禁裏仙洞御修法の事 附 山崎合戦の事

 この頃、四海大きに乱れて、兵火天を掠めり。聖主{*1}扆を負うて春秋安き時なく、武臣矛を建てて旌旗閑かなる日なし。これ、法威を以て逆臣を鎮めずんば、静謐その期有るべからずとて、諸寺諸社に仰せて、大法秘法をぞ修せられける。
 梶井宮は、聖主の連枝、山門の座主にておはしましければ、禁裏に壇を立てて、仏眼の法を行はせ給ふ。裏辻慈什僧正は、仙洞{*2}にて薬師の法を行はる。武家、又山門、南都、園城寺の衆徒の心を取り、霊鑑の加護を仰がんために、所々の荘園を寄進し、種々の神宝を奉つて、祈祷を致されしかども、公家の政道正しからず、武家の積悪禍ひを招きしかば、祈れども、神、非礼を享けず、語らへども人利欲に耽らざるにや、唯日を逐うて、国々より急を告ぐる事、隙なかりけり。
 去る三月十二日の合戦に、赤松、打ち負けて、山崎を指して落ち行きしを、やがて追つ懸けて討手をだに下したらば、敵、足をたむまじかりしを、今は何事かあるべきとて油断せられしに依つて、敗軍の兵、ここかしこより馳せ集まつて、程なく大勢になりければ、赤松、中院中将貞能を取り立てて聖護院宮と号し、山崎、八幡に陣を取り、河尻を差し塞ぎ、西国往反の道を打ち止む。これに依つて洛中の商売止まつて、士卒皆、転漕{*3}の助けに苦しめり。
 両六波羅、これを聞いて、「赤松一人に洛中を悩まされて、今士卒を苦しむる事こそ安からね。去る十二日の合戦の体を見るに、敵、さまで大勢にても無かりけるものを、云ふ甲斐なき聞き懼ぢして、敵を辺境の間に差し置くこそ、武家後代の恥辱なれ。所詮今度に於いては、官軍、遮つて敵陣に押し寄せ、八幡、山崎の両陣を攻め落とし、賊徒を河に追つぱめ、その首を取つて六條河原に曝すべし。」と下知せられければ、四十八箇所の篝、並びに在京人、その勢五千余騎、五條河原に勢ぞろへして、三月十五日の卯の刻に、山崎へとぞ向ひける。
 この勢{*4}、始めは二手に分けたりけるを、久我縄手は路細く深田なれば、馬の駆け引きも自在なるまじとて、八條より一手になり、桂河を渡り、河島の南を経て、物集女、大原野の前よりぞ寄せたりける。赤松、これを聞いて、三千余騎を三手に分かつ。一手には、足軽の射手をすぐつて五百余人、小塩山へ廻す。一手をば、野伏に騎馬の兵を少々交じへて千余人、狐河の辺に控へさす。一手をば、ひたすら打物の衆八百余騎をそろへて、向日明神の後ろなる松原の蔭に隠しおく。
 六波羅勢、敵、これまで出で合ふべし{*5}とは思ひよらず、そぞろに深入りして、寺戸の在家に火をかけて、先駆け、既に向日明神の前を打ち過ぎける処に、義峯、岩蔵の上より、足軽の射手、一枚楯手ん手にひつ提げて、麓におり下つて散々に射る。寄せ手の兵ども、これを見て、馬の鼻を双べてかけ散らさんとすれば、山嶮しうして上り得ず。広みにおびき出だして討たんとすれども、敵、これを心得て、かからず。
 「よしや、人々、はかばかしからぬ野伏どもに目を懸けて、骨を折りては何かせん。ここをば打ちすてて、山崎へ打ち通れ。」と議して、西岡を南へ打ち過ぐる処に、坊城左衛門尉、五十余騎にて、思ひもよらぬ向日明神の小松原よりかけ出でて、大勢の中へ切つて入る。敵を小勢と侮つて、真中にとり篭めて余さじと戦ふ処に、田中、小寺、八木、神沢、ここかしこより百騎、二百騎、思ひ思ひにかけ出でて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まんとす。これを見て、狐河に控へたる勢五百余騎、六波羅勢の後を切らんと、縄手を伝ひ道を横切つて打ち廻るを見て、京勢、叶はじとや思ひけん、捨て鞭を打つて引つ返す。
 片時の戦ひなりければ、京勢、多く討たれたる事はなけれども、堀溝深田に落ち入りて、馬物具、みな取る所もなくよごれたれば、白昼に京中を打ち通るに、見物しける人毎に、「あはれ、さりとも陶山、河野を向けられたらば、これ程にきたなき負けは、せじものを。」と、笑はぬ人もなかりけり。されば、京勢、この度打ち負けて、向はで京に残られたる河野と陶山が手柄の程、いとど名高くなりにけり。

