巻第七

吉野の城軍の事

 元弘三年正月十六日、二階堂出羽入道道蘊、六万余騎の勢にて大塔宮の篭らせ給へる吉野の城へ押し寄する。菜摘河の川淀より城の方を見上げたれば、嶺には白旗、赤旗、錦の旗、深山颪に吹き靡かされて、雲か花かと怪しまる。麓には数千の官軍、兜の星を輝かし鎧の袖を連ねて、錦繍しける地の如し。峯高うして道細く、山嶮しうして苔滑らかなり。されば幾十万騎の勢にて攻むるとも、たやすく落とすべしとは見えざりけり。
 同じき十八日の卯の刻より、両陣互に矢合はせして、入れ替へ入れ替へ攻め戦ふ。官軍は、もの馴れたる案内者どもなれば、ここのつまり、かしこの難所に走り散つて、攻め合はせ開き合はせ散々に射る。寄せ手は、死生知らず{*1}の坂東武士なれば、親子討たるれども顧みず、主従滅ぶれども物の数ともせず、乗り越え乗り越え攻め近づく。夜昼七日が間、息をもつがず相戦ふに、城中の勢三百余人討たれければ、寄せ手も八百余人討たれにけり。況んや矢に当たり石に打たれ、生死の際を知らざる者は、幾千万と云ふ数を知らず。血は草芥を染め、骸は路径に横たはれり。されども城の体、少しも弱らねば、寄せ手の兵、多くは退屈してぞ見えたりける。
 ここに、この山の案内者とて一方へ向けられたりける吉野の執行岩菊丸、己が手の者を呼び寄せて申しけるは、「東條の大将金沢右馬助殿は、既に赤坂の城を攻め落として金剛山へ向かはれたりと聞こゆ。当山の事、我等案内者たるに依つて、一方を承つて向ひたるかひもなく、攻め落とさで数日を送る事こそ遺恨なれ。つらつら事の様を案ずるに、この城を大手より攻めば、人のみ討たれて落とす事あり難し。推量するに、城の後ろの山金峯山には、嶮しきを憑んで、敵、さまで勢を置きたる事あらじとおぼゆるぞ。物馴れたらんずる足軽の兵百五十人すぐつてかち立ちになし、夜に紛れて金峯山より忍び入り、愛染宝塔の上にて、夜のほのぼのと明けはてん時、鬨の声を揚げよ。城の兵、鬨の声に驚いて度を失はん時、大手搦手三方より攻め上つて城を追ひ落とし、宮{*2}を生け捕り奉るべし。」とぞ下知しける。
 さらばとて、案内知りたる兵百五十人をすぐて、その日の暮程より金峯山へ廻して、岩を伝ひ谷を上るに、案の如く山の嶮しきを憑みけるにや、唯ここかしこの梢に旗ばかりを結ひ付け置きて、防ぐべき兵一人もなし。百余人の兵ども、思ひのままに忍び入つて、木の下、岩の蔭に弓箭を伏せて、兜を枕にして夜の明くるをぞ待ちたりける。合図のころにもなりにければ、大手五万余騎、三方より押し寄せて攻め上る。吉野の大衆五百余人、攻め口におり合つて防ぎ戦ふ。寄せ手も城の内も、互に命を惜しまず追ひ上せ追ひ下し、火を散らしてぞ戦ひたる。かかる処に、金峯山より廻りたる搦手の兵百五十人、愛染宝塔よりおり下つて、在々所々に火をかけて、鬨の声をぞ揚げたりける。吉野の大衆、前後の敵を防ぎかねて、或いは自ら腹を掻き切つて、猛火の中へ走り入つて死ぬるもあり、或いは向ふ敵に引つ組んで、刺し違へて共に死ぬるもあり、思ひ思ひに討死をしける程に、大手の堀一重は、死人に埋まりて平地になる。
