巻第十二

公家一統政道の事

 先帝重祚の後、正慶の年号は、廃帝{*1}の改元なればとて、これを棄てられ、元の元弘にかへさる。
 その二年の{*2}夏のころ、天下一時に評定して、賞罰法令、悉く公家一統の政に出でしかば、群俗、風に帰する事、霜{*3}を被いて春日に照らすが如く、中華、軌を懼るる事、刃を履んで雷霆を戴くが如し。
 同じき年の六月三日、大塔宮、志貴の毘沙門堂に御座ありと聞こえしかば、畿内近国の勢は申すに及ばず、京中、遠国の兵までも、人より先にと馳せ参じける間、その勢、すこぶる天下の大半を尽くしぬらんと、おびただし。同じき十三日に御入洛あるべしと定められたりしが、その事となく{*4}延引あつて、諸国の兵を召され、楯をはがせ鏃を砥がせ、合戦の御用意ありと聞こえしかば、誰が身の上とは知らねども、京中の武士の心中、更に穏やかならず。
 これに依つて、主上、右大弁宰相清忠を勅使にて仰せられけるは、「天下、已に鎮まつて、七徳の余威をのえふし、九功の大化を成す処に、猶干戈を動かし士卒を集めらるるの條、その要、何事ぞや。次に、四海騒乱の程は、敵の難を遁れんために、一旦その姿を俗体にかへらるといへども、世已に静謐の上は、急ぎ剃髪染衣の姿に帰し、門跡相承の業を事とし給ふべし。」とぞ仰せられける{*5}。
 宮、清忠を御前近く召され{*6}、勅答申させ給ひけるは、「今四海一時に鎮まつて、万民無事の化に誇る事、陛下休明の徳に依り、微臣籌策の功に由る。しかるに、足利治部大輔高氏、僅かに一戦の功を以て、その志を万人の上に立てんと欲す。今もしその勢ひ微なるに乗じてこれを討たずんば、高時法師が逆悪を取つて高氏が威勢の上に加ふるものなるべし。この故に兵を挙げ武を備ふ、全く臣が罪に非ず。
 「次に剃髪の事、兆前に機を鑑みざる者、定めて舌を翻へさんか{*7}。今逆徒、測らざるに滅びて、天下無事に属すといへども、与党、猶身を隠し隙を伺ひ、時を待たずといふ事有るべからず。この時、上威厳なくんば、下必ず暴慢の心あるべし。されば、文武の二道、同じく立つて治まるべきは、今の世なり。我、もし剃髪染衣の体に帰して、虎賁{*8}猛将の威を捨てば、武に於いて朝家を全うせん人、誰そや。それ諸仏菩薩、利生方便を垂るる日、摂受、折伏の二門あり。その摂受とは、柔和忍辱のかたちをなして慈悲を先と為し、折伏とは、大勢忿怒の形を現じて刑罰を宗と為す。況んや聖明の君、賢佐武備の才を求むる時、或いは出塵の輩を俗体に帰し、或いは退体の主を帝位に即け奉る。和漢、その例多し。所謂、賈島浪仙は、釈門より出でて朝廷の臣と成る。我が朝の天武、孝謙は、法体を替へて重祚の位に登る。そもそも我、台嶺の幽渓に住んで僅かに一門跡を守ると、幕府の上将に居して遠く一天下を静むると、国家の用、いづれをか吉とせん。この両篇、速やかに勅許を下さるる様に奏聞を経べし。」と仰せられ、則ち清忠をぞ返されける。
 清忠卿、帰参してこの由を奏聞しければ、主上、つぶさに聞こし召され、「大樹{*9}の位に居して、武備の守りを全うせん事、げにも朝家のために人の嘲りを忘るるに似たり。高氏誅罰の事、彼の不忠、何事ぞや。太平の後、天下の士卒、なほ恐懼の心を抱く。もし罪無くして罰を行はば、諸卒、豈安堵の思ひを成さんや。然らば、大樹の任に於いては、仔細あるべからず。高氏誅罰の事に至つては、堅くその企てを留むべし。」と聖断あつて、征夷将軍の宣旨をなさる。これに依つて、宮の御憤りも散じけるにや、六月十七日、志貴を御立ちあつて、八幡に七日御逗留あつて、同じき二十三日、御入洛あり。
