兵部卿親王流刑の事 附 驪姫が事
兵部卿親王{*1}、天下の乱に向ふ程は、力なくその身の難を遁れんために、御法体を替へらるといへども、四海、已に静謐せば、元の如く三千貫長の位に復し、仏法王法の紹隆を致し給はんこそ、仏意にも叶ひ叡慮にも違はせ給ふまじかりしを、征夷将軍の位に備はり天下の武道を守るべしとて、即ち勅許を申されしかば、聖慮、隠やかならざりしかども、御望みに任せ、遂に征夷将軍の宣旨を下さる。
かかりしかば、四海の依頼として、身を慎しみ位を重んぜらるべき御事なるに、御心のままに奢りを極め、世の譏りを忘れて、婬楽をのみ事とし給ひしかば、天下の人皆、再び世の危ふからん事を思へり。大乱の後は、弓矢を包みて干戈を袋にすとこそ申すに、何の用ともなきに、強弓射る者、大太刀を仕ふ者とだに申せば、忠なきに厚恩を下され、左右前後に仕承す。あまつさへ、かやうのそらがらくる者ども{*2}、毎夜、京白河を廻つて辻切をしける程に、路次に行き合ふ児法師、女童部、ここかしこに切り倒され横死に逢ふ者、止む時なし。これも只、足利治部卿{*3}を討たんと思し召されける故に、兵を集め武を習はせられける御振舞なり。
そもそも高氏卿、今までは随分忠ある仁にて、過分の僻事ありとも聞こえざるに、何事に依つて兵部卿親王は、これ程に御憤りは深かりけるぞと、根元を尋ぬれば、去年の五月に、官軍、六波羅を攻め落としたりし刻、殿法印の手の者ども、京中の土蔵どもを打ち破つて、財宝どもを運び取りける間、狼籍を鎮めんがために、足利殿の方よりこれを召し捕つて、二十余人、六條河原に切つてぞ懸けられける。その高札に、「大塔宮の候人殿法印良忠が手の者ども、在々所々に於いて昼強盜を致す間、誅する所なり。」とぞ書かれたりける。殿法印、この事を聞きて、安からざる事に思はれければ、様々の讒を構へ、手立てを巡らして、兵部卿親王にぞ訴へ申されける。かやうの事ども重畳して上聞に達しければ、宮も、憤り思し召して、志貴に御座ありし時より、「高氏卿を討たばや。」と、連々に{*4}思し召し立ちけれども、勅許なかりしかば、力なく黙止し給ひけるが、尚讒口止まざりけるにや、内々隠密の儀{*5}を以て、諸国へ令旨をなされ、兵をぞ召されける。
高氏卿、この事を聞きて、内々、継母の准后に附き奉り、奏聞せられけるは、「兵部卿親王、帝位を奪ひ奉らんために、諸国の兵を召し候なり。その証拠、分明に候。」とて、国々へ成し下されし処の令旨を取つて、上覧に備へられけり{*6}。君{*7}、大きに逆鱗あつて、「この宮を流罪に処すべし。」とて、中殿の御会に事を寄せて、兵部卿親王をぞ召されける。
宮、かかる事とは更に思し召し寄らず、前駆二人、侍十余人召し具して、忍びやかに御参内ありけるを、結城判官、伯耆守二人、かねてより勅を承つて用意したりければ、鈴の間の辺に待ち受けて、これを捕り奉り、即ち馬場殿に押し篭め奉る。宮は、一間なる所の蜘手結うたる中に、参り通ふ人一人もなうして、涙の床に起きふさせたまふにも、「こは、如何なる我が身なれば、元弘の始めは武家のために身を隠し、木の下、岩の間に露敷く袖を乾しかね、帰洛の今は、一生の楽しみ未だ一日も終へざるに、讒臣のために罪せられ、刑戮の中には苦しむらん。」と、知らぬ前世の報いまでも、思し召し残す方もなし。「虚名、久しく立たずといふ事あれば、さりとも君も聞こし召し直さるべし。」と思し召しける処に、「公儀{*8}、已に遠流に定まりぬ。」と聞こえければ、御悲しみに堪へず、内々御心よせの女房して、委細の御書を遊ばし、伝奏につけて、急ぎ奏聞を経べき由を仰せ遣はさる。
その消息にいはく、
{*k}それ勅勘の身を以て罪無きの由を奏せんと欲するに、涙落ちて心暗く、愁へ結んで言短し。唯、一を以て万を察めしめ、詞を加へて恤悲せられば、臣愚{*9}生前の望み、ここに{*10}足らんのみ。それ承久より以来、武家権を把つて朝廷政を棄てたること、年尚し。臣、苟しくも之を看るに忍びず。一たび慈悲忍辱の法衣を解いで、忽ち怨敵降伏の堅甲を被る。内には破戒の罪を恐れ、外には無慙の譏りを受く。然りと雖も、君の為に身を忘るるに依つて、敵の為に死を顧みず。この時に当たつて、忠臣孝子朝に多しと雖も、或いは志を励まさず、或いは徒らに運を待つ。臣独り尺鉄の資無くして義兵を揺かし、嶮隘の中に隠れ敵軍を窺ふ。かるが故に、逆徒専ら我を以て根元と為すの間、四海に法を下し万戸以て贖ふ。誠にこれ、命は天に在りと雖も、身の措き処無きを奈何せん。