長崎次郎高重最後の合戦の事
さる程に、長崎次郎高重は、始め武蔵野の合戦より今日に至るまで、夜昼八十余箇度の戦ひに毎度先をかけ、囲みを破つて自ら相当たる事、その数を知らざりしかば、手の者若党ども、次第に討ち亡ぼされて、今は僅かに百五十騎になりにけり。五月二十二日に、源氏、はや谷々へ乱れ入つて、当家の諸大将、大略皆討たれ給ひぬと聞こえければ、誰が堅めたる陣ともいはず、只敵の近づく処へ馳せ合はせ馳せ合はせ、八方の敵を払つて、四隊の堅めを破りける間、馬疲れぬれば乗り替へ、太刀打ち折るれば佩き替へて、自ら敵を切つて落とす事三十一人、陣を破ること八箇度なり。
かくて、相模入道のおはします葛西谷へ帰りまゐつて、中門に畏まり、涙を流し申しけるは、「高重、数代奉公の義を忝うして、朝夕恩顔を拝し奉りたる御名残、今生に於いては今日を限りとこそおぼえ候へ。高重一人、数箇所の敵をうち散らして、数度の戦ひに毎度うち勝ち候といへども、方々の口々、皆攻め破られて、敵の兵、鎌倉中に充満して候ひぬる上は、今はやたけに思ふ{*1}とも、叶ふべからず候。只一筋に、敵の手に懸からせ給はぬやうに思し召し定させたまひ候へ。但し、高重帰り参じて勧め申さんほどは、左右なく御自害候な。上の御存命の間に、今一度快く敵の中へかけ入り、思ふほどの合戦して、冥途の御伴申さん時の物語に仕り候はん。」とて、又東勝寺をうち出づ。その後ろ影を相模入道、遥かに見送り給ひて、これや限りなるらんと、名残惜しげなる体にて、涙ぐみてぞ立たれたる。
長崎次郎、兜をば脱ぎ捨て、筋の帷の月日押したるに、精好の大口の上に赤糸の腹巻著て、小手をば差さず、兎鶏といひける坂東一の名馬に、金貝の鞍に小総の鞦懸けてぞ乗つたりける。これを最後と思ひ定めければ、先づ崇寿寺の長老南山和尚に参じて案内申しければ、長老、威儀を具足して{*2}出で会ひ給へり。方々の軍急にして、甲冑を帯したりければ、高重は、庭に立ちながら左右に揖して{*3}問うて曰く、「如何なるかこれ勇士恁麼の事。」和尚、答へて曰く、「吹毛{*4}急に用ゐて進まんにはしかず。」高重、この一句を聞いて、問訊して、門前より馬引き寄せうち乗つて、百五十騎の兵を前後に相随へ、笠印かなぐり棄て、閑かに馬を歩ませて、敵陣に紛れ入る。その志ひとへに、義貞に相近づかば組んで勝負を決せんためなり。
高重、旗をもささず、打物の鞘をはづしたるものなければ、源氏の兵、敵とも知らざりけるにや、をめをめと中を開いて通しければ、高重、義貞に近づく事、僅かに半町ばかりなり。すはやと見ける処に、源氏の運や強かりけん、義貞の真つさきに控へたりける由良新左衛門、これを見知つて、「只今旗をも差さず相近づく勢は、長崎次郎と見ゆるぞ。さる勇士なれば、定めて思ふ処あつてぞこれまでは来るらん。余すな、漏らすな。」と大音挙げて呼ばはりければ、先陣に控へたる武蔵の七党三千余騎、東西よりひつ包んで真中にこれを取り込め、我も我もと討たんとす。
高重は、支度相違しぬと思ひければ、百五十騎の兵をひしひしと一所へ寄せて、同音に鬨をどつと揚げ、三千余騎の者どもを、駆け抜け駆け入り交じり合ひ、かしこに現れここに隠れ、火を散らしてぞ戦ひける。聚散離合の有様は須臾に変化して、前にあるかとすれば、忽焉としてしりへにあり。御方かと思へば、屹として敵なり。十方に分身して、万卒に同じく相当たりければ、義貞の兵、高重がありかを見定めず、多くは同士討をぞしたりける。
長浜六郎、これを見て、「いふがひなき人々の同士討かな。敵は皆、笠印をつけずと見えつるぞ。中に紛れば、それを印にして組んで討て。」と下知しければ、甲斐、信濃、武蔵、相模の兵ども、おし並べてはむずと組み、組んで落ちては首を取るもあり、取らるるもあり。芥塵天を掠め、汗血地を糢糊す。その有様、項王が漢の三将を靡かし、魯陽が日を三舎に返し戦ひしも、これには過ぎじとぞ見えたりける。
