六波羅攻めの事

 さる程に、六波羅には、六万余騎を三手に分けて、一手をば神祇官の前にひかへさせて、足利殿を防がせらる。一手をば東寺へ差し向けて、赤松を防がせらる。一手をば伏見の上へ向けて、千種殿の寄せらるる竹田、伏見を支へらる。巳の刻の始めより、大手搦手、同時に軍始まつて、馬煙南北に靡き、鬨の声天地を響かす。
 内野へは、陶山と河野とに宗徒の勇士二万余騎を副へて向けられたれば、官軍も左右なくかけ入らず、敵もたやすくかけ出でず。両陣互に支へて、只矢軍に時をぞ移しける。ここに官軍の中より、櫨匂の鎧に薄紫の母衣かけたる武者唯一騎、敵の前に馬を駆け据ゑて高声に名乗りけるは、「その身、人数ならねば、名を知る人、よもあらじ。これは、足利殿の御内に設楽五郎左衛門尉と申す者なり。六波羅殿の御内に、我と思はん人あらば、駆け合つて手柄の程をも御覧ぜよ。」といふままに、三尺五寸の太刀を抜き、兜の真向にさしかざし、誠に矢坪少なく馬をたてて控へたり。その勢ひ、一騎当千と見えたれば、敵御方、互に軍を止めて見物す。
 ここに六波羅の勢の中より、年のほど五十ばかりなる老武者の、黒糸の鎧に五枚兜の緒をしめて、白栗毛の馬に青総懸けて乗つたるが、馬をしづしづと歩ませて高声に名乗りけるは、「その身、愚蒙なりといへども、多年奉行の数に加はつて末席をけがす家なれば、人は定めて筆とりなんど侮つて、あはぬ敵とぞ思ひ給ふらん。然りといへども我等が先祖をいへば、利仁将軍{*1}の氏族として、武略累葉の家業なり。今、某、十七代の末孫に斎藤伊予房玄基といふ者なり。今日の合戦、敵御方の安否なれば、命を何のために惜しむべき。死に残る人あらば、我が忠戦を語つて子孫に留むべし。」と云ひ捨てて、たがひに馬を駆け合はせ、鎧の袖と袖とを引き違へて、むずと組んでどうど落つ。設楽は力勝りなれば、上になつて斎藤が首を掻く。斎藤は心早き者なりければ、挙げざまに設楽を三刀刺す。いづれも剛の者なりければ、死して後までも、互に引つ組みたる手を放たず。共に刀を突き立てて、同じ枕にこそ臥したりけれ{*2}。
 また源氏の陣より、紺の唐綾縅の鎧に、鍬形打つたる兜の緒をしめ、五尺余りの太刀を抜いて肩にかけ、敵の前、半町ばかりに馬を駆け寄せて、高声に名乗りけるは、「八幡殿{*3}より以来、源氏代々の侍として、さすがに名は隠れなけれども、時に取つて名を知られねば、然るべき敵に逢ひ難し。これは、足利殿の御内に大高二郎重成といふ者なり。先日、度々の合戦に高名したりと聞こゆる陶山備中守、河野対馬守はおはせぬか。出合ひたまへ。打物して人に見物せさせん。」といふままに、手綱{*4}かいくり、馬に白泡かませて控へたり。
 陶山は、東寺の軍強しとて、俄に八條へ向ひたりければ、この陣にはなし。河野対馬守ばかり一陣に進んでありけるが、大高に詞をかけられて、元来たまらぬ駆け武者{*5}なれば、なじかは少しもためらふべき。「通治、これにあり。」といふままに、大高に組まんと相近づく。これを見て、河野対馬守が猶子に七郎通遠とて、今年十六になりける若武者、父を討たせじとや思ひけん、真先に馳せ塞がつて、大高に押し並べてむずと組む。大高、河野七郎が総角を掴んで宙にひつ提げ、「己ほどの小者と組んで勝負はすまじきぞ。」とて、差しのけて鎧の笠印をみるに、その紋、傍折敷に三文字を書いて著けたりけり。「さては、これも河野が子か甥かにてぞあらん。」と打ち見て、片手打ちの下げ切りに諸膝かけず切つて落とし、弓だけ三杖{*6}ばかり投げたりける。
