三浦大多和合戦意見の事

 かかりし程に、義貞も、せんかたなく思し召しける処へ、三浦大多和平六左衛門義勝は、かねてより義貞に志ありしかば、相模国の勢、松田、河村、土肥、土屋、本間、渋谷を具足して、以上その勢六千余騎、十五日の晩景に義貞の陣へ馳せ参る。義貞、大きに悦びて、急ぎ対面あつて、礼を厚くし席を近づけて、合戦の意見をぞ問はれける。
 平六左衛門、畏まつて申しけるは、「今、天下二つに分かれて、互の安否を合戦の勝負にかけたる事にて候へば、その雌雄、十度も二十度も、などかなくては候べき。但し、始終の落居は、天命の帰する処にて候へば、遂に太平を致されん事、何の疑ひか候べき。御勢に義勝が勢を併せて戦はんに、十万余騎。これも猶、敵の勢に及ばず候といへども、今度の合戦に一勝負せでは候べき。」と申しければ、義貞も、「いさとよ、当手の疲れたる兵を以て、大敵の勇み誇つたるにかからんことは、いかが。」と宣ひけるを、義勝、かさねて申しけるは、「今日の軍には、治定勝つべきいはれ候。その故は、昔、秦と楚と国を争ひける時、楚の将軍武信君、僅かに八万余騎の勢を以て、秦の将軍李由が八十万騎の勢に打ち勝ち、首を切る事、四十余万なり。これより武信君、心驕り、軍怠つて、秦の兵を恐るるに足らずと思へり。楚の副将軍に宋義といひける兵、これを見て、『戦ひに勝つて将驕り卒怠る時は、必ず敗るといへり。武信君、今、かくの如し。亡びずんば、何をか待たん。』と申しけるが、果たして後の軍に、武信君、秦の左将軍章邯がために討たれて、忽ちに一戦に亡びにけり。
 「義勝、昨日ひそかに人を遣はして敵の陣を見するに、その将驕れる事、武信君に異ならず。これ則ち、宋義が謂ひし所に違はず。所詮、明日の御合戦には、義勝、新手にて候へば、一方の先を承つて、敵を一当て当てて見候はん。」と申しければ、義貞、誠に心に服し、宜しきに随ひ、則ち今度の軍の成敗をば三浦平六左衛門にぞ許されける。
 明くれば五月十六日の寅の刻に、三浦、四万余騎が真つさきに進んで、分陪河原へ押し寄する。敵の陣近くなるまで、わざと旗の手をも下さず、鬨の声をも挙げざりけり。これは、敵を出し抜いて、手詰めの勝負を決せんためなり。案の如く、敵は、前日数箇度の戦ひに、人馬皆疲れたり。その上、今敵寄すべしとも思ひかけざりければ、馬に鞍をもおかず、物具をも取りそろへず。或いは遊君に枕を並べて、帯紐を解いて臥したる者もあり、或いは酒宴に酔ひを催されて、前後を知らず寝たる者もあり。只一業所感の者どもが、自滅を招くに異ならず。
 ここに、寄せ手相近づくを見て、河原面に陣を取つたる者、「只今、面より旗を巻いて、大勢の閑かに馬を打つて来れば、もし敵にてやあらん。御要心候へ。」と告げたりければ、大将を始めて{*1}、「さる事あり。三浦大多和が相模国の勢を催して、御方へ馳せ参ずると聞こえしかば、一定参りたりとおぼゆるぞ。かかるめでたき事こそなけれ。」とて、驚く者一人もなし。只とにもかくにも、運命の尽きぬる程こそ浅ましけれ。
 さる程に、義貞、三浦が先がけに追つすがうて、十万余騎を三手に分け、三方より押し寄せて、同じく鬨を作りける。恵性、鬨の声に驚いて、「馬よ、物具よ。」と慌て騒ぐ処へ、義貞、義助の兵、縦横無尽にかけたつる。三浦平六、これに力を得て、江戸、豊島、葛西、河越、坂東の八平氏、武蔵の七党を七手になし、蜘手輪違ひ十文字に、余さじとぞ攻めたりける。