昼は終日深山幽谷に臥し、石岩に苔を敷く。夜は通宵荒村遠里に出でて足を跣にして霜を踏む。竜の鬚を撫でて魂を消し、虎の尾を践みて胸を冷やすこと幾千万ぞや。遂に策を帷幄の中に運らし、敵を鈇鉞の下に亡ぼす。竜駕方に都に還り、鳳暦永く天に則ること、恐らくは微臣の忠功に非ずんば、それ誰とか為さんや。而るに今戦功未だ立たざるに、罪責忽ちに来る。風かにその科條を聞くに、一事も吾が犯す所に非ず。虚説の起こる所、唯尋ね究められざるを悲しむ。仰いで将に天に訴へんとすれば、日月不孝の者を照らさず。俯して将に地に哭せんとすれば、山川無礼の臣を載すること無し。父子{*11}の義絶え、乾坤共に棄つ。何の愁へか之に如かんや。自今以後、勲業孰が為に策らん。行蔵世に於いて軽し。綸宣もし死刑を優められば、永く竹園の名を削り、速やかに桑門の容と為らん{*12}。君見ずや、申生死して晋の国乱れ、扶蘇刑せられて秦の世傾く。浸潤の譖、膚受の愬{*13}、事小禍より起こつて皆大に逮ぶ。乾臨{*14}何ぞ古を延いて今を鑑みざる。懇歎の至りに堪へず、伏して奏達を仰ぐ。誠惶誠恐謹言。
三月五日 護良
前左大臣殿{*k}
とぞ遊ばされける。
この御文、もし叡聞に達せば、宥免の御沙汰もあるべかりしを、伝奏、諸々の憤りを恐れて、終に奏聞せざりければ、上天、聞きを{*15}隔てて、中心の訴へ、啓けず。この二、三年、宮に附き副ひ奉りて、忠を致し賞を待つ御内の候人三十余人、ひそかにこれを誅せらるる上は、とかく申すに及ばず。遂に五月三日、宮を直義朝臣の方へ渡されければ、数百騎の軍勢を以て路次を警固し、鎌倉へ下し奉つて、二階堂の谷に土の牢を塗つてぞ置き参らせける。
南の御方{*16}と申しける上臈女房一人より外は、附き副ひ参らする人もなく、月日の光も見えぬ闇室の内に向つて、横ぎる雨に御袖を濡らし、岩の滴りに御枕を干しわびて、年の半ばを過ごし給ひける御心の中こそ悲しけれ。君、一旦の逆鱗に鎌倉へ下し参らせられしかども、これまでの沙汰あれとは、叡慮も赴かざりけるを、直義朝臣、日頃の宿意を以て禁篭し奉りけるこそあさましけれ。
孝子、その父に誠ありといへども、継母、その子を讒する{*17}時は、国を傾け家を失ふこと、古よりその類多し。昔、異国に晋の献公といふ人おはしけり。その后斉姜、三人の子を生み給ふ。嫡子を申生といひ、次男を重耳、三男を夷吾とぞ申しける。三人の子、已にひとと成りて後、母の斉姜、病に侵されて、忽ちにはかなくなりにけり。献公、これを歎くこと浅からざりしかども、別れの日数、漸く遠くなりしかば、移ればかはる心の花に、昔の契りを忘れて、驪姫といひける美人をぞ迎へられける。この驪姫、唯紅顔翠黛、眼を迷はすのみにあらず。又、巧言令色、君の心を悦ばしめしかば、献公、寵愛甚だしくして、別れし人のおもかげは、夢にも見ずなりにけり。
かくて年月を経る程に、驪姫、又、子を生めり。これを奚齊とぞ名づけける。奚齊、未だ幼しといへども、母の寵愛に依つて、父のおぼえ、三人の太子に超えたりしかば、献公、常に前の后斉姜の子三人を捨てて、今の驪姫が腹の子奚齊に、晋の国を譲らんと思へり。驪姫、心には嬉しく思ひながら、上に偽つて申しけるは、「奚齊、未だ幼くして、善悪を弁へず。賢愚、更に見えざる前に、太子三人を超えてこの国を継がん事、これ、天下の人の憎むべき処。」と、時々に諌め申しければ、献公、いよいよ驪姫が心に私なく、世の譏りを恥ぢ、国の安からんことを思へる処を感じて、唯万事をこれに任せられしかば、その威、ますます重くなりて、天下皆これに帰服せり。
ある時、嫡子の申生、母の追孝のために、三牲の供へを調へて、斉姜の死して埋づもれし曲沃の墳墓をぞ祭られける。そのひもろぎ{*18}の余りを、父の献公の方へ奉り給ふ。献公、折節、狩場に出で給ひければ、このひもろぎを包んで置きたるに、驪姫、ひそかに鴆といふ恐ろしき毒を入れられたり。献公、狩場より帰つて、やがてこのひもろぎを食はんとし給ひけるを、驪姫、申されけるは、「外より贈れる物をば、先づ人に食はせて、後に大人{*19}には参らする事ぞ。」とて、御前なりける人に食はせられたるに、その人、忽ちに血を吐いて死にけり。「こは、如何なる事ぞ。」とて、庭前なる鶏犬に食はせ見給へば、鶏犬、共に斃れて死しぬ。献公、大きに驚いて、その余りを土に捨て給へば、捨てたる処の土穿げて、あたりの草木、みな枯れ萎む。
