巻第十四

新田足利確執奏状の事

 さる程に、足利宰相尊氏卿は、相模次郎時行を退治して、東国やがて静謐しぬれば、「勅約の上は、何の仔細かあるべき。」とて、未だ宣旨をも下されざるに、押して足利征夷将軍とぞ申しける。東八箇国の管領の事は、勅許ありし事なればとて、今度箱根、相模河にて合戦の時、忠ある輩に恩賞を行はる。先立つて新田の一族ども拝領したる東国の所領どもを、悉く闕所になして、給人{*1}をぞ附けられける。義貞朝臣、これを聞きて、安からぬ事に思はれければ、その代はりに我が分国、越後、上野、駿河、播磨などに足利の一族どもの知行の荘園を押さへて、家人どもにぞ行はれける。これに依つて、新田、足利、中悪しくなつて、国々の確執、止む時なし。
 その根元を尋ぬれば、去んぬる元弘の初め、義貞、鎌倉を攻め亡ぼして、功、諸人に勝れたりしかば、東国の武士どもは皆、我が下より立つべしと思はれける処に、尊氏卿の二男千寿王殿、三歳になり給ひしが、軍散じて六月三日、下野国より立ち帰つて、大蔵谷におはしましける。又、「尊氏卿、都にて抽賞、他に異なり。」と聞こえて、これを、「たやすく上聞にも達し、恩賞にも預からん。」と思ひければ、東八箇国の兵ども、心がはりして、大半は千寿王殿の手にぞ附きたりける。
 しかのみならず、義貞、若宮の拝殿におはして首ども実検し、御池にて太刀長刀を洗ひ、結句、神殿を打ち破つて、重宝どもを被見し給ふに、錦の袋に入りたる二つ引き両の旗あり。「これは、曩祖八幡殿{*2}、後三年の軍の時、願書を添へて篭められし御旗なり。奇特の重宝といひながら、中黒の旗にあらざれば、当家の用に詮なし。」と宣ひけるを、足利殿方の人、これを聞きて、かの旗を乞ひ奉る。義貞、この旗出ださざりしかば、両家の確執、合戦に及ばんとしけるを、上聞を恐れ憚つて黙止しけり。かやうの事ども重畳ありしかば、果たして今、新田、足利、一家のよしみを忘れ怨讎の思ひをなし、互に亡ぼさんと牙を砥ぐの志、顕はれて、早天下の乱となりにけるこそあさましけれ。
 これに依つて、讒口傍らにあつて真を乱る事、多かりける中に、今度尊氏卿、相模次郎時行が討手を承つて関東を平らげて後、今隠謀の企てある由、叡聞に達しければ、主上{*3}、逆鱗あつて、「たとひその忠功莫大なりとも、不義を重ねば逆臣たるべき條、勿論なり。即ち、追伐の宣旨を下さるべし。」と御憤りありけるを、諸卿僉議あつて、「尊氏が不義、叡聞に達すといへども、未だその実を知らず。罪の疑はしきを以て、功の誠あるを棄てられん事は、仁政にあらず。」と、親房、公明{*4}、頻りに諌言を奉られしかば、さらば、法勝寺の恵鎮上人を鎌倉へ下し奉り、事の様を尋ね窮むべきに定まりにけり。
 恵鎮上人、勅を奉じて関東へ下らんと欲し給ひけるその日、尊氏卿、細川阿波守和氏を使にて、一紙の奏状を捧げられたり。その状に曰く、
  {*k}参議従三位兼武蔵守源朝臣尊氏誠恐誠惶謹言
   早く義貞朝臣の一類を誅罰して天下の泰平を致さんと請ふ状
  右、謹しんで往代列聖の四海に徳たるを考ふるに、賞はその忠を顕はし、罰はその罪に当たらずといふこと無し。もしその道違ふときは、則ち僅かに草創を建つと雖も、遂に守文{*5}を得ず。かるが故に、君子の慎しむ所、庸愚の軽んずる所なり。去んぬる元弘の初め、東藩の武臣{*6}、恣に逆威を振つて、頻りに朝憲を蔑ろにす。禍乱ここに起つて、国家安きことを得ず。ここに尊氏、不肖の身を以て、同志の軍を麾く{*7}。これより死を一途に定むるの士、戈を倒にするの志を運らし、勝つことを両端に卜するの輩、義に与するの誠有り。遂に臂を振つて一戦を致すの日、勝つことを瞬目の中に得て、敵を京畿の外に攘ふ。この時、義貞朝臣、鶏肋{*8}の貪心を恣にし、鳥使の急課を戮すること有り。その罪、大にして、身を遁るるに拠ん処無し。止むを得ずして軍、不慮に起こる。尊氏、已に洛陽に於いて逆徒を退くと聞いて、虎尾を履んで魚麗{*9}に就く。義貞、始めて朝敵を誅するを以て名と為す。