巻第十

千寿王殿大蔵谷を落ちらるる事

 足利治部大輔高氏、敵になり給ひぬる事、道遠ければ、飛脚未だ到来せず。鎌倉には、かつてその沙汰も無かりけり。
 かかりし処に、元弘三年五月二日の夜半に、足利殿の二男千寿王殿、大蔵谷を落ちて、行方知らずなり給ひけり。これに依つて、鎌倉中の貴賤、「すはや、大事出で来ぬるは。」とて、騒動なのめならず。京都の事は、道遠きに依つて未だ分明の説もなければ、毎事心元なしとて、長崎勘解由左衛門入道と諏訪木工左衛門入道と、両使にて上られける処に、六波羅の早馬、駿河の高橋にてぞ行き合ひける。「名越殿は、討たれ給ふ。足利殿は、敵になり給ひぬ。」と申しければ、「さては、鎌倉の事も覚束なし。」とて、両使は、取つて返し関東へぞ下りける。
 ここに高氏の長男竹若殿は、伊豆の御山におはしけるが、伯父の宰相法印良遍、児、同宿十三人、山伏の姿になつてひそかに上洛し給ひけるが、浮島原にて、かの両使にぞ行き合ひ給ひける。諏訪、長崎、生け捕り奉らんとおもふところに、宰相法印、是非なく馬上にて腹切つて、道の傍らにぞ臥したまひける。長崎、「さればこそ内に野心のある人は、外に遁るる詞なし。」とて、竹若殿をひそかに刺し殺し奉り、同宿十三人をば頚を刎ねて、浮島原に懸けてぞ通りける。

新田義貞謀叛の事 附 天狗越後勢を催す事

 かかりける処に、新田太郎義貞、去んぬる三月十一日、先朝{*1}より綸旨を賜ひたりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達をひそかに集めて、謀叛の計略をぞ廻らされける。かかる企てありとは思ひ寄らず、相模入道、舎弟の四郎左近大夫入道{*2}に十万余騎を差し副へて京都へ上せ、畿内西国の乱を静むべしとて、武蔵、上野、安房、上総、常陸、下野六箇国の勢をぞ催されける。
 その兵粮のためにとて、近国の荘園に臨時の夫役{*3}をかけられける。中にも新田荘世良田には有徳の者多しとて、出雲介親連、黒沼彦四郎入道を使にて、「六万貫を五日が中に沙汰すべし。」と、堅く下知せられければ、使、先づかの所に臨んで、大勢を荘家にはなち入れて譴責する事、法に過ぎたり。新田義貞、これを聞き給ひて、「我が館の辺を、雑人の馬蹄にかけさせつる事こそ、返す返すも無念なれ。いかでか見ながらこらふべき。」とて、あまたの人勢{*4}を差し向けられて、両使を忽ちに生け捕つて、出雲介をば縛め置き、黒沼入道をば頚を切つて、同日の暮程に世良田の里の中にぞ懸けられたる。
 相模入道、この事を聞きて、大きに怒つて宣ひけるは、「当家、世を執つて已に九代、海内悉くその命に随はずといふ事、更になし。然るに近年、遠境、ややもすれば武命に随はず、近国常に下知を軽んずる事、奇怪なり。あまつさへ、藩屏の中にして使節を誅戮する條、罪科、軽きにあらず。この時、もし緩々の沙汰を致さば、大逆の基と成りぬべし。」とて、則ち武蔵、上野両国の勢に仰せて、「新田太郎義貞、舎弟脇屋次郎義助を討つて参らすべし。」とぞ下知せられける。
 義貞、これを聞いて、宗徒の一族達を集めて、「この事、如何あるべき。」と評定ありけるに、異議まちまちにして一定ならず。或いは、「沼田の荘を要害にして、利根河を前に当て、敵を待たん。」といふ議もあり。又、「越後国には、大略、当家の一族充ち満ちたれば、津張郡へ打ち越えて、上田山を伐り塞ぎ、勢をつけてや防ぐべき。」と、意見定まらざりけるを、舎弟脇屋次郎義助、暫く思案して、進み出でて申されけるは、「弓矢の道、死を軽んじて名を重んずるを以て義とせり。なかんづく相模守、天下を執つて百六十余年。今に至るまで、武威、盛んに振うて、その命を重んぜずといふ処なし。されば、たとひ利根河をさかうて防ぐとも、運尽きなば叶ふまじ。又、越後国の一族を憑みたりとも、人の心不和ならば、久しき謀りごとにあらず。『さしたる事も仕出ださぬもの故に、ここかしこへ落ち行きて、新田の某こそ、相模守{*5}の使を切りたりし咎に依つて、他国へ逃げて討たれたりしか{*6}。』なんど、天下の人口に入らん事こそ口惜しけれ。