 その行列行粧、天下の壮観を尽くせり。先づ一番には赤松入道円心、千余騎にて前陣を仕る。二番に殿法印良忠、七百余騎にて打つ。三番には四條少将隆資、五百余騎。四番には中院中将定平、八百余騎にて打たる。その次に、華やかに鎧うたる兵、五百人すぐつて帯刀にて二行に歩ませらる。そのつぎに、宮は、赤地の錦の鎧直垂に、緋縅の鎧の裾金物に、牡丹の蔭に獅子の戯れて前後左右に追ひ合ひたるを、草摺長に召され、兵庫鎖の丸鞘の太刀に虎の皮の尻鞘かけたるを太刀懸の半ばに結うてさげ、白篦に節蔭ばかり少し塗つて、鵠の羽を以て矧いだる征矢の、三十六差したるを筈高に負ひ成し、二所籘の弓の、銀のつく打つたるを十文字に握つて、白瓦毛なる馬の、尾髪飽くまで足つて太く逞しきに、沃懸地の鞍置いて、厚総の鞦の只今染め出でたるごとくなるを芝打長に懸けなし、侍十二人に双口をさせ、千鳥足を踏ませて、小路を狭しと歩ませらる。後乗には千種頭中将忠顕朝臣、千余騎にて供奉せらる。猶も御用心の最中なれば、御心安き兵を以て非常を誡めらるべしとて、国々の兵をば、ひた物具にて三千余騎、閑かに小路を打たる。その後陣には、湯浅権大夫、山本四郎次郎忠行、伊東三郎行高、加藤太郎光直。畿内近国の勢、打ち込みに二十万七千余騎、三日支へてぞ打ちたりける。時移り事去つて、万、昔に替はる世なれども、天台座主、忽ちに将軍の宣旨を蒙り、甲冑を帯し随兵を召し具し御入洛ありし有様は、珍しかりし壮観なり。
 その後、妙法院宮は、四国の勢を召し具せられ、讃岐国より御上洛あり。万里小路中納言藤房卿は、預かり人小田民部大輔相具して、常陸国より上洛せらる。春宮大進季房は、配所にて身罷りにければ、父宣房卿、悦びの中の悲しみ、老後の涙、袖に満つ。法勝寺円観上人をば、預かり人結城上野入道、具足し奉り上洛したりければ、君、法体の恙なきことを悦び思し召して、やがて結城に本領安堵の綸旨を成し下さる。文観上人は、硫黄島より上洛し、忠円僧正は、越後国より帰洛せらる。
 総じて、この君、笠置へ落ちさせ給ひし刻、解官停任せられし人々、死罪流刑に逢ひしその子孫、ここかしこより召し出だされ、一時に蟄懐を開けり。されば、日頃武威に誇り本所{*10}を無みする権門高家の武士ども、いつしか諸庭の奉公人となり、或いは軽軒香車のしりへに走り、或いは青侍恪勤の前に跪く。世の盛衰、時の転変、歎くに叶はぬ習ひとは知りながら、今の如くにて公家一統の天下ならば、諸国の地頭御家人は、皆奴婢雑人の如くにてあるべし。あはれ、如何なる不思議{*11}も出で来て、武家、四海の権を執る世の中に又成れかしと、思ふ人のみ多かりけり。
 同じき八月三日より、軍勢恩賞の沙汰あるべしとて、洞院左衛門督実世卿を上卿に定めらる。これに依つて、諸国の軍勢、軍忠の支証を立て、申し状を捧げて恩賞を望む輩、幾千万人といふ数を知らず。実に忠ある者は、功を憑んでへつらはず。忠無き者は、奥に媚びて竈に求め{*12}上聞を掠めし間、数月の内に僅かに二十余人の恩賞を沙汰せられたりけれども、事、正路にあらずとて、やがて召し返されけり。さらば上卿を改めよとて、万里小路中納言藤房卿を上卿に成され、申し状を附け渡さる。
 藤房、これを請け取り、忠否を糺し浅深を分かち、各申し与へんとし給ひける処に、内奏の秘計に依つて、唯今までは朝敵なりつる者も安堵を賜はり、更に忠なき輩も、五箇所、十箇所の所領を賜はりける間、藤房、諌言を納れかねて、病と称して奉行を辞せらる。
 かくて黙止すべきにあらずとて、九條民部卿を上卿に定めて御沙汰ありける間、光経卿、諸大将にその手の忠否を委細尋ね究めて申し与へんとしたまひける処に、相模入道の一跡をば、内裏の供御料所に置かる。舎弟四郎左近大夫入道の跡をば、兵部卿親王へ参らせらる。大仏陸奥守の跡をば、准后の御領になさる。この外、相州{*13}の一族、関東家風の輩が所領をば、させる事もなき郢曲妓女の輩、蹴鞠伎芸の者ども、乃至、衛府諸司、官女官僧まで、一跡二跡を合はせて内奏より申し賜はりければ、今は六十六箇国の内には、錐を立つるの地も、軍勢に行はるべき闕所はなかりけり。かかりければ、光経卿も、心ばかりは無偏の恩化を申し沙汰せんと、欲し給ひけれども叶はで、年月をぞ送られける。
