赤橋相模守自害の事 附 本間自害の事

 かかりける処に、赤橋相模守、今朝は洲崎へ向かはれたりけるが、この陣の軍剛くして、一日一夜のその間に、六十五度まで切り合ひたり。されば、数万騎ありつる郎従も、討たれ落ち失する程に、僅かに残るその勢は、三百余騎にぞなりにける。侍大将にて同陣に候ひける南條左衛門高直に向つて宣ひけるは、「漢楚八箇年の戦ひに、高祖、度毎に打ち負け給ひしかども、一度烏江の軍に利をえて、かへつて項羽を亡ぼされき。斉晋七十度の戦ひに、重耳{*1}、更に勝つ事なかりしかども、遂に斉境の戦ひに打ち勝ちて、文公、国を保てり。されば、万死を出でて一生を得、百度負けて一戦に利あるは、合戦の習ひなり。
 「今、この戦ひに、敵、いささか勝つに乗るに似たりといへども、さればとて当家の運、今日に窮まりぬとはおぼえず。然りといへども、盛時に於いては、一門の安否を見果つるまでもなく、この陣頭にて腹を切らんと思ふなり。その故は、盛時、足利殿に女性方の縁になりぬる間、相模殿{*2}を始め奉り、一家の人々、さこそ心をも置き給ふらめ。これ、勇士の恥づる所なり。かの田光先生は、燕丹{*3}に語らはれし時、『この事、漏らすな。』といはれて、その疑ひを散ぜんために命を失うて、燕丹が前に死したりしぞかし。この陣、闘ひ急にして、兵皆疲れたり。我、何の面目かあつて、堅めたる陣を引いて、しかも嫌疑の中に暫く命を惜しむべき。」とて、戦ひ未だ半ばならざる最中に、帷幕の中に物具脱ぎ捨てて、腹十文字に切り給ひて。北枕にぞ臥し給ふ。南條、これを見て、「大将、已に御自害ある上は、士卒、誰がために命を惜しむべき。いで、さらば御供申さん{*4}。」とて、続いて腹を切りければ、同志の侍九十余人、上が上に重なり伏して、腹をぞ切つたりける。さてこそ十八日の晩程に、洲崎、一番に破れて、義貞の官軍は、山内まで入りにけり。
 かかる処に、本間山城左衛門は、多年、大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、いささか勘気せられたる事あつて、出仕を許されず。未だ己が宿所にぞ候ひける。已に五月十九日の早旦に、極楽寺の切通しの軍破れて、敵攻め入るなんど聞こえしかば、本間山城左衛門、若党中間百余人、これを最後と出で立つて、極楽寺坂へぞ向ひける。敵の大将大館二郎宗氏が、三万余騎にて控へたる真中へかけ入つて、勇み誇つたる大勢を八方へおつ散らし、大将宗氏に組まんと、透間もなくぞ懸かりける。三万余騎の兵ども、須臾の程に分かれ靡き、腰越までぞ引きたりける。余りに手繁く進んで懸かりしかば、大将宗氏は取つて返し、思ふ程戦つて、本間が郎等と引つ組んで、刺し違へてぞ伏し給ひける。
 本間、大きに悦びて、馬より飛んで下り、その首を取つて鋒に貫き、貞直の陣に馳せ参じ、幕の前に畏まつて、「多年の奉公、多日の御恩、この一戦を以て報じ奉り候。又、御不審の身にて空しく罷り成り候はば、後世までの妄念とも成りぬべく候へば、今は御免を蒙つて、心安く冥途の御先仕り候はん。」と申しもはてず、流るる涙を抑へつつ、腹掻き切つてぞ失せにける。
 「『三軍をば帥を奪ふべし。』とは、彼をぞいふべき。『徳を以て怨みを報ず。』とは、これをぞ申すべき。恥づかしの{*5}本間が心中や。」とて、落つる涙を袖にかけながら、「いざや、本間が志を感ぜん。」とて、自ら{*6}打ち出でられしかば、相従ふ兵も、涙を流さぬはなかりけり。

