安鎮国家の法の事 附 諸大将恩賞の事
元弘三年春の頃、筑紫には規矩掃部助高政、糸田左近大夫将監貞義といふ平氏の一族、出で来て、前亡の余類を集め、所々の逆党を招いて{*1}国を乱らんとす。又、河内国の賊徒等、佐佐目憲法僧正といひける者を取り立てて、飯盛山に城郭をぞ構へける。これのみならず、伊与国には赤橋駿河守{*2}が子息、駿河太郎重時といふ者あつて、立烏帽子峯に城を拵へ、四辺の荘園を掠領す。
これ等の兇徒、法威を武力に加へて退治せずば、早速に静謐し難かるべしとて、俄に紫宸殿の皇居に壇を構へ、竹内慈厳僧正を召されて、天下安鎮の法をぞ行はれける。この法を行ふ時、甲冑の武士、四門を固めて、内弁、外弁、近衛、階下に陣を張り、伶人、楽を奏する始め、武家の輩、南庭の左右に立ち並んで、剣を抜き四方を鎮むる事あり。四門の警固には、結城七郎左衛門親光、楠河内守正成、塩冶判官高貞、名和伯耆守長年なり。南庭の陣には、右は三浦介、左は千葉大介貞胤をぞ召されける。この両人、かねてはその役に随ふべき由を領状申したりけるが、その期に臨んで、千葉は、三浦が相手に成らん事を嫌ひ、三浦は、千葉が右に立たん事を怒つて、共に出仕を留めければ、天魔の障礙、法会の違乱とぞなりにける。後に思ひ合はするに、天下久しく無為なるまじき表示なりけり。
されどもこの法の効験にや、飯盛城は、正成に攻め落とされ、立烏帽子城は、土居、得能に攻め破られ、筑紫は、大友、小弐に打ち負けて、朝敵の首、京都に上りしかば、共に大路を渡され、やがて獄門に懸けられけり{*3}。東国西国、已に静謐しければ、筑紫より小弐、大友、菊池、松浦の者ども、大船七百余艘にて参洛す。新田左馬助、舎弟兵庫助、七千余騎にて上洛せらる。この外、国々の武士ども、一人も残らず上り集まりける間、京白河に充満して、王城の富貴、日頃に百倍せり。
諸軍勢の恩賞は、暫く延引すとも、先づ大功の輩の抽賞を行はるべしとて、足利治部大輔高氏に、武蔵、常陸、下総三箇国、舎弟左馬頭直義に遠江国。新田左馬介義貞に上野、播磨両国、子息義顕に越後国、舎弟兵部少輔義助に駿河国。楠判官正成に摂津、河内両国{*4}。名和伯耆守長年に因幡、伯耆両国をぞ行はれける。その外、公家、武家の輩、二箇国、三箇国を賜はりけるに、さしもの軍忠ありし赤松入道円心に、佐用荘一所ばかりを行はる。播磨国の守護職をば程なく召し返されけり。されば、建武の乱に、円心、俄に心替はりして朝敵となりしも、この恨みとぞ聞こえし。
その外、五十余箇国の守護、国司、国々の闕所大荘をば、悉く公家被官の人々拝領しける間、陶朱の富貴に誇り、鄭白の衣食に飽けり。
千種殿並文観僧正奢侈の事 附 解脱上人の事
中にも千種頭中将忠顕朝臣は、故六條の内府有房公の孫にておはせしかば、文字の道をこそ家業とも嗜まるべかりしに、弱冠の頃より我が道にもあらぬ笠懸、犬追物を好み、博奕、婬乱を事とせられける間、父有忠卿、父子の義を離れ、不孝{*5}のよしにてぞ置かれける。されどもこの朝臣、一時の栄花を開かるべき過去の因縁にやありけん、主上、隠岐国へ御遷幸の時、供奉仕りて、六波羅の討手に上りたりし忠功に依つて、大国三箇国、闕所数十箇所拝領せらりたりしかば、朝恩、身にあまり、その奢り、目を驚かせり。
その重恩を与へたる家人どもに、毎日の巡酒を振舞はせけるに、堂上に袖を連ぬる諸大夫、侍、三百人に余れり。その酒肉珍膳の費え、一度に万銭も尚足るべからず。又、数十間の厩を作り並べて、肉に余れる馬を五、六十疋立てられたり。宴罷んで興に和する時は、数百騎を相随へて内野、北山辺に打ち出でて犬を追ひ出だし、小鷹狩に日を暮らし給ふ。その衣裳は、豹虎の皮を行縢に裁ち、金襴纐纈を直垂に縫へり。賤しきが貴服を著る、これを僭上といふ。「僭上無礼は、国の兇賊なり。」と、孔安国が誡めを恥ぢざりけるこそうたてけれ。
