長門の探題降参の事

 長門の探題遠江守時直、京都の合戦難儀の由を聞きて、六波羅に力を合はせんと、大船百余艘に取り乗つて海上を上りけるが、周防{*1}の鳴門にて、京も鎌倉も、はや皆源氏のために滅ぼされて、天下悉く王化に従ひぬと聞こえければ、鳴門より船を漕ぎもどして、九州の探題と一所にならんと、心つくしへぞ赴きける。赤間関に著いて、九州の様を伺ひ聞き給へば、「筑紫の探題英時も、昨日はや小弐、大伴がために亡ぼされて、九国二島悉く公家のたすけと成りぬ。」と云ひければ、一旦催促に依つて、これまで附き従ひたる兵どもも、いつしかやがて心替はりして、己が様々に落ち行きける間、時直、僅かに五十余人になつて、柳浦の浪に漂泊す。
 かしこの浦に帆を下さんとすれば、敵、鏃を支へて待ち懸けたり。ここの島に纜を結ばんとすれば、官軍、楯を並べて討たんとす。残り留まる人々にさへ、今は心を沖津波、立ち帰るべき方もなく、寄るべき所もなければ、世をうき船の梶を絶え、おもはぬ風に漂へり。後に留めし妻子どもも、如何成りぬらんと、せめてその行方を聞きて後、心安く討死をもせばやと思はれければ、暫くの{*2}命を延べんために、郎等を一人船よりあげて、小弐、島津がもとへ、降人になるべき由をぞ伝へける。小弐も島津も、年頃のよしみあさからざりけるに、今の有様、聞くも哀れにや思ひけん。急ぎ迎ひに来て、己が宿所に入れ奉る。
 そのころ、峯の僧正俊雅と申せしは、君の御外戚にておはせしを、笠置の合戦の刻に筑前国へ流されておはしけるが、今一時に運を開いて、国人みなその左右に慎しみ随ふ。九州の成敗、勅許以前は暫くこの僧正の計らひに在りしかば、小弐、島津、かの時直を同道して、降参の由をぞ申し入れける。僧正、「仔細あらじ。」と仰せられて、即ち御前へ召されけり。時直、膝行頓首して、敢へて平視せず。
 遥かの末座に畏まつて、誠に平伏したる体を見給ひて、僧正、涙を流して仰せられけるは、「去んぬる元弘の始め、罪なくしてこの所に遠流せらるる時、遠州{*3}、我を以て寇とせしかば、或いは過分の詞の下に面を垂れて涙を押し拭ひ、或いは無礼の驕りの前に手をつかねて恥を忍びき。然るに今、天道、謙に幸ひして{*4}、測らざる世の変化を見るに、吉凶相乱れ、栄枯地を易へたり。夢現、昨日は身のうへのあはれ、今日は人の上の悲しみなり。『怨を報ずるに恩を以てす。』といふことあれば、如何にもして命ばかりを申し助くべし。」と仰せられければ、時直、頭を地につけて、両眼に涙を浮かめたり。不日に飛脚を以てこの由を奏聞ありければ、則ち勅免ありて、懸命の地をぞ安堵せられける。
 時直、甲斐なき命を助かつて、嘲りを万人の指頭に受くといへども、時を一家の再興に待たれけるが、幾程もあらざるに、病の霧に侵されて、夕の露と消えにけり。

