千剣破の城軍の事
千剣破城の寄せ手は、前の勢八十万騎に又、赤坂の勢、吉野の勢馳せ加はつて、百万騎に余りければ、城の四方二、三里が間は、見物相撲の場の如く打ち囲んで、尺寸の地{*1}をも余さず充ち満ちたり。旌旗の風に翻つて靡く気色は、秋の野の尾花が末よりも繁く、剣戟の日に映じて輝きける有様は、暁の霜の枯草に敷けるが如くなり。大軍の近づく処には、山勢これがために動き、鬨の声の震ふ中には、坤軸須臾に砕けたり。この勢にも恐れずして、僅かに千人に足らぬ小勢にて、誰を憑み何をか待つともなきに、城中にこらへて防ぎ戦ひける楠が心の程こそ不敵なれ。
この城、東西は谷深く切れて、人の上るべきやうもなし。南北は金剛山に続きて、しかも峯そばだちたり。されども高さ二町ばかりにて、廻り一里に足らぬ小城なれば、何程の事かあるべきと、寄せ手、これを見侮つて、初め一両日の程は向ひ陣をも取らず、攻め支度をも用意せず、我先にと城の木戸口{*2}の辺まで、かづきつれてぞ上りたりける。城中の者ども、少しも騒がず静まりかへつて、高櫓の上より大石を投げ懸け投げ懸け、楯の板を微塵に打ち砕いて、漂ふ処{*3}を差しつめ差しつめ射ける間、四方の坂より転び落ち、落ち重なつて手を負ひ死を致す者、一日が中に五、六千人に及べり。長崎四郎左衛門尉、軍奉行にてありければ、手負、死人の実検をしけるに、執筆十二人、夜昼三日が間、筆をも置かず註せり。さてこそ、「今より後は、大将の御許しなくして合戦したらんずる輩をば、かへつて罪科に行はるべし。」と触れられければ、軍勢、暫く軍を止めて、先づ己が陣々をぞ構へける。
ここに赤坂の大将金沢右馬助、大仏奥州に向つて宣ひけるは、「前日、赤坂を攻め落としつる事、全く士卒の高名にあらず。城中の構へを推し出だして、水を留めて候ひしに依つて、敵、程なく降参仕り候ひき。これを以てこの城を見候に、これ程僅かなる山の巓に、用水あるべしともおぼえ候はず。又、あげ水なんどをよその山よりかくべき便りも候はぬに、城中に水、沢山に有りげに見ゆるは、いかさま、東の山の麓に流れたる渓水を、夜々に汲むかとおぼえて候。あはれ、宗徒の人人一両人に仰せ付けられて、この水を汲ませぬやうに{*4}御計らひ候へかし。」と申されければ、両大将、「この議、然るべく{*5}おぼえ候。」とて、名越越前守を大将として、その勢三千余騎をさし分けて、水の辺に陣を取らせ、城より人降りくだりぬべき道々に、逆茂木を引きてぞ待ちかけける。
楠は、元より勇気智謀相兼ねたる者なりければ、この城を拵へける初め、用水の便りを見るに、五所の秘水とて、峯通る山伏の秘して汲む水、この峯に有つて、滴る事、一夜に五斛{*6}ばかりなり。この水、いかなる旱りにもひる事なければ、形の如く人の口中を潤さん事、相違あるまじけれども、合戦の最中は、或いは火矢を消さんため、又喉の乾く事繁ければ、この水ばかりにては不足なるべしとて、大きなる木を以て、水舟を二、三百打たせて、水を湛へ置きたり。又、数百箇所作り双べたる役所の軒に継ぎ樋を懸けて、雨降れば、雨垂を少しも余さず舟に受け入れ、舟の底に赤土を沈めて、水の性を損ぜぬやうにぞ拵へける。この水を以て、たとひ五、六十日雨降らずともこらへつべし。その中に又、などかは雨降ることなからんと了簡しける、智慮の程こそ浅からね。
されば、城よりはあながちにこの谷水を汲まんともせざりけるを、水ふせぎける兵ども、夜毎に機をつめて、今や今やと待ちかけけるが、始めの程こそありけれ{*7}、後には次第次第に心怠り機緩まつて、「この水をば汲まざりけるぞ。」とて、用心の体、少し無沙汰にぞなりにける。楠、これを見すまして、究竟の射手を揃へて二、三百人、夜に紛れて城よりおろし、まだ東雲の明けはてぬ霞隠れより押し寄せ、水辺に詰めて居たる者ども二十余人斬り伏せて、すきまもなく切つてかかりける間、名越越前守、こらへかねて、元の陣へぞ引かれける。寄せ手数万の軍勢、これを見て、渡り合はせんと{*8}ひしめけども、谷を隔て尾を隔てたる道なれば、たやすく馳せ合はする兵もなし。とかくしけるその間に、捨て置きたる旗、大幕なんど取り持たせて、楠が勢、閑かに城中へぞ引き入りける。
その翌日、城の大手に三本傘の紋書きたる旗と、同じき紋の幕とを引きて、「これこそ皆、名越殿より賜はつて候ひつる御旗にて候へば、御紋附きて候間、他人のためには無用に候。御内の人々、これへ御入り候ひて、召され候へかし。」と云つて、同音にどつと笑ひければ、天下の武士どもこれを見て、「あはれ、名越殿の不覚や。」と、口々に云はぬ者こそなかりけれ。名越一家の人々、この事を聞いて、安からぬ事に思はれければ、「当手の軍勢ども、一人も残らず城の木戸を枕にして、討死をせよ。」とぞ下知せられける。これに依つて彼の手の兵五千余人、思ひ切つて、討てども射れども用ゐず、乗り越え乗り越え城の逆茂木ひとへ引き破つて、切り岸の下までぞ攻めたりける。されども、岸高うして切り立つたれば、やたけに{*9}思へども、昇り得ず。唯いたづらに城を睨み、怒りを抑へて息つき居たり。