 四郎左近大夫入道、大勢なりといへども、三浦が一時の謀りごとに破られて、落ち行く勢は散り散りに、鎌倉を指して引き退く。討たるる者は数を知らず。大将左近大夫入道も、関戸の辺にて已に討たれぬべく見えけるを、横溝八郎{*2}踏み止まつて、近づく敵二十三騎、時の間に射落とし、主従三騎討死す。安保入道、道勘父子三人、相随ふ兵百余人、同じ枕に討死す。その外、譜代奉公の郎従、一言芳恩の軍勢ども、三百余人引き返し、討死しける間に、大将四郎左近大夫入道は、その身に恙なくしてぞ山内まで引かれける。
 長崎二郎高重、久米河の合戦に、組んで討ちたりし敵の首二つ、切つて落としたりし敵の首十三、中間下部に取り持たせて、鎧に立つ処の箭をも未だ抜かず、疵の口より流るる血に、白糸の鎧忽ちに緋縅に染めなして、しづしづと鎌倉殿の御屋形へ参り、中門に畏まりたりければ、祖父の入道、世にも嬉しげに打ち見て出で迎へ、自ら疵を吸ひ血を含んで、涙を流して申しけるは、「古き諺に、『子を見る事、父に如かず。』といへども、我、先づ汝を以て上の御用に立ち難き者なりと思うて、常に不孝{*3}を加へし事、大きなる誤りなり。汝、今、万死を出でて一生に遇ひ、堅きを砕きける振舞、陳平、張良が難しとする処を究め得たり。相構へて今より後も、我が一大事と合戦して、父祖の名をも顕はし、守殿の御恩をも報じ申し候へ{*4}。」と、日頃の庭訓を翻して、只今の武勇を感じければ、高重、頭を地につけて、両眼に涙をぞ浮かべける。
 かかる処に、六波羅没落して、近江の番馬にて悉く自害の由、告げ来りければ、只今大敵と戦ふ中にこの事をきいて、大火をうち消して{*5}あきれ果てたる事、限りなし。その所従眷属ども、これを聞いて、泣き歎き憂ひ悲しむこと、喩へをとるに、ものなし。如何に猛く勇める人々も、足手もなゆる心地して、東西をもさらに弁へず。「然りといへども、この大敵を退けてこそ、京都へも討手を上さんずれ。」とて、先づ鎌倉の軍評定をぞせられける。この事、敵に知らせじとせしかども、隠れあるべき事ならねば、やがて聞こえて、「あはれ、潤色{*6}や。」と、悦び勇まぬものはなし。

鎌倉合戦の事

 さる程に、義貞、数箇度の戦ひに打ち勝ち給ひぬと聞こえしかば、東八箇国の武士ども、随ひ附くこと雲霞の如し。関戸に一日逗留あつて、軍勢の著到を附けられけるに、六十万七千余騎とぞ註せる。ここにてこの勢を三手に分けて、各二人の大将を差し副へ、三軍の帥を司らしむ。その一方には、大館二郎宗氏を左将軍として、江田三郎行義を右将軍とす。その勢、総て十万余騎、極楽寺の切り通しへぞ向かはれける。一方には堀口三郎貞満を上将軍とし、大島讃岐守守之を裨将軍として、その勢都合十万余騎、巨福呂坂へ指し向けらる。その一方には、新田義貞、義助、諸将の命を司つて、堀口、山名、岩松、大井田、桃井、里見、鳥山、額田、一井、羽川以下の一族達を前後左右に囲ませて、その勢五十万七千余騎、化粧坂よりぞ寄せられける。
 鎌倉中の人々は、昨日一昨日までも、分陪、関戸に合戦あつて、御方打ち負けぬと聞こえけれども、なほ物の数とも思はず。「敵の分際、さこそあらめ。」と侮つて、あながちに慌てたる気色も無かりけるに、大手の大将にて向かはれたる四郎左近大夫入道、僅かに討ちなされて、昨日の晩景に山内へ引き返されぬ。搦手の大将にて下河辺へ向かはれたりし金沢武蔵守貞将は、小山判官、千葉介に打ち負けて、下道より鎌倉へ引つ返し給ひければ、思ひの外なる珍事かなと、人みな周章しけるところに、結句五月十八日の卯の刻に、村岡、藤沢、片瀬、腰越、十間坂、五十余箇所に火をかけて、敵{*7}、三方より寄せ懸けたりしかば、武士、東西に馳せ違ひ、貴賤、山野に逃げ迷ふ。これぞこの、霓裳一曲の声の中に、漁陽の鼙鼓、地を動かし来り、烽火万里の詐りの後に、戎翟の旌旗、天を掠めて到りけん、周の幽王の滅亡せし有様{*8}、唐の玄宗の傾廃せしていたらくも、かくこそはありつらんと、思ひ知らるるばかりにて、涙も更に止まらず。浅ましかりし事どもなり。
