大内裏造営の事 附 聖廟の御事

 翌年{*1}正月十二日、諸卿、議奏して曰く、「帝王の業、万機、事繁くして、百司、位を設く{*2}。今の鳳闕、僅かに方四町の内なれば、分内狭うして、礼儀を調ふるに所なし。四方へ一町づつ広げられ、殿を建て、宮を造らる。これ猶、古の皇居に及ばねば。」とて、「大内裏造らるべし。」とて、安芸、周防を料国に寄せられ、日本国の地頭御家人の所領の得分二十分の一を懸け召さる。
 そもそも大内裏と申すは、秦の始皇帝の都、咸陽宮の一殿を摸して造られたれば、南北三十六町、東西二十町の外、竜尾の置石を据ゑて、四方に十二の門を立てられたり。東には陽明、待賢、郁芳門。南には美福、朱雀、皇嘉門。西には談天、藻壁、殷富門。北には安嘉、偉鑑、達智門。この外上東、上西二門に至るまで、交戟の衛伍を守り、長時に非常を誡めたり。三十六の後宮には三千の淑女、粧ひを飾り、七十二の前殿には文武の百司、詔を待つ。紫宸殿の東西に清涼殿、温明殿。北に当たつて常寧殿、貞観殿。貞観殿と申すは、后町の北の御匣殿なり。校書殿と号せしは、清涼殿の南の弓場殿なり。昭陽舎は梨壺、淑景舎は桐壺、飛香舎は藤壺、凝花舎は梅壺。襲芳舎と申すは、雷鳴壺の事なり。
 萩戸、陣座、滝口戸、鳥曹司、縫殿。兵衛陣、左は宣陽門、右は陰明門。日花、月花の両門は、陣座の左右に向かへ、大極殿、小安殿、蒼竜楼、白虎楼、豊楽院、清暑堂。五節の淵酔、大嘗会は、この所にて行はる。中和院は中院、内教坊は雅楽所なり。御修法は真言院、神今食{*3}は神嘉殿。真弓、競馬をば、武徳殿にして御覧ぜらる。朝堂院と申すは、八省の諸寮、これなり。右近の陣の橘は、昔を忍ぶ香を留め、御階に繁る竹の台、幾世の霜を重ぬらん。在原中将の弓胡簶を身に添へて、雷鳴騒ぐ夜もすがら、あばらなる屋に居たりしは、官の庁の八神殿。光源氏大将の、如くものもなしと詠じつつ、朧月夜に憧れしは弘徽殿の細殿。江相公{*4}の、古、越路国へ下りしに、旅の別れを悲しみて、「後会、期遥かなり。纓を鴻臚の暁の涙に潤す。」と、長篇の序に書きたりしは、羅城門の南なる鴻臚館の名残なり。
 鬼の間、直盧、鈴の縄。荒海の障子をば、清涼殿に立てられ、賢聖の障子をば、紫宸殿にぞ立てられける。東の一の間には、馬周、房玄齢、杜如晦、魏徴。二の間には、諸葛亮、遽伯玉、張子房、第伍倫。三の間には、管仲、鄧禹、子産、蕭何。四の間には、伊尹、傅説、太公望、仲山甫。西の一の間には、李勣、虞世南、杜預、張華。二の間には、羊祜、楊雄、陳寔、班固。三の間には、桓栄、鄭玄、蘇武、倪寛。四の間には、董仲舒、文翁、賈誼、叔孫通なり。画図は金岡{*5}が筆、賛の詞は小野道風が書きたりけるとぞ承る。
 鳳の甍、天に翔けり、虹の梁、雲に聳え、さしもいみじく造り並べられたりし大内裏、天災を消すに便りなく、回禄{*6}度々におよんで、今は昔の礎のみ残れり。
 回禄のよしを尋ぬるに、かの唐尭、虞舜の君は、支那四百州の主として、その徳、天地に応ぜしかども、「茆茨剪らず、柴椽削らず。」とこそ申し伝へたれ。況んや、粟散国の主としてこの大内を造られたる事、その徳、相応ずべからず。後王、もし無徳にして居安からしめんと欲し給はば、国の財力もこれに依つて尽くべしと、高野大師{*7}、これを鑑み、門々の額を書かせ給ひけるに、大極殿の大の字の中を引つ切つて、火といふ字に成し、朱雀門の朱の字を米といふ字にぞ遊ばしける。
 小野道風、これを見て、大極殿は火極殿、朱雀門は米雀門とぞ難じたりける。大権の聖者、未来を鑑みて書き給へる事を、凡俗として難じ申したりける罰にや、その後より道風。筆を執れば手震ひて、文字正しからざれども、草書に妙を得たる人なれば、震うて書きけるも、やがて筆勢にぞなりにける。遂に大極殿より火出でて、諸司八省、悉く焼けにけり。程なく又造営ありしを、北野天神の御眷属火雷気毒神、清涼殿の坤の柱に落ち懸かり給ひし時、焼けけるとぞ承る。
