安東入道自害の事 附 漢の王陵が事
安東左衛門入道聖秀と申せしは、新田義貞の北の台{*1}の伯父なりしかば、かの女房、義貞の状に我が文を書き副へて、ひそかに聖秀が方へぞ遣はされける。
安東、始めは三千余騎にて稲瀬河へ向ひたりけるが、世良田太郎が稲村崎より後ろへ回りける勢に陣を破られて引きけるが、由良、長浜が勢にとり篭められて、百余騎にうちなされ、我が身も薄手あまた所負うて、己が館へ帰りたりけるが、今朝巳の刻に、宿所は早焼けてその跡もなし。妻子眷属は、いづくへか落ち行きけん、行方も知らずなつて、たづね問ふべき{*2}人もなし。これのみならず、「鎌倉殿の御屋形も焼けて、入道殿{*3}、東勝寺へ落ちさせ給ひぬ。」と申す者ありければ、「さて、御屋形の焼け跡には、傍輩、何様腹切り討死して見ゆるか。」と尋ねければ、「一人も見えず候。」とぞ答へける。これを聞いて、安東、「口惜しき事かな。『日本国の主、鎌倉殿ほどの年頃住み給ひし処を、敵の馬の蹄にかけさせながら、そこにて千人も二千人も討死する人のなかりし事よ。』と、後の人々に欺かれん{*4}事こそ恥辱なれ。いざや、人々。とても死せんずる命を、御屋形の焼け跡にて心閑かに自害して、鎌倉殿の御恥をすすがん。」とて、うち残されたる郎等百余騎を相従へて、小町口へうち臨む。
先々出仕の如く、塔辻にて馬より下り、空しき跡を見廻せば、今朝までは綺麗なる大廈高墻の構へ、忽ちに灰燼となつて須臾転変の煙を残し、昨日まで遊び戯れせし親類朋友も、多く戦場に死して盛者必衰の屍を残せり。悲しみの中の悲しみに、安東、涙を押さへて惘然たる処に、新田殿の北の台の御使とて、薄様に書きたる文を捧げたり。「何事ぞ。」とて披き見れば、「鎌倉の有様、今はさてとこそ承り候へ。如何にもしてこの方へ御出で候へ。この程の式{*5}をば身に替へても申し宥むべく候。」なんど、様々に書かれたり。
これを見て、安東、大きに色を損じて申しけるは、「栴檀の林に入る者は、染めざるに衣自ら香ばしといへり。武士の女房たる者は、けなげなる心を一つ持つてこそ、その家をも継ぎ子孫の名をも顕はす事なれ。されば昔、漢の高祖と楚の項羽と戦ひける時、王陵といふ者、城を構へて篭つたりしを、楚、これを攻むるに更に落ちず。この時、楚の兵、相謀つていはく、『王陵は、母のために忠孝を存ずる事、浅からず。所詮、王陵が母を捕らへて、楯の面に当てて城を攻むる程ならば、王陵、矢を射る事を得ずして降人に出づる事、あるべし。』とて、ひそかに彼の母を捕らへてけり。彼の母、心の中に思ひけるは、『王陵、我に仕ふる事、大舜、曽参が孝行にも過ぎたり。我、もし楯の面に縛せられ、城に向ふ程ならば、王陵、悲しみに堪へずして城を落とさるる事、あるべし。如かじ、幾程もなき命を子孫のために捨てんには。』と思ひ定めて、自ら剣の上に死してこそ、遂に王陵が名をば揚げたりしか。
「我、只今まで武恩に浴して人に知らるる身となれり。今、事の急なるに臨んで降人に出でたらば、人、豈恥を知つたるものと思はんや。されば、女性心{*6}にて、たとひかやうのことをいはるるとも、義貞、勇士の義を知り給はば、『さる事やあるべき。』と制せらるべし。又、義貞、たとひ敵の志を計らんために宣ふとも、北の方は、我が方様の名を失はじと思はれば、堅く辞せらるべし。只似るを友とするうたてさ、子孫のために憑まれず。」と、一度は恨み一度は怒つて、かの使の見る前にて、その文を刀に握り加へて、腹掻き切つてぞ失せ給ひける。
亀寿殿信濃へ落とさしむる事 附 左近大夫偽つて奥州へ落つる事
ここに相模入道殿の舎弟、四郎左近大夫入道の方に候ひける諏訪左馬助入道が子息、諏訪三郎盛高は、数度の戦ひに郎等皆討たれぬ。只主従二騎になつて、左近大夫入道の宿所に来つて申しけるは、「鎌倉中の合戦、今はこれまでとおぼえて候間、最後の御伴仕り候はんために参つて候。はや思し召し切らせ給へ。」と進め申しければ、入道、あたりの人をのけさせて、ひそかに盛高が耳に宣ひけるは、「この乱、量らざるにいで来て、当家、已に滅亡しぬること{*7}、更に他なし。只相模入道殿の御振舞、人望にも背き、神慮にも違ひたりし故なり。但し、天、たとひ驕りを憎み、盈てるを欠くとも、数代積善の余慶、家に尽きずば、この子孫の中に、絶えたるを継ぎ廃れたるを興す者なからんや。
