新田義貞に綸旨を賜ふ事

 上野国の住人新田小太郎義貞と申すは、八幡太郎義家十七代の後胤、源家嫡流の名家なり。然れども、平氏世を執つて、四海皆その威に服する折節なれば力なく、関東の催促に随つて、金剛山の搦手にぞ向はれける。ここに、如何なる所存か出で来にけん、或る時、執事船田入道義昌を近づけて宣ひけるは、「古より、源平両家、朝家に仕へて、平氏世を乱る時は、源家これを鎮め、源氏上を侵す日は、平家これを治む。義貞、不肖なりといへども、当家の門楣{*1}として、譜代弓箭の名をけがせり。然るに今、相模入道{*2}の行跡を見るに、滅亡遠きにあらず。我、本国に帰つて義兵を挙げ、先朝{*3}の宸襟を休め奉らんと存ずるが、勅命を蒙らでは叶ふまじ。如何にして大塔宮の令旨を賜はつて、この素懐を達すべき。」と問ひ給ひければ、船田入道、畏まつて、「大塔宮は、この辺の山中に忍びて御座候なれば、義昌、方便を廻らして、急いで令旨を申し出だし候べし。」と、事易げに領掌申して、己が役所へぞ帰りける。
 その翌日、船田、己が若党を三十余人、野伏の姿に出で立たせて、夜中に葛城の峯へ上せ、我が身は落ち行く勢の真似をして、朝まだきの霧隠れに、追つつ返しつ半時ばかり、同士軍をぞしたりける。宇多、内郡の野伏ども、これを見て、御方の野伏ぞと心得、力を合はせんために{*4}、余所の峯よりおり合ひて近づきたりける処を、船田が勢の中に取り篭めて、十一人まで生け捕りてけり。船田、この生け捕りどもを解き赦して、ひそかに申しけるは、「今、汝等をたばかり搦め取りたる事、全く誅せんためにあらず。新田殿、本国へ帰つて御旗を挙げんとし給ふが、令旨なくては叶ふまじければ、汝等に大塔宮の御座所を尋ね問はんために、召し捕りつるなり。命惜しくば案内者して、こなたの使をつれて、宮の御座あんなる所へ参れ。」と申しければ、野伏ども、大きに悦びて、「その御意にて候はば、いと安かるべきことにて候。この中に一人、暫しの暇を給はり候へ。令旨を申し出だして参らせ候はん。」と申して、残り十人をば留め置き、一人、宮の御方へとてぞ参りける。
 今や今やと相待つ処に、一日ありて、令旨を捧げて来れり。開いてこれを見るに、令旨にはあらで、綸旨の文章に書かれたり。その詞に曰く、
  {*k}綸言を被つて称く、化を敷き万国を理むるは明君の徳なり。乱を撥め四海を鎮むるは武臣の節なり。頃年の際、高時法師が一類、朝憲を蔑如して恣に逆威を振ふ。積悪の至り、天誅已に顕はる。爰に累年の宸襟を休めんが為に、将に一挙の義兵を起さん。叡感尤も深し。抽賞何ぞ浅からん。早く関東征罰の策を巡らし天下静謐の功を致すべし。てへれば綸旨此の如し。仍て執達件の如し。
    元弘三年二月十一日  左少将
  新田小太郎殿{*k}
 綸旨の文章、家の眉目に備へつべき綸言なれば、義貞、なのめならず悦びて、その翌日より虚病して、急ぎ本国へぞ下られける。宗徒の軍をもしつべき勢どもは、とにかくに事を寄せて、国々へ帰りぬ。
 兵粮運送の道絶えて、千剣破の寄せ手、以ての外に気を失へる由聞こえければ、又、六波羅より宇都宮をぞ下されける。紀清両党千余騎、寄せ手に加はりて、未だ気を屈せざる新手なれば、やがて城の堀の際まで攻め上りて、夜昼少しも引き退かず、十余日までぞ攻めたりける。この時にぞ、塀の際なる鹿垣、逆茂木、皆引き破られて、城も少し防ぎかねたる体にぞ見えたりける。
 されども、紀清両党の者とても、斑足王の身をもからざれば、天をも翔り難し。竜伯公が力を得ざれば、山をもつんざき難し。あまりにせんかたやなかりけん、面なる兵には軍をさせて、後ろなる者は、手に手に鋤鍬を以て山を掘り倒さんとぞ企てける。実にも、大手の櫓をば、夜昼三日が間に念なく掘り崩してけり。諸人、これを見て、「唯始めより軍を止めて掘るべかりけるものを。」と後悔して、我も我もと掘りけれども、周り一里に余れる大山なれば、左右なく掘り倒さるべしとは見えざりけり。

赤松蜂起の事

 さる程に、楠が城強くして、京都は無勢なりと聞こえしかば、赤松二郎入道円心、播磨国苔縄城より討つて出で、山陽、山陰の両道を差し塞ぎ、山里、梨原の間に陣をとる。
 ここに、備前、備中、備後、安芸、周防の勢ども、六波羅の催促に依つて上洛しけるが、三石の宿に打ち集まりて、山里の勢を追ひ払うて通らんとしけるを、赤松筑前守{*5}、舟坂山に支へて、宗徒の敵二十余人を生け捕りてけり。然れども、赤松、これを討たせずして、情深く相交じはりける間、伊東大和二郎{*6}、その恩を感じて、忽ちに武家与力の志を変じて、官軍合体の思ひをなしければ、先づ己が館の上なる三石山に城郭を構へ、やがて熊山へ取り上りて義兵を揚げたるに、備前の守護加治源二郎左衛門、一戦に利を失うて、児島を指して落ちて行く。これより西国の路、いよいよ塞がつて、中国の動乱、なのめならず。
 西国より上洛する勢をば、伊東にささへさせて、後ろは思ひもなかりければ、赤松、やがて高田兵庫助が城を攻め落として、片時も足を休めず、山陽道を指して攻め上る。路次の軍勢、馳せ加はつて、ほどなく七千余騎になりにけり。この勢にて六波羅を攻め落とさんことは、案の内なれども、もし戦ひ利を失ふことあらば、引き退いて、暫く人馬をも休めんために、兵庫の北に当つて、摩耶と云ふ山寺のありけるに先づ城郭を構へて、敵を二十里が間に縮めたり。

河野謀叛の事

 六波羅には、一方の討手にはと憑まれける宇都宮は、千剣破の城へ向ひつ。西国の勢は、伊東に支へられて上り得ず。今は、四国の勢を摩耶の城へは向くべしと、評定せられける処に、後の二月四日、伊予の国より早馬を立てて、「土居二郎、得能弥三郎、宮方になつて旗をあげ、当国の勢を相附けて、土佐国へ打ち越ゆるところに、去月十二日、長門の探題上野介時直、兵船三百余艘にて当国へ押し渡り、星岡にして合戦を致す処に、長門、周防の勢、一戦に打ち負けて、手負、死人、その数を知らず。あまつさへ、時直父子、行方を知らず、云々。それより後、四国の勢、悉く土居、得能に属する間、その勢、已に六千余騎。宇多津、今張の湊に船をそろへ、唯今攻め上らんと企て候なり。御用心有るべし。」とぞ告げたりける。

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校訂者注
 1:底本は、「門楣(もんび)」。底本頭注に、「楣は門の横梁。門楣は主だつたもの。」とある。
 2:底本頭注に、「高時。」とある。
 3:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 4:底本は、「合はせん為」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 5:底本頭注に、「貞範。円心の子。」とある。
 6:底本頭注に、「惟群。」とある。
 k:底本、この間は漢文。