 そもそもかの天満天神と申すは、風月の本主{*8}、文道の大祖たり。天におはしましては日月に光を顕はし国土を照らし、地に天降つては塩梅の臣{*9}と成つて群生を利し給ふ。
 その始めを申せば、菅原宰相是善卿{*10}の南庭に、五、六歳ばかりなる小児の容顔美麗なるが、前栽の花を詠じて、唯一人立ち給へり。菅相公、怪しと見給ひて、「君は、いづれの処の人、誰が家の男にておはしますぞ。」と問ひ給ふに、「我は、父もなく母もなし。願はくは相公を親とせんと思ひ侍るなり。」と仰せられければ、相公、嬉しく思し召して、手づから舁き抱き奉り、鴛鴦{*11}の衾の下に恩愛の養育を事となして育み奉り、御名をば菅少将{*12}とぞ申しける。
 未だ習はずして道を悟り、御才学、世に又類もあらじと見給ひしかば、十一歳にならせ給ひし時、父菅相公、御髪を掻き撫でて、「もし詩や作り給ふべき。」と問ひ参らせ給ひければ、少しも案じたる御気色も{*13}なくて、
  {*k}月の輝は晴れたる雪の如く  梅の花は照れる星に似たり
  憐れむべし金鏡{*14}転つて  庭上に玉芳馨しきこと{*k}
と、寒夜の即事を詞明らかに、五言の絶句にぞ作らせ給ひける。それより後、詩は盛唐の波瀾を捲きて七歩の才に先だち、文は漢魏の芳潤に口漱いで、万巻の書をそらんじ給ひしかば、貞観十二年三月二十三日{*15}、対策及第して、自ら詞場に桂を折り給ふ{*16}。
 その年の春、都良香の家に人集まつて弓を射ける所へ、菅少将、おはしたり。都良香、「この公は、いつとなく学窓に蛍を集め、稽古に隙なき人なれば、弓の本末をも知り給はじ。的を射させ奉り、笑はばや。」と思して{*17}、的矢に弓を取り副へて菅少将の御前にさしおき、「春の始めにて候に、一度遊ばし候へ。」とぞ請はれける。菅少将、さしも辞退し給はず、番ひの相手に立ち合ひて、雪の如き肌を押し肌脱ぎ、打ち上げて引き下すより、暫くしをりて堅めたる体、切つて放したる矢色、弦音、弓倒し、五善いづれも逞しく勢ひありて、矢所一寸ものかず、五度の十{*18}をし給ひければ、都良香、感に堪へかねて、自ら下りて御手を引き、酒宴数刻に及び、様々の引出物をぞ参られける。
 同じき年の三月二十六日に、延喜帝{*19}、未だ東宮にて御座ありけるが、菅少将を召されて、「漢朝の李嶠は、一夜に百首の詩を作りけると見えたり。汝、何ぞその才に如かざる。一時に十首の詩を作つて天覧に備ふべし。」と仰せ下されければ、則ち十の題を賜はりて、半時ばかりに十首の詩をぞ作らせ給ひける。
  {*k}春を送るに舟車を動かすを用ゐず  唯残鴬と落花とに別る
  もし韶光をして我が意を知らしめば  今宵の旅宿は詩の家に在らん{*k}
といふ暮春の詩も、その十首の絶句の内なるべし。才賢の誉れ、仁義の道、一つとして欠けたる所なく、「君は三皇五帝の徳に帰し、世は周公孔子の治に均しき事、只この人にあり。」と、君、限りなく賞し思し召しければ、寛平九年六月に、中納言より大納言に上り、やがて大将に成り給ふ。
 同じき年十月に、延喜帝、御位に即き給ひし後は、万機の政、併せて幕府の上将{*20}より出でしかば、摂籙の臣も清花の家も、肩を比ぶべき人なし。