この時、城の中より、切り岸の上に横たへて置きたる大木十ばかり切つて落としかけたりける間、将棋倒しをする如く、寄せ手四、五百人、圧しに打たれて死にけり。これにちがはんと、しどろに成つて{*10}騒ぐ処を、十方の櫓より差し落とし、思ふやうに射ける間、五千余人の兵ども、残りすくなに討たれて、その日の軍は果てにけり。誠に志の程は猛けれども、唯仕出だしたる事もなくて、若干討たれにければ、「あはれ、恥の上の損かな。」と、諸人、口ずさみは猶止まず。尋常ならぬ合戦の体を見て、寄せ手も侮りにくくや思ひけん、今は始めのやうに、勇み進んで攻めんとする者もなかりけり。
長崎四郎左衛門尉、この有様を見て、「この城を力攻めにすることは、人の討たるるばかりにて、その功成りがたし。ただ取り巻いて食攻めにせよ。」と下知して、軍を止められければ、徒然に皆堪へかねて、花の下の連歌師{*11}どもを呼び下し、一万句の連歌をぞ始めたりける。その初日の発句をば、長崎九郎左衛門尉師宗、
さきがけてかつ色みせよ山桜
としたりけるを、脇の句、工藤二郎右衛門尉、
嵐や花のかたきなるらむ
とぞ附けたりける。誠に両句ともに、詞の縁巧みにして、句の体は優なれども、御方をば花になし、敵を嵐に喩へければ、禁忌なりける表爾かな{*12}と、後にぞ思ひ知られける。
大将の下知に随ひて、軍勢皆、軍を止めければ、慰む方やなかりけん、或いは碁、双六を打ちて日を過ごし、或いは百服茶、褒貶の歌合なんどを翫んで夜を明かす。これにこそ城中の兵は、中々悩まされたる心地して、心を遣る方もなかりける。
少し程経て後、正成、「いで、さらば、又寄せ手をたばかりて居眠りさまさん。」とて、芥を以て人たけに人形を二、三十作つて、甲冑をきせ兵仗を持たせて、夜中に城の麓に立て置き、前に畳楯をつき双べ、その後ろにすぐりたる兵五百人を交じへて、夜のほのぼのと明けける霧の下より、同時に鬨をどつと作る。四方の寄せ手、鬨の声を聞いて、「すはや、城の中より打ち出でたるは。これこそ敵の運の尽くる処の死に狂ひよ。」とて、我先にとぞ攻め合はせける。城の兵、かねて巧みたる事なれば、矢軍ちとする様にして、大勢相近づけて、人形ばかりを木隠れに残し置いて、兵は皆、次第次第に城の上へ引き上る。寄せ手、人形を実の兵ぞと心得て、これを討たんと相集まる。正成、所存の如く敵をたばかり寄せて、大石を四、五十、一度にばつと放す。一所に集まりたる敵三百余人、矢庭に打ち殺され、半死半生の者五百余人に及べり。軍はててこれを見れば、あはれ、大剛の者かなとおぼえて、一足も引かざりつる兵皆、人にはあらで、藁にて作れる人形なり。これを討たんと相集まりて、石に打たれ矢に当たつて死せるも高名ならず。又、これを危ぶみて進み得ざりつるも、臆病の程顕はれていふかひなし。唯とにもかくにも万人の物笑ひとぞなりにける。
これより後は、いよいよ合戦を止めける間、諸国の軍勢、ただいたづらに城を目守り上げて居たるばかりにて、する業一つもなかりけり。ここに如何なる者か詠みたりけん、一首の古歌を翻案して、大将の陣の前にぞ立てたりける。
よそにのみ見てややみなむ葛城のたかまの山の峯のくすの木
軍もなくて、そぞろに向ひ居たるつれづれに、諸大将の陣々へ、江口、神崎の傾城どもを呼び寄せて、様々の遊びをぞせられける{*13}。名越遠江入道と同兵庫助とは、伯叔甥にておはしけるが、共に一方の大将にて、攻め口近く陣を取り、役所を双べてぞおはしける。ある時、遊君の前にて双六を打たれけるが、賽の目を論じて、いささか詞の違ひけるにや、伯叔甥二人、突き違へてぞ死なれける。両人の郎従ども、何の意趣もなきに、刺し違へ刺し違へ、片時が間に{*14}死ぬる者、二百余人に及べり。城の中よりこれを見て、「十善の君に仇を{*15}なし奉る天罰に依つて、自滅する人々の有様見よ{*16}。」とぞ笑ひける。誠にこれ、只事にあらず。天魔波旬の所行かとおぼえて、浅ましかりし珍事なり。
同じき三月四日、関東より飛脚到来して、「軍を止めて、いたづらに日を送る事、然るべからず。」と下知せられければ、宗徒の大将達、評定有つて、御方の向ひ陣と敵の城との間に、高く切り立てたる堀に橋を渡して、城へ打ち入らんとぞ巧まれける。これがために京都より番匠を五百余人召し下し、五、六、八、九寸の材木を集めて、広さ一丈五尺、長さ二十丈余に架け橋をぞ作らせける。架け橋、既に作り出だしければ、大綱を二、三千筋附けて、車を以て巻き立て、城の切り岸の上へぞ倒し懸けたりける。魯般が雲の架け橋も、かくやとおぼえて巧みなり。やがて、はやりをの兵ども五、六千人、橋の上を渡り、我先にと進みたり。
