鎌倉兵火の事 附 長崎父子武勇の事
さるほどに、浜面の在家並びに稲瀬河の東西に火をかけたれば、折節浜風烈しく吹き敷いて、車輪のごとくなる炎、黒煙の中にとび散つて、十町二十町が外に燃えつくこと、同時に二十余箇所なり。猛火の下より源氏の兵、乱れ入つて、途方を失へる敵どもをここかしこに射伏せ、切り伏せ、或いは引つ組んで差し違へ、或いは生け捕り分捕り、様々なり。煙に迷へる女童部ども、追つ立てられて、火の中堀の底ともいはず逃げ倒れたる有様は、これやこの、帝釈宮の戦ひに修羅の眷属ども、天帝のために罰せられて、剣戟の上に倒れ伏し、阿鼻大城の罪人が獄卒のしもとに駆られて、鉄湯の底に落ち入るらんも、かくやと思ひ知られて、語るに詞も更になく、聞くに哀れを催して、皆涙にぞむせびける。
さる程に、余煙四方より吹きかけて、相模入道殿{*1}の屋形近く火かかりければ、相模入道殿、千余騎にて葛西谷に引き篭り給ひければ、諸大将の兵どもは、東勝寺に充ち満ちたり。これは、父祖代々の墳墓の地なれば、ここにて兵どもに防ぎ矢射させて、心閑かに自害せんためなり。
中にも長崎三郎左衛門入道思元、子息勘解由左衛門為基二人は、極楽寺の切通しへ向つて攻め入る敵を支へて防ぎけるが、敵の鬨の声、已に小町口にきこえて、鎌倉殿の御屋形に火かかりぬと見えしかば、相随ふ兵七千余騎をば、猶、元の攻め口に残し置き、父子二人が手勢六百余騎をすぐつて、小町口へぞ向ひける。
義貞の兵、これを見て、中に取り篭めて討たんとす。長崎父子、一所に打ち寄せて、魚鱗に連なつてはかけ破り、虎韜に別れては追ひ靡け、七、八度が程ぞ揉うだりける。義貞の兵ども、蜘手十文字にかけ散らされて、若宮小路へ颯と引いて、人馬に息をぞ継がせける。かかる処に、天狗堂と扇谷に軍ありとおぼえて、馬煙おびただしく見えければ、長崎父子、左右へわかれて馳せ向はんとしけるが、子息勘解由左衛門、これを限りと思ひければ、名残惜しげに立ち止まつて、遥かに父の方を見遣りて、両眼より涙を浮かべて行きも過ぎざりけるを、父、屹とこれを見て、高らかに恥ぢしめて、馬を控へて云ひけるは、「何か名残の惜しかるべき。ひとり死してひとり生き残らんにこそ、再会その期も久しからんずれ。我も人も、今日の日の中に討死して、明日はまた冥途にて寄り合はんずるものが、一夜のほどのわかれ、何かさまでは{*2}悲しかるべき。」とて高声に申しければ、為基、涙をおし拭ひ、「さ候はば、疾くして冥途の旅を御いそぎ候へ。死出の山路にては待ち参らせ候はん。」といひ捨てて、大勢の中へかけ入りける心の中こそ哀れなれ。
相従ふ兵、僅かに二十余騎になりしかば、敵、三千余騎の真中にとり篭めて、短兵急にとり拉がんとす。為基が佩いたる太刀は、面影と名づけて、来太郎国行が、百日精進して百貫にて三尺三寸に打つたる太刀なれば、この鋒に廻る者、或いは兜の鉢を縦破りに破られ、或いは胸板を袈裟懸けに切つておとされける程に、敵皆、これに追つ立てられて、敢へて近づく者もなかりけり。只陣を隔てて矢衾を作つて、遠矢に射殺さんとしける間、為基、乗つたる馬に矢の立つこと七筋なり。「かくては、然るべき敵に近づいて組まんとする事、叶はじ。」と思ひければ、由井浜の大鳥居の前にて馬よりゆらりと飛んで下り、唯一人太刀をさかさまに突いて、二王立にぞ立つたりける。義貞の兵、これを見て、猶も唯十方より遠矢に射るばかりにて、よせ合はせんとする者ぞなかりける。敵を謀らんため、手負うたる真似をして、小膝を折つてぞ臥したりける。
ここに、誰とは知らず、輪鼓引両{*3}の笠印附けたる武者五十余騎、ひしひしと打ち寄せて、勘解由左衛門が首を取らんと、争ひ近づきける処に、為基、かばと起きて太刀を取り直し、「何者ぞ。人の、軍にしくたびれて昼寝したるを驚かすは。いで、己等がほしがる首取らせん。」といふままに、鐔本まで血になつたる太刀を打ち振つて、鳴雷の落ちかかるやうに、大手をはだけて追ひける間、五十余騎の者ども、逸足を出だし逃げける間、勘解由左衛門、大音揚げて、「いづくまで逃ぐるぞ。きたなし、返せ。」と罵る声の、只耳元に聞こえて、日頃さしも早しと思ひし馬ども、皆一所に躍る心地して、恐ろしなんど{*4}いふばかりなし。