 昌泰二年の二月に、大臣大将に成らせ給ふ。この時、本院大臣と申すは、大織冠九代の孫、昭宣公第一の男、皇后の御兄、村上天皇の御伯父なり{*21}。摂家といひ高貴といひ、かたがた我に等しき人あらじと思ひ給ひけるに、官位禄賞、共に菅丞相に越えられ給ひければ、御憤り、更に止む時なし。光卿、定国卿、菅根朝臣などに内々相計つて、陰陽頭を召し、王城の八方に人形を埋づみ冥衆を祭り、菅丞相を呪詛し給ひけれども、天道、私なければ、御身に災難来らず。さらば、讒を構へて罪科に沈めんと思ひて、本院大臣、度々{*22}、菅丞相、天下の世務に私有り、民の愁ひを知らず、非を以て理とせる由、申されければ、帝、「さては世を乱し民を害するの逆臣にして、非を諌め邪を止むるの忠臣に非ず。」と思し召されけるこそあさましけれ。
 「誰か知らん、偽言巧みにして簧{*23}に似たることを。君を勧めて鼻を掩はしむとも{*24}、君、掩ふ事なかれ。君が夫婦をして参商{*25}たらしむ。請ふ、君、蜂を捕らしむとも{*26}、君、捕るなかれ。君が母子をして豺狼とならしむ。」さしも眤まじかるべき夫婦父子の中をだに遠ざくるは{*27}、讒者の偽りなり。況んや君臣の間に於いてをや。遂に昌泰四年正月二十日、菅丞相、太宰権帥に遷され、筑紫へ流され給ふべきに定まりにければ、左遷の御悲しみに堪へず、一首の歌に千般の恨みを述べて、亭子院{*28}へ奉り給ふ。
  流れ行くわれはみくづとなりぬとも君しがらみとなりてとどめよ
法皇、この歌を御覧じて、御涙、御衣を潤しければ、左遷の罪を申し宥めさせ給はんとて、御参内ありけれども、帝{*29}、遂に出御なかりければ、法皇、御憤りを含んで空しく還御なりにけり。
 その後、流刑定まつて、菅丞相、忽ちに太宰府へ流されさせ給ふ。御子二十三人の中に、四人は男子にておはせしかば、皆{*30}引き分けて四方の国々へ流し奉る。第一の姫君一人をば都に留め参らせ、残る君達十八人は、泣く泣く都を立ち離れ、心づくし{*31}に赴かせ給ふ御有様こそ悲しけれ。年久しく住み馴れ給ひし紅梅殿を立ち出でさせ給へば、明け方の月幽かなるに、折忘れたる梅が香の御袖に余りたるも、「今は、これや故郷の春の形見。」と思し召すに、御涙さへ留まらねば、
  東風吹かばにほひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ
と打ち詠じ給ひて、今夜、淀のわたしまでと、追立の官人どもに道を急がれ、御車にぞ召されける。心なき草木までも、馴れし別れを悲しみけるにや、東風吹く風の便りを得て、この梅、飛び去つて、配所の庭にぞ生ひたりける。されば、夢の告げありて、折る人辛しと惜しまれし宰府の飛梅、これなり。
 去る仁和の頃、讃州の任に下り給ひしには、甘寧が錦の纜をとき{*32}、蘭の棹、桂の楫、舷を南海の月に敲きしに、昌泰の今、配所の道へ赴かせたまふには、恩賜の御衣の袖をかたしいて、浪の上、苫の底、思ひを西府の雲に傷ましめ、都に留め置き参らせし北の御方、姫君の御事も、今は昨日を限りの別れと悲しく、知らぬ国々へ流し遣はさるる十八人の君達も、さこそ思はぬ旅におもむきて、身を苦しめ心を悩ますらめと、一方ならずおぼしめしやるに、御涙、更に乾く間もなければ、旅泊の思ひを述べさせ給ひける詩にも、
  {*k}勅使駆り将て去りしより  父子一時に五処に離る
  口もの言ふこと能はず眼中は血なり  天神と地祇とに俯仰す{*k}
北の御方より副へられける御使の、道より帰りけるに、御文あり。
  君が住む宿の梢をゆくゆくもかくるるまでにかへり見しかな
