北山殿の謀叛の事
故相模入道舎弟四郎左近大夫入道{*1}は、元弘の鎌倉合戦の時、自害したる真似をして、ひそかに鎌倉を落ちて、暫しは奥州に在りけるが、人に見知られじがために、還俗して京都に上り、西園寺殿を憑み奉りて、田舎侍の始めて召し仕はるる体にてぞ居たりける。これも、承久の合戦の時、西園寺太政大臣公経公、関東へ内通の旨ありしに依つて、義時、その日の合戦に利を得たりし間、「子孫七代まで西園寺殿を憑み申すべし。」と云ひ置きたりしかば、今に至るまで、武家、他に異なる思ひをなせり。
これに依つて、代々の立后も、多くはこの家より出でて、国々の拝任も、半ばはその族にあり。然れば、官太政大臣に至り、位一品の極位を極めずといふ事なし。ひとへにこれ、関東贔屓の厚恩なりと思はれけるにや、「如何にもして故相模入道が一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、我が身、公家の執政として、四海を掌に握らばや。」と思はれければ、この四郎左近大夫入道を還俗せさせ、刑部少輔時興と名を替へて、明け暮れは、ただ謀叛の計略をぞ巡らされける。
ある夜、政所の入道、大納言殿の前に来つて申しけるは、「国の興亡を見るには、政の善悪を見るに如かず。政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに如かず。されば、微子去つて殷の代傾き、范増罪せられて楚王滅びたり。今の朝家には、唯藤房一人のみにて候ひつるが、未然に凶を鑑みて、隠遁の身となり候事、朝廷の大凶、当家{*2}の御運とこそおぼえて候へ。急ぎ思し召し立たせたまひ候はば、前代の余類、十方より馳せ参つて天下を覆さんこと、一日を出づべからず。」とぞ勧め申しける。
公宗卿、実にもと思はれければ、時興を京都の大将として、畿内近国の勢を催さる。その甥相模次郎時行をば関東の大将として、甲斐、信濃、武蔵、相模の勢を附けらる。名越太郎時兼をば北国の大将として、越中、能登、加賀の勢をぞ集められける。かくの如く諸方の相図を同時に定めて後、西の京より番匠あまた召し寄せて、俄に湯殿をぞ作られける。その上がり場に、板を一間踏めば落つる様に構へて、その下に刀の菱を植ゑられたり。これは、主上、御遊のために臨幸成りたらんずる時、華清宮の温泉に準へて、浴室の宴を勧め申して、君をこの下へ陥し入れ奉らんための企てなり。
かやうに様々の謀りごとを定め、兵を調へて、「北山の紅葉御覧のために臨幸成り候へ。」と申されければ、即ち日を定められ、行幸の儀式をぞ調へられける。已に明日午の刻に臨幸あるべき由、相触れられたりけるその夜、主上、暫く御まどろみありける御夢に、赤き袴に鈍色の二つ衣著たる女一人来つて、「前には虎狼の怒れるあり。後ろには熊羆の猛きあり。明日の行幸をば思し召し留まらせ給ふべし。」とぞ申しける。主上、御夢の中に、「汝は、いづくより来れる者ぞ。」と御尋ねありければ、「神泉苑の辺に多年住み侍る者なり。」と答へ申して立ち帰りぬと御覧ぜられ、御夢は程なく覚めにけり。
主上、怪しき夢の告げなりと思し召されながら、これまで事定まりぬる臨幸、期に臨みては如何停めらるべきと思し召されければ、遂に鳳輦を促さる。さりながら、「夢の告げ、怪しければ。」とて、先づ神泉苑に幸成つて、竜神の御手向ありけるに、池水、俄に変じて、風吹かざるに、白浪、岸を打つ事、頻りなり。主上、これを御覧ぜられ、いよいよ夢の告げ怪しく思し召されければ、暫く鳳輦を留めて御思案ありける処に、竹林院の中納言公重卿、馳せ参じて申されけるは、「西園寺大納言公宗、隠謀の企てありて臨幸を勧め申す由、唯今或る方より告げ示し候。これより急ぎ還幸成つて、橋本中将俊季、並びに春衡、文衡入道を召されて、仔細を御尋ね候べし。」と申されければ、君、去んぬる夜の夢の告げ、今日の池水の変ずるわざ、げにも様ありと思し召し合はせて、やがて還幸なりにけり。
