持明院殿六波羅に行幸の事
日野中納言資名、同左大弁宰相資明、二人同車して内裏へ参り給ひたれば、四門いたづらに開き、警固の武士は一人もなし。主上、南殿に出御成つて{*1}、「誰か候。」と御尋ねあれども、衛府諸司の官、蘭台金馬の司も、いづ地へか行きたりけん、勾当の内侍、上童二人より外は、御前に候する者なかりけり。資名、資明二人、御前に参じて、「官軍、戦ひ弱くして、逆徒、期せざるに洛中におそひ来り候。かやうにて御座候はば、賊徒、差し違へて御所中へも乱入仕り候ひぬとおぼえ候。急ぎ三種の神器を先立てて、六波羅へ行幸成り候へ。」と申されければ、主上、やがて瑤輿に召され、二條河原より六波羅へ臨幸成る。
その後、堀河大納言、三條源大納言、鷲尾中納言、坊城宰相以下、月卿雲客二十余人、路次に参著して供奉し奉りけり。これを聞こし召し及んで、院、法皇、東宮、皇后、梶井の二品親王まで{*2}、皆六波羅へと御幸成る間、供奉の卿相雲客、軍勢の中に交じはりて、警蹕の声頻りなりければ、これさへ六波羅の仰天、一方ならず。俄に六波羅の北の方をあけて、仙院、皇居となす。事の体、騒がしかりし有様なり。
やがて両六波羅は、七條河原に打つ立つて、近づく敵を相まつ。この大勢を見て、敵もさすがにあぐんでや思ひけん、唯ここかしこに走り散つて、火をかけ鬨の声を作るばかりにて、同じ陣に控へたり。両六波羅、これを見て、「いかさま、敵は小勢なりとおぼゆるぞ。向つて追つ散らせ。」とて、隅田、高橋に三千余騎を相副へて、八條口へ差し向けらる。河野九郎左衛門尉、陶山次郎に二千余騎を差し副へて、蓮華王院へ向けられけり。
陶山、河野に向つて云ひけるは、「何ともなき取り集め勢に交じはつて軍をせば、なまじひに足纏ひになつて、懸け引きも自在なるまじ。いざや、六波羅殿より差し副へられたる勢をば八條河原に控へさせて、鬨の声を挙げさせ、我等は手勢を引きすぐつて、蓮華王院の東より敵の中へ駆け入り、蜘手十文字に駆け破り、弓手妻手に相附いて、追物射に射てくれ候はん。」と云ひければ、河野、「最も然るべし。」と同じて、外様の勢二千余騎をば塩小路の道場の前へ差し遣はし、河野が勢三百余騎、陶山が勢百五十余騎{*3}は引き分けて、蓮華王院の東へぞ廻りける。
合図の程にも成りければ、八條河原の勢、鬨の声を揚げたるに、敵、これに立ち合はせんと、馬を西頭に立てて相待つ処に、陶山、河野四百余騎、思ひも寄らぬ後ろより、鬨をどつと作つて大勢の中へかけいり、東西南北に駆け破つて、敵を一所に打ち寄せず、追つ立て追つ立て攻め戦ふ。河野と陶山と、一所に合うては両所に分かれ、両所に分かれては又一所に合ひ、七、八度が程ぞ揉うだりける。長途に疲れたるかち立ちの武者、駿馬の兵にかけ悩まされて、討たるる者その数を知らず。手負を捨てて、道を横切つて、散り散りになつて引き返す。
陶山、河野、逃ぐる敵には目をもかけず、「西七條辺の合戦、何とあらん。心もとなし。」とて、又七條河原を筋かひに西へ打つて、七條大宮に控へ、朱雀の方を見遣りければ、隅田、高橋が三千余騎、高倉左衛門佐、小寺、衣笠が二千余騎にかけ立てられて、馬の足をぞ立てかねたる。河野、これを見て、「かくては、御方討たれぬとおぼゆるぞ。いざや、討つて懸からん。」と云ひけるを、陶山、「暫し。」と制しけり。「その故は、この陣の軍、未だ雌雄決せざる前に、力を合はせて御方を助けたりとも、隅田、高橋が口の憎さは、我が高名にぞ云はんずらん。暫く置いて、事の様を御覧ぜよ。敵、たとひ勝つに乗るとも、何程の事かあるべき。」とて、見物してぞ居たりける。
さる程に、隅田、高橋が大勢、小寺、衣笠が小勢に追つ立てられ、返さんとすれども叶はず。朱雀を上りに内野を指して引くもあり、七條を東へ向つて逃ぐるもあり、馬に離れたるものは、心ならず返し合はせて死ぬるもあり。陶山、これを見て、「余りにながめ居て、御方の弱り、し出だしたらんも由なし。いざや、今は駆け合はせん。」といへば、河野、「仔細にや及ぶ。」と云ふままに、両勢を一手になして大勢の中へかけ入り、時移るまでぞ戦ひたる。四武の衝陣、堅きを砕いて、百戦の勇力、変に応ぜしかば、寄せ手、又この陣の軍にも打ち負けて、寺戸を西に引き返しけり。
筑前守貞範、律師則祐兄弟は、最初に桂川を渡しつるときの合戦に、逃ぐる敵を追つ立てて、後に続く御方のなきをも知らず、唯主従六騎にて、竹田をのぼりに法性寺大路へかけ通り、六條河原へ打ち出でて、六波羅の館へかけ入らんとぞ待ちたりける。東寺より寄せつる御方、はや打ち負けて引き返しけりとおぼえて、東西南北に、敵より外はなし。さらば、しばらく敵に紛れてや御方をまつと、六騎の人々、皆笠印をかなぐり捨てて、一所に控へたるところに、隅田、高橋打ち廻つて、「いかさま、赤松が勢ども、尚御方に紛れてこの中に在りとおぼゆるぞ。河を渡しつる敵なれば、馬物具のぬれぬはあるべからず。それを印にして、組討ちに討て。」と呼ばはりける間、貞範も則祐も、中々敵に紛れんとせば悪しかりぬべしとて、兄弟郎等僅か六騎、轡を双べ、わつと喚いて敵二千騎が中へ駆け入り、ここに名乗り、かしこに紛れて相戦ひけり。