為基、只一人かけ入つて裏へぬけ、取つて返してはかけ乱し、今日を限りと戦ひしが、二十一日の合戦に、由井浜の大勢を東西南北にかけ散らし、敵御方の目を驚かし、その後は生死を知らずなりにけり。
大仏貞直並金沢貞将討死の事
さる程に、大仏陸奥守貞直は、昨日まで二万余騎にて極楽寺の切通しを支へて防ぎ戦ひ給ひけるが、今朝の浜の合戦に三百余騎に討ちなされ、あまつさへ敵に後ろを遮ぎられて、前後に度を失うておはしましける処に、鎌倉殿の御屋形にも火かかりぬと見えしかば、世間、今はさて{*5}とや思ひけん、又、主の自害をや勧めけん、宗徒の郎従三十余人、白洲のうへに物具脱ぎ棄てて、一面に並み居て腹をぞ切りにける。
貞直、これを見給ひて、「日本一の不覚の者どもの振舞かな。千騎が一騎になるまでも、敵を亡ぼして名を後代に残すこそ、勇士の本意とする所なれ。いで、さらば最後の一合戦快くして、兵の義を勧めん。」とて、二百余騎の兵を相随へ、先づ大島、里見、額田、桃井、六千余騎にて控へたる真中へ破つて入り、思ふ程戦つて、敵あまた討ち取りて、ばつと駆け出で見給へば、その勢、僅かに六十余騎になりにけり。貞直、その兵をさしまねいて、「今は、末々の敵とかけ合ひても無益なり。」とて、脇屋義助、雲霞の如くに控へたる真中へ駆け入り、一人も残らず討死して、屍を戦場の土にぞ残しける。
金沢武蔵守貞将も、山内の合戦に相従ふ兵八百余人討ち散らされ、我が身も七箇所まで疵を蒙つて、相模入道のおはします東勝寺へ打ち帰りたまひたりければ、入道、ななめならず感謝して、やがて両探題職に据ゑらるべき御教書を成され、相模守にぞ移されける。貞将は、一家の滅亡、日の中を過ごさじとおもはれけれども、「多年の所望、氏族の規模とする職{*6}なれば、今は冥土の思ひ出にもなれかし。」と、かの御教書を請けとつて、又戦場へ打ち出で給ひけるが、その御教書の裏に、「我が百年の命を棄てて、公が一日の恩に報ず。」と大文字に書いて、これを鎧の引合に入れて大勢の中へかけ入り、終に討死し給ひければ、当家も他家もおしなべて、感ぜぬ者もなかりけり。
信忍自害の事
さる程に、普恩寺前相模入道信忍{*7}も、化粧坂へ向かはれたりしが、夜昼五日の合戦に、郎従悉く討死して、僅かに二十余騎ぞ残りける。「諸方の攻め口みな破れて、敵、谷々に入り乱れぬ。」と申しければ、入道普恩寺、討ち残されたる若党もろともに自害せられけるが、「子息越後守仲時、六波羅を落ちて、江州番馬にて腹切りたまひぬ。」と告げたりければ、その最後の有様思ひ出だして、哀れに堪へずや思されけん、一首の歌を御堂の柱に血を以て書きつけ給ひけるとかや。
まてしばし死出の山辺の旅の道おなじく越えてうき世語らむ
「年頃嗜み弄び給ひしこととて、最後の時も忘れず心中の愁緒を述べて、天下の称嘆に残されける数奇の程こそやさしけれ。」と、皆感涙をぞ流しける。
塩田父子自害の事
ここに不思議なりしは、塩田陸奥入道道祐が子息民部大輔俊時、親の自害を勧めんと、腹掻き切つて目の前に臥したりけるを見給ひて、幾程ならぬ今生の別れに目くれ心迷ひて、落つる涙も留めず、先立ちぬる子息の菩提をも祈り、我が逆修にも備へんとや思はれけん、子息の死骸に向つて、年頃誦み給ひける持経の紐を解き、要文処々打ち上げ、心閑かに読誦し給ひけり。討ち漏らされたる郎等ども、主と共に自害せんとて、二百余人並み居たりけるを、三方へ差し遣はし、「この御経誦み果つるほど、防ぎ矢射よ{*8}。」と下知せられけり。
そのうちに狩野五郎重光ばかりは、年頃の者なる上、近く召し仕はれければ、「吾、腹切つて後、屋形に火かけて、敵に頚取らすな。」といひ含め、一人留め置かれけるが、法華経、已に五の巻の提婆品果てんとしける時、狩野五郎、門前に走り出でて四方を見る真似をして、「防ぎ矢仕る者ども、はや皆討たれて、敵、攻め近づき候。早々御自害候へ。」と勧めければ、入道、「さらば。」とて、経をば左の手に握り、右の手に刀を抜いて、腹十文字に掻き切つて、父子同じ枕にぞ臥し給ひける。
重光は、年頃といひ重恩といひ、当時遺言かたがた遁れ難ければ、やがて腹をも切らんずらんと思ひたれば、さはなくて、主二人の鎧太刀刀剥ぎ、家中の財宝、中間下部に取りもたせて、円覚寺の蔵主寮にぞ隠れ居たりける。この重宝どもにては、一期不足あらじとおぼえしに、天罰にやかかりけん。船田入道、これを聞きつけて押し寄せ、是非なく召し捕つて、遂に頚を刎ねて、由井浜にぞかけられける。「尤もかうこそありたけれ。」とて、憎まぬ者もなかりけり。
