足利殿大江山を打ち越え給ふ事
追手の合戦は、今朝辰の刻より始まつて、馬煙東西に靡き、鬨の声天地を響かして攻め合ひけれども、搦手の大将足利殿は、桂川の西の端に下り居て、酒盛してぞおはしける。かくて数刻を経て後、大手の合戦に寄せ手うち負けて、大将すでに討たれぬと告げたりければ、足利殿、「さらば、いざや、山を越えん。」とて、各、馬に打ち乗つて、山崎の方を遥かのよそに見捨てて、丹波路を西へ篠村を指して馬を早められけり。
ここに、備前国の住人中吉十郎と、摂津国の住人に奴可四郎とは、両陣の手分けに依つて搦手の勢の中に在りけるが、中吉十郎、大江山の麓にて、道より上手に馬を打ち上げて、奴可四郎を呼びのけていひけるは、「心得ぬ様かな。大手の合戦は、火を散らして今朝の辰の刻より始まりたれば、搦手は、芝居の長酒盛にてさて止みぬ。結句、名越殿討たれ給ひぬと聞こえぬれば、丹波路を指して馬を早め給ふは、この人、いかさま、野心をさし挟み給ふかとおぼゆるぞ。さらんに於いては、我等、いづくまでか相従ふべき。いざや、これより引つ返して、六波羅殿にこの由を申さん。」といひければ、奴可四郎、「いしくも宣ひたり。我も、事の体怪しくは存じながら、これも又、如何なる配立{*1}かあるらんと、とかう案じける間に、はや今日の合戦にははづれぬることこそ安からね。但し、この人敵になりたまひぬと見ながら只引つ返したらんは、余りにいふかひなくおぼゆれば、いざ一矢射て帰らん。」といふままに、中差取つて打ちつがひ、轟かけて、かさへ打つて廻さん{*2}としけるを、中吉、「如何なる事ぞ。御辺は物に狂ふか。我等僅かに二、三十騎にて、あの大勢に駆け合ひて犬死したらんは、本意か。嗚呼の高名はせぬにしかず。ただ事ゆゑなく引つ返して、後の合戦のために命を全うしたらんこそ、忠義を存じたる者なりけりと、後までの名も留まらんずれ。」と、再往制止しければ、実にもとや思ひけん、奴可四郎も中吉も、大江山より馬を引つ返して、六波羅へこそうち帰りけれ。
彼等二人、馳せ参つて事のよしを申しければ、両六波羅は、楯鉾とも憑まれたりける名越尾張守は討たれぬ、これぞ骨肉のごとくなれば、さりとも弐心はおはせじと、水魚の思ひをなされつる足利殿さへ敵になりたまひぬれば、憑む木の下に雨のたまらぬ心地して心細きにつけても、今まで附き纒ひたる兵どもも、又さこそはあらめと、心のおかれぬ人もなし。
足利殿篠村著御則ち国人馳せ参る事
さるほどに足利殿、篠村に陣を取つて、近国の勢を催されけるに、当国の住人に久下弥三郎時重といふ者、二百五十騎にて真先に馳せ参る。その旗の紋、笠印に皆、一番といふ文字を書きたりける。足利殿、これを御覧じて、怪しく思しければ、高右衛門尉師直{*3}を召されて、「久下の者どもが笠印に一番といふ字を書きたるは、元よりの家の紋か。又、これへ一番に参りたりといふ印か。」と尋ね給ひければ、師直、畏まつて、「由緒ある紋にて候。彼が先祖武蔵国の住人久下二郎重光、頼朝大将殿、土肥の杉山にて御旗を挙げられて候ひける時、一番に馳せ参じて候ひけるを、大将殿、御感候うて、『もし我、天下を保たば、一番に恩賞を行ふべし。』と仰せられて、自ら一番といふ文字を書いてたび候ひけるを、やがてその家の紋となして候。」と答へ申しければ、「さては、これが最初に参りたるこそ当家の吉例なれ。」とて、御賞翫、殊に甚しかりけり。