 対馬守、最愛の猶子を目の前に討たせて、なじかは命を惜しむべき。大高に組まんと、諸鐙をあはせて馳せかかる処に、河野が郎等ども、これを見て、主を討たせじと、三百余騎にてをめいてかかる。源氏、また、大高を討たせじと、一千余騎にてをめいてかかる。源平互に入り乱れて、黒煙を立てて攻め戦ふ。官軍、多く討たれて内野へぱつと引く。源氏、新手をいれ替へて戦ふに、六波羅勢、若干討たれて河原へさつと引けば、平氏、新手をいれ替へて、ここを先途と戦ふ。一條二條を東西へ、追つつ返しつ、七、八度がほどぞ揉み合ひたる。源平両陣もろともに、互に命を惜しまねば、剛臆いづれとは見えざりけれども、源氏は大勢なれば、平氏、遂に打ち負けて、六波羅を指して引き退く。
 東寺へは赤松入道円心、三千余騎にて寄せかけたり。楼門近くなりければ、信濃守範資、鐙踏ん張り左右を顧みて、「誰かある。あの木戸、逆茂木、ひき破つて捨てよ。」と下知しければ、宇野、柏原、佐用、真島の早り雄の若者ども三百余騎、馬を乗り捨てて走り寄り、城の構へを見渡せば、西は羅城門の礎より東は八條河原辺まで、五六、八九寸の琵琶の甲、安郡{*7}なんどをゑり貫いてしたたかに塀を塗り、前には乱杭、逆茂木をひきかけて、広さ三丈余りに堀をほり、流水をせき入れたり。飛び浸らんとすれば、水の深さのほどを知らず。渡らんとすれば、橋を引きたり。いかがせんと、案じ煩ひたる処に、播磨国の住人妻鹿孫三郎長宗、馬より飛んで下り、弓を差し下して水の深さを探るに、末弭{*8}僅かに残りたり。「さては、我がたけは立たんずるものを。」と思ひければ、五尺三寸の太刀を抜いて肩に掛け、貫{*9}脱いで抛げすて、かつぱと飛び浸りたれば、水は胸板の上へもあがらず。
 後に続いたる武部七郎、これを見て、「堀は浅かりけるぞ。」とて、たけ五尺ばかりなる小男が、是非なく飛び入りたれば、水は兜をぞ越えたりける。長宗、きつと見返つて、「我が総角に取りついてあがれ。」といひければ、武部七郎、妻鹿が鎧の上帯を踏んで肩に乗り揚がり、一跳ねはねて向ひの岸にぞ著きにける。妻鹿、からからと笑つて、「御辺は我を橋にして渡つたるや{*10}。いで、その塀、ひき破つて捨てん。」といふままに、岸より上へつと跳ね揚がり、塀柱の四、五寸に余つて見えたるに手を懸け、えいや、えいやと引くに、一、二丈ほり上げて、山の如くなる揚げ土、壁と共に崩れて、堀は平地になりにけり。
 これを見て、築垣の上に三百余箇所掻き並べたる櫓より、さし詰めひき詰め射ける矢、雨の降るよりも猶しげし。長宗が鎧の菱縫、兜の吹き返しに立つ所の矢、少々折りかけて、高櫓の下へつと走り入り、両金剛の前に太刀をさかさまにつき、歯噛みして立ちたるは、いづれを二王、いづれを孫三郎とも分けかねたり。東寺、西八條、針、唐橋にひかへたる六波羅の兵一万余騎、木戸口の合戦強しと騒いで、皆一手になり、東寺の東門の脇より、湿雲の雨を帯びて暮山を出でたるが如く、ましぐらにうち出でたり。妻鹿も武部も、すはや、討たれぬと見えければ、佐用兵庫助、得平源太、別所六郎左衛門、同じき{*11}五郎左衛門、相懸かりに懸かつて面も振らず戦うたり。
 「あれ討たすな、殿原。」とて、赤松入道円心、嫡子信濃守範資、次男筑前守貞範、三男律師則祐、真島、上月、菅家、衣笠の兵三千余騎、抜き連れてぞかかりける。六波羅の勢一万余騎、七縦八横{*12}に破られて、七條河原へ追ひ出ださる。一陣破れて残党全からざれば、六波羅の勢、竹田の合戦にも打ち負け、木幡、伏見の軍にも負けて、落ち行く勢、散り散りに六波羅の城へ逃げ篭る。勝つに乗つて逃ぐるを追ふ四方の寄せ手五万余騎、皆一所に寄せて、五條の橋詰より七條河原まで、六波羅を囲みぬること、幾千万といふ数を知らず。されども東一方をばわざと開けられたり。これは、敵の心を一つになさで、たやすく攻め落さんための謀りごとなり。
