足利殿東国下向の事 附 時行滅亡の事
直義朝臣は、鎌倉を落ちて上洛せられけるが、その路次に於いて、駿河国入江荘は、海道第一の難所なり。「相模次郎{*1}が与力の者ども、もし道をや塞がんずらん。」と、士卒皆、これを危ふく思へり。これに依つて、その所の地頭入江左衛門尉春倫がもとへ使を遣はされて、憑むべきよしを仰せられたりければ、春倫が一族ども、「関東再興の時到りぬ。」と料簡しける者どもは、「左馬頭を討ち奉り、相模次郎殿に馳せ参らん。」といひけるを、春倫、つくづく思案して、「天下の落居は、愚蒙の我等が知るべき処にあらず。唯、義の向ふ所を思ふに、入江荘といへば、元、徳宗領{*2}にてありしを、朝恩に下し賜はり、この二、三年が間、一家を顧みる事、日頃に増されり。これ、天恩の上に猶、恩{*3}を重ねたり。この時、いかでか傾敗の弊えに乗つて不義の振舞を致さん。」とて、春倫、則ち御迎ひに参じければ、直義朝臣、ななめならず喜びて、やがて彼等を召し具し、矢矧宿に陣を取つて、これに暫く汗馬の足を休め、京都へ早馬をぞ立てられける。
これに依つて、諸卿、議奏あつて、急ぎ足利宰相高氏卿を討手に下さるべきに定まりけり。則ち、勅使を以てこの由を仰せ下されければ、相公{*4}、勅使に対して申されけるは、「去んぬる元弘の乱の始め、高氏、御方に参ぜしに依つて、天下の士卒、皆官軍に属して、勝つ事を一時に決し候ひき。然れば、今一統の御代、ひとへに高氏が武功といふべし。そもそも征夷将軍の任は、代々源平の輩、功に依つてその位に居する例、あげて数ふべからず。この一事、殊に朝のため家のため、望み深き所なり。次には、乱を鎮め治を致す謀りごとを以て、士卒、功ある折節に、賞を行ふにしくはなし。もし注進を経て軍勢の忠否を奏聞せば、挙達、道遠くして、忠戦の輩、勇をなすべからず。然れば、暫く東八箇国の官領を許され、直に軍勢の恩賞を執り行ふやうに勅裁を成し下され、夜を日に継いで罷り下つて朝敵を退治仕るべきにて候。もしこの両條、勅許を蒙らずんば、関東征罰の事、他人に仰せ付けらるべく候。」とぞ申されける。
この両條は、天下治乱の端なれば、君も、よくよく御思案あるべかりけるを、申し請くる旨に任せて、左右なく勅許ありけるこそ、始終如何とはおぼえけれ{*5}。「但し、征夷将軍の事は、関東静謐の忠に依るべし。東八箇国の管領の事は、先づ仔細あるべからず。」とて、即ち綸旨を成し下されける。これのみならず、忝くも天子の御諱の字を下されて、高氏と名乗られける高の字を改めて、尊の字にぞ成されける。尊氏卿、東八箇国を管領の所望{*6}、たやすく道行きて、征夷将軍の事は今度の忠節に依るべしと勅約ありければ、時日を廻らさず関東へ下向せられけり。吉良兵衛佐{*7}を先立てて、我が身は五日引きさがりて進発し給ひけり。都を立たれける日は、その勢僅かに五百余騎ありしかども、近江、美濃、尾張、三河、遠江の勢馳せ加はつて、駿河国に著き給ひける時は、三万余騎になりにけり。左馬頭直義、尊氏卿の勢を併せて五万余騎、矢矧の宿より取つて返して、又鎌倉へ発向す。
相模次郎時行、これを聞きて、「源氏は、若干の大勢と聞こゆれば、待ち軍して敵に気を呑まれては、叶はず。先んずる時は、人を制するに利あり。」とて、我が身は鎌倉にありながら、名越式部大輔を大将として、東海、東山両道を押して攻め上る。その勢三万余騎、八月三日、鎌倉を立たんとしける夜、俄に大風吹いて、家々を吹き破りける間、天災を遁れんとて大仏殿の中へ逃げ入り、各、身を縮めて居たりけるに、大仏殿の棟梁、微塵に折れて倒れける間、その内に集まり居たる軍兵ども五百余人、一人も残らず圧しにうてて{*8}死にけり。「戦場に赴く門出に、かかる天災に逢ふ。この軍、はかばかしからじ。」とささやきけれども、さてあるべき事ならねば、重ねて日を取り、名越式部大輔、鎌倉を立ちて、夜を日に継いで路を急ぎける間、八月七日、前陣、已に遠江佐夜の中山を越えけり。