山徒京都に寄する事

 京都に合戦始まりて、官軍、ややもすれば利を失ふ由、その聞こえありしかば、大塔宮より牒使を立てられて、山門の衆徒をぞ語らはれける。
 これに依つて、三月二十六日、一山の衆徒、大講堂の庭に会合して、「それ、吾が山は、七社応化の霊地として、百王鎮護の藩籬となる。高祖大師、開基を占むるの始め、止観の窓の前に天真独朗の夜の月を弄ぶといへども、慈恵僧正、貫頂たるの後、忍辱の衣の上に忽ち魔障降伏の秋の霜{*6}を帯ぶ。しかりしより、妖月天に現はるる時は、則ち法威を振つてこれを払ふ。逆暴、国を乱る時は、則ち神力を借つてこれを退く。かるが故に、神を山王と号す。須らく非三非一の深理{*7}に有るべし。山を比叡と云ふ。仏法王法の相比する所以なり。しかるに今、四海将に乱れて、一人{*8}安からず。武臣積悪の余り、果たして天、将に誅を下さんとす。その先兆、賢愚なきに非ず。共に世の知る所なり。王事、もろきことなし。釈門、たとひ出塵の徒たりといへども、この時、奈何ぞ報国の忠を尽くすことなからんや。早く武家合体の前非を翻して、宜しく朝廷扶危の忠胆を専らにすべし。」と僉議しければ、三千、一同に尤も尤もと同じて、院々谷々へ帰り、則ち武家追討の企ての外、他事なし。
 山門、已に、来る二十八日、六波羅へ寄すべしと定めければ、末寺末社の輩は申すに及ばず、所縁に随つて近国の兵馳せ集まる事、雲霞の如くなり。二十七日、大宮の前にて著到を附けけるに、十万六千余騎と註せり。大衆の習ひ、大早り極めなき所存なれば、「この勢、京へ寄せたらんに、六波羅、よも一たまりもたまらじ。聞き落ちにぞせんずらん。」と思ひ侮つて、八幡、山崎の御方にも牒じ合はせずして、二十八日の卯の刻に、法勝寺にて勢ぞろへあるべしと触れたりければ、物具をもせず、兵粮をも未だつかはで、或いは今路より向ひ、或いは西坂よりぞおり下る。
 両六波羅、これを聞きて思ふに、「山徒、たとひ大勢といへども、騎馬の兵一人もあるべからず。こなたには馬上の射手をそろへて、三條河原に待ち受けさせて、駆け開き駆け合はせ、弓手妻手に著けて追物射に射たらんずるに、山徒、心は猛しといへども、かち立ちに力疲れ、重鎧に肩を引かれ、片時が間に疲るべし。これ、小を以て大を砕き、弱きを以て剛きを拉ぐ手立てなり。」とて、七千余騎を七手に分けて、三條河原の東西に陣を取つてぞ待ちかけたる。
 大衆、かかるべしとは思ひもよらず、我先に京へ入りて、よからんずる宿をも取り、財宝をも管領せんと志して、宿札どもを面々に二、三十づつ持たせて、先づ法勝寺へぞ集まりける。その勢を見渡せば、今路、西坂、古塔下、八瀬、薮里、下松、赤山口に支へて、前陣、已に法勝寺、真如堂に著けば、後陣は未だ山上、坂本に充ち満ちたり。甲冑に映ぜる朝日は、電光の激するに異ならず。旌旗を靡かす山風は、竜蛇の動くに相似たり。山上と洛中との勢の多少を見合はするに、武家の勢は、十にしてその一にも及ばず。「実にもこの勢にては、たやすくこそ。」と、六波羅を見下しける山法師の心の程を思へば、大様ながらも理なり。
 さる程に、前陣の大衆、暫く法勝寺に著いて、後陣の勢を待ちける処へ、六波羅勢七千余騎、三方より押し寄せて、鬨をどつと作る{*9}。大衆、鬨の声に驚いて、「物具、太刀よ、長刀よ。」とひしめいて、取る物も取り敢へず、僅かに千人ばかりにて、法勝寺の西門の前に出で合ひ、近づく敵に抜いて懸かる。武士は、かねてより巧みたる事なれば、敵の懸かる時は、馬を{*10}引つ返してばつと引き、敵留まれば、開きあはせて後へかけ廻る。かくの如く六、七度が程駆け悩ましける間、山徒は、皆かち立ちの上、重鎧に肩を押されて、次第に疲れたる体にぞ見えける。武士は、これに利を得て、射手をそろへて散々に射る。
