金剛山の寄せ手等誅せらるる事 附 佐介貞俊が事
京洛、已に静まりぬといへども、金剛山より引つ返したる平氏ども、猶南都にとどまつて、帝都を攻めんとする由、聞こえありければ、中院中将定平を大将として五万余騎、大和路へ差し向けらる。楠兵衛正成に畿内の勢二万余騎を副へて、河内国より搦手にぞ向けられける。南都に引き篭る平氏の軍兵、已に十方に退散すといへども、残り留まる兵、尚五万余騎に余りたれば、今一度手痛き合戦あらんとおぼゆるに、日頃の擬勢{*1}尽きはてて、いつしか小水の魚の泡にいきつく体になつて、いたづらに日を送りける間、先づ一番に南都の一の木戸口、般若寺を堅めて居たりける宇都宮、紀清両党{*2}七百余騎、綸旨を賜はつて上洛す。これを始めとして、百騎、二百騎、五騎十騎、我先にと降参しける間、今、平氏の一族の輩、譜代重恩の族の外は、一人も残り留まる者もなかりけり。
これにつけても、今は何に憑みをかけてか命を惜しむべきなれば、各討死して、名を後代にこそ残すべかりけるに、せめての業の程の浅ましさは、阿曽弾正少弼時治、大仏右馬助貞直、江馬遠江守、佐介安芸守を始めとして、宗徒の平氏十三人、並びに長崎四郎左衛門尉、二階堂出羽入道道蘊已下、関東権勢の侍五十余人、般若寺にして各入道出家して、律僧の形になり、三衣を肩に懸け、一鉢を手に提げて、降人になつてぞ出でたりける。定平朝臣、これを請け取りて、高手小手に縛め、伝馬の鞍坪に縛りかがめて、数万の官軍の先々をおつ立てさせ、白昼に京へぞ帰られける。
平治には悪源太義平、平家に生け捕られて首を刎ねられ、元暦には内大臣宗盛公、源氏に囚はれて大路を渡さる。これは皆、戦ひに臨む日、或いは敵に謀られ、或いは自害に隙なくして、心ならず敵の手に懸かりしをだに、今に至るまで人口の嘲りとなつて、両家の末流、これを聞く時、面を一百余年の後に辱む。況んやこれは、敵に謀られたるにもあらず、又、自害に隙なきにもあらず。勢ひ未だ尽きざる先に自ら黒衣の身となつて、遁れぬ命を捨てかねて縲紲面縛の有様、前代未聞の恥辱なり。
囚はれ人、京都に著きければ、皆黒衣を脱がせ、法名を元の名に改めて、一人づつ大名に預けらる。その秋刑{*3}を待つ程に、禁錮の内に起き伏して、思ひ連ぬる浮世の中、涙の落ちぬ隙もなし。さだかならぬ便りについて、鎌倉の事どもを聞けば、偕老の枕の上に契りをなす貞女も、むくつけげなる田舎人どもに奪はれて、王昭君が恨みを遺し、富貴の台の中にかしづき立てし賢息も、辺りへだにも寄せざりし凡下どもの奴となつて、黄頭郎が夢{*4}をなせり。これ等はせめて、憂きながら未だ生きたりと聞けば、猶も思ひの数ならず。昨日はちまたを過ぎ、今日は門にやすらふ行客の、「あな、哀れや。道路に袖をひろげ{*5}、食を乞ひし女房の、倒れて死せしは誰が母なり。短褐{*6}にかたちを窶してゆかりを尋ねし旅人の、捕らはれて死せしは誰が親なり。」と、仄かに語るを聞く時は、今まで生きける我が身の命を、憂しとぞ更にかこたれける。
七月九日、阿曽弾正少弼、大仏右馬助、江馬遠江守、佐介安芸守、並びに長崎四郎左衛門、かれこれ十五人、阿弥陀峯にて誅せられけり。この君重祚{*7}の後、諸事の政、未だ行はれざる前に、刑罰をほしいままにせられん事は、仁政にあらずとて、ひそかにこれを切られしかば、首を渡さるるまでの事に及ばず。面々の死骸、便宜の寺々に送られ、後世菩提をぞ弔はれける。二階堂出羽入道道蘊は、朝敵の最一、武家の輔佐たりしかども、賢才の誉れ、かねてより叡聞に達せしかば、召し仕はるべしとて、死罪一等を許され、懸命の地に安堵して居たりけるが、又、陰謀の企てありとて、同年の秋の末に、終に死刑に行はれてげり。
佐介左京亮貞俊は、平氏の門葉たる上、武略才能、共に兼ねたりしかば、定めて一方の大将をもと、身を高く思ひける処に、相模入道、さまでの賞翫もなかりければ、恨みを含み憤りを抱きながら、金剛山の寄せ手の中にぞありける。かかる処に、千種頭中将、綸旨を申し与へて、御方に参るべき由を仰せられければ、去んぬる五月の初めに、千剣破より降参して、京都にぞ経廻りける。さる程に、平氏の一族、皆出家して、囚人になりし後は、武家被官{*8}の者ども、悉く所領を召し上げられ、宿所を追ひ出だされて、僅かなる身一つをだに置きかねて、貞俊も、阿波国へ流されてありしかば、今は召し仕ふ若党中間も身に添はず、昨日の楽しみ、今日の悲しみとなつて、ますます身を責むる体になり行きければ、盛者必衰の理の中にありながら、今更世の中情なくおぼえて、如何なる山の奥にも身を隠さばやと、心にあらまされてぞ居たりける。