驪姫、偽つて涙を流し、申しけるは、「われ、太子申生を思ふ事、奚齊に劣らず。されば、奚齊を太子に立てんとし給ひしをも、我こそ諌め申して止めつるに、さればよ、この毒を以て我と父とを殺して、早く晋の国を執らんと巧まれけるこそうたてけれ。これを以て思ふに、献公、如何にも成り給ひなん後は、申生、よも我と奚齊とをば、一日片時も生けて置き給はじ。願はくは、君、我を捨て、奚齊を失ひて、申生の御心を休め給へ{*20}。」と、泣く泣く献公にぞ申されける。
献公、元来智浅うして、讒を信ずる人なりければ、大きに怒つて、太子申生を討つべき由、典獄の官に仰せつけらる。諸群臣皆、申生の罪なくして死に赴かんずる事を悲しみて、「急ぎ他国へ落ちさせ給ふべし。」とぞ告げたりける。申生、これを聞き給ひて、「我、少年の昔は母を失うて、長年の今、継母に逢へり。これ、不幸の上に、妖命{*21}備はれり。そもそも天地の間、いづれの所にか父子のなき国あらん。今、その死を遁れんために他国へ行きて、『これこそ、父を殺さんとて鴆毒を与へたりし、大逆不孝の者よ。』と、見る人毎に憎まれて生きては、何の顔かあらん。我が誤らざる処をば、天、これを知れり。唯虚名の下に死を賜はつて、父の怒りを休めんには如かず。」とて、討手の未だ来らざる前に、自ら剣に貫かれて、遂に空しくなりにけり。
その弟重耳、夷吾、この事を聞きて、驪姫が讒の又我が身の上にならんことを恐れて、二人共に他国へぞ逃げ給ひける。かくて奚齊に晋の国を譲り得たりけるが、天命に背きしかば、幾程も無く、献公、奚齊父子共に、その臣里剋といひける者に討たれて、晋の国、忽ちに滅びけり。
そもそも今、兵革一時に定まつて、廃帝、重祚を践ませ給ふ御事、ひとへにこの宮の武功による事なれば{*22}、たとひ小過ありといへども、誡めて宥めらるべかりしを、是非無く敵人の手に渡され、遠流に処せらるる事は、朝廷、再び傾いて、武家又蔓るべき瑞相にやと、人々、申し合ひけるが、果たして大塔宮失はれさせ給ひし後、忽ちに{*23}天下皆、将軍の代となりてげり。「牝鶏、晨するは、家の尽くる相なり。」と、古賢の云ひし詞の末、実にもと思ひ知られたり。
校訂者注
1:底本頭注に、「護良。」とある。
2:底本頭注に、「猥りに兵器を弄する者達。」とある。
3:底本頭注に、「高氏。」とある。
4:底本は、「連々(れん(二字以上の繰り返し記号))に」。底本頭注に、「頻りに。」とある。
5:底本は、「議」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
6:底本は、「備へられける。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
8:底本は、「公議」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
9:底本頭注に、「宮の謙称。」とある。
10:底本は、「云(フニ)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
11:底本頭注に、「後醍醐帝と大塔宮と。」とある。
12:底本頭注に、「〇竹園 親王。」「〇桑門の容 僧の身。」とある。
13:底本頭注に、「論語顔子篇の句。漸を以て人を讒することと身に痛切な訴へと。」とある。
14:底本頭注に、「天子の臨鑑。」とある。
15:底本は、「听(き)きを」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
16:底本頭注に、「藤原保藤の女。」とある。
17:底本は、「讒(ざん)ずる時」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
18:底本は、「胙(ひもろぎ)」。底本頭注に、「祭肉。」とある。
19:底本は、「大人(たいじん)」。底本頭注に、「献公。」とある。
20:底本は、「休(やす)み給へ。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
21:底本頭注に、「不思議の運命。」とある。
22:底本頭注に、「〇廃帝 後醍醐帝。」「〇重祚 二度皇位に即くこと。」「〇この宮 大塔宮。」とある。
23:底本は、「忽ち天下」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
k:底本、この間は漢文。
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