「昔、斉の襄公、無道なりしかば、斉の国亡ぶべきを見て、その臣に鮑叔牙といひける者、襄公の子小白を取つて、他国へ落ちてけり。その間に襄公、果たして公孫無知に亡ぼされ、斉の国を失へり。そのときに鮑叔牙、小白を取り立てて斉の国へ{*8}押し寄せ、公孫無知を討つ事を得て、遂に再び斉の国を保たせける。斉の桓公は、これなり。されば、我に於いて深く存ずる仔細あれば、左右なく自害する事、あるべからず候。遁れつべくんば、再び会稽の恥を清めばやと思ふなり。御辺もよくよく遠慮を巡らして、如何なる方にも隠れ忍ぶか、然らずば降人になつて命を継いで、甥にてある亀寿を隠し置いて、時至りぬと見ん時、再び大軍を起こして素懐を遂げらるべし。兄の万寿をば五大院右衛門に申し附けたれば、心安くおぼゆるなり。」と宣へば、盛高、涙を抑へて申しけるは、「今までは、一身の安否を御一門の存亡に任せ候ひつれば、命をば惜しむべく候はず。
「御前にて自害仕つて、二心なき程を見え参らせ候はんずるためにこそ、これまで参つて候へども、『死を一時に定むるは易く、謀りごとを万代に残すは難し。』と申す事候へば、ともかくも仰せに随ふべく候。」とて、盛高は、御前を罷り立つて、相模殿のおもひ人、二位殿の御局の扇谷におはしましける処へ参りたりければ、御局を始め参らせて、女房達まで誠に嬉しげにて、「さても、この世の中は何となり行くべきぞや。我等は女なれば、立ち隠るる方もありぬべし。この亀寿をば、如何すべき。兄の万寿をば、五大院右衛門、『隠すべき方あり。』とて、今朝いづ方へやらん具足しつれば、心安く思ふなり。ただこの亀寿が事思ひ煩うて、露の如くなる我が身さへ消え侘びぬるぞ。」と泣き口説き給ふ。
盛高、この事ありのままに申して、御心をも慰め奉らばやとは思ひけれども、女性ははかなき者なれば、後にももし人に洩らし給ふ事もやと思ひ返して、涙の中に申しけるは、「この世の中、今はさて{*9}とこそおぼえ候へ。御一門、大略御自害候なり。大殿{*10}ばかりこそ未だ葛西谷に御座候へ。『公達を一目御覧じ候うて、御腹を召さるべし。』と仰せ候間、御迎ひのために参りて候。」と申しければ、御局、うれしげにおはしましつる御気色、しをしをとならせたまひて、「万寿をば宗繁に預けつれば、心安し。構へてこの子をもよくよく隠してくれよ。」と仰せもあへず、御涙に咽ばせ給ひしかば、盛高も岩木ならねば、心ばかりは悲しけれども、心を強く持ちて申しけるは、「万寿御料をも、五大院右衛門宗繁が具足し参らせ候ひつるを、敵見つけて追つ懸け参らせ候ひしかば、小町口の在家に走り入つて、若子をば刺し殺し参らせ、我が身も腹切つて焼け死に候ひつるなり。あの若子も、今日この世の御名残、これをかぎりと思し召し候へ。
「とても隠れあるまじきもの故に、狩場の雉の草隠れたる有様にて、敵に探し出だされて、幼き御骸に一家の御名を失はれん事、口惜しく候。それよりは、大殿の御手にかけられ給ひて、冥途までも御伴申させ給ひたらんこそ、生々世々の忠孝にて御座候はん。疾く疾く入れ参らせ給へ{*11}。」と勧めければ、御局を始め参らせて、御乳母の女房達に至るまで、「うたての事を申す者かな。せめて敵の手にかからば如何せん。二人の公達を抱き育て参らせつる人々の手にかけて失ひ奉らんを見聞きては、如何ばかりとか思ひ遣る。只我を先づ殺して後、何とも計らへ。」とて、幼き人の前後に取り附いて、声も惜しまず泣き悲しみ給へば、盛高も、目くれ心消え消えとなりしかども、思ひ切らではかなふまじと思ひて、声をいららげ色を損じて御局を睨み奉り、「武士の家に生まれん人、襁の中よりかかることあるべしと、思し召されぬこそうたてけれ。