敵、これ程に小勢なるべしとは思ひ寄るべき事ならねば、東西南北にいり乱れて、同士討をする事、数刻なり。大敵を謀るに勢ひ久しからざれば、郎等四騎、皆所々にて討たれぬ。筑前守は、押し隔てられぬ。則祐、只一騎になつて、七條を西へ大宮を下りに落ち行きける所に、印具尾張守が郎等八騎、追つかけて、「敵ながらも優しくおぼえ候ものかな。誰人にておはするぞ。御名のり候へ。」と云ひければ、則祐、馬を閑かに打つて、「身、不肖に候へば{*4}、名のり申すとも御存知あるべからず候。唯首を取つて人に見せられ候へ。」と云ふままに、敵近附けば返し合はせ、敵引けば馬を歩ませ、二十余町が間、敵八騎と打ち連れて、心閑かにぞ落ち行きける。西八條の寺の前を南へ打ち出でければ、信濃守範資三百余騎{*5}、羅城門の前なる水のせぜらぎに馬の足を冷やして、敗軍の兵を集めんと、旗打ち立てて控へたり。則祐、これを見附けて、諸鐙を合はせて馳せ入りければ、追つ懸けつる八騎の敵ども、「善き敵と見つるものを、遂に討ち漏らしぬる事の安からずさよ。」と云ふ声聞こえて、馬の鼻を引き返しける。
暫くあれば、七條河原、西朱雀にて駆け散らされたる兵ども、ここかしこより馳せ集まつて、また千余騎になりにけり。赤松、その兵を東西の小路より進ませ、七條辺にて又鬨の声を揚げたりければ、六波羅勢七千余騎、六條院を後ろに当てて、追つつ返しつ二時ばかりぞ攻め合ひたる。かくては軍の勝負、いつあるべしともおぼえざりける処に、河野と陶山とが勢五百余騎、大宮を下りに打つて出で、後ろを包まんと廻りける勢に後陣を破られて、寄せ手、若干討たれにければ、赤松、僅かの勢に成つて、山崎を指して引き返しけり。河野、陶山、勝つに乗つて、作道の辺まで追つ懸けけるが、赤松、ややもすれば取つて返さんとする勢ひを見て、「軍は、これまでぞ。さのみ長追ひなせそ。」とて、鳥羽殿の前より引き返し、生け捕り二十余人、首七十三取つて、鋒に貫いて、朱に成つて六波羅へ馳せ参る。
主上は、御簾を巻かせて叡覧あり。両六波羅は、敷皮に坐してこれを検知す。「両人の振舞、いつもの事なれども、殊更今夜の合戦に、かたがた手を下し、命を捨て給はずば、叶ふまじとこそ見えて候ひつれ。」と、再三感じて賞翫せらる。その夜、やがて臨時の宣下あつて、河野九郎をば対馬守に成されて御剣を下され、陶山二郎をば備中守に成されて寮の御馬を下されければ、これを見聞く武士、「あはれ、弓矢の面目や。」と、或いは羨み、或いは猜んで、その名、天下に知られたり。
軍散じて翌日に、隅田、高橋、京中を馳せ廻つて、ここかしこの堀溝に倒れ居たる手負死人の首どもを取り集めて、六條河原にかけ並べたるに、その数八百七十三あり{*6}。敵、これまで多く討たれざれども、軍もせぬ六波羅勢ども、「我、高名したり。」と云はんとて、洛中辺土の在家人なんどの首を仮首にして、様々、名を書きつけて出だしたりける首どもなり。その中に、赤松入道円心と札を附けたる首五つあり。いづれも見知りたる人なければ、同じやうにぞかけたりける。京童部、これを見て、「首を借りたる人、利子を附けて返すべし。赤松入道分身して、敵の尽きぬ相なるべし。」と、口々にこそ笑ひけれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇主上 光厳天皇。」「〇南殿 紫宸殿。」とある。
2:底本頭注に、「〇院 後伏見院。」「〇法皇 花園天皇。」「〇東宮 康仁親王。」「〇梶井の二品親王 尊胤親王。」とある。
3:底本は、「百五十騎」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
4:底本は、「自(みづか)ら不肖(ふせう)に候へば、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
5:底本は、「寺の前(まへ)へ打出でければ、信濃(の)守貞範(さだのり)三百余騎、」。『太平記 一』(1977年)に従い補い、頭注に従い改めた。
6:底本は、「八百七十三なり。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
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