 大衆、これに射立てられて、平場の合戦叶はじとや思ひけん、又法勝寺の中へ引つ篭らんとしける処を、丹波国の住人佐治孫五郎と云ひける兵、西門の前に馬を横たへ、その頃かつてなかりし五尺三寸の太刀を以て、敵三人、かけず胴切つて、太刀の少しのつたるを門の扉に当てて押し直し、猶も敵を相待つて、西頭に馬をぞ控へたる。山徒、これを見て、その勢ひにや辟易しけん、又法勝寺にも敵ありとや思ひけん、法勝寺へは入り得ず、西門の前を北へ向つて、真如堂の前、神楽岡の後を二つに分かれて、唯山上へとのみ引つ返しける。
 ここに東塔の南谷善智房の同宿に、豪鑑、豪仙とて、三塔名誉の悪僧あり。御方の大勢に引つ立てられ、心ならず北白川を指して引きけるが、豪鑑、豪仙を呼び留めて、「軍の習ひとして、勝つ時もあり、負くる時もあり。時の運による事なれば、恥にて恥ならず。然りといへども、今日の合戦の体、山門の恥辱、天下の嘲哢たるべし。いざや、御辺相ともに返し合はせて討死し、二人が命を捨てて三塔の恥を清めん。」と云ひければ、豪仙、「云ふにや及ぶ。尤も庶幾する所なり{*11}。」と云つて、二人踏み留まつて、法勝寺の北の門の前{*12}に立ち並び、大音声を揚げて名のりけるは、「これ程に引つ立つたる{*13}大勢の中より、唯二人返し合はするを以て、三塔一の剛の者とは知るべし。その名をば定めて聞き及びぬらん。東塔の南谷善智坊の同宿に、豪鑑、豪仙とて、一山に名を知られたる者どもなり。我と思はん武士ども、よれや。打物して自余の輩に見物せさせん。」と云ふままに、四尺余りの大長刀、水車に廻して、跳り懸かり跳り懸かり、火を散らしてぞ切つたりける。
 これを討ち取らんと相近づける武士ども、多く馬の足を薙がれ、兜の鉢を破られて討たれにけり。彼等二人、この処に半時ばかり支へて戦ひけれども、続く大衆一人もなし。敵、雨の降る如くに射ける矢に、二人ながら十余箇所疵を蒙りければ、「今は所存、これまでぞ。いざや、冥途まで同道せん。」と契りて、鎧脱ぎ捨て押し肌脱ぎ、腹十文字に掻き切つて、同じ枕にこそ伏したりけれ。これを見る武士ども、「あはれ、日本一の剛の者どもかな。」と、惜しまぬ人もなかりけり。
 前陣の軍敗れて引つ返しければ、後陣の大勢は、軍場をだに見ずして、道より山門へ引つ返す。唯豪鑑、豪仙二人が振舞にこそ、山門の名をば揚げたりけれ。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本頭注に、「光厳天皇。」とある。
 2:底本頭注に、「院の御所。」とある。
 3:底本は、「転漕(てんさう)」。底本頭注に、「水陸の運送。」とある。
 4:底本は、「其の勢(せい)」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 5:底本は、「出で向ふ可きとは」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 6:底本頭注に、「剣。」とある。
 7:底本頭注に、「山王の一字に、三諦即是の理あるを云ふ。」とある。
 8:底本頭注に、「天皇。」とある。
 9:底本は、「どうと作る。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 10:底本は、「懸る時を引返して」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 11:底本は、「庶幾(そき)する所なり。」。底本頭注に、「希望する所だ。」とある。
 12:底本は、「北の門に立並び、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 13:底本は、「引立てたる」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。底本頭注に、「逃げ腰になつた。」とある。