元より高山寺に楯篭りたる足立、荻野、児島{*4}、和田、位田、本庄、平庄の者どもばかりこそ、今更人の下風に立つべきにあらずとて、丹波より若狭へ打ち越えて、北陸道より攻め上らんとは企てけれ。その外、久下、長沢、志宇知、山内、葦田、余田、酒井、波賀野、小山、波々伯部、その外近国の者ども、一人も残らず馳せ参りける間、篠村の勢、程なく集まつて、その数、既に二万三千余騎になりにけり。
六波羅には、これを聞いて、「さては、今度の合戦、天下の安否たるべし。もし自然に打ち負くることあらば、主上、上皇を取り奉つて関東へ下向し、鎌倉に都を立てて、重ねて大軍を挙げ、兇徒を追討すべし。」と評定あつて、去る三月より北の方の館を御所にしつらひ、院、内を行幸成し奉らる。梶井二品親王は、天台座主にてましませば、たとひ転変すとも、御身に於いては何の御怖畏かあるべきなれども、当今の御連枝{*5}にてましませば、暫しは玉体に近づき参らせて宝祚の長久をも祈り申さんとにや、これも同じく六波羅へ入らせ給ふ。しかのみならず、国母、皇后、女院、北政所、三台、九卿、槐棘、三家{*6}の臣、文武百司の官、並びに竹園門徒の大衆、北面以下諸家の侍児、女房達に至るまで、我も我もと参り集まりける間、京中は忽ちにさびかへり{*7}、嵐の後の木の葉の如く、己がさまざま散り行けば、白河はいつしか栄えて、花一時の盛りをなせり。これも幾程の夢ならん、移り変はる世の有様、今更驚かるるも理なり。
「それ天子は四海を以て家となす。」といへり。その上、六波羅とても都近き所なれば、東洛渭川{*8}の行宮、さまで御心を傷ましめ{*9}らるべきには非ざれども、この君、御治天の後、天下遂に穏やかならず。あまつさへ、百寮忽ちに外都の塵に交じはりぬれば、「これ、ひとへに帝徳の天に背きぬる故なり。」と、罪一人に帰して、主上、殊に歎き思し召されければ、常は{*10}五更の天に至るまで、夜のおとどにも入らせ給はず。元老智化の賢臣どもを召されて、唯堯舜湯武の古き跡をのみ御尋ねあつて、かつて怪力乱神のいたづらなる事をば聞こし召されず。卯月十六日は中の申なりしかども、日吉の祭礼もなければ、国津御神もうらさびて、御贄の錦鱗、いたづらに湖水の浪に溌剌たり。十七日は中の酉なれども、賀茂の御生所{*11}もなければ、一條大路人すみて、車を争ふ所もなし。銀面空しく塵積もつて、雲珠光を失へり。「祭は豊年にも増せず、凶年にも減ぜず。」とこそいへるに、開闢以来闕如なき両社の祭礼も、この時に始めて絶えぬれば、神慮も如何と測り難く、恐れあるべき事どもなり。
さて官軍は、五月七日、京中に寄せて合戦あるべしと定められければ、篠村、八幡、山崎の先陣の勢、宵より陣を取り寄せて、西は梅津、桂里、南は竹田、伏見に篝を焼き、山陽、山陰の両道は、已にかくの如し。又、若狭路を経て高山寺の勢ども、鞍馬路、高雄より寄するとも聞こゆなり。今は僅かに東山道ばかりこそ開きたれども、山門、猶野心を含める最中なれば、勢多をも差し塞ぎぬらん。篭の中の鳥、網代の魚の如くにて、漏るべき方もなければ、六波羅の兵ども、上には勇める気色なれども、心は下に仰天せり。かの雲南万里の軍、「戸に三丁有れば一丁を抜きんず。」といへり。況んや又、千剣破程の小城一つを攻めんとて、諸国の勢、数を尽くして{*12}向かはれたれども、その城未だ落ちざる先に、禍ひ既に蕭墻の中より出でて、義旗忽ちに長安{*13}の西に近づきぬ。防がんとするに勢少なく、救はんとするに道塞がれり。あはれ、かねてよりかかるべしとだに知りたらば、京中の勢をば、さのみすかすまじかりしものをと、両六波羅を始めとして、後悔すれどもかひぞなき。