 さる程に、搦手の兵、思ひも寄らず勝手の明神の前より押し寄せて、宮の御座ありける蔵王堂へ打つて懸かりける間、大塔宮、今は遁れぬ処なりと思し召し切つて、赤地の錦の鎧直垂に、緋縅の鎧の、まだ巳の刻なるを、透間もなくめされ、竜頭の兜の緒をしめ、三尺五寸の小長刀を脇にさし挟み、劣らぬ兵二十余人、前後左右に立ち、敵の群がつて控へたる中へ走りかかり、東西を払ひ南北へ追ひ廻し、黒煙を立つて切つて廻らせ給ふに、寄せ手、大勢なりといへども、僅かの小勢に切り立てられ、木の葉の風に散るが如く、四方の谷へ颯とひく。敵引けば、宮は、蔵王堂の大庭に並み居させ給ひて、大幕打ち揚げて{*3}最後の御酒宴あり。
 宮の御鎧に立つ所の矢七筋、御頬先、二の御うで、二箇所つかれさせ給ひて、血の流るる事滝の如し。然れども、立ちたる矢をも抜き給はず、流るる血をも拭ひ給はず、敷皮の上に立ちながら、大杯を三度傾けさせ給へば、木寺相模、四尺三寸の太刀の鋒に敵の首をさし貫いて、宮の御前に畏まり、「戈鋋剣戟を降らす事、電光の如くなり。磐石岩を飛ばす事、春の雨に相同じ。然りとはいへども、天帝の身には近づかで、修羅、かれがために破らる。」と、はやしを揚げて舞ひたる有様は、漢楚の鴻門に会せし時、楚の項伯と項荘とが剣を抜いて舞ひしに、樊噲、庭に立ちながら、帷幕をかかげて項王を睨みし勢ひも、かくやとおぼゆるばかりなり。
 大手の合戦、急なりとおぼえて、敵御方の鬨の声、相交じはりて聞こえけるが、実にもその戦ひに自ら相当たる事多かりけりと見えて、村上彦四郎義光、鎧に立つ処の矢十六筋、枯野に残る冬草の、風に伏したる如くに折り懸けて、宮の御前に参つて申しけるは、「大手の一の木戸、云ふがひなく攻め破られつる間、二の木戸に支へて数刻相戦ひ候ひつる処に、御所中の御酒宴の声、すさまじく聞こえ候ひつるについて参つて候。敵、既にかさに取り上げて{*4}、御方の気の疲れ候ひぬれば、この城にて功を立てん事、今は叶はじとおぼえ候。未だ敵の勢の余所へ廻し候はぬ前に、一方より打ち破つて、一先づ落ちて御覧あるべしと存じ候。但し、跡に残り留まつて戦ふ兵なくば、御所{*5}の落ちさせ給ふものなりと心得て、敵、いづくまでも続きて追つ懸け参らせんとおぼえ候へば、恐れある事にて候へども、召されて候錦の御鎧直垂と御物具とを下し給ひて、御諱の字を冒して敵を欺き、御命に代はり参らせ候はん。」と申しければ、宮、「いかでかさる事あるべき。死なば一所にてこそ、ともかくもならめ。」と仰せられけるを、義光、詞を荒らかにして、「かかる浅ましき御事や候。
 「漢の高祖、滎陽に囲まれし時、紀信、高祖の真似をして楚を欺かんと乞ひしをば、高祖、これを許し給ひ候はずや。これ程にいふがひなき御所存にて、天下の大事を思し召し立ちける事こそうたてけれ。はやその御物具を脱がせ給ひ候へ。」と申して、御鎧の上帯を解き奉れば、宮、げにもとや思し召しけん、御物具鎧直垂まで脱ぎ替へさせ給ひて、「我、もし生きたらば、汝が後生を弔ふべし。共に敵の手にかからば、冥途までも同じちまたに伴ふべし。」とおほせられて、御涙を流させたまひながら、勝手の明神の御前を南へ向つて落ちさせたまへば、義光は、二の木戸の高櫓にのぼり、遥かに見送り奉りて、宮の御後ろ影の幽かに隔たらせたまひぬるを見て、今はかう{*6}と思ひければ、櫓のさまの板を切り落として{*7}、身をあらはにして、大音声を揚げて名のりけるは、「天照大神御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇第二皇子、一品兵部卿親王尊仁、逆臣のために亡ぼされ、恨みを泉下に報ぜんために、唯今自害する有様見置きて、汝等が武運、忽ちに尽きて、腹を切らんずる時の手本にせよ。」と云ふままに、鎧を脱いで櫓より下へ投げ落とし、錦の鎧直垂の袴ばかりに、練貫の二つ小袖を押し肌脱いで、白く清げなるはだへに刀をつき立て、左の脇より右のそば腹まで一文字に掻き切つて、腸掴んで櫓の板になげつけ、太刀を口にくわへて、うつぶしに成つてぞ伏したりける。