 千種頭中将忠顕朝臣、士卒に向つて下知せられけるは、「この城、尋常の思ひをなして延び延びに攻めば、千剣破の寄せ手、彼を捨てて、ここの後詰めをしつとおぼゆるぞ。諸卒、心を一つにして、一時が間に攻め落とすべし。」と下知せられければ、出雲、伯耆の兵ども、雑車二、三百輌取り集めて、轅と轅とを結ひ合はせ、その上に家を壊つて山のごとくに積み挙げて、櫓の下へさし寄せ、一方の木戸を焼き破りけり。
 ここに、梶井宮の御門徒、上林房、勝行房の同宿ども、ひた兜にて三百余人、地蔵堂の北の門より五條の橋詰へ討つて出でたりける間、坊門少将、殿の法印の兵ども三千余騎、僅かの勢にまくり立てられて、河原三町を追つ越さる。されども山徒、さすがに小勢なれば、長追ひしては悪しかりなんとて、また城のなかへ引つ篭る。
 六波羅に楯篭る所の軍勢、少なしといへども、その数、五万騎に余れり。この時、もし志を一つにして、同時にかけ出でたらましかば、引き立つたる寄せ手ども、足をためじと見えしかども、武家、亡ぶべき運の極めにやありけん、日頃名を顕はせし剛の者といへども勇まず、無双の強弓精兵といはるる者も、弓引かずして、只呆れたるばかりにて、ここかしこにむら立ちて、落ち支度の外は、擬勢もなし。
 名を惜しみ家を重んずる武士どもだにも、かくの如し。如何に況んや、主上、上皇を始め参らせて、女院、皇后、北政所{*13}、月卿雲客、児、女童、女房達に至るまで、軍といふ事は、未だ目にも見給はぬ事なれば、鬨の声、矢叫びの音に懼ぢをののかせ給ひて、「こは如何すべき。」と、消え入るばかりの御気色なれば、げにも理なりと、御痛はしきさまを見参らするに{*14}つけても、両六波羅、いよいよ気を失つて、惘然の体なり。
 今まで弐心なき者と見えつる兵なれども、かやうに城中の色めきたる様を見て、叶はじとや思ひけん、夜に入りければ、木戸を開き逆茂木を越えて、我先にと落ち行きけり。義を知り命を軽んじて残り留まる兵、僅かに千騎にも足らず見えにけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「藤原利仁。醍醐帝頃の人。」とある。
 2:底本は、「臥したりける。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「太郎義家。」とある。
 4:底本は、「手縄(たづな)」。
 5:底本頭注に、「血気の駆け武者。」とある。
 6:底本は、「弓だけ三杖(つゑ)」。底本頭注に、「〇弓だけ 弓の長さだけの距離。弓の長さは通常七尺五寸。」とある。
 7:底本は、「琵琶(びは)の甲(かふ)、安郡(やすのこほり)」。底本頭注に、「〇琵琶の甲 琵琶の腹。こゝは甲に用ゐる材料かといふ。」「〇安郡 近江国野州郡から出る材料かといふ。」とある。
 8:底本は、「末弭(うらはず)」。底本頭注に、「弓づるをかける部分の上部の方。」とある。
 9:底本は、「貫(つらぬき)」。底本頭注に、「頬貫。足に穿つ一種の武具で皮製。」とある。
 10:底本は、「渡したるや。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 11:底本は、「別所六郎左衛門、五郎左衛門、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 12:底本は、「七縦(じう)六横(わう)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「〇主上 光厳天皇。」「〇上皇 花園院。」「〇北政所 摂政関白の夫人。」とある。
 14:底本は、「見進(まゐ)らすに」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。