主上上皇御沈落の事
ここに、糟谷三郎宗秋、六波羅殿の御前に参つて申しけるは、「御方の御勢、次第に落ちて、今は千騎に足らぬ程になりて候。この御勢にて大敵を防がんことは、叶はじとこそおぼえ候へ。東一方をば、敵、未だ取りまはし候はねば、主上、上皇を取り奉つて、関東へ御下り候うて後、重ねて大勢を以て京都を攻められ候へかし。佐々木判官時信、勢多の橋を警固して候を召し具せられば、御勢も不足候まじ。時信、御供仕るほどならば、近江国に於いては、手指す者は候まじ。美濃、尾張、三河、遠江には御敵有りとも承らねば、路次は定めて無為にぞ候はんずらん。鎌倉に御著き候ひなば、逆徒の退治、踵を回らすべからず。先づ思し召し立ち候へかし。これ程にあさまなる{*1}平城に、主上、上皇を篭め参らせて、名将匹夫の鋒に名を失はせ給はんこと、口惜しかるべきことに候はずや。」と、再三強ひて申しければ、両六波羅、げにもとや思はれけん、「さらば先づ、女院、皇后、北政所を始め参らせて、面々の女性、幼き人々を忍びやかにおとして後、心閑かに一方を打ち破つて落つべし。」と評定あつて、小串五郎兵衛尉を以て、この由、院、内{*2}へ申されたりければ、国母、皇后、女院、北政所、内侍、上童、上臈女房達に至るまで、城中に篭りたるが恐ろしさに、思はぬ別れの悲しさも、後、如何になり行かんずる様をも知らず、かちはだしにて我先にと迷ひ出でたまふ。ただ金谷園裏の春の花、一朝の嵐に誘はれて、四方の霞に散り行きし、昔の夢に異ならず。
越後守仲時、北の方に向ひて宣ひけるは、「日頃の間は、たとひ思ひの外に都を去ることありとも、いづくまでも伴ひ申さんとこそ思ひつれども、敵、東西に満ちて道を塞ぎぬときこゆれば、心安く関東まで落ち延びぬともおぼえず。御事{*3}は、女性の身なれば苦しかるまじ。松寿は、いまだ幼稚なれば、敵、たとひ見つけたりとも、誰が子ともよも知らじ。只今の程に夜に紛れて、いづ方へも忍び出で給ひて、片辺土の方にも身を隠し、暫く世の静まらん程を待ちたまふべし。道の程、事ゆゑなく関東につきなば、やがて御迎ひに人を参らすべし。もし又、我等、道にて討たれぬと聞き給はば、如何なる人にも相馴れて、松寿を人となし、心附きなば僧になして、我が後世をとはせ給へ。」と心細げに云ひ置いて、涙を流して立ち給ふ。
北の方、越後守の鎧の袖をひかへて、「などや、かくうたてしき言の葉に聞こえ侍るぞや。この折節、幼き者なんど引き具して、知らぬ辺りにやすらはば、誰か落人のその方様と思はざらん。又、日頃より知りたる人の辺りにたち宿らば、敵に捜し出だされて、我が身の恥を見るのみにあらず、幼き者の命をさへ失はんことこそ悲しけれ。道にて思ひの外の事あらば、そこにてこそ共にともかくも成りはてめ。憑む蔭なき木の下に、世を秋風の露の間も、棄て置かれ参らせては、ながらふべき心地もせず。」と、泣き悲しみ給ひければ、越後守も、心は猛しといへども、さすがに岩木の身ならねば、慕ふ別れを捨てかねて、遥かに時をぞ移されける。
昔、漢の高祖と楚の項羽と戦ふこと、七十余度なりしに、項羽、遂に高祖に囲まれて、夜明けば討死せんとせし時に、漢の兵、四面にしてみな楚歌するを聞きて、項羽、則ち帳中に入り、その婦人虞氏に向つて、別れを慕ふ悲しみを含んで、自ら歌を作つていはく、
{*k}力山を抜き、気世を蓋ふ 時利あらず、騅逝かず
騅逝かず、奈何かすべき 虞氏虞氏、汝を奈何せん{*k}
と悲歌慷慨して、項羽、涙を流し給ひしかば、虞氏、悲しみに堪へかねて、則ち自ら剣の上に伏し、項羽に先立つて死にけり。項羽、あくる日の戦ひに、二十八騎を伴ひて、漢の軍四十万騎をかけ破り、自ら漢の将軍三人が首を取つて、討ち残されたる兵に向つて、「我、遂に漢の高祖がために亡ぼされぬる事、戦ひの罪にあらず。天、我を亡ぼせり。」と、自ら運を計つて、遂に烏江の辺にして自害したりしも、かくやと思ひ知られて、涙を落とさぬ武士はなし。
