巻第九

足利殿御上洛の事

 先朝、船上に御座あつて{*1}、討手を差し上せられ京都を攻めらるるよし、六波羅の早馬頻りに打つて、事既に難儀に及ぶよし、関東に聞こえければ、相模入道{*2}、大きに驚いて、さらば、重ねて大勢をさし上せて、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻むべしと評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人を催さる。その中に足利治部大輔高氏は、所労のことあつて、起居未だ快からざりけるを、又上洛のその数に入つて、催促度々に及べり。
 足利殿この事に依つて、心中に憤り思はれけるは、「我、父の喪に居て三月を過ぎざれば、非歎の涙未だ乾かず。又、病気身を侵して、負薪の憂へ{*3}未だ止まざる処に、征罰の役に随ひて相催さるる事こそ遺恨なれ。時移り事変じて、貴賤位を易ふといへども、彼は北條四郎時政が末孫なり。人臣に下つて年久し。我は源家累葉の族なり。王氏を出でて遠からず。この理を知るならば、一度は君臣の義をも存ずべきに、これまでの沙汰に及ぶ事、ひとへに身の不肖による故なり。所詮、重ねて尚上洛の催促を加ふる程ならば、一家を尽くして上洛し、先帝の御方に参つて六波羅を攻め落として、家の安否を定むべきものを。」と、心中に思ひ立たれけるをば、人、更に知ることなかりけり。
 相模入道は、かかるべき事とは思ひ寄らず、工藤左衛門尉を使にて、「御上洛延引、心得られず。」と、一日の中に両度までこそ責められけれ。足利殿は反逆の企て、已に心中に思ひ定められければ、中々異議に及ばず、「不日に上洛仕るべし。」とぞ返答せられける。則ち、夜を日に継いで打つ立たれけるに、御一族郎従は申すに及ばず、女性幼稚の君達までも、残らず皆上洛あるべしと聞こえければ、長崎入道円喜、怪しみ思うて、急ぎ相模入道の方に参つて申しけるは、「誠にて候やらん。足利殿こそ、御台、君達まで皆引き具しまゐらせて御上洛候なれ。事の体、怪しく存じ候。かやうの時は、御一門の疎かならぬ人にだに、御心おかれ候べし。況んや源家の貴族として、天下の権柄を捨て給へること年久しければ、思し召し立つこともや候らん。
 「異国より吾が朝に至るまで世の乱れたるときは、覇王、諸候を集めて、牲を殺し血を啜つて、弐心なからんことを盟ふ。今の世の起請文、これなり。或いは又、その子を質に出して、野心の疑ひを散ず。木曽殿の、御子清水冠者を大将殿の方へ出だされき{*4}。かやうの例を存じ候にも、いかさま、足利殿の御子息と御台とをば鎌倉に留め申されて、一紙の起請文を書かせ参らさるべしとこそ存じ候へ。」と申しければ、相模入道、実にもとや思はれけん、やがて使者を以て申し遣はされけるは、「東国は、未だ世閑かにて、御心安かるべきにて候。幼稚の御子息をば、皆鎌倉に留め置き参らせられ候べし。次に、両家の体を一にして水魚の思ひをなされ候うへ、赤橋相州{*5}、御縁になり候。かれこれ何の不審か候べきなれども、諸人の疑ひを散ぜんためにて候へば、恐れながら一紙の誓言を留め置かれ候はんこと、公私について然るべくこそ存じ候へ。」と仰せられたりければ、足利殿、欝胸いよいよ深かりけれども、憤りを抑へて気色にも出だされず。「これより御返事を申すべし。」とて、使者をば返されてけり。
 その後、舎弟兵部大輔殿{*6}を呼び参らせられて、「この事、如何あるべき。」と意見を問はるるに、暫く思案して申されけるは、「今この一大事を思し召したつ事、全く御身のためにあらず。唯天に代つて無道を誅し、君の御ために不義を退けんとなり。その上、誓言は神も受けずとこそ申し習はして候へ。たとひ偽つて起請の詞載せられ候とも、仏神、などか忠烈の志を守らせ給はで候べき。なかんづく、御子息と御台とは鎌倉に留め置きまゐらせられんこと、大義の前の小事にて候へば、あながちに御心を煩はさるべきにあらず{*7}。公達、未だ御幼稚に候へば、自然の事もあらん時は、そのために少々残し置かるる郎従ども、いづ方へも抱きかかへて隠し奉り候ひなん。御台の御事は、又赤橋殿{*8}とてもおはしまし候はん程は、何の御痛はしき事か候べき。『大行は細謹を顧みず。』とこそ申し候へ。これ等ほどの小事に猶予あるべきにあらず。ともかくも相模入道の申さんままに随つてその不審を散ぜしめ、御上洛候ひて後、大義の御計略を巡らさるべくとこそ存じ候へ。」と申されければ、足利殿、この道理に服して、御子息千寿王殿と御台赤橋相州の御妹{*9}とをば鎌倉に留め置き奉りて、一紙の起請文を書いて相模入道の方へ遣はさる。