これは、せめて俗人なれば、言ふに足らず。かの文観僧正の振舞を伝へ聞くこそ不思議なれ。たまたま一旦名利の境界を離れ、既に三密瑜伽の道場に入り給ひし甲斐なく、唯利欲名聞にのみ赴いて、更に観念定坐の勤めを忘れたるに似たり。何の用ともなきに財宝を倉に積み、貧窮を助けず。傍らに武具を集めて士卒を逞しうす。媚びを成し交じはりを結ぶ輩には、忠なきに賞を申し与へける間、文観僧正の手の者と号して、党を立て臂を張る者、洛中に充満して、五、六百人に及べり。されば、程遠からぬ参内の時も、輿の前後、数百騎の兵打ち囲んで、路次を横行しければ、法衣、忽ちに馬蹄の塵に汚れ、律儀、空しく人口の譏りに落つ。
かの廬山の恵遠法師は、一度風塵の境を辞して、寂寞の室におはし給ひしより、仮にもこの山を出でじと誓つて、十八賢聖を結んで、長日に六時礼讃を勤めき。大梅常和尚は、強ひて世人に住む処を知られじと、更に茅舎を移して深居に入り、山居の風味を詠じて已熟の印可を得給へり。心ある人は皆、古も今も光を包み跡を消し、暮山の雲に伴ひ一池の蓮を衣として、道を行ひ心を澄ましてこそ生涯を尽くす事なるに、この僧正は、かくの如く名利の絆にほだされけるも、「只事にあらず。いかさま、天魔外道のその心に依託して、振舞はせけるか。」とおぼえたり。
何を以てこれをいふとならば、文治の頃、洛陽に一人の沙門あり。その名を解脱上人{*6}とぞ申しける。その母、七歳の時、夢中に鈴を呑むと見て儲けたりける子なりければ、只人にあらずとて{*7}、三つになりける時より、その身を釈門に入れ、遂に貴き聖とはなしけるなり。されば、慈悲深重にして、三衣の破れたることを悲しまず。行業不退にして、一鉢の空しき事を愁へず。大隠は、必ずしも市朝の内を辞せず。身は五濁の塵に交じはるといへども、心は三毒の霧を犯さず。
縁に任せ歳月を渡り、生を利して山川を抖薮{*8}し給ひけるが、或る時、伊勢太神宮に参つて、内外宮を巡礼して、ひそかに自受法楽の法施をぞ奉られける。大方、自余の社には様替はつて、千木も曲らず、形祖木も剃らず。これ、正直捨方便の形を顕はせるかと見え、古松枝を垂れ老樹葉を敷く、皆下化衆生の相を表すとおぼえたり。垂跡の方便をきけば、仮に三宝の名を忌むに似たりといへども、内証の深心を思へば、それも尚、化俗結縁の理ありとおぼえて、そぞろに感涙袖を{*9}濡らしければ、日暮れけれども、在家なんどに立ち宿るべき心地もし給はず。
外宮の御前に通夜念誦して、神路山の松風に眠りを覚まし、御裳濯川の月に心を澄ましておはしける処に、俄に空掻き曇り、雨風烈しく吹いて、雲の上に車を轟かし馬を馳する音して、東西より来れり。「あな、恐ろしや。これ、何物やらん。」と、上人、肝を消し見給へば、忽然として、虚空に玉を瑩き金を鏤めたる宮殿楼閣、出で来て、庭上に幔を引き門前に幕を張る。ここに十方より来る所の車馬の客、二、三千もあるらんとおぼえたるが左右に居流れて、上座に一人の大人あり。その姿、甚だ尋常にあらず。たけ二、三十丈も有るらんと見上げたるに、頭は夜叉の如く、十二の面、上に並べり。四十二の手有つて左右に相連なる。或いは日月を握り、或いは剣戟を提げ、八竜にぞ乗つたりける。相従ふ処の眷属ども、皆常の人にあらず。八臂六足にして鉄の楯を挟み、三面一体にして金の鎧を著せり。
