに、勇気疲れ、武力たゆみて、「あはれ、引き退かばや。」と思ふ心つきにけり。かかる処に紀清両党の輩も、「我等が僅かの小勢にて、この大敵に当たらん事は、始終如何とおぼえ候。先日、当所の敵を事ゆゑなく追ひ落として候ひつるを一面目にして、御上洛候へかし。」と申せば、諸人、皆この議に同じ、七月二十七日夜半ばかりに、宇都宮、天王寺を引きて上洛すれば、翌日早旦に、楠、やがて入り替はりたり。「誠に、宇都宮と楠と相戦うて勝負を決せば、両虎二竜の戦ひとなつて、いづれも死を共にすべし。されば、互にこれを思ひけるにや、一度は楠引いて、謀りごとを千里の外に巡らし、一度は宇都宮退いて、名を一戦の後に失はず。これ皆、智謀深く、慮り遠き良将なりし故なり。」と、誉めぬ人もなかりけり。
 さる程に、楠兵衛正成は、天王寺に打ち出でて、威猛を逞しくすといへども、民屋に煩ひをもなさずして、士卒に礼を厚くしける間、近国は申すに及ばず、遐壌遠境の人牧{*9}までも、これを聞き伝へて、我も我もと馳せ加はりけるほどに、その勢ひ、漸く強大にして、今は、京都よりも討手を左右なく下されんことは、叶ひ難しとぞ見えたりける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「分明でない。曖昧な。」とある。
 2:底本は、「対揚(たいやう)」。底本頭注に、「匹敵。」とある。
 3:底本頭注に、「貞綱の子公綱。」とある。
 4:底本頭注に、「強ひて促し立てて。」とある。
 5:底本頭注に、「紀氏と清原氏と。」とある。
 6:底本は、「当手(たうて)」。底本頭注に、「味方。」とある。
 7:底本頭注に、「聖徳太子。」とある。
 8:底本は、「四維(ゆゐ)」。底本頭注に、「北東、北西、南東、南西。」とある。
 9:底本は、「遐壌(かじやう)遠境の人牧(じんぼく)」。底本頭注に、「〇遐壌遠境 遥かに遠き地。」「〇人牧 地方の役人。」とある。