四月三日合戦の事 附 妻鹿孫三郎勇力の事

 去月十二日、赤松、合戦利なくして引き退きしのちは、武家、常に勝つに乗つて、敵を討つ事数千人なりといへども、四海未だ静かならず。あまつさへ山門、又武家に敵して、大嶽に篝火を焼き、坂本に勢を集めて、尚も六波羅へ寄すべしと聞こえければ、衆徒の心を取らんために、武家より大荘十三箇所、山門へ寄進す。その外、宗徒の衆徒に便宜の地を一、二箇所づつ、祈祷のためとて恩賞を行はれける。さてこそ山門の衆議、心々になつて、武家に心を寄する衆徒も多く出で来にければ、八幡、山崎の官軍は、先度京都の合戦に、或いは討たれ、或いは疵を蒙る者多かりければ、その勢大半減じて、今は僅かに一万騎に足らざりけり。
 されども武家の軍立ち、京都の有様、恐るるに足らずと見透かしてければ、七千余騎を二手に分けて、四月三日の{*1}卯の刻に、又、京へ押し寄せたり。その一方には、殿法印良忠、中院定平を両大将として、伊東、松田、頓宮、富田判官が一党、並びに真木、葛葉の溢れもの{*2}どもを加へて、その勢都合三千余騎、伏見、木幡に火をかけて、鳥羽、竹田より押し寄する。又一方には、赤松入道円心を始めとして、宇野、柏原、佐用、真島、得平、衣笠、菅家の一党、都合その勢三千五百余騎、河島、桂の里に火をかけて、西の七條よりぞ寄せたりける。
 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝つて、兵皆{*3}気を挙げけるうへ、その勢を数ふるに、三万騎に余りける間、敵已に近附きぬと告げけれども、仰天の気色もなし。六條河原に勢ぞろへして、閑かに手分けをぞせられける。「山門、今は武家に志を通ずといへども、また如何なる野心をか存ずらん、油断すべきにあらず。」とて、佐々木判官時信、常陸前司時朝、長井縫殿秀正に三千余騎を差し副へて、糺河原へ向けらる。去月十二日の合戦も、その方より勝つたりしかば、吉例なりとて、河野と陶山とに五千余騎{*4}を相副へて、法性寺大路へ差し向けらる。富樫、林が一族、島津、小早川が両勢に、国々の兵六千余騎を相副へて、八條東寺辺へ指し向けらる。厚東加賀守、加治源太左衛門尉、隅田、高橋、糟谷、土屋、小笠原に七千余騎を相副へて、西七條口へ向けらる。自余の兵千余騎をば新手のために残して、未だ六波羅に並み居たり。
 その日の巳の刻より、三方ながら同時に軍始まつて、入れ替へ入れ替へ攻め戦ふ。寄せ手は、騎馬の兵少なうして、かち立ちの射手多ければ、小路小路を塞ぎ、鏃をそろへて散々に射る。六波羅勢は、かち立ちは少なうして、騎馬の兵多ければ、駆け違ひ駆け違ひ、敵を中に取り篭めんとす。孫子が千変の謀りごと、呉氏が八陣の法、互に知りたる道なれば、共に破られず囲まれず、ただ命を際の戦ひにて、更に勝負もなかりけり。
 終日戦つて、已に夕陽に及びける時、河野と陶山と一手に成つて、三百余騎、轡を双べて駆けたりけるに{*5}、木幡の寄せ手、足をもためず駆け立てられて、宇治路を指して引き退く。陶山、河野、逃ぐる敵をばうち捨てて、竹田河原をすぢかひに、鳥羽殿の北の門を打ちまはり、作道へかけ出でて、東寺の前なる寄せ手を取り篭めんとす。作道十八町に充満したる寄せ手、これを見て、叶はじとや思ひけん、羅城門の西を横切りに、寺戸を指して引き返す。小早川と島津安芸前司とは、東寺の敵に向つて、追つつ返しつ戦ひけるが、己が陣の敵を河野と陶山とに払はれて、御方の負けをしつる事よと無念に思ひければ、「西の七條へ寄せつる敵に逢うて、花やかなる一軍せん。」と云つて、西八條をのぼりに西朱雀へぞ出でたりける。この処に赤松入道、究竟の兵をすぐつて、三千余騎にて控へたりければ、左右なく破るべき様もなかりけり。されども島津、小早川が横合ひに懸かるを見て、戦ひ疲れたる六波羅勢、力を得て、三方より攻め合はせける間、赤松が勢、忽ちに開き靡きて、三所に控へたり。