 「とても討死をせんずる命を、謀叛人といはれて朝家のために捨てたらんは、なからん跡までも、勇みは子孫の面を悦ばしめ、名は路径の屍を清むべし。先立つて綸旨を下されぬるは、何の用にか当つべき{*7}。各、宣旨を額に当てて、運命を天に任せて、只一騎なりとも国中へ打ち出でて義兵を挙げたらんに、勢附かば、やがて鎌倉を攻め落とすべし。勢附かずば、只鎌倉を枕にして討死するより、外の事やあるべき。」と、義を先とし勇みを宗として宣ひしかば、当座の一族三十余人、皆この議にぞ同じける。
 「さらば、やがて事の漏れ聞こえぬ前に、打つ立て。」とて、同じき五月八日の卯の刻に、生品の明神の御前にて旗を挙げ、綸旨を披いて三度これを拝し、笠懸野へ打ち出でらる。相随ふ人々、氏族には大館次郎宗氏{*8}、子息孫次郎幸氏、二男弥次郎氏明、三男彦二郎氏兼、堀口三郎貞満、舎弟四郎行義、岩松三郎経家、里見五郎義胤、脇屋次郎義助、江田三郎光義、桃井次郎尚義、これ等を宗徒の兵として、百五十騎には過ぎざりけり。この勢にては如何と思ふ処に、その日の晩景に、利根河の方より馬、物具爽やかに見えたりける兵二千騎ばかり、馬煙を立てて馳せ来る。「すはや、敵よ。」と目にかけて見れば、敵にはあらずして、越後国の一族に、里見、鳥山、田中、大井田、羽川の人々にてぞおはしける。
 義貞、大きに悦びて、馬を控へて宣ひけるは、「この事、かねてよりその企てはありながら、昨日今日とは存ぜざりつるに、俄に思ひ立つことの候ひつる間、告げ申すまでなかりしに、何として存ぜられける。」と問ひ給ひければ、大井田遠江守、鞍壺に畏まつて申されけるは、「勅定に依つて大義を思し召したたるる由、承り候はずば、何としてかやうに馳せ参じ候べき。去んぬる五日、御使とて天狗山伏一人、越後の国中を一日の間に触れ廻りて通り候ひし間、夜を日に継いで馳せ参つて候。境を隔てたるものは、皆明日のほどにぞ参著候はんずらん。他国へ御出で候はば、暫くかの勢を御待ち候へかし。」と申されて、馬より下りて、各、対面色代{*9}して、人馬の息を継がせ給ひける処に、後陣の越後勢並びに甲斐、信濃の源氏ども、家々の旗をさしつれて、その勢五千余騎、おびただしく見えて馳せ来る。
 義貞、義助、ななめならず悦びて、「これ、ひとへに八幡大菩薩の擁護によるものなり。暫くも逗留すべからず。」とて、同じき九日、武蔵国へ打ち越え給ふに、紀五左衛門、足利殿{*10}の御子息千寿王殿を具足し奉り、二百余騎にて馳せ著きたり。これより上野、下野、上総、常陸、武蔵の兵ども、期せざるに集まり、催さざるに馳せ来つて、その日の暮程に二十万七千余騎、兜を並べ控へたり。されば、四方八百里に余れる武蔵野に、人馬共に充ち充ちて、身をそばだつるにところなく、打ち囲うだる勢なれば、天に飛ぶ鳥も翔ける事を得ず、地を走る獣も隠れんとするに処なし。草の原より出づる月は、馬鞍の上にほのめきて鎧の袖に傾けり。尾花が末を分くる風は、旗の影をひらめかし、母衣の手静まることぞなき。
