主上自ら金輪の法を修せしめ給ふ事 附 千種殿京合戦の事
京都数箇度の合戦に、官軍、毎度うち負けて、八幡、山崎の陣も既に小勢になりぬと聞こえければ、主上、天下の安危如何あるらんと宸襟を悩まされ、船上の皇居に壇を建てられ、天子自ら金輪の法を行はせ給ふ。その七箇日に当たりける夜、三光天子、光を並べて壇上に現じ給ひければ、「御願、忽ちに成就しぬ。」と、憑もしく思し召されける。
「さらば、やがて大将を差し上せて、赤松入道に力を合はせ、六波羅を攻むべし。」とて、六條少将忠顕朝臣を頭中将に成し、山陽、山陰両道の兵の大将として、京都へ差し向けらる。その勢、伯耆国を立ちしまで、僅かに千余騎と聞こえしが、因幡、伯耆、出雲、美作、但馬、丹後、丹波、若狭の勢ども馳せ加はりて、程なく二十万七千余騎に成りにけり。又、第六の若宮{*1}は、元弘の乱の始め、武家に囚はれさせ給ひて、但馬国へ流されさせ給ひたりしを、その国の守護太田三郎左衛門尉、取り立て奉つて、近国の勢を相催し、則ち丹波の篠村へ参会す。大将頭中将、なのめならず悦んで、則ち錦の御旗を立てて、この宮を上将軍と仰ぎ奉つて、軍勢催促の令旨を成し下されけり。
四月二日、宮、篠村を御立ちあつて、西山の峯の堂を御陣に召され、相従ふ軍勢二十万騎、谷堂、葉室、衣笠、万石大路、松尾、桂里に居余つて、半ばは野宿に充ち満ちたり。殿の法印良忠は、八幡に陣を取る。赤松入道円心は、山崎に屯を張れり。かの陣と千種殿の陣と相去ること、僅かに五十余町が程なれば、方々牒じ合はせてこそ京都へは寄せらるべかりしを、千種頭中将、我が勢の多きをや憑まれけん、又、ひとり高名にせんとやおもはれけん、ひそかに日を定めて、四月八日の卯の刻に六波羅へぞ寄せられける。「あら、不思議。今日は仏生日とて、心あるも心なきも、灌仏の水に心を澄まし、供花焼香に経を翻して、捨悪修善を事とする習ひなるに、時日こそ多かるに、斎日にして合戦を始めて、天魔波旬の道を学ばるる條、心得難し。」と、人々、舌を翻せり。
さて、「敵御方の士卒、源平互に交じはれり。笠印なくては同士討もありぬべし。」とて、白き絹を一尺づつ切つて、風といふ文字を書いて、鎧の袖にぞ附けさせられける。これは、孔子の詞に、「君子の徳は、風なり。小人の徳は、草なり。草に風を加ふる時は、伏さずといふ事なし。」といふ心なるべし。
六波羅には、敵を西に待ちける故に、三條より九條まで大宮面に塀を塗り、櫓を掻いて射手を上げて、小路小路に兵を千騎、二千騎控へさせて、魚鱗に進み、鶴翼に囲まん様をぞ謀りける。「寄せ手の大将は誰そ。」と問ふに、「前帝第六の若宮、副将軍は、千種頭中将忠顕朝臣。」と聞こえければ、「さては、軍の成敗、心憎からず。源は同じ流れなりといへども、江南の橘、江北に移されて枳となる習ひなり。弓馬の道を守る武家の輩と、風月の才を事とする朝廷の臣と戦ひを決せんに、武家勝たずといふ事あるべからず。」と、各、勇み進んで、七千余騎、大宮面にうち寄せて、寄せ手遅しとぞ待ち懸けたる。
さる程に忠顕朝臣、神祇官の前に控へて勢を分けて、上は大舎人より下は七條まで、小路ごとに千余騎づつさし向けて攻めさせらる。武士は、要害を拵へて射手を面に立て、馬武者を後ろに置きたれば、敵のひるむ所を見て、駆け出で駆け出で追つ立てけり。官軍は、二重三重に新手を立てたれば、一陣引けば二陣入り替はり、二陣うち負くれば三陣いり替はつて、人馬に息を継がせ、煙塵天を掠めて攻め戦ふ。官軍も武士ももろともに、義に依つて命を軽んじ、名を惜しみて死を争ひしかば、御方を助けて進むはあれども、敵に遇うて退くはなかりけり。
かくてはいつ勝負あるべしとも見えざりける処に、但馬、丹波の勢どもの中より、かねて京中に忍びて人を入れ置きたりける間、ここかしこに火をかけたり。折節、辻風烈しく吹いて、猛煙後ろに立ち覆ひければ、一陣に支へたる武士ども、大宮面を引き退いて、尚京中に控へたり。六波羅、これを聞いて、弱からん方へ向けんとて、用意に残し留めたる、佐々木判官時信、隅田、高橋、南部、下山、河野、陶山、富樫、小早河等に、五千余騎を差し副へて、一條、二條の口へ向けらる。
