正成天王寺の未来記披見の事

 元弘二年八月三日、楠兵衛正成、住吉に参詣し、神馬三匹、これを献ず。
 翌日、天王寺に詣でて、白鞍置いたる馬、白覆輪の太刀、鎧一両副へて引き参らす。これは、大般若経転読の御布施なり。啓白、事終はつて、宿老の寺僧、巻数を捧げて来れり。楠、則ち対面して申しけるは、「正成、不肖の身としてこの一大事を思ひ立ちて候事、涯分を計らざるに似たりといへども、勅命の軽からざる、礼儀を存ずるに依つて、身命の危ふきを忘れたり。然るに、両度の合戦、いささか勝つに乗つて、諸国の兵、招かざるに馳せ加はれり。これ、天の時を与へ、仏神擁護の眸を回らさるるかとおぼえ候。誠やらん、伝へ承れば、上宮太子の当初、百王治天の安危を考へて、日本一州の未来記を書き置かせ給ひて候なる。拝見もし苦しからず候はば、今の時に当たり候はん巻ばかり、一見仕り候はばや。」といひければ、宿老の寺僧、答へていはく、「太子、守屋{*1}の逆臣を討つて、始めてこの寺を建てて仏法を弘められ候ひし後、神代より始めて、持統天皇の御宇に至るまでを記されたる書三十巻をば前代旧事本記とて、卜部宿祢、これを相伝して、有職の家を立て候。その外に、又一巻の秘書を留められて候。これは、持統天皇以来、末世代々の王業、天下の治乱を記されて候。これをば、たやすく人の披見する事は候はねども、別儀を以てひそかに見参に入れ候べし。」とて、即ち秘府の銀鑰{*2}を開いて、金軸の書一巻を取り出せり。
 正成、悦びて、則ちこれを披覧するに、不思議の記文一段あり。その文に曰く、
  {*k}人王九十五代に当たつて、天下一たび乱れて、主、安からず。この時、東魚来つて四海を呑む。日、西天に没る{*3}こと三百七十余箇日、西鳥来つて東魚を食ふ。その後、海内一に帰すること三年、獼猴{*4}の如き者、天下を掠むること三十余年、大凶変じて一元に帰す、云々。{*k}
 正成、不思議におぼえて、よくよく思案してこの文を考ふるに、「先帝、既に人王の始めより九十五代に当たり給へり。『天下一度乱れて主安からず』とあるは、これ、この時なるべし。『東魚来つて四海を呑む』とは、逆臣相模入道の一類なるべし。『西鳥東魚を食ふ』とあるは、関東を滅ぼす人あるべし。『日西天に没る』とは、先帝、隠岐国へ遷されさせ給ふ事なるべし。『三百七十余箇日』とは、明年の春の頃、この君{*5}、隠岐国より還幸成つて、再び帝位に即かせ給ふべき事なるべし。」と、文の心を明らかに考ふるに、天下の反覆久しからずと、憑もしくおぼえければ、金作りの太刀一振、この老僧に与へて、この書をば元の秘府に納めさせけり。
 後に思ひ合はするに、正成が考へたる所、更に一事も違はず。これ、誠に大権聖者の、末代を鑑みて記し置き給ひしことなれども、文質三統の礼変、少しも違はざりけるは、不思議なりし讖文{*6}なり。

赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる事

 そのころ、播磨国の住人、村上天皇第七御子具平親王六代の苗裔、従三位季房が末孫に赤松次郎入道円心{*7}とて、弓矢取つて無双の勇士あり。元よりその心闊如として、人の下風に立たん事を思はざりければ、この時、絶えたるを継ぎ廃れたるを興して、名を顕はし忠を抜きんでばやと思ひけるに、この二、三年、大塔宮に附き纒ひ奉りて、吉野、十津河の艱難を経ける円心が子息律師則祐、令旨を捧げて来れり。披覧するに、「不日に義兵を挙げて軍勢を率し、朝敵を誅罰せしむべし。その功あるに於いては、恩賞宜しく請ふに依るべき」の由、戴せられたり。委細の事書き{*8}十七箇條の恩裁を添へられたり。條々、いづれも家の面目、世の所望する事なれば、円心、なのめならず悦んで、先づ当国佐用荘苔縄の山に城を構へて、与力の輩を相招く。その威、漸く近国に振ひければ、国中の兵ども馳せ集まつて、程なくその勢、一千余騎になりにけり。ただ、秦の世已に傾かんとせし弊えに乗つて、楚の陳勝が、蒼頭{*9}にして大沢に起こりしに異ならず。
 やがて、杉坂、山の里二箇所に関を据ゑ、山陽、山陰の両道を差し塞ぐ。これより西国{*10}の道止まつて、国々の勢、上洛することを得ざりけり。