即ち、中院の中将定平に、結城判官親光、伯耆守長年を差し副へて、「西園寺大納言公宗卿、橋本中将俊季、並びに文衡入道を召し捕つてまゐれ。」とぞ仰せ下されける。勅宣の御使、その勢二千余騎、追手搦手より押し寄せて、北山殿の四方を七重八重にぞ取り巻きける。大納言殿、「はや、この間の隠謀、顕はれけり。」と思ひたまふ。されば、中々騒ぎたる気色もなし。事の様をも知らぬ北の御方、女房達、侍どもは、「こは、如何なる事ぞや。」と、慌てふためき、逃げ倒る。御弟俊季朝臣は、官軍の向ひけるを見て、心早き人なりければ、唯一人脱けて、後ろの山よりいづちともなく落ち給ひにけり。
定平朝臣、先づ大納言殿に対面あつて、穏やかに事の仔細を述べられければ、大納言殿、涙を押さへて宣ひけるは、「公宗、不肖の身なりといへども、故中宮{*3}の御よしみに依つて、官禄ともに人に下らず。これ、ひとへに明王慈恵の恩幸なれば、いかでか蔭に居て枝を折り{*4}、流れを汲んで源を濁す志、存じ候べき。つらつら事の様を案ずるに、当家数代の間、官爵人に超え、恩禄身に余れる間、或いは清花{*5}の家これを妬み、或いは名家の輩これを猜んで、如何様、種々の讒言を構へ、様々の虚説をなして、当家を失はんと仕るかとこそおぼえて{*6}候へ。さりながら、天、真を鑑みば、虚名いつまでか上聞を掠むべく候なれば、先づ召しに随つて陣下に参じ、犯否の御糺明を仰ぎ候べし。但し、俊季に於いては、今朝、已に逐電候ひぬる間、召し具するに及ばず。」とぞ宣ひける。
官軍ども、これを聞きて、「さては、橋本中将殿を隠し申さるるにてこそあれ。御所中をよくよく見奉れ。」とて、数千の兵、殿中に乱れ入つて、天井、塗篭打ち破り、翠簾、几帳を引き落として、残るところなく捜しけり。これに依つて、只今まで紅葉の御賀あるべしとて、楽絃を調べつる伶人、装束をも脱がず東西に逃げ迷ひ、見物のためとて群をなせる僧俗男女、「怪しきものか。」とて、多く召し捕られ、不慮に刑戮に逢ひけり。その辺の山の奥、岩のはざままで、もしやと猶捜しけれども、俊季朝臣、遂に見え給はざりければ、官軍、力なく、公宗卿と文衡入道とを召し捕り奉つて、夜中に京へぞ帰りける。
大納言殿をば定平朝臣の宿所に、一間なる所を詰め牢の如くに拵へて、押し篭め奉る。文衡入道をば結城判官に預けられ、夜昼三日まで、上げつ下しつ拷問せられけるに、残るところなく白状しければ、即ち六條河原へ引き出だして、首を刎ねられけり。公宗をば伯耆守長年に仰せ附けられ、出雲国へ流さるべしと、公議、已に定まりにけり。
明日必ず配所へ赴きたまふべしと、治定ありけるその夜、中院より北の御方へ告げ申されければ、北の方、忍びたる体にて、泣く泣くかしこへおはしたり。暫く警固の武士をのけさせて、牢の辺りを見給へば、一間なるところの蜘手きびしく結ひたる中に身を縮めて、起き臥しもなく泣き沈み給ひければ、流るる涙、袖に余りて、身も浮くばかりになりにけり。大納言殿、北の方を一目見たまひて、いとど涙に咽び、云ひ出だし給へる言の葉もなし。北の方も、「こは、如何になりぬる御有様ぞや。」とばかり涙の中に聞こえて、引きかづき泣き伏したまふ。
