第十一

五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す事

 義貞、已に鎌倉を鎮めて、その威、遠近に振ひしかば、東八箇国の大名高家、手をつかね膝をかがめずといふ者なし。多日附き随ひて忠を憑む人だにも、かくの如し。況んや、唯今まで平氏{*1}の恩顧に従ひて敵陣に在りつる者ども、いきがひなき命を継がんために、所縁に属し降人になつて、肥馬の前に塵を望み、高門の外に地を掃いても、己が咎を補はんと思へる心根なれば、今は浮世の望みを捨てて僧法師になりたる平氏の一族達をも、寺々より引き出だして法衣の上に血を注ぎ、二度は人に契らじと髪をおろしかたちを替へんとする亡夫の後室どもをも、所々より捜し出だして貞女の心を失はしむ。悲しいかな、義を専らにせんとして忽ちに死せる人は、永く修羅の奴となつて苦しみを多劫の間に受けん事を。痛はしいかな、恥を忍んで苟しくも生くる者は、立ち処に衰窮の身となつて笑ひを万人の前に得たることを。
 中にも五大院右衛門尉宗繁は、故相模入道殿の重恩を与へたる侍なる上、相模入道の嫡子相模太郎邦時は、この五大院右衛門が妹の腹に出で来たる子なれば、甥なり、主なり。いづれにつけても弐心はあらじと深く憑まれけるにや、「この邦時をば、汝に預け置くぞ。如何なる手立てをも廻らし、これを隠し置き、時到りぬと見えば、取り立てて亡魂の恨みを謝すべし。」と相模入道、宣ひければ、宗繁、「仔細候はじ。」と領掌して、鎌倉の合戦の最中に降人にぞなりたりける。かくて二、三日を経て後、平氏悉く滅びしかば、関東皆、源氏の顧命に随つて、ここかしこに隠れ居たる平氏の一族ども、あまた捜し出だされて、捕り手は所領を預かり、隠せる者は忽ちに誅せらるる事多し。
 五大院右衛門、これを見て、「いやいや、果報尽きはてたる人を扶持せんとて、たまたま遁れ得たる命を失はんよりは、この人の在所を知りたる由、源氏の兵に告げて、弐心なき所を顕はし、所領の一所をも安堵せばや。」と思ひければ、或る夜、かの相模太郎に向つて申しけるは、「これに御座の事は、如何なる人も知り候はじとこそ存じて候に、如何にして漏れ聞こえ候ひけん、船田入道、明日これへ押し寄せ候て、捜し奉らんと用意候由、只今或る方より告げ知らせて候。いかさま{*2}、御座の在所を今夜替へ候はでは叶ふまじく候。夜に紛れて、急ぎ伊豆の御山の方へ落ちさせ給ひ候へ。宗繁も御供申したくは存じ候へども、一家を尽くして落ち候ひなば、船田入道、さればこそと心づきて、いづくまでも尋ね求むる事も候はんと存じ候間、わざと御供をば申すまじく候。」と、誠し顔になつていひければ、相模太郎、げにもと身の置き所なくて、五月二十七日の夜半ばかりに、忍びて鎌倉を落ちたまふ。
 昨日までは天下の主たりし相模入道の嫡子にてありしかば、仮初の物詣で、方違へといひしにも、御内、外様の大名ども、細馬{*3}に轡を噛ませて、五百騎、三百騎、前後に打ち囲うでこそ往復せしに、時移り事替はりぬる世のありさまのあさましさよ。賤しげなる中間一人に太刀持たせて、伝馬にだにも乗らで、破れたる草鞋に編笠著て、そことも知らず、泣く泣く伊豆の御山を尋ねて、足に任せて行き給ひける、心の中こそ哀れなれ。
 五大院右衛門は、かやうにしてこの人をば賺し出だしぬ。「我と打つて出ださば、年ごろ奉公のよしみをわすれたるものよと、人に指を指されつべし。便宜好からんずる源氏の侍に討たせて、勲功を分けて知行せばや。」と思ひければ、急ぎ船田入道がもとに行きて、「相模太郎殿の在所をこそ委しく聞き出でて候へ。他の勢を交じへずして打つて出られ候はば、定めて勲功、他に異に候はんか。告げ申し候忠には、一所懸命の地を安堵仕るやうに、御吹挙に預かり候はん。」といひければ、船田入道、心中には、憎きもののいひ様かなと思ひながら、「先づ仔細あらじ。」と約束して、五大院右衛門尉もろともに、相模太郎の落ち行きける道を遮つてぞ待たせける。
 相模太郎、道に相待つ敵ありとも思ひ寄らず、五月二十八日の明けぼのに、あさましげなる窶れ姿にて、相模河を渡らんと、渡し守を待つて岸の上に立ちたりけるを、五大院右衛門、よそに立ちて、「あれこそ、すは、くだんの人よ。」と教へければ、船田が郎等三騎、馬より飛んで下り、透間もなく生け捕り奉る。俄の事にて張輿なんどもなければ、馬に乗せ、舟の縄にてしたたかにこれを縛め、中間二人に馬の口を引かせて、白昼に鎌倉へ入れ奉る。これを見聞く人ごとに、袖をしぼらぬはなかりけり。この人、未だ幼稚の身なれば、何程のことかあるべけれども、朝敵の長男にておはすれば、差し置くべきにあらずとて、則ち翌日の暁、ひそかに首を刎ね奉る。
 昔、程嬰が、我が子を殺して幼稚の主の命にかへ、予譲が、かたちを変じて旧君の恩を報ぜし、それまでこそなからめ、年頃の主を敵に討たせて、欲心に義を忘れたる五大院右衛門が心の程、希有なり、不道なりと、見る人毎に爪弾きをして憎みしかば、義貞、げにもと聞き給ひて、これをも誅すべしと、内々その議、定まりければ、宗繁、これを伝へ聞きて、ここかしこに隠れ行きけるが、梟悪の罪、身を責めけるにや、三界広しといへども一身を置くに処なく、故旧多しといへども一飯を与ふる人なくして、遂に乞食の如くに成り果てて、道路の街にして飢死にけるとぞ聞こえし。