かねがね六波羅に議しけるは、「今度、諸方の敵、牒じ合はせて大勢にて寄するなれば、平場の合戦ばかりにては叶ふまじ。要害を構へて、時々馬の足を休め、兵の機を助けて、敵近づかば、駆け出で駆け出で戦ふべし。」とて、六波羅の館を中に篭めて、河原面七、八町に堀を深く掘つて、鴨川を懸け入れたれば、昆明池の春の水、西日を沈めて奫淪{*14}たるに異ならず。残り三方には、芝築地を高く築いて櫓をかき並べ、逆木を繁く引きたれば、塩州の受降城もかくやとおぼえておびただし。
誠に城の構へは、謀りごとあるに似たれども、智は長ぜるにあらず。「剣閣さかしといへども、これに憑る者はつまづく。根を深うし蔕を固うする所以にあらざるなり{*15}。洞庭深しといへども、これを恃む者は逃ぐ。人を愛し国を治むる所以にあらざるなり。」とかや。今已に天下二つに分かれて、安危この一挙にかけたる合戦なれば、粮を捨て船を沈むる謀りごとをこそ致さるべきに、今日よりやがて後ろ足を踏んで、僅かの小城に楯篭らんと、かねて心をつかはれける、武略の程こそ悲しけれ。
高氏願書を篠村八幡宮に篭めらるる事
さる程に、明くれば五月七日の寅の刻に、足利治部大輔高氏朝臣、二万五千余騎を率して篠村の宿を立ち給ふ。夜未だ深かりければ、閑かに馬を打ちて東西を見給ふ処に、篠村宿の南に当たつて陰森たる故柳疎槐の下に、社壇ありとおぼえて、焼きすさみたる庭火の影の仄かなるに、祢宜が袖振る鈴の音、幽かに聞こえて神さびたり。如何なる社とは知らねども、戦場に赴く門出なればとて、馬より下りて兜を脱ぎて、叢祠の前に跪き、「今日の合戦、事ゆゑなく朝敵を退治する擁護の力を加へ給へ。」と、祈誓を凝らしてぞおはしける。
時に、返り申し{*16}しける巫に、「この社、如何なる神を崇め奉りたるぞ。」と問ひ給ひければ、「これは中頃、八幡を遷し参らせてより以来、篠村の新八幡と申し候なり。」とぞ答へ申しける。足利殿、「さては、当家尊崇の霊神にておはしましけり。機感、最も相応せり。宜しきに随つて一紙の願書を奉らばや。」と宣ひければ、匹壇妙玄、鎧の引き合はせより矢立の硯を取り出だし、筆を控へてこれを書く。その詞に曰く、
{*k}敬つて白す祈願の事
夫れ思ん見るに、八幡大菩薩は聖代前烈{*17}の宗廟、源家中興の霊神なり。本地内証の月、高く十万億土の天に懸り、垂跡外融の光、明らかに七千余座の上に冠たり。縁に触れ化を分つと雖も、遂に未だ非礼の奠を享け給はず。慈を垂れ生を利すと雖も、偏へに正直の頭に宿らんと期し給ふ。大いなるかな其の徳たること。世を挙つて誠を尽す所以なり。ここに承久以来、当棘{*18}累祖の家臣、平氏末裔の辺鄙、恣に四海の権柄を執り、横しまに九代の猛威を振ふ。剰へ今聖主を西海の浪に遷し、貫頂を南山の雲に苦しましむ{*19}。悪逆の甚しきこと前代未聞なり。是れ朝敵の最たり。臣たるの道、命を致さざらんや。又神敵の先たり。天たるの理、誅を下さざらんや。高氏苟しくも彼の積悪を見て、未だ匪躬を顧みるに遑あらず。将に魚肉の薄き{*20}を以て、偏へに刀俎の利きに当つ。義卒力を合せ、旅を西南に張るの日、上将は鳩の嶺{*21}に軍し、下臣は篠村に軍す。共に瑞籬の影に在り、同じく擁護の懐に出づ。函蓋相応ぜり。誅戮何ぞ疑はん。仰ぐ所は百王鎮護の神約なり。勇を石馬の汗に懸く。憑む所は累代帰依の家運なり。奇を金鼠の噛むに寄す。神、将に義戦に与して霊威を耀かし給へ。徳風草に加へて敵を千里の外に靡かし、神光剣に代つて勝つことを一戦の中に得せしめ給へ。丹精誠有り、玄鑑{*22}誤ること勿れ。敬つて白す。
元弘三年五月七日 源朝臣高氏敬つて白す{*k}