足利相公、この由を聞き給ひて、「六韜の十四変に、敵、長途を経て来らば、すみやかに撃つべしといへり。これ、太公、武王に教ふる所の兵法なり。」とて、同じき八日の卯の刻に、平家の陣へ押し寄せて、終日戦ひ暮らされけり。平家も、ここを先途と心を一つにして相当たる事、三十余箇度、入れ替へ入れ替へ戦ひけるが、野心の兵、後ろにあつて、後より引きけるに力を失つて、橋本の陣を引き退き、佐夜の中山にて支へたり。源氏の真先には、仁木、細川の人々、命を義に軽んじて進みたり。平家の後陣には、諏訪の祝部、身を恩に報じて防ぎ戦ひけり。両陣、互に勇気を励まして終日相戦ひけるが、平家、ここをも破られて、箱根の水飲峠へ引き退く。この山は、海道第一の難所なれば、源氏、左右なくかかり得じと思ふ処に、赤松筑前守貞範、さしも嶮しき山路を、短兵ただちに進んで、敵の中へかけ入つて、前後に当たり左右に激しける勇力に払はれて、平家、又この山をも支へず、大崩まで引き退く。清久山城守、返し合はせて、一足も引かず闘ひけるが、源氏の兵に組まれて、腹切る間もやなかりけん、その身は忽ちに生け捕られ、郎従は皆討たれにけり。
路次数箇度の合戦に打ち負けて、平家、やたけに{*9}思へども、かなはず。相模河を引き越して、水を隔てて支へたり。折節、秋の時雨、一通りして、河水、岸を浸しければ、「源氏、よも渡してはかからじ。」と、平家、少し油断して、手負を助け馬を休めて敗軍の士を集めんとしける処に、夜に入つて、高越後守、二千余騎にて上の瀬をわたし、赤松筑前守貞範は、中の瀬をわたし、佐々木佐渡判官入道道誉と長井治部少輔は、下の瀬を渡して、平家の陣の後ろへ廻り、東西に分かれて同時に鬨をどつとつくる。平家の兵、前後の敵に囲まれて、叶はじとや思ひけん、一戦にも及ばず、皆鎌倉を指して引きけるが、また腰越にて返し合はせて、葦名判官も討たれにけり。
始め、遠江の橋本より、佐夜の中山、江尻、高橋、箱根山、相模河、片瀬、腰越、十間坂、これ等十七箇度の戦ひに、平家、二万余騎の兵ども、或いは討たれ、或いは疵を蒙りて、今僅かに三百余騎になりければ{*10}、諏訪三河守を始めとして、宗徒の大名四十三人、大御堂の内に走り入り、同じく皆自害して、名を滅亡の跡にぞ留めける。その死骸を見るに、皆面の皮を剥ぎて、いづれをそれとも見分けざれば、「相模次郎時行も、定めてこの内にぞあるらん。」と、聞く人、哀れを催しけり。三浦介入道一人は、如何して遁れたりけん、尾張国へ落ちて、船より上がりける所を、熱田の大宮司、これを生け捕つて京都へ上せければ、即ち六條河原にて首を刎ねられけり。
これのみならず、平家再興の計略、時や未だ至らざりけん、又、天命にや違ひけん、名越太郎時兼が、北陸道を打ち従へて、三万余騎にて京都へ攻め上りけるも、越前と加賀との境、大聖寺といふところにて、敷地、上木、山岸、瓜生、深町の者どもが僅かの勢に{*11}打ち負けて、骨を白刃の下に砕き、恩を黄泉の底に報ぜり。時行は、已に関東にして滅び、時兼は又、北国にて討たれし後は、末々の平氏ども、少々身を隠し、かたちを替へて、ここの山の奥、かしこの浦の辺にありといへども、今は平家のたち直る事、有り難しとや思ひけん、その昔を偲びし人も、皆怨敵の心を改めて、足利相公に属し奉らずといふ者なかりけり。
さてこそ尊氏卿の威勢、自然に重くなつて、武運忽ちに開けければ、天下、又武家の世とはなりにけり。
校訂者注
1:底本頭注に、「時行。」とある。
2:底本は、「本(もと)徳宗領(とくそうりやう)」。底本頭注に、「〇徳宗領 北條氏の領分の称。」とある。
3:底本は、「義(ぎ)」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
4:底本は、「相公(しやうこう)」。底本頭注に、「宰相の意で高氏を指す。」とある。
5:底本は、「おぼえけり。」。
6:底本は、「官領(くわんりやう)して、所望(しやまう)輒(たやす)く」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
7:底本頭注に、「満義。貞義の子。」とある。
8:底本頭注に、「圧にうたれて。」とある。
9:底本頭注に、「弥猛に。」とある。
10:底本は、「なりにければ、」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
11:底本頭注に、「敷地…深町の者達の僅かな軍勢にの意。」とある。
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