「大殿の、さこそ待ち思し召し候らん。はや御渡り候て、守殿の御供申させたまへ{*12}。」といふままに走りかかり、亀寿殿を抱き取つて、鎧の上に舁い負うて、門より外へはしり出づれば、同音に、「わつ。」と泣きつれ給ひし御声々、遥かのよそまで聞こえつつ、耳の底に止まれば、盛高も、涙にゆきかねて、立ち返つて見送れば、御乳母の御妻と申す者は、かちはだしにて人目をも憚らず走り出でさせ給ひて、四、五町が程は、泣いては倒れ、倒れては起き、後について追はれけるを、盛高、心強く、行き方を知られじと、馬を進めて打つ程に、後ろ影も見えずなりにければ、御妻、「今は誰を育て、誰を憑んで惜しむべき命ぞや{*13}。」とて、あたりなる古井に身を投げて、終に空しくなり給ふ。
その後、盛高、この若君を具足して信濃へ落ち下り、諏訪の祝{*14}を憑んでありしが、建武元年の春の頃、暫く関東を劫略して天下の大軍を起こし、中前代{*15}の大将に相模二郎といふは、これなり。
かくして四郎左近大夫入道は、二心なき侍どもを呼び寄せて、「我は思ふ様あつて、奥州の方へ落ちて、再び天下を覆す謀りごとを廻らすべし。南部太郎、伊達六郎、二人は案内者なれば、召し具すべし。その外の人々は、自害して屋形に火をかけ、我は腹を切つて焼け死にたる体を敵に見すべし。」と宣ひければ、二十余人の侍ども、一議にも及ばず、「皆、御定に随ふべし。」とぞ申しける。
伊達、南部二人は、かたちをやつし、夫{*16}になり、中間二人に物具著せて馬に乗せ、中黒の笠印をつけさせ、四郎入道を𫂅{*17}に乗せて、血のつきたる帷を上にひき覆ひ、源氏の兵の手負うて本国へ帰る真似をして、武蔵までぞ落ちたりける。
その後、残し置いたる侍ども、中門に走り出で、「殿は、早御自害あるぞ。志の人は皆、御供申せ。」と呼ばはつて、屋形に火をかけ、忽ちに煙の中に並み居て、二十余人の者どもは、一度に腹をぞ切つたりける。これを見て、庭上門外に袖を連ねたる兵ども三百余人、面々に劣らじ劣らじと腹切つて、猛火の中へ飛んで入り、骸を残さず焼け死にけり。さてこそ四郎左近大夫入道の落ち給ひぬることをば知らずして、自害し給ひぬとは思ひけれ。
その後、西園寺の家に仕へて、建武の頃、京都の大将にて時興と云はれしは、この入道の事なりけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「北の方即ち夫人。」とある。
2:底本は、「問ふべぎ人」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
3:底本頭注に、「高時の事。」とある。
4:底本頭注に、「嘲笑せられん。」とある。
5:底本頭注に、「このほどの事。」とある。
6:底本は、「女性心(によしやうごゝろ)にて」。底本頭注に、「女ごころから。」とある。
7:底本頭注に、「滅亡しぬべきこと。」とある。
8:底本は、「斉の国に押し寄せ、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
9:底本頭注に、「今はこれまで。」とある。
10:底本頭注に、「高時を指す。」とある。
11:底本は、「入(い)り進(まゐ)らせ給へ。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
12:底本頭注に、「〇大殿、守殿 共に高時を指す。」とある。
13:底本は、「誰を憑(たの)みて命を惜しむべきぞや。」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
14:底本は、「祝(はふり)」。底本頭注に、「神官。」とある。
15:底本は、「中前代(なかせんだい)」。底本頭注に、「北條時行は兵を起して二旬にして破れた。これを中前代とも二十日前代とも云つた。」とある。
16:底本は、「夫(ぶ)」。底本頭注に、「夫役の人夫。」とある。
17:底本は、「𫂅(あをだ)」。底本頭注に、「板を編んで架とし竹で吊して舁ぐもの。」とある。
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