やや暫くあつて、大納言殿、涙を押さへて宣ひけるは、「我が身、かく引く人もなき捨て小舟の如く、深き罪に沈みぬるにつきても、ただならぬ御事{*7}とやらん承りしかば、我故の物思ひに、如何なる煩はしき御心地かあらんずらんと、それさへ後の闇路の迷ひとなりぬべうおぼえてこそ候へ。もしそれ、男子にても候はば、行く末の事思ひ捨て給はで、哀れみの懐の中に人となし給ふべし。これは、我が家に伝ふる所の物なれば、見ざりし親の忘れ形見ともなし給へ。」とて、上玄{*8}、石上、流泉、啄木の秘曲を書かれたる琵琶の譜を一帖、肌の護りより取り出だし給ひて、北の方に手づから渡されけるが、側なる硯を引き寄せて、上巻の紙に一首の歌を書き給ふ。
哀れなり日影待つ間の露の身に思ひおかるるなでしこの花{*9}
硯の水に涙落ちて、薄墨の文字さだかならず。見る心地さへ消えぬべきに、これを今はの形見とも、涙と共に留め給へば、北の御方は、いとど悲しみを副へられて、中々言の葉もなければ、唯、顔をも擡げず泣き給ふ。
さる程に、追立の官人来つて、「今夜、先づ伯耆守長年が方へ渡し奉りて、暁、配所へ下し奉るべし。」と申しければ、やがて物騒がしくなつて、北の方も、傍へ立ち隠れ給ひぬ。「さても、猶今より後の御有様、如何に。」と心苦しくおぼえて、透垣の中に立ち紛れて見給へば、大納言殿を請け取り参らせんとて、長年、物具したる者ども二、三百人召し具して、庭上に並み居たり。「余りに夜の更け候ひぬる。」と急ぎければ、大納言殿、縄取にひかへられて、中門へ出でたまふ。その有様を見給ひける北の御方の心の中、たとへて云はん方もなし。
既に庭上に舁き据ゑたる輿の{*10}簾をかかげて乗らんとし給ひける時、定平朝臣、長年に向つて、「早く。」と云はれけるを、「殺し奉れ。」との詞ぞと心得て、長年、大納言に走りかかつて、鬢の髪を掴んでうつ伏しに引き伏せ、腰の刀を抜いて御頚を掻き落としけり。下として上を犯さんと企つる罰の程こそ恐しけれ。北の方は、これを見給ひて、覚えず、「あつ。」とをめいて、透垣の中に倒れ伏し給ふ。このままやがて絶え入り給ひぬと見えければ、女房達、車に助け乗せ奉りて、泣く泣く又、北山殿へ帰し入れ奉る。
さしも、堂上堂下、雲の如くなりし青侍、官女、いづちへか落ち行きけん、人一人も見えずなつて、翠簾几帳、皆引き落とされたり。常の御方を見たまへば、月の夜、雪の朝、興に触れて読み棄て給へる短冊どもの、ここかしこにちり乱れたるも、今はなき人の忘れ形見となつて、そぞろに涙を催され給ふ。又、夜の御方を見給へば、古き衾は留まつて、枕並べし人はなし。その面影はそれながら、語つて慰む方もなし。庭には紅葉散り敷いて、風の気色もすさまじきに、古き梢の梟の声、けうとげに啼いたる暁の物寂しさ、堪へては如何にと住みわび給へる処に、「西園寺の一跡をば、竹林院中納言公重卿、賜はらせ給ひたり。」とて、青侍ども、あまた来つて取りまかなへば、これさへ別れの憂き数になつて、北の御方は、仁和寺なる傍らに幽かなる住み所尋ね出だして、移り給ふ。
時しもこそあれ、故大納言殿の百箇日に当たりける日、御産、事ゆゑなくして、若君、生まれさせ給へり。あはれ、その昔ならば、御祈りの貴僧高僧、歓喜の眉を開き、弄璋の御慶{*11}、天下に聞こえて、門前の車馬、群を成すべきに、桑の弓引く人もなく、蓬の矢射る所もなき{*12}あばら屋に、透間の風すさまじけれども、防ぎし蔭もかれはてぬれば、御乳母なんど附けらるるまでも叶はず、只母上自ら抱き育て給へば、漸く故大納言殿に似給へる御顔つきを見給ふにも、「形見こそ今はあだなれこれなくば忘るる時もあらましものを。」と古人の読みたりしも、涙の故となりにけり。