稲村崎干潟となる事

 さる程に、極楽寺の切通しへ向かはれたる大館二郎宗氏、本間に討たれて、兵ども、片瀬、腰越まで引き退きぬと聞こえければ、新田義貞、逞兵二万余騎を率して、二十一日の夜半ばかりに片瀬、腰越をうち廻り、極楽寺坂へ打ち臨み給ふ。明け行く月に敵の陣を見給へば、北は切通しまで山高く路嶮しきに、木戸をかまへ垣楯を掻いて、数万の兵、陣を並べて並み居たり。南は稲村崎にて、沙頭、路狭きに、浪打際まで逆茂木を繁くひきかけて、沖四、五町がほどに{*7}大船どもをならべて、矢倉をかきて横矢に射させんと構へたり。
 実にもこの陣の寄せ手、叶はで引きぬらんも理なりと見給ひければ、義貞、馬より下り給ひて、兜を脱いで海上を遥々と伏し拝み、竜神に向つて祈誓し給ひけるは、「伝へ承る、日本開闢の主、伊勢天照太神は、本地を大日の尊像に隠し、垂跡を滄海の竜神に顕はし給へりと。吾が君、その苗裔として、逆臣のために西海の浪に漂ひ給ふ。義貞、今、臣たる道を尽くさんために、斧鉞を把つて敵陣に臨む。その志、ひとへに王化を助け奉つて、蒼生を安からしめんとなり。仰ぎ願はくは、内海外海の竜神八部、臣が忠義を鑑みて、潮を万里のほかに退け、道を三軍の陣に開かしめたまへ。」と至信に祈念し、自ら佩き給へる金作りの太刀を抜きて、海中へ投げ給ひけり。
 真に竜神、納受やし給ひけん、その夜の月のいり方に、前々更に干る事もなかりける稲村崎、俄に二十余町干上がりて、平沙渺々たり。横矢射んと構へぬる数千の兵船も、落ち行く潮に誘はれて、遥かの沖に漂へり。不思議といふも類なし。
 義貞、これを見給ひて、「伝へ聞く、後漢の弐師将軍{*8}は、城中に水尽き、渇に攻められける時、刀を抜いて岩石を刺ししかば、飛泉、俄に湧き出でき。我が朝の神功皇后は、新羅を攻め給ひし時、自ら干珠を取り、海上に抛げ給ひしかば、潮水遠く退いて、終に戦に勝つ事を得せしめ給ふと。これ皆、和漢の佳例にして、古今の奇瑞に相似たり。進めや、兵ども。」と下知せられければ、江田、大館、里見、鳥山、田中、羽川、山名、桃井の人々を始めとして、越後、上野、武蔵、相模の軍勢ども、六万余騎を一手になして、稲村崎の遠干潟を真一文字にかけ通りて、鎌倉中へ乱れ入る。
 あまたの兵、これを見て、後ろなる敵にかからんとすれば、前なる寄せ手、後についてせめ入らんとす。前なる敵を防がんと欲すれば、後ろの大勢、道を塞いで討たんと欲す。進退度を失ひ、東西に心迷うて、はかばかしく敵に向つて軍を至すことはなかりけり。
 ここに、島津四郎と申ししは、大力の聞こえあつて、誠に器量骨柄、人に勝れたりければ、御大事に逢ひぬべきものなりとて、執事長崎入道、烏帽子子にして一人当千と憑まれたりければ、先途の合戦に向はんとて、未だ口々の防ぎ場へは向けられず。わざと相模入道の屋形の辺にぞ置かれける。かかる処に浜の手破れて、源氏、已に若宮小路まで攻め入りたりと騒ぎければ、相模入道、島津を呼び寄せて、自ら酌を取つて酒を進め、三度傾けける時、三間の馬屋に立てられたりける関東無双の名馬白浪といひけるに、白鞍置いてぞ引かれける。見る人、これを羨まずといふ事なし。島津、門前よりこの馬にひたと打ち乗つて、由井浜の浦風に濃き紅の大笠印を吹きそらさせ、三つ物四つ物{*9}取りつけて、あたりを払うて馳せ向ひければ、あまたの軍勢、これを見て、「誠に一騎当千の兵なり。この間、執事の重恩を与へて、傍若無人の振舞せられたるも理かな。」と思はぬ人はなかりけり。
 義貞の兵、これを見て、「あはれ、敵や。」と罵りければ、栗生、篠塚、畑、矢部、堀口、由良、長浜を始めとして、大力のおぼえ取つたる荒者ども、我先に、「かの武者と組んで、勝負を決せん。」と、馬を進めて相近づく。「両方名誉の大力どもが、人交ぜもせず軍する。あれ見よ。」とののめきて{*10}、敵御方もろともに、固唾を呑うで汗を流し、これを見物してぞ控へたる。
 かかる処に島津、馬より飛んで下り、兜を脱いでしづしづと身繕ひをする程に、何とするぞと見居たれば、をめをめと降参して、義貞の勢にぞ加はりける。貴賤上下、これを見て、誉めつる詞を翻して、憎まぬ者はなかりけり。これを降人の始めとして、或いは年頃重恩の郎従、或いは累代奉公の家人ども、主を棄てて降人になり、親を棄てて敵につき、目もあてられざる有様なり。
 およそ源平威を振ひ、互に天下を争はんことも、今日を{*11}限りとぞ見えたりける。

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校訂者注
 1:底本は、「重耳(ちようじ)」。底本頭注に、「晋の文公の名。」とある。
 2:底本頭注に、「〇足利殿に云々 守時の妹は足利高氏の妻になつてゐる。」「〇相模殿 北條高時。」とある。
 3:底本頭注に、「〇田光先生 史記刺客伝に詳かである。」「〇燕丹 燕の孝王の子丹のこと。」とある。
 4:底本は、「御供せん。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「奥床しい。」とある。
 6:底本頭注に、「貞直自ら。」とある。
 7:底本は、「澳(おき)四五町かほどに」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 8:底本は、「弐師(じし)将軍」。底本頭注に、「李広。」とある。
 9:底本頭注に、「鉈、鎌、熊手、槌、鋸、鉄撮棒、鉞を七つ物と云ふから此の中のものを云ふのか。」とある。
 10:底本頭注に、「罵りさわいで。」とある。
 11:底本は、「今日限り」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。