赤坂合戦の事 附 人見本間抜け駆けの事
さる程に、赤坂の城へ向ひける大将、阿曽弾正少弼、後陣の勢を待ちそろへんがために、天王寺に両日逗留あつて、同じき二月二日午の刻に矢合はせ有るべし。抜け駆けの輩に於いては罪科たるべきの由をぞ触れられける。
ここに、武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿といふ者あり。この恩阿、本間九郎資貞に向つて語りけるは、「御方の軍勢、雲霞の如くなれば、敵陣を攻め落とさん事、疑ひなし。但し、事の様を案ずるに、関東、天下を治めて権を執る事、已に七代に余れり。天道、盈てるを欠くの理、遁るる処なし。その上、臣として君を流し奉る積悪、豈果たしてその身を滅ぼさざらんや。某、不肖の身なりといへども、武恩を蒙つて、齢、已に七旬に余れり。今日より後、さしたる思ひ出もなき身の、そぞろに長生きして武運{*1}の傾かんを見んも、老後の恨み、臨終の障りともなりぬべければ、明日の合戦に先駆けして、一番に討死して、その名を末代に遺さんと存ずるなり。」と語りければ、本間九郎、心中には、げにもと思ひながら、「枝葉の事を宣ふものかな。これ程なる打ち込みの軍に、そぞろなる先駆けして討死したりとも、さして高名とも云はれまじ。されば、唯某は、人なみに振舞ふべきなり。」といひければ、人見、よにも無興気にて、本堂の方へ行きけるを、本間、怪しみ思ひて、人をつけて見せければ、矢立を取り出だして、石の鳥居に何事とは知らず一筆書きつけて、己が宿へぞ帰りける。
本間九郎、さればこそこの者{*2}に一定明日先駆けせられぬと、心ゆるしなかりければ、まだ宵より打ち立つて、唯一騎、東條をさして向ひけり。石川河原にて夜をあかすに、朝霧の晴れ間より南の方を見ければ、紺の唐綾威の鎧に白母衣懸けて、鹿毛なる馬に乗つたる武者一騎、赤坂の城へぞ向ひける。何者やらんと、馬打ち寄せてこれを見れば、人見四郎入道なりけり。人見、本間を見つけていひけるは、「昨夜宣ひし事を実と思ひなば、孫程の人{*3}に出し抜かれまし。」と打ち笑ひてぞ、頻りに馬を早めける。本間、跡について、「今は互に先を争ひ申すに及ばず。一所にて{*4}骸を曝し、冥途までも同道申さんずるぞよ。」と云ひければ、人見、「申すにや及ぶ。」と返事して、跡になり先になり、物語して打ちけるが、赤坂城の近くなりければ、二人の者ども、馬の鼻を双べてかけあがり、堀の際まで打ち寄つて、鐙踏ん張り弓杖突いて、大音声を揚げて名乗りけるは、「武蔵国の住人に人見四郎入道恩阿、年積つて七十三。相模国の住人本間九郎資貞、生年三十七。鎌倉を出でしより、軍の先陣をかけて骸を戦場に曝さん事を存じて相向へり。我と思はん人々は、出で合ひて手なみの程を御覧ぜよ。」と声々に呼ばはつて、城を睨んで控へたり。
城中の者ども、これを見て、「これぞとよ、坂東武者の風情とは。唯これ、熊谷、平山{*5}が一谷の先駆けを伝へ聞いて、羨しく思へる者どもなり。跡を見るに、続く武者もなし。又、さまで大名とも見えず。あぶれ者の不敵武者に跳り合つて、命失うて何かせん。唯置いて事の様を{*6}見よ。」とて、東西、鳴りを静めて返事もせず。
人見、腹を立つて、「早旦より向つて名乗れども、城より矢の一つをも射出ださぬは、臆病の至りか、敵を侮るか。いで、その儀ならば、手柄の程を見せん。」とて、馬より飛び下りて、堀の上なる細橋さらさらと走り渡り、二人の者ども、出し塀の脇に引きそうて、木戸を切り落とさんとしける間、城中、これに騒いで、土小間{*7}、櫓の上より、雨の降るが如くに射ける矢、二人の者どもが鎧に蓑毛の如くにぞ立ちたりける。本間も人見も、元より討死せんと思ひ立ちたる事なれば、何かは一足も引くべき。命を限りに戦つて、二人共に一所にて討たれけり。