悲歎の思ひ胸に満ちて、産屋の筵未だ乾かざるに、中院中将定平のもとより使を以て、「御産の事について、内裏より尋ね仰せらるる事候。もし若君にても御渡り候はば、御乳母に抱かせて、これへ先づ入れ参らせられ候へ。」と仰せられければ、母上、「あな、心憂や。故大納言の公達をば、腹の中までも開けて御覧ぜらるべしと聞こえしかば、『若君、出で来させ給ひぬ。』と、漏れ聞こえけるにこそありけれ。歎きの中にも、この子を育ててこそ、故大納言殿の{*13}忘れ形見とも見、もし人とならば、僧にもなして、なき跡をも弔はせんと思ひつるに、未だ乳房も離れぬみどり子を、武士の手にかけて失はれぬと聞いて、有りし別れの今の歎きに{*14}、消えわびん露の命を、何にかけてか堪へ忍ぶべき。あるを限りの命だに、心に叶ふものならで、かかる憂き事をのみ見聞く身こそ悲しけれ。」と泣き沈み給ひければ、春日の局、泣く泣く内より御使に出で合ひ給ひて、「故大納言殿の忘れ形見の出で来させ給ひて候ひしが、母上のただならざりし折節、限りなき物思ひに沈み給ふ故にや、生まれ落ち給ひし後、幾程なくはかなくなり給ひ候。これも、咎ありし人の行方なれば、如何なる御沙汰にか逢ひ候はんずらんと、上の御咎めを怖れて隠し侍るにこそと、思し召さるる事も候ひぬべければ、偽りならぬしるしの一言を、仏神にかけて申し入れ候べし。」とて、泣く泣く消息を書き給ひ、その奥に、
いつはりをただすの森{*15}におく露の消えしにつけて濡るる袖かな
使、この御文を持ちて帰り参れば、定平、涙を押さへて奏覧し給ふ。この一言に、君も哀れとや思し召されけん、その後は、御尋ねもなかりければ、うれしき中に思ひあつて、焼野の雉の残る叢を命にて、雛を育くむらん風情にて、泣く声をだに人に聞かせじと、口を押さへ乳を含めて、同じ枕の忍びねに泣き明かし泣き暮らして、三年を過ごし給ひし心の中こそ悲しけれ。その後、建武の乱出で来て、天下、将軍の代となりしかば、この人、朝に仕へて西園寺の跡を継ぎ給ひし、北山の右大将実俊卿、これなり。
さても、故大納言殿、滅び給ふべき前表のありけるを、木工頭孝重が、かねて聞きたりけるこそ不思議なれ。かの卿、謀叛の最初、祈祷のために一七日北野に参篭して、毎夜、琵琶の秘曲を弾じ給ひけるが、七日に満じけるその夜は、殊更聖廟の法楽に供ふべきためとや思はれけん、月すさまじく風ひややかなる小夜更けがたに、翠簾を高く捲き上げさせて、玉樹三女の序を弾じ給ふ。「第一、第二の絃は、索々として、秋の風、松を払つて疎韻落つ。第三、第四の絃は、冷々として、夜の鶴、子を憶うて篭の中に鳴く。」絃々掩抑、唯、拍子に移る。六反の後の一曲、誠に嬰児も起つて舞ふばかりなり。
折節、木工頭孝重、社頭に通夜して、心を澄まし、耳を側だてて聞きけるが、曲終はつて後、人に向つて語りけるは、「今夜の御琵琶、祈願の御事あつて遊ばさるるならば、御願、成就すべからず{*16}。その故は、この玉樹と申す曲は、昔、晋の平公、濮水の辺を過ぎたまひけるに、流るる水の声に絃管の響きあり。平公、即ち師涓といふ楽人を召して、琴の曲に移さしむ。その曲、殺声にして、聞く人、涙を流さずといふ事なし。然れども、平公、これを愛して、専ら楽絃に用ゐ給ひしを、師曠といひける伶倫、この曲を聴きて、難じて奏しけるは、『君、これを弄び給はば、天下、一たび乱れて、宗廟、全からじ。如何となれば、古、殷の紂王、かの婬声の楽をなして弄び給ひしが、程なく周の武王に滅ぼされ給ひき。その魂魄、猶濮水の底に留まつて、この曲を奏するを、君、今、新楽に写してこれを翫び給ふ。鄭声{*17}雅を乱る故に、一唱三歎の曲にあらず。』と申しけるが、果たして平公、滅びにけり。