されども長崎次郎は、未だ討たれず、主従唯八騎になつて戦ひけるが、猶も義貞に組まんと伺うて、近づく敵を打ち払ひ、ややもすれば刺し違へて、義貞兄弟を目にかけて廻りけるを、武蔵国の住人横山太郎重真、おし隔ててこれに組まんと、馬を進めて相近づく。長崎も、よき敵ならば組まんと懸け合ひてこれを見るに、横山太郎重真なり。さては、あはぬ敵ぞと思ひければ、重真を弓手に相受け、兜の鉢を菱縫の板まで破り著けたりければ、重真、二つになつて失せにけり。馬もしりゐに打ち据ゑられて、小膝を折つてどうと伏す。
同国の住人庄三郎為久、これを見て、よき敵なりと思ひければ、続いてこれに組まんとす。大手をはだけて馳せかかる。長崎、遥かに見て、からからと打ち笑うて、「党の者どもに組むべくば、横山をも何かは嫌ふべき。あはぬ敵を失ふ様、いでいで、己に知らせん。」とて、為久が鎧の総角掴んで中有にひつ提げ、弓杖{*5}五杖ばかり易々と投げ渡す。その人飛礫に当たりける武者二人、馬よりさかさまに打ち落とされて、血を吐いて空しくなりにけり。
高重、「今は、とても敵に見知られぬる上は。」と思ひければ、馬をかけ据ゑ、大音揚げて名のりけるは、「桓武第五の皇子葛原親王に三代の孫、平将軍貞盛より十三代、前相模守高時の管領に長崎入道円喜が嫡孫、次郎高重。武恩を報ぜんため討死するぞ。高名せんと思はん者は、よれや、組まん。」といふままに、鎧の袖引きちぎり、草摺あまた切り落とし、太刀をも鞘に納めつつ、左右の大手を広げては、ここに馳せ合ひかしこに馳せ違ひ、大童になつて駆け散らしける。
かかる処に、郎等ども、馬の前に馳せ塞がりて、「如何なる事にて候ぞ。御一所こそ、かやうに馳せ廻りましませ。敵は大勢にて、はや谷々に乱れ入り、火をかけ物を乱妨し候。急ぎ御帰り候うて、守殿{*6}の御自害をも勧め申させ給へ。」といひければ、高重、郎等に向つて宣ひけるは、「余りに人の逃ぐるが面白さに、大殿{*7}に約束しつる事をも忘れぬるぞ。いざ、さらば、帰り参らん。」とて、主従八騎の者ども、山内よりひき返しければ、逃げて行くとや思ひけん、児玉党五百余騎、「きたなし、返せ。」と罵つて、馬を争うて追つ懸けたり。高重、「ことごとしの奴原や。何程のことをかし出だすべき。」とて、聞かぬ由にて打ちけるを、手繁く追うてかかりしかば、主従八騎、屹と見返つて、馬の轡をひき廻すとぞ見えし。山内より葛西谷口まで、十七度まで返し合はせて五百余騎を追ひ退け、又しづしづとぞ打つて行きける。
高重が鎧に立つ処の矢二十三筋、蓑毛の如く折りかけて、葛西谷へ参りければ、祖父の入道{*8}待ちうけて、「何とて今まで遅かりつるぞ。今は、これまでか。」と問はれければ、高重、畏まり、「もし大将義貞に寄せ合はせば、組んで勝負をせばやと存じ候うて、二十余度までかけ入り候へども、遂に近附き得ず。その人とおぼしき敵にも見合はせ候はで、そぞろなる党の奴原四、五百人切り落としてぞ捨て候ひつらん。あはれ、罪の事だに思ひ候はずば、猶も奴原を浜面へ追ひ出だして、弓手馬手に相附け、車切り胴切り縦破りに仕り棄てたく存じ候ひつれども、上の御事いかが{*9}と御心元なくて、帰り参つて候。」と、聞くも涼しく語るにぞ、最期に{*10}近き人々も、少し心を慰めける。
高時並一門以下東勝寺に於いて自害の事
さる程に高重、走り廻つて、「早々御自害候へ。高重、先を仕りて、手本に{*11}見せまゐらせ候はん。」といふままに、胴ばかり残りたる鎧脱いで抛げすてて、御前にありける杯を以て、舎弟の新右衛門に酌を取らせ、三度傾けて、摂津刑部大夫入道道準が前に置き、「思ひざし{*12}申すぞ。これを肴にし給へ。」とて、左の小脇に刀を突き立て、右の傍腹まで切目長く掻き破つて、中なる腸手繰り出して、道準が前にぞ伏したりける。
道準、杯を取りて、「あはれ、肴や。如何なる下戸なりとも、これを呑まぬ者あらじ。」と戯れて、その杯を半分ばかり呑み残して、諏訪入道が前にさしおき、同じく腹切つて死にけり。
諏訪入道直性、その杯を以て心閑かに三度傾けて、相模入道殿の前にさしおいて、「若者ども、随分芸を尽くして振舞はれ候に、年老なればとて、ただはいかでか候べき。今より後は皆、これを送り肴に仕るべし。」とて、腹十文字に掻き切つて、その刀を抜いて入道殿の前に差し置きたり。