これまで附き従うて最後の十念勧めつる聖、二人が首を乞ひ得て、天王寺に持つて帰り、本間が子息源内兵衛資忠に、始めよりのあり様を語る。資忠、父が首を一目見て、一言をも出ださず、唯涙に咽んで居たりけるが、如何思ひけん、鐙を肩に投げ懸け、馬に鞍置いて唯一人討ち出でんとす。聖、怪しみ思ひて、鎧の袖を引き留め、「これはそも、如何なることにて候ぞ。御親父も、この合戦に先駆けして、唯、名を天下の人に知られんとばかり思し召さば、父子共に打ち連れてこそ向はせ給ふべけれども、命をば相模殿{*8}に奉り、恩賞をば子孫の栄花に遺さんと思し召しける故にこそ、人より先に討死をばし給ふらめ。然るに、思ひ篭め給へる所もなく、又敵陣に駆け入つて、父子共に討死し給ひなば、誰かその跡を継ぎ、誰かその恩賞を蒙るべき。子孫無窮に栄ゆるを以て、父祖の孝行を顕はす道とは申すなり。御悲歎の余りに是非なく死を共にせんと思し召すは、理なれども、暫く止まらせ給へ。」と堅く制しければ、資忠、涙を抑へて力無く、著たる鎧を脱ぎ置きたり。
聖、さては制止にかかはりぬと嬉しく思うて、本間が首を小袖に包み、葬礼のために、あたりなる野辺へ越えけるその間に、資忠、今は止むべき人なければ、則ち打ち出でて、先づ上宮太子の御前に参り、「今生の栄耀は、今日をかぎりの命なれば、祈る所にあらず。唯大悲の弘誓の誠あらば、父にて候者の討死仕り候ひし戦場の、同じ苔の下に埋もれて、九品安養の同じ台に生まるる身となさせ給へ。」と泣く泣く祈念を凝らして、涙と共に立ち出でけり。石の鳥居を過ぐるとて{*9}見れば、我が父と共に討死しける人見四郎入道が書き付けたる歌あり。これぞ誠に後の世までの物語に留むべき事よと思ひければ、右の小指を食ひ切つて、その血を以て一首を側に書き添へて、赤坂の城へぞ向ひける。
城近くなりぬる所にて馬より下り、弓を脇にさし挟んで木戸を叩き、「城中の人々に申すべき事あり。」と呼ばはりけり。やや暫くあつて、兵二人、櫓の小間より顔を差し出だして、「誰人にて御渡り候や。」と問ひければ、「これは、今朝この城に向つて討死して候ひつる本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申す者にて候なり。人の親の子を憶ふ哀れみ、心の闇に迷ふ習ひにて候間、共に討死せんことを悲しみて、我に知らせずして唯一人討死しけるにて候。相伴ふ者なくて中有の途に迷ふらん、さこそと思ひやられ候へば、同じく討死仕つて、無き跡まで父に孝道を尽くし候はばやと存じて、唯一騎相向つて候なり。城の大将にこの由を申され候て、木戸を開かれ候へ。父が討死の所にて同じく命を止めて、その望みを達し候はん。」と、慇懃に事を請ひ、涙に咽んでぞ立ちたりける。
一の木戸を堅めたる兵五十余人、その志孝行にして、相向ふ処やさしく哀れなるを感じて、則ち木戸を開き、逆茂木を引きのけしかば、資忠、馬に打ち乗り城中へかけ入りて、五十余人の敵と火を散らしてぞ切り合ひける。遂に父が討たれしその跡にて、太刀を口にくはえてうつぶしに倒れて、貫かれてこそ失せにけれ。惜しいかな、父の資貞は、無双の弓矢取にて国のために要須たり。又、子息資忠は、例なき忠孝の勇士にて、家のために栄名あり。人見は、年老い齢傾きぬれども、義を知つて命を思ふ事、時と共に消息す。この三人、同時に討死しぬと聞こえければ、知るも知らぬもおしなべて、歎かぬ人はなかりけり。
既に先駆けの兵ども、ぬけぬけに赤坂の城へ向ひ、討死するよし披露ありければ、大将、則ち天王寺を打ち立ちて馳せ向ひけるが、上宮太子の御前にて馬より下り、石の鳥居を見給へば、左の柱に、
花さかぬ老木の桜朽ちぬともその名は苔の下にかくれじ
と一首の歌を書いて、その次に、「武蔵国の住人人見四郎恩阿、生年七十三。正慶二年二月二日、赤坂の城へ向つて、武恩を報ぜんために討死仕り畢んぬ。」とぞ書きたりける。又、右の柱を見れば、
まてしばし子を思ふ闇に迷ふらむ六のちまたの道しるべせむ