関東の大勢上洛の事

 さる程に、畿内西国の兇徒、日を逐つて蜂起するよし、六波羅より早馬を立てて関東へ注進せらる。相模入道、大きに驚いて、「さらば、討手を差し遣はせ。」とて、相模守の一族、その外、東八箇国の中に然るべき大名どもを催し立てて、差し上さる。
 先づ一族には阿曽弾正少弼、名越遠江入道、大仏前陸奥守貞直、同武蔵左近将監、伊具右近大夫将監、陸奥右馬助。外様の人々には千葉大介、宇都宮三河守、小山判官、武田伊豆三郎、小笠原彦五郎、土岐伯耆入道、葦名判官、三浦若狭五郎、千田太郎、城太宰大弐入道、佐々木隠岐前司、同備中守、結城七郎左衛門尉、小田常陸前司、長崎四郎左衛門尉、同九郎左衛門尉、長江弥六左衛門尉、長沼駿河守、渋谷遠江守、河越三河入道、工藤次郎左衛門高景、狩野七郎左衛門尉、伊藤常陸前司、同大和入道、安藤藤内左衛門尉、宇佐美摂津前司、二階堂出羽入道、同下野判官、同常陸介、安保左衛門入道、南部次郎、山城四郎左衛門尉。これ等を始めとして、宗徒の大名百三十二人、都合その勢三十万七千五百余騎。九月二十日、鎌倉を立つて、十月八日、先陣、既に京都に著けば、後陣は未だ足柄、箱根に支へたり。
 これのみならず、河野九郎、四国の勢を率して、大船三百余艘にて、尼崎より上がつて下京に著く。厚東入道、大内介、安芸熊谷、周防、長門の勢を引き具して、兵船二百余艘にて、兵庫より上がつて西の京に著く。甲斐、信濃の源氏七千余騎、中山道を経て東山に著く。江馬越前守、淡河右京亮、北陸道七箇国の勢を率して、三万余騎にて東坂本を経て上京に著く。総じて諸国七道の軍勢、我も我もと馳せ上りける間、京白河の家々に居余り、醍醐、小栗栖、日野、勧修寺、嵯峨、仁和寺、太秦の辺、西山、北山、賀茂、北野、革堂、河崎、清水、六角堂の門の下、鐘楼の中までも、軍勢の宿らぬ所はなかりけり。日本小国といへども、これ程に人の多かりけりと、始めて驚くばかりなり。
 さる程に、元弘三年正月晦日、諸国の軍勢八十万騎を三手に分かちて、吉野、赤坂、金剛山、三つの城へぞ向けられける。先づ吉野へは、二階堂出羽入道道蘊を大将として、わざと他の勢を交じへず二万七千余騎にて、上道、下道、中道より、三手になつて相向ふ。赤坂へは、阿曽弾正少弼を大将としてその勢八万余騎、先づ天王寺、住吉に陣を張る。金剛山へは、陸奥右馬助、搦手の大将としてその勢二十万騎、奈良路よりこそ向はれけれ。
 中にも長崎悪四郎左衛門尉{*11}は、別して侍大将を承つて、大手へ向ひけるが、わざと己が勢のほどを人に知られんとや思ひけん、一日引きさがりてぞ向ひける。その行粧、見物の目をぞ驚かしける。先づ旗差、その次に逞しき馬に厚総懸けて、一様の鎧著たる兵八百余騎、二町ばかり先立てて、馬を静めて打たせたり。我が身は、その次に纐纈の鎧直垂に、精好の大口を張らせ、紫下濃の鎧に、白星の五枚兜に八竜を金にて{*12}打つて著けたるを猪頚に著なし、銀の磨き著けの臑当に金作りの太刀二振佩いて、一部黒とて五尺三寸ありける坂東一の名馬に、潮干潟の捨小舟を金貝に磨りたる鞍を置いて、款冬色の厚総懸けて、三十六差いたる白磨の銀筈の大中黒の矢に、本滋籘の弓の真中握つて、小路を狭しと歩ませたり。片小手に腹当して諸具足したる中間五百余人、二行に列を引き、馬の前後に随つて、しづかに路次をぞ歩みける。その後四、五町引きさがりて、思ひ思ひに鎧うたる兵十万余騎、兜の星を輝かし、鎧の袖を重ねて、沓の子{*13}を打つたるが如くに、道五、六里が程支へたり。その勢ひ決然として、天地を響かし山川を動かすばかりなり。
 この外、外様の大名五千騎、三千騎、引きわけ引きわけ昼夜十三日まで、引きも切らでぞ向ひける。我が朝は申すに及ばず、唐土、天竺、大元、南蛮も、未だこれ程の大軍を起こす事、有り難かりしことなりと、思はぬ人こそなかりけれ。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「物部氏。」とある。
 2:底本は、「銀鑰(ぎんやく)」。底本頭注に、「銀の錠か。」とある。
 3:底本は、「没(い)(ル)」。
 4:底本は、「獼猴(みこう)」。底本頭注に、「猴(さる)。」とある。
 5:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 6:底本は、「讖文」。底本頭注に、「未来記。」とある。
 7:底本頭注に、「〇具平親王 後中書王と称す。」「〇円心 俗名は則村。」とある。
 8:底本は、「委細事書(ことがき)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 9:底本頭注に、「平民。」とある。
 10:底本は、「両国」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 11:底本頭注に、「高資の子。」とある。
 12:底本は、「金に打つて」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 13:底本は、「沓(くつ)の子(こ)」。底本頭注に、「沓底に鋲。」とある。
 k:底本、この間は漢文。