とぞ読み上げたりける。文章玉を綴つて、詞明らかに理濃やかなれば、神も定めて納受しおはしますらんと、聞く人皆信を凝らし、士卒悉く憑みをかけ奉りけり。
足利殿、自ら筆を執りて判を据ゑ給ひ、上差の鏑一筋副へて宝殿に納められければ、舎弟直義朝臣を始めとして、吉良、石塔、仁木、細川、今川、荒川、高、上杉以下、相従ふ人々、我も我もと上矢一づつ奉りける間、その矢、社壇にみちみちて、塚の如くに積み上げたり。
夜既に明けければ、前陣進みて後陣を待つ。大将、大江山の峠を打ち越え給ひけるとき、山鳩一番ひとび来つて、白旗の上に翩翻す。「これ、八幡大菩薩の立ち翔つて護らせたまふ印なり。この鳩のとび行かんずるに任せて向ふべし。」と下知せられければ、旗差、馬をはやめて、鳩の後について行く程に、この鳩閑かに飛んで、大内{*23}の旧跡、神祇官の前なる樗の木にぞ留まりける。官軍、この奇瑞に勇んで、内野を指して馳せ向ひける道すがら、敵五騎、十騎、旗をまき兜を脱いで降参す。足利殿、篠村を出で給ひし時は、僅かに二万余騎ありしが、右近馬場を過ぎ給へば、その勢五万余騎に及べり。
校訂者注
1:底本は、「配立(はいりふ)」。底本頭注に、「てくばり。陣立。」とある。
2:底本頭注に、「敵の行手へ馬を懸け廻さう。」とある。
3:底本頭注に、「姓は高階。師重の子。」とある。
4:底本は、「小島、」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
5:底本頭注に、「〇当今 今上天皇。即ち光厳院。」「〇連枝 兄弟。」とある。
6:底本は、「三台(さんたい)、九卿(きうけい)、槐棘(くわいきよく)、三家(け)」。底本頭注に、「〇三台 太政、左、右大臣。」「〇槐棘 公卿。」「〇三家 閑院、花山、中院。」とある。
7:底本頭注に、「さびしくなり。」とある。
8:底本頭注に、「洛東賀茂川。」とある。
9:底本は、「御心を傷めしめ」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
10:底本は、「常(つね)に」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
11:底本は、「御生所(みあれ)」。底本頭注に、「賀茂明神の祭。」とある。
12:底本は、「況(いは)んや千剣破(ちはや)程の小城(こじろ)一つを攻めんとて、諸国の勢を尽(つく)して」。『太平記 二』(1980年)に従いそれぞれ補った。
13:底本頭注に、「京都のこと。」とある。
14:底本は、「奫淪(いんりん)」。底本頭注に、「深く沈むさま。」とある。
15:底本は、「蔕(ほぞ)を固うするにあらざる所以なり。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
16:底本は、「賽(かへりまうし)しける巫(かんなぎ)に、」。底本頭注に、「〇賽 御礼まゐり。」「〇巫 みこ。」とある。
17:底本頭注に、「祖先。」とある。
18:底本頭注に、「当家。」とある。
19:底本頭注に、「〇聖主 後醍醐天皇。」「〇貫頂 一山の頭即ち大塔宮を指す。」とある。
20:底本は、「菲(うすき)」。底本頭注に、「薄。自卑の詞。」とあるのに従い改めた。
21:底本頭注に、「〇鳩嶺 男山。」とある。
22:底本頭注に、「神仏の照覧 。」とある。
23:底本は、「大内(だいだい)」。底本頭注に、「大内裏。皇居。」とある。
k:底本、この間は漢文。
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