座定まつて後、上坐に居たる大人、左右に向つて申しけるは、「この頃、帝釈の軍に打ち勝つて、手に日月を握り、身は須弥の頂に居し、一足に大海を踏むといへども、その眷属、毎日数万人亡ぶ。故、何事ぞと見れば、南贍部州扶桑国の洛陽辺に、解脱房といふ一人の聖、出で来て、化導利生する間、法威盛んにして天帝力を得、魔障弱くして修羅勢ひを失へり。所詮、彼がかくてあらん程は、我等、天帝に向つて合戦する事、叶ふまじ。如何にもして彼が道心を冷まし、憍慢懈怠の心を著くべし。」申しければ、兜の真向に第六天の魔王と金字に銘を打ちたる者、座中に進み出で、「彼の道心を冷まし候はん事は、たやすかるべきにて候。
「先づ後鳥羽院に武家を滅せんと思し召す心を著け奉り、六波羅を攻められば、左京権大夫義時、定めて官軍に向つて合戦を致すべし。その時、力を義時に加へば、官軍敗北して、後鳥羽院、遠国へ流され給はば、義時、天下の成敗を司り、治天を計らひ申さんに、必ず広瀬院{*10}第二の宮を位に即け奉るべし。さる程ならば、この解脱房、かの宮の御帰依ある聖なれば、官僧に召されて竜顔に近づき奉り、出仕の儀則をつくろふべし。これより、行業は日々に怠り、怠慢は時々に増して、破戒無慚の比丘とならんずる條、仔細あるべからず。かくてぞ我等も、若干の眷属を儲くべく候。」と申しければ、二行に並み居たる悪魔外道ども、「この儀、尤も然るべくおぼえ候。」と同じて、各、東西に飛び去りにけり。
上人、この事を聞き給ひて、「これぞ神明の我に道心を勧めさせたまふ御利生よ。」と歓喜の涙を流し、それよりやがて京へは帰り給はで、山城国笠置と云ふ深山に一つの巌屋を占め、落葉を集めて身上の衣となし、木の実を拾うて口食となし、長く厭離穢土の心を起こし、とこしなへに欣求浄土の勤めを専らにし給ひける。かくて三、四年を過ごし給ひける処に、承久の合戦出で来て、義時、天下の権を執りしかば、後鳥羽院、流されさせ給ひて、広瀬宮、天子の位に即き給ひける。その時、解脱上人、笠置の窟に在りと聞こし召して、官僧に為さんと、度々勅使を下され召されけれども、「これこそ第六天の魔王どもが云ひし事よ。」と思されければ、遂に勅定に随はず。いよいよ行ひ澄ましてぞおはしましける。智行、徳開けしかば、やがてこの寺の開山となり、今に仏法弘通の紹隆を残し給へり。
かれを以てこれを思ふに、「うたてかりける文観上人の行儀{*11}かな。」と、愚蒙の眼を迷はせり。遂に幾程もなく建武の乱出で来しかば、法流相続の門弟、一人も無く、孤独衰窮の身となり、吉野の辺に漂泊して終はり給ひけるとぞ聞こえし。
校訂者注
1:底本は、「招いで」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
2:底本頭注に、「名は宗時。久時の子。」とある。
3:底本は、「懸けられたり。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
4:底本は、「摂津(つの)国、河内、」。
5:底本頭注に、「勘当。」とある。
6:底本頭注に、「藤原貞憲の子貞慶。」とある。
7:底本は、「直人(たゞびと)にあらずとす、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
8:底本は、「抖擻(とそう)」。底本頭注に、「行脚。」とある。
9:底本は、「感涙(かんるゐ)を濡(ぬ)らしければ、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
10:底本頭注に、「高倉院の皇子で諱は守貞。」とある。
11:底本頭注に、「〇うたてかりける ひどい。」「〇行儀 ふるまひ。」とある。
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