この新手に駆け合つて、但馬の守護太田三郎左衛門、討たれにけり。丹波国の住人荻野彦六と足立三郎は、五百余騎にて四條油小路まで攻め入りたりけるを、備前国の住人薬師寺八郎、中吉十郎、丹、児玉が勢ども七百余騎、相支へて戦ひけるが、二條の手破られぬと見えければ、荻野、足立ももろともに、御方の負けして引き返す。金持三郎は、七百余騎にて七條東洞院まで攻め入りたりけるが、深手を負うて引きかねけるを、播磨国の住人肥塚が一族、三百余騎が中に取り篭めて、だし抜いて生け捕りてけり。丹波国神池の衆徒は、八十余騎にて五條西洞院まで攻め入り、御方の引くをも知らで戦ひけるを、備中国の住人庄三郎、真壁四郎、三百余騎にてとり篭め、一人も余さず討ちてけり。
方々の寄せ手、或いは討たれ、或いは破られて、皆桂川の辺まで引きたれども、名和小次郎と児島備後三郎{*2}とが向ひたりける一條の寄せ手は、未だ引かず{*3}、駆けつ返しつ、時移るまで戦ひたり。防ぐは陶山と河野にて、攻むるは名和と児島となり。児島と河野とは一族にて、名和と陶山とは知り人なり。日頃の詞をや恥ぢたりけん、後日の難をや思ひけん、死しては骸を曝すとも、逃げて名をば失はじと、互に命を惜しまず、をめき叫んでぞ戦ひける。
大将頭中将は、内野まで引かれたりけるが、一條の手、尚相支へて戦ひ半ばなりと聞こえしかば、又神祇官の前へ引き返して、使を立てて児島と名和とを喚び返されけり。彼等二人、陶山と河野とに向つて、「今日、已に日暮れ候ひぬ。後日にこそまた見参に入らめ。」と色代{*4}して、両軍共に引き分かれて、各、東西に去りにけり。
夕陽に及んで軍散じければ、千種殿は、本陣峯堂に帰つて、御方の手負討死を記さるるに、七千人に余れり。その内に、宗と憑まれたる太田、金持の一族以下、数百人討たれ畢んぬ。依つて、一方の侍大将とも成るべき者とや思されけん、児島備後三郎高徳を呼び寄せて、「敗軍の士、力疲れて再び戦ひ難し。都近き陣は悪しかりぬとおぼゆれば、少し境を隔てて陣を取り、重ねて近国の勢を集めて、又京都を攻めばやと思ふは、如何に計らふぞ。」と宣へば、児島三郎、聞きもあへず、「軍の勝負は、時の運による事にて候へば、負くるも必ずしも恥ならず。ただ引くまじき処を引かせ、駆くべき所を駆けざるを、大将の不覚とは申すなり。如何なれば赤松入道は、僅かに千余騎の勢を以て、三箇度まで京都へ攻め入り、叶はねば引き退いて、遂に八幡、山崎の陣をば去らで候ぞ。御勢、たとひ過半討たれて候とも、残るところの兵、尚六波羅の勢よりは多かるべし。この御陣、後ろは深山にて、前は大河なり。敵、もし寄せ来らば、好むところの砦なるべし。あなかしこ、この御陣を引かんと思し召す事、然るべからず候。但し、御方の疲れたる弊えに乗りて、敵、夜討に寄する事もや候はんずらんと存じ候へば、高徳は、七條の橋詰に陣を取つて相待ち候べし。御心安からんずる兵どもを、四、五百騎が程、梅津、法輪の渡しへ差し向けて、警固をさせられ候へ。」と申し置いて、即ち児島三郎高徳は、三百余騎にて七條の橋より西にぞ陣を堅めたる。
千種殿は、児島に云ひ恥ぢしめられて、暫しは峯堂におはしけるが、「敵、もし夜討にや寄せんずらん。」と云ひつる詞に驚かされて、いよいよ臆病心や附き給ひけん、夜半過ぐる程に、宮を御馬に乗せ奉つて、葉室の前を筋かひに{*5}、八幡を指してぞ落ちられける。
備後三郎、かかる事とは思ひもよらず、夜更けがたに峯堂を見遣れば、星の如くに輝き見えつる篝火、次第に数消えて、所々に焼きすさめり。これは、あはれ、大将の落ち給ひぬるやらんと怪しみて、事の様を見んために、葉室大路より峯堂へ上る処に、荻野彦六朝忠、浄住寺の前に行き合ひて、「大将、已に夕べ子の刻に落ちさせ給ひて候間、力なく、我等も丹波の方へと志して罷り下り候なり。いざ、させたまへ。打ち連れ申さん。」と云ひければ、備後三郎、大きに怒つて、「かかる臆病の人を大将と憑みけるこそ越度なれ。さりながらも、直に事の様を見ざらんは、後難もありぬべし。はや御通り候へ。高徳は、いかさま{*6}峯堂へ上つて、宮の御跡を見奉りて、追ひ附き申すべし。」と云ひて、手の者どもをば麓に留めて、唯一人、落ち行く勢の中を押し分け押し分け、峯堂へぞ上りける。
大将のおはしつる本堂へ入りて見れば、よく慌てて落ちられけりとおぼえて、錦の御旗、鎧直垂まで捨てられたり。備後三郎、腹を立て、「あはれ、この大将、如何なる堀がけへも落ち入つて死にたまへかし。」とひとり言して、しばらくはなほ堂の縁に歯噛みをして立ちたりけるが、「今は、さこそ{*7}手の者どもも待ちかねたるらめ。」と思ひければ、錦の御旗ばかりを巻いて下人に持たせ、急ぎ浄住寺の前へ走り下り、手の者打ち連れて馬を早めければ、追分の宿の辺にて荻野彦六にぞ追ひつきける。