 かかりしかば、国々の早馬、鎌倉へ打ち重なつて、急を告ぐること、櫛の歯を引くが如し。これを聞いて、時の変化をも計らぬ者は、「あな、ことごとし。何程の事かあるべき。唐土、天竺より寄せ来るといはば、実にも真しかるべし。我が朝秋津島の内より出でて、鎌倉殿{*11}を亡ぼさんとせん事、蟷螂車を遮り、精衛海を埋づめんとするに異ならず。」とあざみあへり。物の心をも弁へたる人は、「すはや、大事出で来ぬるは。西国、畿内の合戦未だ静まらざるに、大敵、又藩籬の中より起これり。これ、伍子胥が呉王夫差を諌めしに、『斉は瘡痏にして{*12}、越は腹心の病なり。』といひしに異ならず。」と恐れあへり。
 さる程に、京都へ討手を上さるべき事をば差し置いて、新田殿退治の沙汰ばかりなり。同じき九日、軍の評定あつて、翌日の巳の刻に、金沢武蔵守貞将{*13}に五万余騎を差し副へて、下河辺へ下さる。これは、先づ上総、下総の勢を附けて、敵の後詰めをせよとなり。一方へは、桜田治部大輔貞国を大将にて、長崎二郎高重{*14}、同孫四郎左衛門、加治二郎左衛門入道に、武蔵、上野両国の勢六万余騎を相副へて、上路より入間河へ向けらる。これは、水沢を前に当てて、敵の渡さん処を討てとなり。承久より以来、東風閑かにして、人皆弓箭をも忘れたるが如くなるに、今始めて干戈を動かす珍しさに、兵どもことごとしく、ここを晴れと出で立ちたりしかば、馬物具太刀刀、皆照り輝くばかりなれば、ゆゆしき見物にてぞありける。
 路次に両日逗留あつて、同じき十一日の辰の刻に、武蔵国小手差原に打ち臨み給ふ。ここにて遥かに源氏の陣を見渡せば、その勢、雲霞の如くにて、幾千万騎ともいふべき数を知らず。桜田、長崎、これを見て、案に相違やしたりけん、馬を控へて進み得ず。義貞、忽ちに入間河を打ち渡つて、先づ鬨の声を揚げ、陣を進め、早、矢合はせの鏑をぞ射させける。平家も鬨の声を合はせて、旗を進めて懸かりけり。初めは射手をそろへて散々に矢軍をしけるが、前は究竟の馬の足立ちなり。いづれも東国育ちの武士どもなれば、いかでか少しもたまるべき。太刀長刀の鋒をそろへ、馬の轡を並べて切つて入る。二百騎、三百騎、千騎、二千騎、兵を添へて相戦ふ事、三十余度になりしかば、義貞の兵三百余騎討たれ、鎌倉勢五百余騎討死して、日已に暮れければ、人馬共に疲れたり。軍は明日と約諾して、義貞、三里引き退いて、入間河に陣を取る。鎌倉勢も三里引き退いて、久米河に陣をぞ取つたりける{*15}。両陣相去るその間を見渡せば、三十余町に足らざりけり。いづれも今日の合戦の物語して、人馬の息をつがせ、両陣互に篝を焼いて、明くるを遅しと待ち居たり。
 夜既に明けぬれば、源氏は平家に先をせられじと、馬の足を進めて久米河の陣へ押し寄する。平家も、「夜明けば、源氏定めて寄せんずらん。待つて戦はば利あるべし。」とて、馬の腹帯を固め、兜の緒をしめ相待つとぞ見えし。両陣、互に寄せ合はせて、六万余騎の兵を一手に併せて、陽に開きて中に取り篭めんと勇みけり。義貞の兵、これを見て、陰に閉ぢて中を破られじとす。これぞこの、黄石公が虎を縛する手、張子房が鬼をとり拉ぐ術、いづれも皆存知の道なれば、両陣共に入り乱れて、破られず囲まれずして、只百戦の命を限りにし、一挙に死をぞ争ひける。されば、千騎が一騎になるまでも、互に引かじと戦ひけれども、時の運にやよりけん、源氏は僅かに討たれて、平家は多く亡びにければ、加治、長崎、二度の合戦に打ち負けたる心地して、分陪を指して引き退く。源氏、猶続いて寄せんとしけるが、連日数度の戦ひに、人馬あまた疲れたりしかば、一夜馬の足を休めて、久米河に陣をとり寄せて、明くる日をこそ待ちたりけれ。
 さる程に、桜田治部大輔貞国、加治、長崎等、十二日の軍に打ち負けて引き退く由、鎌倉へ聞こえければ、相模入道、舎弟の四郎左近大夫入道恵性を大将軍として、塩田陸奥入道、安保左衛門入道、城越後守、長崎駿河守時光、左藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明を差し副へて、重ねて十万余騎を下され、その勢、十五日の夜半ばかりに分陪に著きければ{*16}、当陣の敗軍、又力を得て、勇み進まんとす。