 心つくしに生きの松{*33}、待つとはなしに明け暮れて、配所の西府に著かせ給へば、埴生の小屋のいぶせきに送り置き奉りて、都の官人も帰りぬ。都府楼の瓦の色、観音寺の鐘の声、聞くに随ひ見るにつけての御悲しみ。この秋は、ひとり我が身の秋となれり。起き臥す露のとことはに、古郷を忍ぶ御涙、言の葉毎に繁ければ、さらでも重き濡衣の、袖乾く間もなかりけり。さても無実の讒によりて配所に遷さるる恨み、骨髄に入つて、忍び難く思し召しければ、七日が間御身を清め、一巻の告文を遊ばして、高山に登り、竿の先に著けて差し挙げ、七日御足を爪立てさせ給ひたるに、梵天帝釈も、その無実をや憐れみ給ひけん、黒雲一群、天より下りさがりて、この告文を把つて、遥かの天にぞ上りける。
 その後、延喜三年二月二十五日、遂に左遷の恨みに沈んで薨逝したまひぬ。今の安楽寺を御墓所と定めて送り置き奉る。惜しいかな、北闕の春の花、流れて帰らぬ水に随ふ事。奈何かせん、西府の夜の月、晴れずして虚命の雲に入る事。されば、貴賤、涙をしたで、世の淳素の化に誇る事を慕ひ、遠近、声を呑んで、道、澆漓の俗を踏む事を悲しめり。
 同じき年夏の末に、延暦寺第十三の座主、法性坊尊意贈僧正、四明山の上、十乗の床の前に観月を照らし、心水を清めおはしましけるに、持仏堂の妻戸をほとほとと敲く音しければ、押し開きて見たまふに、過ぎぬる春、筑紫にて正しく薨逝したまひぬと聞こえし菅丞相にてぞおはしましける。僧正、怪しく思して、「先づこなたへ御入り候へ。」と誘ひ奉り、「さても御事は、過ぎにし二月二十五日に筑紫にて御隠れ候ひぬと、慥かに承りしかば、悲歎の涙を袖にかけて、後生菩提の御追善をのみ申し居り候に、少しも替はらぬ元の御形にて入御候へば、夢幻の間、弁へ難くこそおぼえて候へ。」と申されければ、菅丞相、御顔にはらはらとこぼれ懸かりける御涙を押し拭はせたまひて、「我、朝廷の臣となつて、天下を安からしめんために、暫く人間に下生する処に、君、時平公が讒を御許容あつて、終に無実の罪に沈められぬる事、瞋恚の焔、劫火より盛んなり{*34}。これによつて、五蘊の形は壊るといへども{*35}、一霊の神は、明らかにして天にあり。
 「今、大小神祇、梵天帝釈、四王の許しを得、その恨みを報ぜんために九重の帝闕に近づき、我につらかりし佞臣讒者を一々に蹴殺さんと存ずるなり。その時、定めて山門に仰せて総持の法験を致さるべし。たとひ勅定ありといへども、相構へて参内あるべからず。」と仰せられければ、僧正の曰く、「貴方と愚僧と師資の義浅からずといへども、君と臣と上下の礼、尚深し。勅請の旨、一往辞し申すといへども、度々に及ばば、いかでか参内仕らで候べき。」と申されけるに、菅丞相、御気色、俄に損じて、御前にありける柘榴を取つてかみ砕き、持仏堂の妻戸に颯と吹き懸けさせ給ひければ、柘榴の核、猛火となつて妻戸に燃え付きけるを、僧正、少しも騒がず、燃ゆる火に向ひ、灑水の印を結ばれければ、猛火、忽ちに消えて、妻戸は半ば焦げたるばかりなり。この妻戸、今に伝はつて山門に在りとぞ承る。
 その後、菅丞相、座席を立つて天に昇らせ給ふと見えければ、やがて雷、内裏の上に鳴り落ち鳴り昇つて、高天も地に落ち大地も裂くるが如し。一人、百官身を縮め、魂を消し給ふ。七日七夜が間、雨荒く風烈しくして、世界、闇の如く、洪水、家々を漂はしければ、京白河の貴賤男女、喚き叫ぶ声、叫喚大叫喚の苦しみの如し。遂に雷電、大内の清涼殿に落ちて、大納言清貫卿の上の衣に火燃えつきて、伏し転べども消えず。右大弁希世朝臣は、心剛なる人なりければ、「たとひ如何なる天雷なりとも、王威に怖ぢざらんや。」とて、弓に矢を取り副へて向ひ給へば、五体すくみてうつぶしに倒れにけり。近衛忠包、鬢髪に火つき、焼け死にぬ。紀蔭連は、煙に咽びて絶え入りにけり。本院大臣{*36}、「あはや、我が身に懸かる神罰よ。」と思はれければ、玉体に立ち副ひ参らせ、太刀を抜き懸けて、「朝に仕へ給ひし時も、我に礼を乱し給はず。たとひ神となり給ふとも、君臣上下の義を失ひ給はんや。金輪{*37}位高うして、擁護の神、未だ捨て給はずば、暫く静まりて、穏やかにその徳を施し給へ。」と、理に当たつて宣ひければ、理にや鎮まり給ひけん、時平大臣も蹴殺され給はず。玉体も恙なく、雷神、天に上り給ひぬ。