南の方左近将監時益は、行幸の御前を仕つて打ちけるが、馬に乗りながら北の方{*4}越後守の中門の際まで打ち寄せて、「主上、はや寮の御馬に召されて候に、などや長々しく打ち立たせ給はぬぞ。」と云ひ捨てて{*5}打ち出でければ、仲時、力なく、鎧の袖に取り著きたる北の方、幼き人をひき放して、縁より馬にうち乗り、北の門を東へうち出で給へば、捨て置かるる人々、泣く泣く左右へ{*6}別れて、東の門より迷ひ出でたまふ。行く行く、泣き悲しむ声遥かに耳に留まつて、離れもやらぬ悲しさに、落ち行く先の路暮れて、馬に任せて歩ませ行く、これを限りの別れとは、互に知らぬぞあはれなる。
十四、五町打ち延びて、後を顧みれば、はや両六波羅の館に火かけて、一片の煙と焼き上げたり。五月闇のころなれば、前後も見えず暗きに、苦集滅道の辺に野伏みちみちて、十方より射ける矢に、左近将監時益は、頚の骨を射られて、馬よりさかさまに落ちぬ。糟谷七郎、馬より下りてその矢を抜けば、忽ちに息止まりにけり。敵、いづくにありとも知らねば、馳せ合つて敵を討つべき様もなし。又、忍びて落つる道なれば、傍輩に知らせて返し合はすべきにてもなし。只同じ枕に自害して、後世までも主従の義を重んずるより外の事はあらじと思ひければ、糟谷、泣く泣く主の首を取つて錦の直垂の袖に包み、道の傍の田の中に深く隠して、則ち腹掻き切つて、主の死骸の上に重なつて、抱きついてぞ伏したりける。
竜駕、遥かに四宮河原を過ぎさせ給ふ処に、「落人の通るぞ。打ち留めて物具剥げ。」と呼ばはる声、前後に聞こえて、矢を射る事、雨の降るが如し。「かくては、行く末とても如何あるべき。」とて、東宮を始め参らせて、供奉の卿相雲客、方々へ落ち散り給ひける程に、今は僅かに日野大納言資名、勧修寺中納言経顕、綾小路中納言重資、禅林寺宰相有光ばかりぞ、竜駕の前後には供奉せられける。都を一片の暁の雲に隔てて、思ひを万里の東の道に傾けさせ給へば、剣閣の遠き昔{*7}も思し召し合はせられ、寿水の乱れたりし世もかくこそと、叡襟を悩まし給ふ主上、上皇{*8}も、御涙、更にせきあへず。五月の短か夜明けやらで、関のこなたも闇ければ、杉の木蔭に駒を駐めて、暫くやすらはせたまふ処に、いづくより射るとも知らぬ流れ矢、主上の左の御肱に立ちにけり。陶山備中守、急ぎ馬より飛び下りて、矢を抜いて御疵を吸ふに、流るる血、雪の御肌を染めて、見参らするに目もあてられず。忝くも万乗の主、卑しき匹夫の矢先に破られて、神竜、忽ちに釣者の網にかかれる事、浅ましかりし世の中なり。
さる程に、東雲漸くあけ初めて、朝霧僅かに残れるに、北なる山を見渡せば、野伏どもとおぼえて、五、六百人が程、楯をつき鏃を支へて待ち懸けたり。これを見て、面々、度を失つてあきれたり。ここに備前国の住人中吉弥八、行幸の御前に候ひけるが、敵近く馬をかけよせて、「忝くも一天の君、関東へ臨幸なる処に、何者なれば、かやうの狼籍をば仕るぞ。心ある者ならば、弓をふせ兜を脱いで通し奉るべし。礼儀を知らぬ奴原ならば、一々に召し捕つて、頚切りかけて通るべし。」といひければ、野伏ども、からからと笑つて、「如何なる一天の君にても渡らせ給へ、御運已に尽きて落ちさせ給はんずるを、通し参らせんとは申すまじ。たやすく通りたく思し召さば、御供の武士の馬物具を皆捨てさせて、御心安く落ちさせ給ふべし。」といひもはてず、同音に鬨をどつと作る。
中吉弥八、これを聞いて、「憎い奴原が振舞かな。いで、ほしがる物具取らせん。」といふままに、若党六騎、馬の鼻を並べてかけたりけるに、慾心熾盛の野伏ども、六騎の兵にかけ立てられて、蜘蛛の子を散らす如く、四角八方へぞ逃げ散りける。六騎の兵、六方へ分かれて逃ぐるを追ふ事、各数十町なり。弥八、余りに長追ひしたりける程に、野伏二十余人、返し合はせて、これを中に取り篭むる。然れども弥八、少しもひるまず、その中の棟梁と見えたる敵に、馳せ並べてむずと組み、馬二匹が間へどうと落ちて、四、五丈ばかり高き片岸の上より、上になり下になり転びけるが、共に組みも放れずして、深田の中へころび落ちにけり。中吉、下になり、挙げざまに一刀ささんとて、腰刀を探りけるに、ころぶ時抜けてや失せたりけん、鞘ばかりあつて刀はなし。上なる敵、中吉が胸板のうへに乗つ懸かつて、鬢の髪を掴んで、頚を掻かんとしける処に、中吉、刀加へに{*9}敵の小腕を丁と握りすくめて、「暫く聞き給へ、申すべき事あり。御辺、今は我をな恐れ給ひそ。刀があらばこそ、跳ねかへして勝負をもせめ。又、続く御方なければ、落ち重なつて我を助くる人もあらじ。されば、御辺の手にかけて、頚を取つて出だされたりとも、かつて実検にも及ぶまじ。高名にもなるまじ。
