藤房卿遁世の事
その後、藤房卿、連続して諌言を奉りけれども、君、遂に御許容なかりしかば、大内裏造営の事をも止められず、蘭籍桂筵{*1}の御遊び、猶、頻りなりければ、藤房、これを諌めかねて、「臣たる道、我に於いて致せり。よしや、今は身を退かんには如かじ。」と思ひ定めてぞおはしける。
三月十一日は、八幡の行幸にて、諸卿皆、路次の行粧を事とし給ひけり。藤房も、時の大理{*2}にておはする上は、今はこれを限りの供奉と思はれければ、御供の官人、悉く目を驚かす程に出で立たれたり。
看督長十六人、冠の老懸に、袖単白くしたる薄紅の袍に白袴著し、いちびはばき{*3}に乱れ緒をはいて、列をひく。次に、走り下部八人、細烏帽子に上下一色の家の紋の水干著て、二行に歩みつづきたり。その後、大理は、巻纓の老懸に赤裏の表の袴、靴の沓{*4}はいて、蒔絵の平鞘の太刀を佩き、あまの面の羽つきたる平胡簶の箙を負ひ、甲斐の大黒とて、五尺三寸ありける名馬の太く逞しきに、いかけ地の鞍置いて、水色の厚総の鞦に、唐糸の手綱{*5}ゆるらかに結びてかけ、鞍の上閑かに乗りうけて、まちに三処手綱{*6}入れさせ、小路に余つて歩ませ出でたれば、馬副四人、鶡冠に猪の皮の尻鞘の太刀佩いて左右にそひ、かい副への侍二人をば、烏帽子に{*7}花田の打絹を重ねて、袖単を出だしたる水干著たる舎人の雑色四人、次に白張に香の衣重ねたる童一人、次に細烏帽子に袖単白くして、海松色の水干著たる調度懸六人、次に細烏帽子に香の水干著たる舎人八人、その次に直垂著の雑人等百余人、警蹕の声高らかに、辺りを払つて供奉せられたり。
伏し拝みに馬を留めて、男山を登り給ふにも、「栄行く時もありこし{*8}ものなり。」と、明日は謂はれぬべき身の程もあはれに、石清水を見給ふにも、澄むべき末の久しさを君が御影に寄せて祝ひし、その言の葉の、ひき替へて今よりは、こころの垢を清め、憂世の耳を洗ふべき便りになりぬと思ひたまひ、大菩薩の御前にして、ひそかに自受法楽の法施を奉りても、道心堅固速証菩提と祈り給へば、和光同塵の月、明らかに心の闇をや照らすらんと、神慮も暗に量られたり。
御神拝一日あつて、還幸、事散じければ、藤房、致仕のために参内せられ、「竜顔に近づきまゐらせんこと、今ならでは何事にか。」と思はれければ、そのこととなく御前に祗候して、竜逢、比干が諌めに死せし恨み、伯夷、叔斉が潔きを踏みにし跡、夜もすがら申し出でて、未明に退出し給へば、大内山の月影も涙に曇りて幽かなり。陣頭より車をば宿所へ返し遣はし、侍一人召し具して、北山の岩蔵と云ふ所へ赴かれける。ここにて不二房といふ僧を戒師に請じて、遂に多年拝趨の儒冠を脱いで、十戒持律の法体に成り給ひけり。家貧しく年老いぬる人だにも、離れ難く捨て難きは、恩愛の古き住みかなり。況んや官禄共に卑しからで、齢未だ四十に足らざる人の、妻子を離れ父母を捨てて、山川抖薮{*9}の身となりしは、ためし少なき発心なり。
この事、叡聞に達しければ、君、限りなく驚き思し召して、「その在りかを急ぎ尋ね出だし、再び政道輔佐の臣となるべし。」と、父宣房卿に仰せ下されければ、宣房卿、泣く泣く車を飛ばして、岩蔵へ尋ね行き給ひけるに、中納言入道は、その朝まで岩蔵の坊におはしけるが、これもなほ都近き辺りなれば、浮世の人、事問ひかはす事もこそあれと厭はしくて、いづちといふ方もなく、足に任せて出で給ひけり。宣房卿、かの坊に行き給ひて、「左様の人やある。」と尋ねられければ、主の僧、「さる人は、今朝までこれに御坐候ひつるが、行脚の御志候とて、いづちへやらん、御出で候ひぬるなり。」とぞ答へける。
宣房卿、悲歎の涙を押さへて、その住み捨てたる庵室を見給へば、誰見よとてか書き置きける、破れたる障子の上に一首の歌を残されたり。
住み捨つる山をうき世の人とはばあらしや庭の松にこたへむ
「棄恩入無為、真実報恩者。」といふ文の下に、
{*k}白頭にして望み断ゆ万重の山 曠劫の恩波底を尽くして乾く
これ胸中に五逆を蔵すにあらず 出家端的に親に報ずること難し{*k}
と、黄蘗の大義渡を題せし古き頌を書かれたり。「さてこそこの人、たとひいづくの山にありとも、命の中の再会は叶ふまじかりけるよ。」と、宣房卿、恋慕の涙に咽んで、空しく帰り給ひけり。
そもそもかの宣房卿と申すは、吉田大弐資経の孫、藤三位資通の子なり。この人、閑官の昔、五部の大乗経を一字三礼{*10}に書き供養して、子孫の繁昌を祈らんために、春日社にぞ奉納せられける。その夜の夢想に、黄衣著たる神人、榊の枝に立て文を著けて、宣房卿の前に差し置きたり。如何なる文やらんと怪しみて、急ぎこれを披いて見給へば、上書に、「万里小路一位殿へ」と書きて、中には、「速証無上大菩提。」と、金字にぞ書きたりける。夢覚めて後、静かにこれを案ずるに、「我、朝廷に仕へて、位一品に至らんずる條、疑ひなし。中に見えつる金字の文は、我、則ちこの作善を以て、後生善処の望みを達すべきものなり。」と、二世の悉地、共に成就したる心地して、憑もしく思ひ給ひけるが、果たして元弘の末に、父祖代々絶えて久しき従一位になり給ひけり。中に見えし金字の文は、子息藤房卿、出家得道し給ふべきその善縁ありと示されける、明神の御告げなるべし。
誠に百年の栄耀は風前の塵、一念の発心は命後の灯なり。「一子出家すれば、七世の父母皆仏道を成す。」と、如来の所説明らかなれば、この人一人の発心に依つて、七世の父母もろともに成仏得道せんこと、歎きの中の悦びなるべければ、これを誠に第一の利生預かりたる人よと、智ある人は聞いて感歎せり。
校訂者注
1:底本は、「蘭籍桂筵(らんせきけいえん)」。底本頭注に、「詩歌管絃の美しき席。」とある。
2:底本頭注に、「検非違使庁の別当の唐名。」とある。
3:底本は、「いちひはゞき」。『太平記 二』(1980年)本文及び頭注に従い改めた。
4:底本は、「靴(くわ)の沓(くつ)」。底本頭注に、「革製の沓。」とある。
5・6:底本は、「手縄(たづな)」。
7:底本は、「烏帽子の花田(はなだ)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
8:底本は、「ありにし」。『太平記 二』(1980年)本文及び頭注に従い改めた。
9:底本は、「抖擻(とそう)」。底本頭注に、「頭陀。行脚。」とある。
10:底本頭注に、「写経するに一字書く毎に三度礼すること。」とある。
k:底本、この間は漢文。
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