 されども、雨風の降り続く事は尚止まず。かくては、世界国土、皆流れ失せぬ{*38}と見えければ、法威を以て神の怒りを宥め申さるべしとて、法性坊の贈僧正を召さる。一両度までは辞退申されけるが、勅宣三度に及びければ、力なく下洛し給ひけるに、鴨川、おびただしく水増して、船ならでは道あるまじかりけるを、僧正、「唯その車、水の中を遣れ。」と下知し給ふ。牛飼、命に随つて、漲つたる河の中へ車を颯と遣り掛けたれば、洪水、左右へ分かれ{*39}、かへつて車は陸地を通りけり。僧正、参内し給ふより、雨止み風静まりて、神の怒りも忽ちに宥まり給ひぬと見えければ、僧正、叡感に預かつて登山し給ふ。「山門の効験、天下の称讃、これにあり。」とぞ聞こえし。
 その後、本院大臣、病を受け、身心、とこしなへに苦しみ給ふ。浄蔵貴所{*40}を請じ奉り、加持せられけるに、大臣の左右の耳より小青蛇、頭を差し出して、浄蔵貴所に向つて、「我、無実の讒に沈みし恨みを散ぜんために、この大臣を取り殺さんと思ふなり。されば、祈療、共に以て験あるべからず。かやうに云ふものをば誰とかしる。これこそ菅丞相の変化の神、天満大自在天神よ。」とぞ示し給ひける。浄蔵貴所、示現の不思議に驚いて、暫く加持を罷め、出で給ひければ、本院大臣、忽ちに薨じたまひぬ。御息女の女御、御孫の春宮も、やがて隠れさせ給ひぬ。二男八條大将保忠、同じく重病に沈みたまひけるが、験者、薬師経を読む時、宮毘羅大将と打ち挙げて読みけるを、我が頚切らんといふ声に聞きなして、則ち絶え入り給ひけり。三男敦忠中納言も早世しぬ。その人{*41}こそあらめ、子孫まで一時に亡び給ひける神罰の程こそ恐ろしけれ。
 その頃、延喜帝の御従父兄弟に右大弁公忠と申す人、悩む事もなくて頓死しけり。三日を経てよみがへらせ給ひけるが、大息突き出でて、「奏聞すべき事あり。我を助け起こして内裏へ参れ。」と宣ひければ、子息信明、信孝二人、左右の手を助けて参内し給ふ。「事の故、何ぞ。」と御尋ねありければ、公忠、わなわなと震うて、「臣、冥官の庁とて、恐ろしき所に至り候ひつるが、たけ一丈余りなる人の衣冠正しきが、金軸の申し文を捧げて、「粟散辺地の主、延喜帝王{*42}、時平大臣が讒を信じ、罪なき臣を流され候ひき。その誤り、最も重し。早、庁の御札に記され、阿鼻地獄へ落とさるべし。」と申せしかば、三十余人並み居給へる冥官、大きに怒つて、「時刻を移さずその責めに及ぶべし。」と同じたまひしを、座中第二の冥官、「もし年号を改めて過を謝する道あらば、如何にし候べき。」と宣ひしに、座中皆案じ煩うたる体に見えて、その後公忠、蘇生仕り候。」とぞ奏せられける。
 君、大きに驚き思し召して、やがて延喜の年号を延長に改めて、菅丞相流罪の宣旨を焼き捨てて、官位を元の大臣に返し、正二位の一階を贈せられけり。その後、天慶九年、近江国比良社の袮宜、壬生良種に託して、大内の北野に千本の松、一夜に生ひたりしかば、ここに社壇を建て、天満大自在天神と崇め奉りけり。御眷属十六万八千の神、尚も静まり給はざりけるにや、天徳二年より天元五年に至るまで、二十五年の間に、諸司八省、三度まで焼けにけり。かくてあるべきにあらねば、内裏造営あるべしとて、魯般{*43}が斧を巡らし、新たに造り立てたりける柱に、一首の虫食ひの歌あり。