諸将早馬を船上に参らせらるる事

 都には、五月十二日、千種頭中将忠顕朝臣、足利治部大輔高氏、赤松入道円心等、追ひ追ひ早馬を立てて、六波羅、已に没落せしむるの由、船上{*4}へ奏聞す。これに依つて諸卿僉議あつて、則ち還幸成るべきや否やの意見を献ぜらる。
 時に、勘解由次官光守、諌言を以て申されけるは、「両六波羅、已に没落すといへども、千剣破発向の朝敵等、猶畿内に満ちて、勢ひ、京洛を呑めり。又、賤しき諺に、『東八箇国の勢を以て日本国の勢に対し、鎌倉中の勢を以て東八箇国の勢に対す。』といへり。されば、承久の合戦に、伊賀判官光季を追ひ落とされし事はたやすかりしかども、坂東勢、重ねて上洛せし時、官軍、戦ひ負けて、天下、久しく武家の権威に落ちぬ。今、一戦の雌雄を測るに、御方は僅かに十にしてその一、二を得たり。『君子は刑人に近づかず。』と申す事候へば、暫く唯皇居を移され候はで、諸国へ綸旨を成し下され、東国の変違を御覧ぜらるべくや候らん。」と申されければ、当座の諸卿、悉くこの議にぞ同ぜられける。
 然れども、主上、猶時宜定め難く思し召されければ、自ら周易を披かせ給ひて、還幸の吉凶を蓍筮{*5}に就けてぞ御覧ぜられける。御占ひ、師の卦に出でて曰く、「師は貞にして、丈人、吉にして咎無し。上六は大君の命を保ちて、国を開き家を承く。小人には用ゐる事勿れ。王弼が註に曰く、師の極に居るは、師の終はりなり。大君の命あつて功を失はざるなり。国を開き家を承くとは、以て邦を安んずるなり。小人には用ゐる事勿れとは、その道に非ざればなり。」と註せり。「御占ひ、已にかくの如し。この上は、何をか疑ふべき。」とて、同じき二十三日、伯耆の船上を御立ちあつて、瑤輿を山陰の東にぞ催されける。
 路次の行粧、例に替はりて、頭大夫行房、勘解由次官光守、二人ばかりこそ衣冠にて供奉せられけれ。その外の月卿雲客、衛府諸司の助は、皆戎衣にて前騎後乗す。六軍悉く甲冑を著し、弓箭を帯して、前後三十余里に支へたり。塩冶判官高貞は、千余騎にて一日先立つて前陣を仕る。又、朝山太郎は、一日路ひき後れて、五百余騎にて後陣に打ちけり。金持大和守、錦の御旗を差して左に候し、伯耆守長年は、帯剣の役にて右に副ふ。雨師道を清め、風伯塵を払ふ。紫微北辰の拱陣も{*6}、かくやとおぼえて厳重なり。されば、去年の春、隠岐国へ移されさせ給ひしとき、そぞろに宸襟を悩まされて、御涙のもととなりし山雲海月の色、今は竜顔を悦ばしむる端となつて、松吹く風もおのづから万歳を呼ぶかとあやしまれ、塩焼く浦のけぶりまで、にぎはふ民の竈となる。