「その後、この楽、猶止まずして、陳の代に至る。陳の後主、これを弄んで、隋のために滅ぼされぬ。隋の煬帝、又これを翫ぶ事甚だしくして、唐の太宗に滅ぼされぬ。唐の末の世に当たつて、我が朝の楽人掃部頭貞敏、遣唐使にて渡りたりしが、大唐の琵琶の博士廉承武{*18}に逢うて、この曲を我が朝に伝来せり。然れども、『この曲に不吉の声あり。』とて、一手を略せる所あり。然るを、その夜の御法楽に、宗とこの手を弾き給ひしに、しかも殊に殺伐の声の聞こえつるこそ、あさましくおぼえ侍りけれ{*19}。『八音と政と通ず。』といへり。大納言殿の御身に当たつて、いかなる煩ひか出で来らん。」と、孝重、歎きて申しけるが、幾程なくして大納言殿、この死刑に逢ひ給ふ。不思議なりける前相なり。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇相模入道 高時。」「〇舎弟四郎 泰家。」とある。
2:底本頭注に、「平家。」とある。
3:底本頭注に、「西園寺太政大臣実兼の女で後醍醐帝の中宮。」とある。
4:底本頭注に、「恩をうけ乍ら仇をする譬へ。」とある。
5:底本頭注に、「摂家に次ぐ家柄。」とある。
6:底本は、「覚(おぼ)えで」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「御懐胎の事。」とある。
8:底本は、「上原(じやうげん)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
9:底本頭注に、「撫子即ち愛子の意を含む。」とある。
10:底本は、「輿。簾(すだれ)を」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
11:底本は、「弄璋(ろうしやう)の御慶(ぎよけい)」。底本頭注に、「詩経に『乃生男子載寝之床、載弄之裳、載弄之璋。』。男子が生れると床の上に寝かせて衣裳の飾りにする璋の玉を弄び物に供へ置くこと。」とある。
12:底本頭注に、「〇桑の弓、蓬の矢 男子出世の祝ひに桑の弓で蓬の矢六本を天地四方へ射る。其の子成長の後武功を天地四方に顕はすべき為だと云はれる。」とある。
13:底本は、「故大納言殿の」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
14:底本は、「歎き、消えわびん」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
15:底本頭注に、「糺の森と偽りをただすとを云ひ懸く。」とある。
16:底本は、「成就すべがらず。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
17:底本は、「鄭声(ていせい)」。底本頭注に、「淫靡の声音。」とある。
18:底本は、「廉婕夫(れんぜふふ)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
19:底本は、「侍りければ、音と」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
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