 義貞は、敵に新手の大勢加はりたりとは思ひ寄らず。十五日の夜未だ明けざるに、分陪へ押し寄せて鬨を作る。鎌倉勢、先づ究竟の射手三千人をすぐつて面に進め、雨の降る如く散々に射させける間、源氏、射たてられてかけえず。平家、これに利を得て、義貞の勢を取り篭め、余さじとこそ攻めたりけれ。新田義貞、逞兵をひきすぐつて、敵の大勢をかけ破つては裏へ通り、取つて返してはをめいてかけ入り、電光の激するがごとく、蜘手、輪違ひに七、八度が程ぞ当たりける。されども大敵、しかも新手にて、先度の恥を清めんと、義を専らにして闘ひけるあひだ、義貞、遂に打ち負けて、堀金{*17}を指して引き退く。その勢、若干討たれて、痛手を負ふ者、数を知らず。その日やがて追うてばし寄せたらば{*18}、義貞、ここにて{*19}討たれ給ふべかりしを、「今は敵、何程のことかあるべき。新田をば、定めて武蔵、上野の者どもが討つて出ださんずらん。」と、大様に憑んで時を移す。これぞ平家の運命の尽きぬる処のしるしなり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「先帝。」とある。
 2:底本頭注に、「〇相模入道 高時。」「〇四郎左近大夫入道 泰家。法名恵性。」とある。
 3:底本は、「天役(てんやく)」。底本頭注及び『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 4:底本は、「人数を」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 5・11:底本頭注に、「北條高時。」とある。
 6:底本は、「討たれたりしなんど、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 7:底本は、「当るべき。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 8:底本は、「大館(おほだて)七郎宗(むね)氏、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 9:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
 10:底本頭注に、「足利高氏。」とある。
 12:底本は、「晋(しん)は瘡痏(さうい)にして、」。底本頭注及び『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。底本頭注に、「〇瘡痏 きずあと。」とある。
 13:底本頭注に、「貞顕の子。」とある。
 14:底本頭注に、「〇貞国 時厳の子。」「〇高重 高資の子。」とある。
 15:底本は、「取りにける。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 16:底本は、「著きたれば、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 17:底本は、「掘金(ほりがね)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 18:底本頭注に、「追ひ寄せさへしたらば。ばしは強めの辞。」とある。
 19:底本は、「爰(こゝ)に討(う)たれ」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。