「我は、六波羅殿の御雑色に六郎太郎といふ者にて候へば、見知らぬ人も候まじ。無用の下部の頚取つて罪を作りたまはんより、我が命を助けてたび候へ。その悦びには、六波羅殿の銭を隠して六千貫埋づめられたる所を知つて候へば、手引き申して御辺に所得せさせ奉らん。」といひければ、誠とや思ひけん、抜いたる刀を鞘に差し、下なる中吉をひき起こして、命を助くるのみならず、様々の引出物をし、酒なんどを勧めて、京へ連れて上りたれば、弥八、六波羅の焼け跡へ行き、「正しくここに埋づめられたりしものを、はや人が掘つて取りたりけるぞや。徳つけ奉らんと思ひたれば、耳のびくが薄くおはしけり{*10}。」と欺いて、空笑ひしてこそ返しけれ。中吉が謀りごとに道開けて、主上、その日は篠原の宿に著かせ給ふ。ここにて賤しげなる網代の輿を尋ね出でて、かち立ちなる武者ども、俄に駕輿丁の如くになつて、御輿の前後をぞ仕りける。
天台座主梶井二品親王は、これまで御供申させ給ひたりけるが、行く末とても、道の程心安く過ぐべしともおぼえさせ給はねば、いづくにも暫し立ち忍ばばやと思し召して、「御門徒に誰か候。」と御尋ねありけれども、「去んぬる夜の路次の合戦に、或いは疵を蒙つて留まり、或いは心替はりして落ちけるにや。中納言僧都経超、二位寺主浄勝二人より外は、供奉仕りたる出世坊官、一人も候はず。」と申しければ、「さては、殊更長途の逆旅、叶ふまじ。」とて、これより引き別れて、伊勢の方へぞ赴かせ給ひける。
「さらでだに山立ち{*11}多き鈴鹿山を、飼ひたる馬に白鞍置いて召されたらんは、中々道の讎となるべし。」とて、御馬を皆、宿の主に賜うて、門主は、長々と蹴垂れたる長絹の御衣に檳榔の裏無{*12}を召され、経超僧都は、袙重ねたる黒衣に水精の念珠手に持つて、歩みかねたる有様、如何なる人もこれを見て、「すはや、これこそ落人よ。」と、思はぬ者はあるべからず。されども、山王大師の御加護にや依りけん、道に行き逢ひ奉る山路の木こり、野径の草刈り、御手を引き御腰を押して、鈴鹿山を越し奉る。
さて、伊勢の神官{*13}なる人を平に御憑みあつておはしましけるに、神官{*14}、心あつて、身の難に遇ふべきをも顧みず、とかく隠しおきまゐらせければ、ここに三十余日御忍びあつて、京都少し静まりしかば、還御成つて、三、四年が間は、白毫院といふ処に御遁世の体にてぞ御座ありける。
校訂者注
1:底本頭注に、「要害の薄き。」とある。
2:底本頭注に、「院御所と内裏。即ち上皇と天皇。」とある。
3:底本は、「御事(おこと)」。底本頭注に、「女を呼ぶのに用ゐる言。貴女。」とある。
4:底本頭注に、「〇南の方 南六波羅方。」「〇北の方 北六波羅方。」とある。
5:底本は、「云ひ立てて」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
6:底本は、「左右に別(わか)れて、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「唐の玄宗皇帝が天宝十五年安禄山に苦められて蜀の剣閣を過ぎし昔のこと。」とある。
8:底本頭注に、「〇主上 光厳院。」「〇上皇 花園院。」とある。
9:底本頭注に、「刀もろともに。」とある。
10:底本は、「薄くおはしける。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。底本頭注に、「〇耳のびくが薄く 耳朶が薄くて運が悪く。」とある。
11:底本頭注に、「山賊。」とある。
12:底本は、「檳榔(びんらう)の裏無(うらなし)」。底本頭注に、「棕梠の葉で作つた草履。」とある。
13・14:底本は、「神宮(じんぐう)」。底本頭注および『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
k:底本、この間は漢文。
k:底本、この間は漢文。
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