 ここに、赤松が勢の中より兵四人進み出で、数千騎控へたる敵の中へ是非なく討つてかかりけり。その勢ひ決然として、あたかも樊噲、項羽が怒れる形にも過ぎたり。近づくに随つてこれを見れば、たけ七尺ばかりなる男の、髭両方へ生ひ分かれて、まなじりさかさまに裂けたるが、鎖の上に鎧を重ねて著、大立挙の臑当に膝鎧懸けて、竜頭の兜猪頚に著なし{*6}、五尺余りの太刀を佩き、八尺余りのかなさい棒の八角なるを、手元二尺ばかり円めて、誠に軽げにひつ提げたり。数千騎控へたる六波羅勢、彼等四人が有様を見て、未だ戦はざるさきに三方へ分かれて引き退く。
 敵を招いて彼等四人、大音声を揚げて名のりけるは、「備中国の住人頓宮又次郎入道、子息孫三郎、田中藤九郎盛兼、同舎弟弥九郎盛泰と云ふ者なり。我等父子兄弟、少年の昔より勅勘武敵の身となりし間、山賊を業として一生を楽しめり。然るに今、幸ひにこの乱出来して、忝くも万乗の君の御方に参ず。然るを先度の合戦、さしたる軍もせで御方の負けしたりし事、我等が恥と存ずる間、今日に於いては、たとひ御方負けて引くとも引くまじ。敵強くとも、それにもよるまじ。敵の中を破つて通り、六波羅殿に直に対面申さんと存ずるなり。」と、広言吐いて、二王立ちにぞ立つたりける。
 島津安芸前司、これを聞いて、子息二人、手の者どもに向つて云ひけるは、「日頃聞き及びし西国一の大力とは、これなり。彼等を討たん事、大勢にては叶ふまじ。御辺達は、しばらくそとに控へて、自余の敵に戦ふべし。我等父子三人、相近附いて、進んづ退いつ、暫く悩ましたらんに、などかこれを討たざらん。たとひ力こそ強くとも、身に矢の立たぬ事あるべからず。たとひ走る事早くとも、馬にはよも追つつかじ。多年稽古の犬笠懸、今の用に立てずんば、いつをか期すべき。いでいで、不思議の{*7}一軍して人に見せん。」と云ふままに、唯三騎打ちぬけて、四人の敵に相近づく。
 田中藤九郎、これを見て、「その名はいまだ知らねども、猛くも思へる志かな。おなじくば御辺を生け捕つて、御方に成して軍せさせん。」とあざわらうて、くだんの金棒を打ちふつて、閑かに歩み近づく。島津も馬を静々と歩ませ寄せて、矢ごろになりければ、先づ安芸前司、三人張に十二束三伏、暫し堅めて丁と放つ。その矢、あやまたず田中が右の頬先を兜の菱縫の板へ懸けて、篦中ばかり射通したりける間、急所の痛手に弱りて、さしもの大力なれども、目くれて更に進み得ず。
 舎弟弥九郎、走り寄り、その矢を抜いて打ち捨て、「君の御敵は六波羅なり。兄の敵は御辺なり。余すまじ。」と云ふままに、兄が金棒をおつ取り振つてかかれば、頓宮父子、各五尺二寸の太刀を引きそばめて、小躍りして続いたり。島津、元より物馴れたる馬上の達者、矢継ぎ早の手ききなれば、少しも騒がず、田中進んでかかれば、あひの鞭{*8}を打ちて、押しもぢりにはたと射る。田中、妻手へ廻れば、弓手を越えて丁と射る。西国名誉の打物の上手と、北国無双の馬上の達者と、追つつ返しつ懸け違へ、人交ぜもせず戦ひける。前代未聞の見物なり。
 さるほどに、島津が矢種も尽きて、打物に成らんとしけるを見て、かくては叶はじとや思ひけん、朱雀の地蔵堂より北に控へたる小早川、二百騎にてをめいてかかりけるに、田中が後なる勢、ばつと引き退きければ、田中兄弟、頓宮父子、彼此四人の鎧の透間、内兜に、各、矢二、三十筋射立てられて、太刀をさかさまに突きて、皆立たちすくみにぞ死にたりける。見る人聞く人、後までも惜しまぬ者はなかりけり。
 美作国の住人菅家の一族は、三百余騎にて四條猪熊まで攻め入り、武田兵庫助、糟谷、高橋が一千余騎の勢と懸けあつて、時うつるまで戦ひけるが、後なる御方の引き退きぬる体を見て、元より{*9}引かじとや思ひけん、また向ふ敵に後ろを見せじとや恥ぢたりけん、有元菅四郎佐弘、同五郎佐光、同又三郎佐吉兄弟三騎、近づく敵に馳せ双べ、引つ組みて伏したり。佐弘は、今朝の軍に膝口を切られて力弱りたりけるにや、武田七郎に押さへられて首を掻かれ、佐光は、武田二郎が首を取る。佐吉は、武田が郎等と刺し違へて、共に死にけり。敵二人も共に兄弟、御方二人も兄弟なれば、「死に残りては何かせん、いざや共に勝負せん。」とて、佐光と武田七郎と、持ちたる首を両方へ投げ捨てて、又引つ組んで刺し違ふ。これを見て、福光彦二郎佐長、殖月彦五郎重佐、原田彦三郎佐秀、鷹取彦二郎種佐、同時に馬を引き返し、むずと組んではどうと落ち、引つ組んでは刺し違へ、二十七人の者ども、一所にて皆討たれければ、その陣の軍は破れにけり。