 大手、搦手の寄せ手、これを見て、「すはや、大塔宮の御自害あるは。我先に御首を賜はらん。」とて、四方の囲みを解いて一所に集まる。その間に宮は、引き違へて天の河へぞ落ちさせ給ひける。
 南より廻りける吉野の執行が勢五百余騎、多年の案内者{*8}なれば、道を横切りかさにまはりて、討ち留め奉らんと取り篭むる。村上彦四郎義光が子息兵衛蔵人義隆は、父が自害しつる時、共に腹を切らんと、二の木戸の櫓の下まで馳せ来りたりけるを、父、大きに諌めて、「父子の義は、さることなれども、暫く生きて宮の御先途を見はて参らせよ。」と庭訓を残しければ力なく、暫くの命を延べて、宮の御供にぞ候ひける。
 落ち行く道の軍、事既に急にして、討死せずば、宮落ち得させ給はじとおぼえければ、義隆、唯一人踏み留まつて、追つてかかる敵の馬の諸膝薙いでは切りすゑ、平頚切つては刎ね落とさせ、つづら折りなる細道に五百余騎の敵を相受けて、半時ばかりぞ支へたる。義隆、節、石の如くなりといへども、その身金鉄ならざれば、敵の取り巻きて射ける矢に、義隆、既に十余箇所の創を被りてけり。死ぬるまでもなほ敵の手にかからじとや思ひけん、小竹の一叢ありける中へ走り入つて、腹掻き切つて死にけり。
 村上父子が敵を防ぎ、討死しけるその間に、宮は虎口に死を御遁れ有つて、高野山へぞ落ちさせ給ひける。出羽入道道蘊は、村上が宮の御真似をして腹を切つたりつるを、真実と心得て、その首を取つて京都へ上せ、六波羅の実検にさらすに、「ありもあらぬ者の首なり。」と申しける間、獄門にかくるまでもなくて、九原の苔にうづもれにけり{*9}。道蘊は、吉野の城を攻め落としたるは専一の忠戦なれども、大塔宮を討ち漏らし奉りぬれば、猶安からず思ひて、やがて高野山へ押し寄せ、大塔に陣を取つて、宮の御在所を尋ね求めけれども、一山の衆徒、皆心を合はせて宮を隠し奉りければ、数日の粉骨、かひもなくて、千剣破城へぞ向ひける。

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校訂者注
 1:底本は、「死生不知(ししやうふち)」。
 2:底本頭注に、「大塔宮護良親王。」とある。
 3:底本頭注に、「大幕を引いて。引くといふ言を忌みて揚ぐといふ語を用ゐた。」とある。
 4:底本頭注に、「勢に乗じて。」とある。
 5:底本頭注に、「大塔宮。」とある。
 6:底本頭注に、「今はこれまで。」とある。
 7:底本は、「切り落(おと)し、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 8:底本頭注に、「多年居て地理に委しき者。」とある。
 9:底本は、「九原(きうげん)の苔(こけ)にうづもれけり。」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。底本頭注に、「〇九原 晋の郷大夫の墓に在る地名。後単に墓の意とす。」とある。