 相模入道、これに不審を散じて喜悦の思ひをなし、高氏を招請あつて、さまざま{*10}賞翫どもありしに、「御先祖累代の白旗あり。これは、八幡殿より代々の家督に伝へて執せらるる重宝にて候ひけるを、故頼朝卿の後室二位禅尼{*11}相伝して、当家に今まで所持候なり{*12}。希代の重宝と申しながら、他家においてその詮なく候か。これを今度の餞に進じ候なり。この旗をささせて、兇徒を急ぎ御退治候へ。」とて、錦の袋に入れながら、みづからこれを参らせらる。そのほか、乗り替への御馬にとて、飼うたる馬に白鞍置いて十匹、白覆輪の鎧十領、金作りの太刀一つ副へて引かれたりけり。
 足利殿御兄弟、吉良、上杉、仁木、細川、今川、荒川以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合その勢三千余騎、元弘三年三月二十七日に鎌倉を立ち、大手の大将と定められ、名越尾張守高家に三日先立ちて、四月十六日に京都に著きたまふ。

山崎攻めの事 附 久我畷合戦の事

 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝ちければ、西国の敵恐るるに足らずと欺きながら、宗徒の勇士と憑まれたりける結城九郎左衛門尉は、敵になつて山崎の勢に加はりぬ。その外、国々の勢ども五騎、十騎、或いは転漕{*13}に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀つて敵に属しける間、宮方は、負くれども勢ひいよいよ重なり、武家は勝てども、兵、日々に減ぜり。かくては如何あるべきと、世を危ぶむ人多かりける処に、足利、名越の両勢、又雲霞の如く上洛したりければ、いつしか人の心替つて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり。
 かかる処に足利殿は、京著の翌日より伯耆の船上へひそかに使を参らせて、御方に参るべき由申されたりければ、君{*14}、殊に叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰{*15}すべき由の綸旨をば成し下されける。
 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかかる企てありとは思ひも寄るべき事ならねば、日々に参会して八幡、山崎を攻めらるべき内談評定、一々に心底を残さず尽くされけるこそはかなけれ。「大行の路、よく車を砕く。もし人の心に比すれば、平らかなる途なり。巫峡の水、よく船を覆す。もし人の心に比すれば、これ静かなる流れなり。人心の好悪、甚だ常ならず。」とは云ひながら、足利殿は代々、相州の恩を戴き徳を荷つて、一家の繁昌、恐らくは天下の人、肩を並ぶべくも無かりけり。その上、赤橋前相模守の縁になつて、公達あまた出で来給ひぬれば、この人、よも弐心は{*16}おはせじと、相模入道、ひたすらに憑まれけるも理なり。
 四月二十七日には、八幡、山崎の合戦と、かねてより定められければ、名越尾張守、大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道より向かはる。足利治部大輔高氏は、搦手の大将として五千余騎、西岡よりぞ向かはれける。八幡、山崎の官軍、これを聞いて、さらば難所に出で合つて、不慮に戦ひを決せしめよとて、千種頭中将忠顕朝臣、五百余騎にて大渡の橋を打ち渡り、赤井河原に控へらる。結城九郎左衛門尉親光は{*17}、三百余騎にて狐河の辺に向ふ。赤松入道円心は、三千余騎にて淀、古河、久我畷の南北三箇所に陣を張る。これ皆、強敵をとり拉ぐ気、天を回らし地を傾けんとする機を研ぎ勢ひを含むといへども、今上りの東国勢一万余騎に対して、戦ふべしとは見えざりけり。「足利殿は、かねて内通の仔細ありけれども、もしたばかりやし給ふらん。」とて、坊門少将雅忠朝臣は、寺戸と西岡の野伏ども五、六百人駆り催して、岩倉辺に向かはる。