 播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗と申すは、薩摩氏長が末にて、力、人に勝れ、器量、世に超えたり。生年十二の春の頃より好んで相撲を取りけるに、日本六十余州の中には、遂に片手にもかかる者なかりけり。人は類を以て聚まる習ひなれば、相伴ふ一族十七人、皆これ尋常の人には越えたり。されば、他人の手{*10}を交じへずして一陣にすすみ、六條坊門大宮まで攻め入りたりけるが、東寺、竹田より勝ち軍して帰りける六波羅勢三千余騎に取りまかれ、十七人は討たれて、孫三郎一人ぞ残りたりける。「生きて甲斐なき命なれども、君の御大事、これに限るまじ。一人なりとも生き残りて、後の御用にこそ立ため。」とひとりごとして、唯一騎、西朱雀を指して引きけるを、印具駿河守の勢、五十余騎にて追つ懸けたり。
 その中に、年の程二十ばかりなる若武者、ただ一騎馳せ寄せて、引いて帰りける妻鹿孫三郎に組まんと近づいて、鎧の袖に取り著きける処を、孫三郎、これを物ともせず、長き肘を差し延べて、鎧の総角を掴んで宙にひつ提げ、馬の上三町ばかりぞ行きたりける。この武者、然るべきものにてやありけん、「あれ討たすな。」とて、五十余騎の兵、後に附いて追ひけるを、孫三郎、尻目にはつたと睨んで、「敵も敵によるぞ。一騎なればとて、我に近づいてあやまちすな。ほしからば、すは、これ取らせん。請け取れ。」と云つて、左の手にひつ提げたる鎧武者を、右の手に取り渡して、「えい。」と抛げたりければ、後なる馬武者六騎が上を投げ越して、深田の泥の中へ見えぬ程こそ打ちこうだれ。これを見て五十余騎の者ども、同時に馬を引き返し、逸足{*11}を出してぞ逃げたりける。
 赤松入道は、殊更今日の軍に、憑み切つたる一族の兵どもも、所々にて八百余騎討たれければ、気疲れ力落ちはてて、八幡、山崎へ又引き返しけり。

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校訂者注
 1:底本は、「四月三日卯(う)の刻」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 2:底本頭注に、「ならず者。」とある。
 3:底本は、「皆兵」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 4:底本は、「五千騎」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補った。
 5:底本は、「かかりたりけるに、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 6:底本は、「大立挙(おほたてあげ)の臑当(すねあて)に膝鎧(ひざよろひ)懸けて、竜頭(たつがしら)の兜猪頚(ゐくび)に著なし」。底本頭注に、「〇膝鎧 臑鎧。革で瓦札を作り縫ひ重ねたもの。」「〇竜頭 兜の真向きに竜の頭の形をしたものをつける。」「〇猪頚に 仰向けに敵に恐れぬことを示すのである。」とある。
 7:底本頭注に、「珍らしい。」とある。
 8:底本は、「あいの鞭(むち)」。底本頭注及び『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本は、「元来(ぐわんらい)」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 10:底本頭注に、「他の手の者。」とある。
 11:底本は、「逸足(いちあし)を出して」。底本頭注に、「いそぎ足をして。」とある。