書写山行幸の事 附 新田注進の事

 五月二十七日には、播磨国書写山へ行幸成つて、先年の御宿願を果たされ、諸堂御巡礼のついでに、開山性空上人の御影堂を開かるるに、年頃秘しけるものとおぼえて、重宝ども多かりけり。当寺の宿老を一人召して、「こは、如何なる由緒のものどもぞ。」と御尋ねありければ、宿老、畏まつて一々にこれを演説す。
 先づ杉原一枚を折つて、法華経一部八巻並びに開結の二経{*7}を細字に書きたるあり。これは、上人寂寞の扉におはしまして、妙典を読誦し給ひける時、第八の冥官{*8}、一人の化人と成つて、片時の程に書きたりし御経なり。又、歯ちびて僅かに残れる杉の足駄あり。これは、上人、当山より毎日比叡山へ御入堂の時、海道三十五里の間を一時が内に歩ませ給ひし足駄なり。
 又、布にて縫ひたる香の袈裟あり。これは、上人、御身を放さず長時に懸けさせ給ひけるが、香の煙に煤けたるを御覧じて、「あはれ、洗はばや。」と仰せられける時、常随給仕の乙護法{*9}、「これを洗うて参り候はん。」と申して、遥かに西天を指して飛び去りぬ。暫くあつて、この袈裟をば虚空に懸け乾す。あたかも一片の雲の夕日に映ずるが如し。上人、護法を呼びて、「この袈裟をば、如何なる水にて洗ひたりけるぞ。」と問はせ給へば、護法、「日本の内には然るべき清冷水候はで、天竺の無熱池の水にて濯いで候なり。」と答へ申されたりし御袈裟なり。
 生木化仏の観世音。「稽首生木如意輪、能満有情福寿願、亦満往生極楽願、百千倶胒悉所念。」と、天人、降下供養し奉る像なり。毘首羯磨が作りし五大尊。これのみならず、法華読誦の砌には、不動、毘沙門の、二童子に形を現じて仕へ給ふなり。
 また、延暦寺の中堂供養の日は、上人、当山にましましながら、仄かに如来唄を引き給ひしかば、梵音、遠く叡山の雲に響いて、一会の奇特を顕はせし事ども、委細に演説仕りたれば、主上、ななめならず信心を傾けさせ給ひて、則ち当国の安室郷を御寄附あつて、不断如法経の料所にぞ擬せられける。今に至るまで、その妙行、片時も怠る事なうして、如法如説の勤行たり。誠に滅罪生善の御願、有り難かりし事どもなり。
 二十八日に法華山へ行幸成つて、御巡礼あり。これより竜駕を早められて、晦日は、兵庫の福厳寺といふ寺に、儲餉の在所を点じて{*10}暫く御座ありける処に、その日、赤松入道父子四人、五百余騎を率して参向す。竜顔、殊に麗しくして、「天下草創の功、ひとへに汝等贔屓の忠戦によれり。恩賞は、各、望みに任すべし。」と叡感ありて、禁門の警固に奉侍せられけり。
 この寺に一日御逗留あつて、供奉の行列、還幸の儀式を調へられける処に、その日の午の刻に、羽書{*11}を頚に懸けたる早馬三騎、門前まで乗り打ちにして、庭上に羽書を捧げたり。諸卿、驚いて、急ぎ披いてこれを見給へば、新田小太郎義貞のもとより、相模入道以下の一族従類等、不日に追討して、東国、已に静謐の由を注進せり。「西国、洛中の戦ひに、官軍、勝つに乗つて両六波羅を攻め落とすといへども、関東を攻められん事は、ゆゆしき大事なるべし。」と、叡慮を巡らされける処に、この注進到来しければ、主上を始め参らせて、諸卿一同に、猶預の宸襟を休め、欣悦称嘆を尽くされ、則ち、「恩賞は宜しく請ふに依るべし。」と宣下せられて、先づ使者三人に、各、勲功の賞をぞ行はれける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「北條家。」とある。
 2:底本は、「何様(なにさま)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 3:底本は、「細馬(さいば)」。底本頭注に、「良馬。」とある。
 4:底本頭注に、「船上山。」とある。
 5:底本は、「蓍筮(しぜい)」。底本頭注に、「うらなひ。」とある。
 6:底本頭注に、「〇雨師 雨の神。」「〇風伯 風の神。」「〇紫微北辰 共に北斗星の事。」「〇拱陣 衆星が北斗星にむかふ状。」とある。
 7:底本頭注に、「法華開経と法華結経。」とある。
 8:底本頭注に、「〇妙典 法華経。」「〇第八の冥官 冥府十王中の第八位に当る者か。」とある。
 9:底本は、「乙護法(おとごほふ)」。底本頭注に、「乙と云ふ護法。護法とは仏法守護の人。」とある。
 10:底本は、「儲餉(ちよしやう)の在所(ざいしよ)を点(てん)じて、」。底本頭注に、「〇儲餉 食物を贈ること。」「〇点じて 点検して。」とある。
 11:底本頭注に、「兵を徴する檄文。」とある。