荻野は、丹波、丹後、出雲、伯耆へ落ちける勢の、篠村、稗田辺に打ち集まつて三千余騎ありけるを相伴ひ、路次の野伏を追ひ払うて、丹波国高山寺城にぞ楯篭りける。
谷堂炎上の事
千種頭中将は、西山の陣を落ち給ひぬと聞こえしかば、翌日四月九日、京中の軍勢、谷堂、峯堂已下浄住寺、松尾、万石大路、葉室、衣笠に乱れ入りて、仏閣神殿を打ち破り、僧坊民屋を追捕し、財宝を悉く運び取つて後、在家に火をかけたれば、折節魔風烈しく吹いて、浄住寺、最福寺、葉室、衣笠、二尊院、総じて堂舎三百余箇所、在家五千余宇、一時に灰燼となつて、仏像、神体、経論、聖教、忽ちに寂滅の煙と立ちのぼる。
かの谷堂{*8}と申すは、八幡殿の嫡男対馬守義親が嫡孫、延朗上人{*9}造立の霊地なり。この上人、幼稚の昔より武略累代の家を離れ、ひとへに寂寞無人の室を占め給ひし後、戒定恵の三学を兼備して、六根清浄の功徳を得給ひしかば、法華読誦の窓の前には、松尾の明神座列して耳を傾け、真言秘密の扉の中には、総角の護法{*10}、手をつかねて奉仕し給ふ。かかる有智高行の上人、草創せられし砌なれば、五百余歳の星霜を経て、末世澆漓の今に至るまで、智水流れ清く、法灯光明らかなり。三間四面の輪蔵には、転法輪の相を表して、七千余巻の経論を納め奉られけり。奇樹怪石の池上には、都率の内院を移して、四十九院の楼閣を並ぶ。十二の欄干、珠玉天に捧げ、五重の塔婆、金銀月を引く。あたかも極楽浄土の七宝荘厳の有様も、かくやとおぼゆるばかりなり。
又{*11}、浄住寺と申すは、戒法流布の地、律宗作業の砌なり。釈尊御入滅の刻、金棺未だ閉ぢざる時、捷疾鬼といふ鬼神、ひそかに双林の下に近づいて、御牙を一つひつ欠いて{*12}、これを取る。四衆{*13}の仏弟子、驚き見て、これを留めんとし給ひけるに、片時が間に四万由旬を飛び越えて、須弥の半ば、四天王へ逃げ上る。韋駄天、追ひ詰め奪ひとり、これを得て、その後漢土の道宣律師に与へらる。しかつしより以来相承して、我が朝に渡せしを、嵯峨天皇の御宇に始めてこの寺に安置し奉らる。大いなるかな、大聖世尊滅後二千三百余年の已後、仏肉猶留まつて、広く天下に流布する事、普し。かかる異瑞奇特の大加藍を、咎なうして滅ぼされけるは{*14}、ひとへに武運の尽くべき前表かなと、人皆唇を翻し{*15}けるが、果たして幾程もあらざるに、六波羅、皆番馬にて亡び、一類悉く鎌倉にてうせける事こそ不思議なれ。「積悪の家には必ず余殃有り。」とは、かやうの事をぞ申すべきと、思はぬ人もなかりけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「神明鏡には第四の宮とす。」とある。
2:底本頭注に、「〇名和小次郎 長生。」「〇児島備後三郎 高徳。」とある。
3:底本は、「未だ引かす、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
4:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
5:底本は、「筋違(すぢちがひ)に、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
6:底本は、「何様(なにさま)」。
7:底本は、「さてこそ」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
8:底本は、「谷堂(たにのだう)」。底本頭注に、「最福寺。」とある。
9:底本は、「延朗(えんらう)上人」。底本頭注に、「俗名義実。松尾上人と称す。」とある。
10:底本は、「総角(あげまき)の護法」。底本頭注に、「仏法を護る総角の童子。」とある。
11:底本は、「覚(おぼ)ゆるばかりなり。浄住寺と」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
12:底本は、「ひつ欠いで」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
13:底本頭注に、「比丘、比丘尼、優婆塞、優婆夷。」とある。
14:底本は、「滅ぼされければ、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
15:底本頭注に、「非難し。」とある。
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