あはや、この城、唯今打ち落されぬと見えたるところに、楠、かねて用意やしたりけん、投げ松明のさきに火をつけて、橋の上に薪を積めるが如くに投げ集めて、水弾きを以て油を滝の流るるやうにかけたりける間{*17}、火、橋桁に燃え附いて、渓風、炎を吹き敷いたり。なまじひに渡りかかりたる兵ども、前へ進まんとすれば、猛火、盛んに燃えて身を焦がす。帰らんとすれば、後陣の大勢、前の難儀をも云はず支へたり。側へ飛びおりんとすれば、谷深く巌そびえて肝を冷し、如何せんと身を揉みて押しあふ程に、橋桁、中より燃え折れて、谷底へどうと落ちければ、数千の兵、同時に猛火の中へ落ち重なつて、一人も残らず焼け死にけり。その有様、ひとへに八大地獄の罪人の刀山剣樹につらぬかれ、猛火鉄湯に身を焦がすらんも、かくやと思ひ知られたり。
さる程に、吉野、戸津河、宇多、内郡の野伏ども、大塔宮の命を含んで相集まること七千余人、ここの峯、かしこの谷に立ち隠れて、千剣破の寄せ手どもの往来の路を差し塞ぐ。これに依つて、諸国の兵の兵粮、忽ちに尽きて、人馬共に疲れければ、転漕{*18}に怺へかねて、百騎、二百騎引いて帰る処を、案内者の野伏ども、所々のつまりづまりに待ち受けて討ち留めける間、日々夜々に討たるる者、数を知らず。希有にして命ばかりを助かる者は、馬、物具を捨て、衣裳を剥ぎ取られて裸なれば、或いはやぶれたる蓑を身に纏ひてはだへばかりを隠し、或いは草の葉を腰に巻きて恥をあらはせる落人ども、毎日に引きも切らず十方へ逃げ散る。前代未聞の恥辱なり。されば、日本国の武士どもの重代したる物具、太刀、刀は、皆この時に至つて失せにけり。
名越遠江入道、同兵庫助二人、詮なき口論して、共に死に給ひぬ。その外の軍勢ども、親は討たるれば、子は髻を切つてうせ、主、疵を被れば、郎従助けて引きかへす間、始めは八十万騎と聞こえしかども、今は僅かに十万余騎になりにけり。
校訂者注
1:底本は、「尺寸をも余さず」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
2:底本は、「木戸の辺(へん)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
3:底本は、「漂(ただよ)ふ処」。底本頭注に、「動揺する処。」とある。
4:底本は、「汲まぬやうに」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
5:底本は、「然るべしと覚(おぼ)え候。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
6:底本は、「五斛(こく)」。底本頭注に、「五石に同じ。」とある。
7:底本は、「始めの程こそあれ、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
8:底本は、「渡り合(あ)はんと」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
9:底本頭注に、「弥猛に。いよいよ勇み猛つて。」とある。
10:底本頭注に、「〇これにちがはん 之れを避けよう。」「〇しどろ 不規律。」とある。
11:底本は、「花下(はなのもと)の連歌師(れんかし)」。底本頭注に、「花下は連歌師の団体の号か。」とある。
12:底本は、「禁忌(きんき)なりける表爾(へうじ)」。底本頭注に、「〇禁忌 いまはしいこと。」「〇表爾 表現。」とある。
13:底本は、「遊びをさせられける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
14:底本は、「片時(へんじ)が程に」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
15:底本は、「十善(じふぜん)の君に敵(あた)を」。底本頭注に、「〇十善の君 天皇。」とある。
16:底本は、「有様(ありさま)を見よ。」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
17:底本は、「かけたる間、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
18:底本は、「転漕(てんそう)」。底本頭注に、「水陸の運送。」とある。
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