  造るとも又も焼けなむすがはらや棟の板間のあはむかぎりは
この歌に、「神慮、尚も御納受なかりけり。」と驚き思し召して、一條院より正一位太政大臣の官位を賜はらせ給ふ。勅使、安楽寺に下つて詔書を読み上げける時、天に声あつて、一首の詩、聞こえたり。
  {*k}昨日は北闕に悲しみを蒙るの士と為り  今日は西都に恥を雪むるの尸と作る
  生きての恨み死しての歓びそれ我を奈何  今須らく望み足んぬ皇基を護るべし{*k}
その後よりは、神の怒りも静まり、国土も穏やかなり。
 大いなるかな、本地を尋ぬれば、大慈大悲の観世音、弘誓の海深うして、群生済度の船、彼岸に到らずと云ふ事なし。垂跡を申せば、天満大自在天神の応化の身、利物、日々に新たにして、一来結縁の人、所願、心に任せて成就す。これを以て、上一人より下万民に至るまで、渇仰の首を傾けずといふ人はなし。誠に奇特無双の霊社なり。
 さる程に、治暦四年八月十四日、内裏造営の事始めあつて、後三條院の御宇、延久四年四月十五日、遷幸あり。文人、詩を献じ、伶倫、楽を奏す。めでたかりしに、幾程もなく又、安元二年に日吉山王の御祟りによつて、大内の諸寮、一宇も残らず焼けにし後は、国の力衰へて、代々の聖主も今に至るまで造営の御沙汰も無かりつるに、今、兵革の後、世、未だ安からず。国弊え、民苦しみて、馬を花山の南に帰さず、牛を桃林の野に放たず{*44}。「大内裏作らるべし。」とて、昔より今に至るまで、我が朝には未だ用ゐざる{*45}紙銭を作りしに、諸国の地頭御家人の所領に課役をかけらるる條、神慮にも違ひ、驕誇の端ともなりぬ{*46}と、眉を顰むる智臣も多かりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「建武元年。」とある。
 2:底本は、「位を誤(あやま)る。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 3:底本は、「神今食(じんごんじき)」。底本頭注に、「陰暦六月と十二月に行はれた神事。」とある。
 4:底本は、「江相公(えのしやうこう)」。底本頭注に、「大江朝綱。」とある。
 5:底本頭注に、「巨勢金岡。」とある。
 6:底本頭注に、「火神。火災。」とある。
 7:底本は、「高野大師(かうやのだいし)」。底本頭注に、「弘法大師。」とある。
 8:底本頭注に、「風流人。」とある。
 9:底本は、「塩梅(えんばい)の臣」。底本頭注に、「輔弼の臣。」とある。
 10:底本は、「菅原(の)宰相公是善(ぜぜん)卿」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。底本頭注に、「〇是善 清公の子。」とある。
 11:底本は、「鴛鴦(ゑんあう)」。底本頭注に、「夫婦に譬ふ。」とある。
 12:底本は、「菅少将(くわんせうじやう)」。底本頭注に、「菅原道真のこと。」とある。
 13:底本は、「御気色なくて、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 14:底本頭注に、「月の異名。」とある。
 15:底本は、「二十二日」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 16:底本頭注に、「〇対策 試験。」「〇桂を折り給ふ 第一等で及第なさつた。」とある。
 17:底本は、「思うて、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 18:底本は、「五度の十(つゞ)」。底本頭注に、「弓の賭は一度に二矢づつで五度の勝負に十本なり。」とある。