と書いて、「相模国の住人本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠、生年十八歳。正慶二年仲春二日、父が死骸を枕にして、同じ戦場に命を止め畢んぬ。」とぞ書いたりける。父子の恩義、君臣の忠貞、この二首の歌に顕はれて、骨は化して黄壌一堆の下に朽ちぬれど、名は留まつて青雲九天の上に高し。されば、今に至るまで、石碑の上に消えのこれる三十一字を見る人、感涙を流さぬはなかりけり。
さる程に、阿曽弾正少弼、八万余騎の勢を率して赤坂へ押し寄せ、城の四方二十余町、雲霞の如くに取り巻いて、先づ鬨の声をぞ揚げたりける。その声、山を動し地を震ふに、蒼涯も忽ちに裂けつべし{*10}。この城、三方は岸高うして、屏風を立てたるが如し。南の方ばかりこそ平地に続いて、堀を広く深く掘り切つて、岸の額に塀を塗り、その上に櫓を掻き双べたれば、如何なる大力早技なりとも、たやすく攻むべきやうぞなき。されども寄せ手大勢なれば、思ひ侮つて、楯に外れ矢面に進んで、堀の中へ走り下つて切り岸を上らんとしける処を、塀の中より究竟の射手ども、鏃を支へて思ふ様に射ける間、軍の度毎に、手負死人五百人六百人、射出だされざる時はなかりけり。これをも痛まず新手を入れ替へ入れ替へ、十三日までぞ攻めたりける。されども城中、少しも弱らず見えけり。
ここに播磨国の住人吉河八郎と云ふ者、大将の前に来つて申しけるは、「この城の体たらく、力攻めにし候はば、左右無く落つべからず候。楠、この一両年が間、和泉、河内を{*11}管領して、若干の兵粮を取り入れて候なれば、兵粮も左右なく尽き候まじ。つらつら思案を廻らし候に、この城、三方は谷深うして地に続かず、一方は平地にて、しかも山遠く隔たれり。されば、いづくに水あるべしとも見えぬに、火矢を射れば、水弾き{*12}にて打ち消し候。近来は、雨の降ることも候はぬに、これほどまで水の沢山に候は、いかさま、南の山の奥より地の底に樋を伏せ、城中へ水をかけ入るるかとおぼえ候。あはれ、人夫を集めて、山の腰を掘りきらせて御覧候へかし。」と申しければ、大将、「げにも。」とて、人夫を集め、城へ続きたる山の尾を一文字に掘り切つて見れば、案の如く、土の底二丈余りの下に樋を伏せて、側に石を畳み、上に真木の瓦{*13}をうつ覆せて、水を十町余りの外よりぞ懸けたりける。
この揚げ水を止められて後、城中の水乏しくして、軍勢、口中の渇忍びがたければ、四、五日が程は、草葉に置ける朝の露を嘗め、夜気に潤へる地に身をあてて雨を待ちけれども、雨降らず。寄せ手、これに利を得、隙間なく火矢を射ける間、大手の櫓二つをば焼き落としぬ。城中の兵、水を飲まで十二日になりければ、今は精力尽きはてて、防ぐべき方便もなかりけり。死にたる者は、再び帰ることなし。いざや、とても死なんずる命を、各、力の未だ落ちぬ先に討ち出でて、敵と刺し違へ、思ふさまに討死せんと、城の木戸を開いて同時に討ち出でんとしけるを、城の本人平野将監入道、高櫓より走り下り、袖をひかへて云ひけるは、「暫く楚忽のこと、なしたまひそ。今はこれ程に力尽き、咽乾いて疲れぬれば、思ふ敵に相逢はん事ありがたし。名もなき人の中間下部どもに生け虜られて恥を曝さん事、心憂かるべし。つらつら事の様を案ずるに、吉野、金剛山の城、未だ相支へて勝負を決せず。西国の乱、未だ静まらざるに、今降人に成つて出でたらん者をば、人に見こらせじとて、討つ事あるべからずと存ずるなり{*14}。とても叶はぬ我等なれば、暫く事を謀つて降人になり、命を全うして時至らん事を待つべし。」といへば、諸卒、皆この議に同じて、その日の討死をば止めてけり。
