巻第八
摩耶合戦の事 附 酒部瀬河合戦の事
先帝{*1}、已に船上に著御成つて、隠岐判官清高、合戦に打ち負けし後、近国の武士どもみな馳せ参るよし、出雲伯耆の早馬、しきなみに打つて六波羅へ告げたりければ、「事、已に珍事に及びぬ{*2}。」と、聞く人、色を失へり。これについても、「京近き所に敵の足をためさせては叶ふまじ。先づ摂津国摩耶の城へ押し寄せて、赤松を退治すべし。」とて、佐々木判官時信、常陸前司時知に、四十八箇所の篝{*3}、在京人並びに三井寺法師三百余人を相副へて、以上五千余騎を摩耶の城へぞ向けられける。その勢、閏二月五日、京都を立つて、同じき十一日の卯の刻に、摩耶の城の南の麓、求塚、八幡林よりぞ寄せたりける。
赤松入道、これを見て、わざと敵を難所におびき寄せんために、足軽の射手一、二百人を麓へ下して、遠矢少々射させて城へ引き上りけるを、寄せ手、勝つに乗つて五千余騎、さしも嶮しき南の坂を、人馬に息も継がせず、揉みに揉うでぞあげたりける。この山へ上るに、七曲りとて、嶮しく細き路あり。この所に至りて、寄せ手、少し上りかねて支へたりける所を、赤松律師則祐、飽間九郎左衛門尉光泰二人、南の尾崎へ下り降つて、矢種を惜しまず散々に射ける間、寄せ手、少し射しらまかされて、互に人を楯になしてその蔭に隠れんと、色めき{*4}ける気色を見て、赤松入道子息信濃守範資、筑前守貞範、佐用、上月、小寺、頓宮の一党五百余人、鋒を双べて、大山の崩るるが如く二の尾より討つて出でたりける間、寄せ手、跡より引つ立つて、「返せ。」と云ひけれども、耳にも聞き入れず、我先にと引きけり。その道、或いは深田にして、馬の蹄、膝を過ぎ、或いは荊棘生ひ繁つて、行く先いよいよ狭ければ、返さんとするも叶はず、防がんとするも便りなし。されば、城の麓より武庫河の西の縁まで道三里が間、人馬、いやが上に重なり死んで、行人、路を去りあへず。
向ふ時、七千余騎と聞こえし六波羅の勢、僅かに千騎にだにも足らで引き返しければ、京中、六波羅の周章なのめならず。然りといへども、敵、近国より起こつて、附き従ひたる勢、さまで多しとも聞こえねば、たとひ一度二度、勝つに乗る事ありとも、何程の事かあるべきと、敵の分限を推し量つて、引くとも機をば失はず。かかる所に、備前国の地頭御家人も、大略敵になりぬと聞こえければ、「摩耶の城へ勢重ならぬ前に、討手を下せ。」とて、同じき二十八日、又一万余騎の勢を差し下さる。赤松入道、これを聞いて、「勝ち軍の利は、謀りごと不意に出で、大敵の気を凌いで、須臾に変化して先んずるにはしかじ。」とて、三千余騎を率し、摩耶の城を出でて、久々知、酒部に陣を取つて待ちかけたり。
三月十日、六波羅勢、既に瀬河に著きぬと聞こえければ、合戦は明日にてぞあらんずらんとて、赤松、少し油断して、一村雨の過ぎける程、物具の露をほさんと、僅かなる在家にこみ入つて、雨の晴れ間を待ちける所に、尼崎より船を留めて上がりける阿波の小笠原、三千余騎にて押し寄せたり。赤松、僅かに五十余騎にて大勢の中へかけ入り、面も振らず戦ひけるが、大敵、凌ぐに叶はねば、四十七騎は討たれて、父子六騎にこそなりにけれ。六騎の兵、皆笠印をかなぐり捨てて、大勢の中に颯と交じはりて駆け廻りける間、敵、これを知らでやありけん、又、天運の助けにやかかりけん、いづれも恙なくして、御方の勢の昆屋野の宿の西に三千余騎にて控へたるその中へ馳せ入つて、虎口に死を遁れけり。
六波羅勢は、昨日の軍に敵の勇鋭を見るに、小勢なりといへども欺き難し{*5}と思ひければ、瀬河の宿に控へて進み得ず。赤松は、又敗軍の士卒をあつめ、遅れたる勢を待ちそろへんために、かからず。互に陣を隔てて、未だ雌雄を決せず。「丁壮そぞろに軍旅に疲れなば、敵に気を奪はるべし。」とて、同じき十一日、赤松、三千余騎にて敵の陣へ押し寄せて、先づ事の体を伺ひ見るに、瀬河の宿の東西に家々の旗二、三百流れ、梢の風に翻して、その勢二、三万騎もあらんと見えたり。御方をこれに合はせば、百にしてその一、二をも比ぶべし{*6}とは見えねども、戦はで勝つべき道なければ、ひとへに唯討死と志して、筑前守貞範、佐用兵庫助範家、宇野能登守国頼、中山五郎左衛門尉光能、飽間九郎左衛門尉光泰、郎等共に七騎にて、竹の蔭より南の山へ打ち上がつて進み出でたり。
敵、これを見て、楯の端少し動いて、かかるかと見れば、さもあらず。色めきたる気色に見えける間、七騎の人々、馬より飛び下り、竹の一叢繁りたるを木楯に取つて、差し詰め引き詰め散々にぞ射たりける。瀬川の宿の南北三十余町に、沓の子{*7}を打つたるやうに控へたる敵なれば、何かはばづるべき。矢頃近き敵二十五騎、真つさかさまに射落とされければ、矢面なる人を楯にして、馬を射させじとたてかねたり。平野伊勢前司、佐用、上月、田中、小寺、八木、衣笠の若者ども、「すはや、敵は色めきたるは。」と、胡簶を叩き勝ち鬨を作つて、七百余騎、轡を双べてぞ駆けたりける。大軍の靡く癖なれば、六波羅勢、前陣返せども後陣続かず。行く先は狭し、「閑かに引け。」といへども、耳にも聞き入れず{*8}。子は親を捨て、郎等は主を知らで、我先にと落ち行きける程に、その勢、大半討たれて、僅かに京へぞ帰りける。
赤松は、手負生け捕りの頚三百余、宿河原に切り懸けさせて、また摩耶の城へ引き返さんとしけるを、円心が子息帥律師則祐、進み出でて申しけるは、「軍の利は、勝つに乗つて逃ぐるを追ふに如かず。今度、寄せ手の名字を聞くに、京都の勢、数を尽くして向ひて候なる。この勢ども、今四、五日は、長途の負け軍にくたびれて、人馬共に物の用にたつべからず。臆病神の覚めぬ前に続いて攻むるものならば、などか六波羅を一戦のうちに攻め落とさでは候べき。これ、太公が兵書に出でて、子房が心底に秘せし所にて候はずや。」と云ひければ、諸人皆、この議に同じて、その夜やがて宿河原を立つて、路次の在家に火をかけ、その光を松明にして、逃ぐる敵に追つすがうて攻め上りけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
2:底本は、「及ひぬ」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
3:底本は、「篝火(かゞりび)、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
4:底本頭注に、「負け色づき。」とある。
5:底本頭注に、「侮り難い。」とある。
6:底本は、「校(たくら)ぶべし」。底本頭注及び『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「沓の裏に打つた鋲。」とある。
8:底本は、「耳にも入れず、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
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