越前の牛原地頭自害の事

 淡河右京亮時治は、京都の合戦の最中、北国の蜂起を鎮めんために、越前国に下つて、大野郡牛原と云ふ所にぞおはしける。幾程無うして、六波羅没落の由聞こえしかば、相従ひたる国の勢ども、片時の程に落ち失せて、妻子従類の外は、こと問ふ人もなかりけり。さる程に、平泉寺の衆徒、折を得てかの跡を恩賞に申し賜はらんために、自国他国の軍勢を相語らひ、七千余騎を率して、五月十二日の白昼に牛原へ押し寄する。時治、敵の勢の雲霞の如くなるを見て、戦ふとも幾程がこらふべしと思ひければ、二十余人ありける郎等に、向ふ敵を防がせて、あたり近き所に僧のおはしけるを請じて、女房、幼き人までも、みな髪に剃刀をあて、戒を受けさせて、ひとへに後生菩提の経営を涙の中にぞ致されける。
 戒の師帰つて後、時治、女房に向つて宣ひけるは、「二人の子供は男子なれば、幼しとも、敵、よも命を助けじとおぼゆる間、冥途の旅に伴ふべし。御事は女性にておはすれば、たとひ敵、かくと知るとも、命を失ひ奉るまでの事はあらじ。さてもこの世にながらへ給はば、如何なる人にも相馴れて、憂きを慰む便りにつき給ふべし。なき後までも心安くておはせんをこそ、草の蔭、苔の下までも嬉しくは{*5}思ふべけれ。」と、涙の中に掻き口説きて聞こえければ、女房、いと恨みて、「水にすむ鴛、梁に巣をくふ燕も、翼をかはす契りを忘れず。況んや相馴れ参らせて、おぼえず過ぎぬる十年余りの袖の下に、二人の子供を育てて、千代もと祈りし甲斐もなく、御身はいま秋の霜{*6}の下に伏し、幼き者どもは朝の露に先立ちて、消えはてなん後の悲しみを堪へ忍びては、時の間もながらふべき我が身かや。とても思ひに堪へかねば、生きてあるべき命ならず。同じくは、思ふ人と共にはかなくなりて、埋づもれん苔の下までも、同穴の契りを忘れじ。」と、涙の床に伏し沈む。
 さる程に、防ぎ矢射つる郎等ども、已に皆討たれて、衆徒、箱の渡しを打ち越え、後ろの山へ廻ると聞こえければ、五つと六つとになりける幼き人を鎧唐櫃に入れて、乳母二人に前後を舁かせ、鎌倉河の淵に沈めよとて、遥かに見送りて立ちたれば、母儀の女房も、同じくその淵に身を沈めんと{*7}、唐櫃の緒に取り附いて歩み行く、心の中こそ悲しけれ。唐櫃を岸の上に舁き据ゑて蓋を開きたれば、二人の幼き人、顔を差し挙げて、「これはなう、母御、いづくへ行き給ふぞ。母御のかちにて歩ませ給ふが御痛はしく候。これに乗らせ給へ。」と、何心もなげに戯れければ、母上、流るる涙を抑へて、「この河は、これ極楽浄土の八功徳池とて、幼き者の生まれて遊び戯るる所なり。我が如く念仏申して、この河の中へ沈まれよ。」と教へければ、二人の幼き人々、母と共に手を合はせ、念仏高らかに唱へて西に向つて坐したるを、二人の乳母、一人づつ掻き抱いて碧潭の底へ飛び入りければ、母上も続いて身を投げて、同じ淵にぞ沈まれける。
 その後、時治も自害して、一堆の灰となりにけり。
 隔生則忘{*8}とは申しながら、又、一念五百生、繋念無量劫の業なれば、奈利八万の底までも、同じ思ひの炎となつて焦がれ給ふらんと、哀れなりける事どもなり。