さる程に、次の日の軍の最中に、平野入道、高櫓に上つて、「大将の御方へ申すべき仔細候。暫く合戦を止めて聞こし召し候へ。」と云ひければ、大将、渋谷十郎を以て事の様を尋ぬるに、平野、木戸口に出で合つて、「楠、和泉、河内の両国を平らげて威を振ひ候ひし刻に、一旦の難を遁れんために、心ならず御敵に属して候ひき。この仔細、京都に参じ候うて、申し入れ候はんと仕り候処に、已に大勢を以て押し懸けられ申し候間、弓矢取る身の習ひにて候へば、一矢仕りたるにて候。その罪科をだに御免あるべきにて候はば、頚を伸べて降人に参るべく候。もし叶ふまじきとの御定にて候はば、力なく一矢仕つて、骸を陣中に曝すべきにて候。この様をつぶさに申され候へ。」と云ひければ、大将、大きに喜びて、本領安堵の御教書を成し、殊に功あらん者には則ち恩賞を沙汰し申すべき由返答して、合戦をぞ止めける。
城中に篭る所の兵二百八十二人、明日死なんずる命をも知らず、水に渇せる堪へ難さに、皆降人に成つてぞ出でたりける。長崎九郎左衛門尉、これを請け取つて、先づ降人の法なればとて、物具太刀刀を{*15}奪ひ取り、高手小手にいましめて、六波羅へぞ渡しける。降人の輩、かくの如くならば、唯討死すべかりけるものをと、後悔すれどもかひなし。日を経て京都に著きしかば、六波羅にいましめ置いて、「合戦の事始めなれば、軍神に祭りて人に見ごりさせよ{*16}。」とて、六條河原に引き出だし、一人も残さず首を刎ねて懸けられけり。これを聞いてぞ、吉野、金剛山に篭りたる兵どもも、いよいよ獅子の歯噛みをして、降人に出でんと思ふ者はなかりけり。
罪を緩うするは将の謀りごとなりと云ふ事を知らざりける六波羅の成敗を、皆人ごとにおしなべて、悪しかりけりと申せしが、幾程もなうして悉く亡びけるこそ不思議なれ。情は人のためならず。余りに奢りを極めつつ、我意に任せて{*17}振舞へば、武運も早く尽きにけり。因果の道理を知るならば、心あるべきことどもなり。
校訂者注
1:底本頭注に、「武家の運。」とある。
2:底本頭注に、「人見を指す。」とある。
3:底本頭注に、「孫位の年頃の人即ち本間。」とある。
4:底本は、「一所に骸(かばね)を」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「〇熊谷 次郎直実。」「〇平山 武者所季重。」とある。
6:底本は、「事の様子(やうす)を」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
7:底本は、「土小間(つちざま)」。底本頭注に、「城壁の矢間。」とある。
8:底本頭注に、「高時。」とある。
9:底本は、「過ぐると見れば、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
10:底本は、「裂けつべじ。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
11:底本は、「和泉河内の管領(くわんりやう)して、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
12:底本は、「水弾(みづはじき)」。底本頭注に、「ポンプの類。」とある。
13:底本頭注に、「檜の蓋。」とある。
14:底本頭注に、「西国の乱がまだ静まらないのに、今我らが降参人となつて出た者を殺したなら他の人々が見て懲りて降参しないだらうから見懲りさせないやうにとて我々降参人をば殺すやうなことがある筈がないと思ふのである。」とある。
15:底本は、「物具太刀を」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
16:底本頭注に、「見せしめにせよ。」とある。
17:底本は、「余り奢りを極めつゝ、雅意(がい)に任せて」。『太平記 一』(1977年)に従い補い、底本頭注及び『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
コメント