塩飽入道自害の事
塩飽新左近入道聖遠は、嫡子三郎左衛門忠頼を呼び、「諸方の攻め口、悉く破れ、御一門達、大略腹切らせ給ふと聞こえければ、入道も、守殿{*9}に先立ちまゐらせて、その忠義を知られ奉らんと思ふなり。されば、御辺は未だ私の眷養にて、公方の御恩をも蒙らねば、たとひ一所にて今命を棄てずとも、人、あながち義を知らぬ者とはよも思はじ。然らば、いづくにも暫く身を隠し、出家遁世の身ともなり、我が後生をも弔ひ、心安く一身の生涯をも暮らせかし。」と、涙の中に宣ひければ、三郎左衛門忠頼も、両眼に涙を浮かめ、しばしは物も申されざりけるが、ややあつて、「これこそ仰せともおぼえ候はね。忠頼、直に公方の{*10}御恩を蒙りたることは候はねども、一家の続命、悉くこれ武恩にあらずといふ事なし。その上忠頼、幼少より釈門に居たる身ならば、恩を棄てて無為に入る道も然なるべし。苟しくも弓矢の家に生まれ、名をこの門葉にかけながら、武運の傾くを見て、時の難を遁れんがために出塵の身となつて、天下の人に指を指されんこと、これに過ぎたる恥辱や候べき。御腹召され候はば、冥途の御道しるべ仕り候はん。」といひも果てず、袖の下より刀を抜いて、ひそかに腹に突き立てて、畏まつたる体にて死しける。
その弟塩飽四郎{*11}、これを見て、続いて腹を切らんとしけるを、父の入道、大きに諌めて、「暫く吾を先立てて、順次の孝を専らにし、その後、自害せよ。」と申しければ、塩飽四郎、抜いたる刀を収めて、父の入道が前に畏まつてぞ候ひける。
入道、これを見て、快げにうち笑ひ、しづしづと中門に曲彔{*12}をかざらせて、その上に結跏趺座し、硯取り寄せて自ら筆を染め、辞世の頌をぞ書きたりける。
{*k}吹毛{*13}を提持して虚空を截断す 大火聚裏一道の清風{*k}
と書いて、叉手{*14}して頚を伸べて、子息四郎に、「それ、打て。」と下知しければ、大肌脱ぎになつて父の頚をうちおとして、その太刀を取り直して、鐔本まで己が腹に突き貫いて、うつぶしさまにぞ臥したりける。郎等三人、これを見て走り寄り、同じ太刀に貫かれて、串に刺したる魚肉の如く、頭を連ねて伏したりける。
校訂者注
1:底本頭注に、「高時。」とある。
2:底本は、「何かさまで悲しかるべき。」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
3:底本は「[⿰車立]子引両(りふごひきりやう)」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。底本頭注に、「[⿰車立]子(鼓の胴の形したもの)の中に二線を画した紋。」とある。
4:底本は、「なんどといふ」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
5:底本頭注に、「世は今はこれまで。」とある。
6:底本頭注に、「ほまれとする職。」とある。
7:底本頭注に、「俗名は基時。尾張守時兼の子。」とある。
8:底本は、「防矢(ふせぎや)せよ。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
9:底本頭注に、「相模守殿。即ち北條高時。」とある。
10:底本は、「公方(くばう)御恩を」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。底本頭注に、「〇公方 鎌倉武士が北條家を尊称する詞。」とある。
11:底本頭注に、「忠年。」とある。
12:底本は、「曲彔(きよくろく)」。底本頭注に、「椅子の一種。よりかかりを円く曲げて作り脚は床几の如きもの。」とある。
13:底本は、「吹毛(すゐまう)」。底本頭注に、「禅語で剣のことを云ふ。」とある。
14:底本は、「叉手(しやす)」。底本頭注に、「手を組むこと。」とある。
k:底本、この間は漢文。
k:底本、この間は漢文。
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