 又、雑訴の沙汰のためにとて、郁芳門の左右の脇に決断所を造らる。その議定の人数には、才学優長の卿相雲客、紀伝明法外記{*14}、官人を三番に分かつて、一月に六箇度の沙汰の日をぞ定められける。およそ事の体、厳重に見えて堂々たり。されどもこれ尚、理世安国の政にあらざりけり。或いは内奏より、訴人、勅許を蒙れば、決断所にて論人{*15}に理を附けられ、また決断所にて、本主、安堵を賜はれば、内奏よりその地を別人の恩賞に行はる。かくの如く互に錯乱せし間、所領一所に四、五人の給主附いて、国々の動乱、更に止む時なし。
 去る七月の初めより、中宮{*16}、御心煩はせ給ひけるが、八月二日に隠れさせ給ふ。これのみならず、十一月三日、春宮{*17}、崩御なりにけり。「これ、只事にあらず。亡卒の{*18}怨霊どものしわざなるべし。」とて、その怨害を止め、善所に赴かせしめんがために、四箇の大寺{*19}に仰せて、大蔵経五千三百巻を一日の{*20}中に書き写され、法勝寺にて則ち供養を遂げられけり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本頭注に、「〇先帝 後醍醐帝。」「〇廃帝 光厳天皇。」とある。
 2:底本は、「其の二年夏のころ、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 3:底本は、「霞を披いて」。底本頭注及び『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 4:底本は、「其の事(こと)なく」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 5:底本は、「仰せられるける。」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
 6:底本は、「召(め)させられ、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 7:底本頭注に、「非難するだらうが。」とある。
 8:底本は、「虎賁(こほん)」。底本頭注に、「勇壮の人。」とある。
 9:底本頭注に、「将軍。」とある。
 10:底本頭注に、「領家。荘園を預り司る役人。」とある。
 11:底本頭注に、「思ひがけぬこと。」とある。
 12:底本は、「奥(おう)に媚(こ)びて竈(さう)に求め」。底本頭注に、「尊きにも卑しきにも媚びて。」とある。
 13:底本頭注に、「相模入道高時。」とある。
 14:底本は、「紀伝明法(みやうはふ)外記(げき)」。底本頭注に、「〇紀伝 歴史学に詩文を兼ねたるもの。」「〇明法 法制に明らかなもの。」「〇外記 太政官の書記。」とある。
 15:底本頭注に、「〇訴人 原告人。」「〇論人 被告人。」とある。
 16:底本頭注に、「禧子。」とある。
 17:底本頭注に、「東宮。光厳帝の太子康仁か。」とある。
 18:底本は、「亡卒怨霊(をんりやう)共」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 19:底本頭注に、「東大、興福、延暦、園城。」とある。
 20:底本は、「一日中に」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。