 19・29:底本頭注に、「醍醐天皇。」とある。
 20:底本は、「幕府の上相」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 21:底本頭注に、「〇本院大臣 時平。」「〇大織冠 藤原鎌足。」「〇昭宣公 藤原基経。」「〇皇后 藤原穏子。」とある。
 22:底本は、「時々(より(二字以上の繰り返し記号))」。『太平記 二』(1980年)本文ルビに従い改めた。
 23:底本は、「簧(ふえ)」。底本頭注に、「〇誰か知らん云々 白氏文集の句。簧は笙の中の金葉を云ふ。笙に十三簧あつて調子により何れの簧にも移る。偽言の巧みなことに譬ふ。」とある。
 24:底本は、「君を勧めて鼻を掩ふとも」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。底本頭注に、「〇鼻を云々 魏王の夫人は楚美人を嫉み美人に王の前で鼻を掩はせ王には王が臭いから鼻を掩ふのだと讒して鼻を切らす。」
 25:底本頭注に、「〇参商 二つの星の名。遠く離れる譬へ。」とある。
 26:底本は、「蜂を掇(と)るとも」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 27:底本は、「遠(とほ)さくるは」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 28:底本頭注に、「宇多法皇。」とある。
 30:底本は、「おはせしかば、引分けて」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 31:底本頭注に、「心づくしと筑紫(九州)と云ひ懸く。」とある。
 32:底本は、「甘寧(かんねい)錦の纜(ともづな)をとき、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。底本頭注に、「呉志に見ゆ。豪奢な人で、錦で舟を維いだと云ふ。」とある。
 33:底本頭注に、「筑前の名所。」とある。
 34:底本は、「盛なんり」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 35:底本は、「五蘊(うん)の形は壊(くづ)るゝと雖も、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。底本頭注に、「〇五蘊の形 人間の形。」とある。
 36:底本頭注に、「藤原時平。」とある。
 37:底本は、「金輪(こんりん)」。底本頭注に、「金輪王。天子を指す。」とある。
 38:底本頭注に、「流れ失せぬべしの意。」とある。
 39:底本は、「左右に分れ、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 40:底本は、「浄蔵貴所(じやうざうきそ)」。底本頭注に、「三善清行の子。貴所は尊称。」とある。
 41:底本頭注に、「時平を指す。」とある。
 42:底本頭注に、「醍醐帝。」とある。
 43:底本頭注に、「工匠の名人。淮南子に見ゆ。」とある。
 44:底本頭注に、「尚書武成篇に『帰馬于華山之陽、放牛于桃林之野、示天下弗服。』天下の未だ静かならぬを云ふ。」とある。
 45:底本は、「用ひざる」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 46:底本は、「端(はし)ともなりぬ」。底本頭注に、「端緒ともなるだらう。」とある。
 k:底本、この間は漢文。