越中の守護自害の事 附 怨霊の事

 越中の守護名越遠江守時有、舎弟修理亮有公、甥の兵庫助貞持三人は、出羽、越後の宮方、北陸道を経て京都へ攻め上るべしと聞こえしかば、道にてこれを支へんとて、越中の二塚といふ所に陣を取つて、近国の勢どもをぞ相催しける。かかる処に、六波羅、已に攻め落とされて後、東国にも軍起こつて、已に鎌倉へ寄せけるなんど、様々に聞こえければ、催促に随つて、唯今まで馳せ集まりつる能登、越中の兵ども、放生津に引き退いて、かへつて守護の陣へ押し寄せんとぞ企てける。これを見て、今まで身に代はり命に代はらんと、義を存じ忠を致しつる郎従も、時の間に落ち失せて、あまつさへ敵軍に加はり、朝に来り暮に往きて交じはりを結び情を深くせし朋友も、忽ちに心変じて、かへつて害心をさし挟む。今は残り留まりたる者とては、三族{*9}に遁れざる一家の輩、重恩を蒙りし譜代の侍、僅かに七十九人なり。
 五月十七日の午の刻に、敵、既に一万余騎にて寄すると聞こえしかば、「我等、この小勢にて合戦をすとも、何程の事をかし出だすべき。なまじひなる軍して、いふ甲斐なく敵の手に懸かり、縲紲の恥{*10}に及ばん事、後代までの嘲りたるべし。」とて、敵の近づかぬ先に、女性、幼き人々をば舟に乗せて沖に沈め、我が身は城の内にて自害を{*11}せんとぞ出で立ちける。
 遠江守の女房は、偕老の契りを結びて今年二十一年になれば、恩愛の懐の内に二人の男子をそだてたり。兄は九つ、弟は七つにぞなりける。修理亮有公が女房は、相馴れて已に三年にあまりけるが、ただならぬ身{*12}になつて、早、月頃過ぎにけり。兵庫助貞持が女房は、この四、五日前に京より迎へたりける上臈女房にてぞありける。その昔、紅顔翠黛の世に類なきありさま、仄かに見初めし珠簾の隙もあらばと心に懸けて、三年余り恋ひ慕ひしが、とかく手立てを巡らして、盗み出だしてぞ迎へたりける。語らひ得て僅かに昨日今日のほどなれば、逢ふに替へんと歎き来し命も、今は惜しまける。恋ひ悲しみし月日は、天の羽衣撫で尽くすらん程よりも長く{*13}、相見て後のただちは、春の夜の夢よりも尚短し。忽ちにこの悲しみに逢ひける契りの程こそあはれなれ。末の露、本の雫、後れ先立つ道をこそ悲しきものと聞きつるに、浪の上、煙の底に沈み焦がれん別れの憂さ、こはそもいかがすべきと、互に名残を惜しみつつ、伏しまろびてぞ泣かれける。
 さる程に、「敵の、早寄せ来るやらん、馬煙の東西に揚げて見え候。」と騒げば、女房、幼き人々は、泣く泣く皆船に取り乗つて、遥かの沖に漕ぎ出だす。うらめしの追風や、暫しもやまで、行く人を波路遥かに吹き送る。情なの引き潮や、立ちも帰らで、漕ぐ船を浦より外に誘ふらん。かの松浦佐用姫{*14}が、玉島山にひれふりて、沖行く船を招きしも、今のあはれに知られたり。水手、櫓をかいて、船を浪間にさし留めたれば、一人の女房は、二人の子を左右の脇に抱き、二人の女房は、手に手を取り組んで、おなじく身をぞ投げたりける。紅の衣、赤き袴の暫く浪に漂ひしは、吉野、竜田の河水に、落花紅葉の散り乱れたる如くに見えたるが、寄せ来る浪に紛れて次第に沈むを見はてて後、城に残り留まりたる{*15}人々、上下七十九人、同時に腹を掻き切つて、兵火の底にぞ焼け死にける。
 その亡魂幽霊、尚もこの地に留まつて、夫婦執著の妄念を遺しけるにや、近頃越後より上る船人、この浦を過ぎけるに、俄に風向かひ、波荒かりける間、碇を下して沖に船を留めたるに、夜更け浪静まつて、松涛の風、芦花の月、旅泊の体、万、心すごき折節、遥かの沖に女の声して泣き悲しむ音しけり。これを怪しと聞き居たる処に、又、渚の方に男の声して、「その船、ここへ寄せてたべ。」と、声々にぞ呼ばはりける。船人、止むことを得ずして、船を渚に寄せたれば、いと清げなる男三人、「あの沖まで便船申さん。」とて、屋形にぞ乗りたりける。船人、これを乗せて、沖津潮合{*16}に船を差し留めたれば、この三人の男、船より下りて、漫々たる浪の上にぞ立ちたりける。暫くあれば、年十六、七、二十ばかりなる女房の、色々の衣に赤き袴踏みくくみたるが、三人、浪の底より浮かび出でて、その事となく泣きしをれたる様なり。男、よに睦まじげなる気色にて、相互に寄り近づかんとする処へ、猛火、俄に燃え出でて、炎、男女の中を隔てければ、三人の女房は、いもせの山の中々に思ひ焦がれたる体にて、波の底に沈みぬ。男は又、泣く泣く浪の上を泳ぎ帰つて、二塚の方へぞ歩み行きける。
 余りの不思議さに、船人、この男の袖を控へて、「さるにても、誰人にて御渡り候やらん。」と問ひたりければ、男、答へて曰く、「我等は、名越遠江守、同修理亮、並びに兵庫助。」と各名乗つて、かき消す様に失せにけり。
 天竺の術婆伽は、后を恋して、思ひの炎に身を焦がし、我が朝の宇治の橋姫は、夫を慕ひて片しく袖を波に浸す。これ皆、上古の不思議、旧記に載する所なり。まのあたり、かかることのうつつに見えたりける妄念の程こそ罪深けれ。

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校訂者注
 1:底本は、「阿波(あは)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 2:底本は、「且(しばら)く命」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 3:底本頭注に、「遠江守時直を指す。」とある。
 4:底本頭注に、「周易の謙の卦の句。」とある。
 5:底本は、「嬉しく思ふべけれ。」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 6:底本頭注に、「刃。」とある。
 7:底本は、「身を沈めんとて、」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
 8:底本は、「隔生則忘(きやくしやうそくばう)」。底本頭注に、「生き隔てれば生前の事を忘れること。」とある。
 9:底本頭注に、「父母、兄弟、妻子。」とある。
 10:底本は、「縲紲(るゐせつ)の恥(はぢ)」。底本頭注に、「囚人となる恥。」とある。
 11:底本は、「自害(じがい)せん」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 12:底本頭注に、「懐妊の身。」とある。
 13:底本頭注に、「天人が羽衣で方四十里の石を撫で尽す時間が一劫だと云ふ。」とある。
 14:底本は、「松浦佐用嬪(まつらさよひめ)」。底本頭注に、「大伴狭手彦が任那出発の時見送つてひれを振つたといふ故事。ひれは婦人が頚にかけるもの。」とある。
 15:底本は、「城に残(のこ)りたる人々」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 16:底本は、「澳津潮合(おきつしほあひ)」。底本頭注に、「沖の潮流の会ふ所。」とある。