長崎入道円喜は、これまでも猶、相模入道の御事を如何と思ひたる気色にて、腹をも未だ切らざりけるが、長崎新右衛門、今年十五になりけるが、祖父の前に畏まつて、「父祖の名を顕はすを以て、子孫の孝行とすることにて候なれば、仏神三宝も定めて御許しこそ候はんずらん。」とて、年老いのこりたる祖父の円喜が肱のかかりを二刀刺して、その刀にて己が腹をかき切つて、祖父をとつて引き伏せて、その上に重なつてぞ伏したりける。
この小冠者に義を勧められて、相模入道も腹切り給へば、城入道、続いて腹をぞ切つたりける。これを見て、堂上に座を列ねたる一門、他家の人々、雪の如くなる肌をおし肌脱ぎおし肌脱ぎ、腹を切る人もあり、自ら頚を掻き落とす人もあり。思ひ思ひの最期の体、殊にゆゆしくぞ見えたりし。
その外の人々には、金沢大夫入道崇顕、佐介近江前司宗直、甘名宇駿河守宗顕、子息駿河左近大夫将監時顕、小町中務大輔朝実、常葉駿河守範貞、名越土佐前司時元、摂津刑部大輔入道、伊具越前前司宗有、城加賀前司師顕、秋田城介師時、城越前守有時、南部右馬頭茂時、陸奥右馬助家時、相模右馬助高基、武蔵左近大夫将監時名、陸奥左近将監時英、桜田治部大夫貞国、江馬遠江守公篤、阿曽弾正少弼治時、刈田式部大夫篤時、遠江兵庫助顕勝、備前左近大夫将監政雄、坂上遠江守貞朝、陸奥式部大輔高朝、城介高量、同式部大輔顕高、同美濃守高茂、秋田城介入道延明、明石長門介入道忍阿、長崎三郎左衛門入道思元、隅田次郎左衛門、摂津宮内大輔高親、同左近大夫将監親貞、名越一族三十四人、塩田、赤橋、常葉、佐介の人々四十六人、総じてその門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切つて、屋形に火をかけたれば、猛炎盛んに燃え上がり、黒煙天を掠めたり。
庭上門前に並み居たりける兵ども、これを見て、或いは自ら腹掻き切つて炎の中へ飛び入るもあり、或いは父子兄弟刺し違へ、重なり伏すもあり。血は流れて大地に溢れ、漫々として洪河の如くなれば、屍は行路に横たはつて、累々たる郊原の如し。死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ぬれば、この一所にて死する者、総て八百七十余人なり。この外、門葉恩顧の者、僧俗男女をいはず、聞き伝へ聞き伝へ泉下に恩を報ずる人、世上に悲しみを催す者、遠国の事はいざ知らず、鎌倉中を考ふるに、総て六千余人なり。
ああ、この日、如何なる日ぞや。元弘三年五月二十二日と申すに、平家九代の繁昌、一時に滅亡して、源氏多年の蟄懐、一朝に開くることを得たり。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇矢長に思ふ 勇みに勇む。」とある。
2:底本は、「威儀(ゐぎ)を具(ぐ)して」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
3:底本は、「揖(いふ)して」。底本頭注に、「会釈して。」とある。
4:底本は、「吹毛(すゐもう)」。底本頭注に、「剣のこと。」とある。
5:底本は、「弓杖(ゆんづゑ)」。底本頭注に、「弓の長さ。」とある。
6:底本は、「守殿(かうのとの)」。底本頭注に、「高時を指す。」とある。
7:底本頭注に、「高時。」とある。
8:底本頭注に、「円喜入道。」とある。
9:底本は、「上(うへ)の御事何かと」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
10:底本は、「最期(さいご)近(ちか)き」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
11:底本は、「手本(てほん)を見(み)せ」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
12:底本頭注に、「心をこめた杯を我が思ふ人に差すこと。」とある。
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