さても関東の様、何とか成りぬらんと尋ね聞くに、相模入道{*9}殿を始めとして、一族以下、一人も残らず皆討たれ給ひて、妻子従類も共に行方を知らずなりぬと聞こえければ、今は誰を憑み、何を待つべき世ともおぼえず。見るにつけ聞くに随ひて、いとど心を砕き肝を消しける処に、関東奉公の者どもは、一旦命を助からんために降人に出づといへども、遂には如何にも野心ありぬべければ、悉く誅せらるべしとて、貞俊、又召し捕られてけり。とても心の留まる浮世ならねば、命を惜しとは思はねども、故郷に捨て置きし妻子どもの行方{*10}、何とも聞かで死なんずることの、余りに心にかかりければ、最期の十念勧めける聖について、年頃身を放たざりける腰の刀を、預かり人のもとより乞ひ出だして、故郷の妻子のもとへぞ送りける。聖、これを請け取つて、その行方{*11}を尋ね申すべしと領状{*12}しければ、貞俊、限りなく喜びて、敷皮の上に居直つて、一首の歌を詠じ、十念高らかに唱へて、閑かに首をぞ打たせける。
皆人の世にあるときは数ならで憂きにはもれぬ我が身なりけり
聖、形見の刀と、貞俊が{*13}最期の時著たりける小袖とを持つて、急ぎ鎌倉へ下り、かの女房を尋ね出だし、これを与へければ、妻室、聞きもあへず、只涙の床に伏し沈みて、悲しみに堪へかねたる気色に見えけるが、側なる硯を引き寄せて、形見の小袖の褄に、
誰見よとかたみを人のとどめけむ堪へてあるべき命ならぬに
と書きつけ、形見の小袖を引きかづき、その刀を胸につき立てて、忽ちにはかなくなりにけり。
この外、或いは偕老の契り空しくして、夫に別れたる妻室は、苟しくも二夫に嫁せん事を悲しみて、深き淵瀬に身を投げ、或いは口養の助けなくして子に後れたる老母は、僅かに一日の餐{*14}を求めかねて、自ら溝壑に倒れ伏す。
承久より以来、平氏、世を執つて九代、暦数已に百六十余年に及びぬれば、一類天下にはびこりて、威を振ひ勢ひをほしいままにせる所々の探題、国々の守護、その名を挙げて天下にある者、既に八百人に余りぬ。況んやその家々の郎従たる者、幾万億といふ数を知らず。されば、たとひ六波羅こそたやすく攻め落とさるるとも、筑紫と鎌倉をば、十年、二十年にも退治せらるる事難しとこそおぼえしに、六十余州、悉く割符を合はせたる如く、同時に軍起こつて、僅かに四十三日の中に皆滅びぬる業報の程こそ不思議なれ。
愚かなるかな、関東の勇士、久しく天下を保ち、威をあまねく海内に覆ひしかども、国を治むる心なかりしかば、堅甲利兵、いたづらに梃楚{*15}のために砕かれて、滅亡を瞬目の中に得たる事、驕れる者は失し、倹なる者は存す。古より今に至るまで、これあり。この内に向つて頭を廻らす人、天道は盈てるを欠く事を知らずして、猶人の欲心の飽く事なきに溺る。豈迷はざらんや。
校訂者注
1:底本頭注に、「見せかけの勢ひ。」とある。
2:底本頭注に、「〇宇都宮 公綱。」「〇紀清 紀氏と清原氏と。」とある。
3:底本頭注に、「刑罰。」とある。
4:底本頭注に、「一旦富裕となつても遂に貧しく飢うる譬へ。」とある。
5:底本は、「袖をひろけ、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
6:底本は、「短褐(たんかつ)」。底本頭注に、「短い衣物。」とある。
7:底本は、「此の君重祚(ちようそ)」。底本頭注に、「〇此の君 後醍醐帝。」「〇重祚 再び即位。」とある。
8:底本頭注に、「北條家に所属の官。」とある。
9:底本頭注に、「高時。」とある。
10・11:底本は、「行末(ゆくへ)」。
12:底本は、「領状(りやうじやう)」。底本頭注に、「領承。ひき受けること。」とある。
13:底本は、「貞俊か」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
14:底本は、「餐(さん)」。底本頭注に、「食糧。」とある。
15:底本は、「梃楚(ていそ)」。底本頭注に、「杖や笞。」とある。
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