 さる程に、「搦手の大将足利殿は、未明に京都を立ち給ひぬ。」と披露ありければ、大手の大将名越尾張守、「さては、はや人に先を駆けられぬ。」と安からず思ひて、さしも深き久我畷の、馬の足も立たぬ泥土の中へ馬をうち入れ、我先にとぞ進みける。尾張守は、元より気早の若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚かすやうにして名を揚げんずるものをと、かねてあらましのこと{*18}なれば、その日の馬、物具、笠印に至るまで、あたりを輝かして出で立たれたり。花曇子の濃き紅に染めたる鎧直垂に、紫糸の鎧金物繁く打ちたるを、透間もなく著下して、白星の五枚兜の吹き返しに、日光月光の二天子を金と銀とにて彫り透かして打ちたるを猪頚に著なし、当家累代の重宝に、鬼丸といひける金作りの円鞘の太刀に、三尺六寸の太刀を佩き添へ、たかうすべ尾の矢三十六差いたるを筈高に負ひなし、黄瓦毛の馬の太く逞しきに、三本傘を金具に磨つたる鞍を置き、厚総の鞦の燃え立つばかりなるを懸け、朝日の影に輝かして、光渡つて見えたるが、ややもすれば軍勢より先に進み出でて、あたりを払つて駆けられければ、馬物具の体、軍立ちの様、今日の大手の大将はこれなんめりと、知らぬ敵はなかりけり。
 されば敵も、自余の葉武者どもには目をかけず、ここに開き合はせ、かしこに攻め合つて、これ一人を討たんとしけれども、鎧よければ裏かかする矢もなし、打物達者なれば、近づく敵を切つて落とす。その勢ひ、燦然たるに辟易して、官軍数万の士卒、已に開き靡きぬとぞ見えたりける。ここに、赤松の一族に佐用佐衛門三郎範家とて、強弓の矢継ぎ早、野伏戦に心ききて、卓宣公が秘せし所を我が物に得たる兵あり。わざと物具を脱いでかち立ちの射手になり、畔を伝ひ薮を潜つて、とある畔の蔭にぬはれ伏し{*19}、大将に近づきて一矢ねらはんとぞ待ちたりける。
 尾張守は、三方の敵を追ひまくり、鬼丸に附きたる血を笠印にておし拭ひ、扇開き使うて、思ふこともなげに控へたる処を、範家、近々とねらひ寄つて、引きつめて丁と射る。その矢、思ふ矢坪を違へず、尾張守が兜の真向のはづれ、眉間の真中に当たつて、脳を砕き骨を破つて、頚の骨のはづれへ矢さき白く射出だしたりける間、さしもの猛将なれども、この矢一筋に弱つて、馬より真つさかさまにどうと落つ。
 範家、胡簶を叩いて矢叫びをなし、「寄せ手の大将名越尾張守をば、範家がただ一矢に射殺したるぞ。続けや、人人。」と呼ばはりければ、引き色になりつる官軍ども、これに機を直し、三方より勝ち鬨を作つて攻め合はす。尾張守の郎従七千余騎、しどろになつて引きけるが、或いは大将を討たせていづくへか帰るべきとて、引き返して討死するもあり、或いは深田に馬を馳せこうで、叶はで自害するもあり。されば、狐河の端より鳥羽の今在家まで、その道五十余町が間には、死人、尺地もなく伏しにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「先朝(せんてう)船上(ふなのうへ)に御座(ござ)あつて」。底本頭注に、「〇船上 船上山。」とある。
 2:底本頭注に、「北條高時。」とある。
 3:底本頭注に、「痛みて薪を負ふに堪へない憂ひ。自分の病を謙遜して云ふ語。」とある。
 4:底本頭注に、「〇木曽殿 木曽義仲。」「〇清水冠者 義高。」「〇大将殿 源頼朝。」とある。
 5:底本頭注に、「守時。久時の子。」とある。
 6:底本頭注に、「直義。」とある。
 7:底本は、「大儀の前の小事にて候へば、強(あなが)ちに心を煩はさる可きにあらず。」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改め、補った。
 8:底本頭注に、「守時は高氏の兄である。」とある。
 9:底本頭注に、「〇千寿王 義詮。」「〇御妹 久時の女で守時の妹。」とある。
 10:底本は、「さま(二字以上の繰り返し記号)と賞翫どもありしに、」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
 11:底本頭注に、「〇八幡殿 太郎義家。」「〇後室 夫人。」「〇二位の禅尼 政子。」とある。
 12:底本は、「持(も)つところなり。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「水陸の運送。」とある。
 14:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 15:底本は、「朝敵(てうてき)を御追罰」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
 16:底本は、「弐心(ふたごゝろ)おはせじ」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 17:底本は、「結城(ゆふき)九郎左衛門親光(ちかみつ)は、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 18:底本頭注に、「予期の事。」とある。
 19:底本頭注に、「隠れ伏し。」とある。