 さる程に、義貞の兵、三方より寄すると聞こえければ、鎌倉にも相模左馬助高成、城式部大輔景氏、丹波左近大夫将監時守を大将として、三手に分けてぞ防ぎける。その一方には金沢越後左近大夫将監を差し副へて、安房、上総、下野の勢三万余騎にて化粧坂を固めたり。一方には、大仏陸奥守貞直を大将として、甲斐、信濃、伊豆、駿河の勢を相随へて五万余騎、極楽寺の切通しを固めたり。一方には赤橋前相模守盛時を大将として、武蔵、相模、出羽、奥州の勢六万余騎にて、洲崎の敵に向けらる。この外、末々の平氏八十余人、国々の兵十万余騎をば、弱からん方へ向くべしとて、鎌倉中に残されたり。
 さる程に、同日の巳の刻より合戦始まつて、終日終夜攻め戦ふ。寄せ手は大勢にて、新手を入れ替へ入れ替へ攻め入りければ、鎌倉方には、防ぎ場切所{*9}なりければ、打ち出で打ち出で相支へて戦ひける。されば、三方に作る鬨の声、両陣に呼ぶ箭叫びは、天を響かし地を動かす。魚鱗に懸かり鶴翼に開いて、前後に当たり左右を支へ、義を重んじ命を軽んじて、安否を一時に定め、剛臆を累代に残すべき合戦なれば、子討たるれども助けず、親は乗り越えて前なる敵に懸かり、主射落とさるれども引き起こさず、郎等はその馬に乗つてかけいで、或いは引つ組んで勝負をするもあり、或いは打ち違へて共に死するもありけり。その猛卒の機を見るに、万人死して一人残り、百陣破れて一陣になるとも、いつ果つべき軍とは見えざりけり。

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校訂者注
 1:底本は、「大将始(はじ)めて、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 2:底本は、「横溝(よこみぞ)八道」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「可愛がらぬこと。」とある。
 4:底本は、「守殿(かうのとの)の御恩をも報(はう)じ候へ」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。底本頭注に、「〇守殿 相模守高時。」とある。
 5:底本頭注に、「せんすべなき事の譬。」とある。
 6:底本頭注に、「光彩を添へること。」とある。
 7:底本は、「火をかけて、三方より」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 8:底本頭注に、「〇霓裳一曲の声の中に 歌舞して楽んでゐる間に。」「〇鼙鼓 進軍の時打つふりつゞみ様の物。長恨歌に『漁陽鼙鼓動地来、驚破霓裳羽衣曲。』」「〇烽火云々 幽王は寵姫の褒娰の機嫌をとるために事件なきに烽火をあげて諸侯を欺いたので実際に犬戎が迫つた時諸侯は懲りて救はず幽王は驪山下に殺された。」とある。
 9:底本は、「切所(せつしよ)」。底本頭注に、「一本『殺所』。要害の場処。」とある。