而るにその実は、窮鼠却つて猫を噛み、闘雀人を辞せざるに在り。この日義貞、三たび戦つて勝つことを得ず、屈して城を守り壁を深くせんと欲するの処に、尊氏が長男義詮、三歳幼稚の大将と為つて、下野国に起こる。その威、遠きを動かし、義卒、招かざるに馳せ加はる。義貞、嚢沙背水の謀りごと、一たび成つて、大いに敵を破ることを得たり。これ則ち、戦は他に在りと雖も、功は隠れて我に在り。而るに義貞、上聞を掠めて抽賞を貪り、下愚を忘れて大官を望む。世の残賊、国の蠹害なり。これを誡めずんばあるべからず。今尊氏、再び先亡の余殃を鎮めんが為に、久しく東征の間に苦しむ。佞臣朝に在つて、讒口真を乱る。これ偏に義貞が阿党の内より生ず。豈趙高内を謀り、章邯楚に降るの謂ひに非ずや。大逆の基、これより甚だしきは無かるべし。兆前に乱を治むるは、武将の備へを全うする所なり。乾臨{*10}早く勅許を下され、かの逆類を誅伐して、将に海内の安静を致さんこと、懇歎の至りに堪へず。
        尊氏誠惶誠恐謹言
    建武二年十月日{*k}
とぞ書かれたりける。
 この奏状、未だ内覧にも下されざりければ、あまねく知る人も{*11}なき処に、義貞朝臣、これを伝へ聞きて、同じく奏状をぞ奉りける。その詞に曰く、
  {*k}従四位上行左兵衛督兼播磨守源朝臣義貞誠惶誠恐謹言
   早く逆臣尊氏直義等を誅伐して天下に唱へん{*12}と請ふ状
  右、謹しんで当今聖主、天地に経緯たるを案ずるに、徳、古今に光り、化、三五{*13}を蓋ふ。神武の鋒端を動かし、聖文の宇宙を鎮むる所以なり。ここに源家末流の昆弟、尊氏、直義といふもの有り。散木の陋質を恥ぢず、並びて青雲の高官を踏む{*14}。その功とする所を聴くに、掌を拍つて一笑するに堪へたり。太平の初め、山川震動し、地を略し敵を拉ぐ。南に正成有り、西に円心有り。しかのみならず、四夷蜂のごとく起こり、六軍虎のごとく窺ふ。この時尊氏、東夷の命に随つて、族を尽くして上洛す。潜かに官軍の勝つに乗るを看て、死を免かれんとする意有り。然れども猶、心を一偏に決せず、運を両端に相窺ふの処、名越尾張守高家、戦場に於いて命を墜すの後、始めて義卒と丹州に軍だちす。天誅、命を革むるの日、忽ちに鷸蚌の弊えに乗じて、快く狼狽の行を為す。もしそれ義旗、京を約め、高家、死を致すに非ずんば、尊氏、猶、斧鉞を把つて強敵に当たらんや。退いてこれを憶ふに、彼が忠は彼に非ず。須らく亡卒の遺骸を羞ぢ愧ずべし。今、功の微にして爵の多きを以て、頻りに義貞の忠義を猜む。あまつさへ讒口の舌を暢べ、巧みに浸潤の譖を吐く。その訴へ、一つとして邪路に入らざるは無し。義貞、朝敵御追罰の綸旨を賜はりて、初めて上野に起こるは、五月八日なり。尊氏、官軍の殿に附いて六波羅を攻むるは、同じき月七日なり。都鄙相去ること八百余里、豈一日の中に言を伝ふるを得んや。而るに義貞、京洛敵軍の破れたるを聞いて旗を挙ぐるの由、上奏に載す。謀言、真を乱る。豈禁ぜざらんや{*15}。その罪、一つ。尊氏が長男義詮、僅かに百余騎の勢を率して鎌倉に還り入ること、六月三日なり。義貞、百万騎の士を随へて、立ちどころに凶党を亡ぼすは、五月二十二日なり。而るに義詮、三歳幼稚の大将と為つて合戦を致すの由、上聞を掠むるの條、雲泥万里の差違、何ぞ言ふに足らん。その罪、二つ。仲時、時益等敗北の後、尊氏、未だ勅許を被らざるに、自ら京都の法禁を恣にして、親王の卒伍を誅し、司に非ずして法を行ふの咎、甚だ以て浅からず。その罪、三つ。兵革の後、蛮夷未だ心服せず、本枝猶根を堅うせざるの間、竹苑を東国に下し奉り、已に柳営{*16}を塞外に苦しましむるの処、尊氏、超涯の皇沢に誇つて、家を興し威を立てんと欲す。僭上無礼の過、遁るるに由無し。その罪、四つ。前亡の余党、僅かに存して蟷螂{*17}が怒りを揚ぐるの日、尊氏、東八箇国の管領を申し賜はつて、以往の勅裁を叙用せず、寇を養ひて恩沢を堅くし、民を害して利欲を事とす。違勅悖政の逆行、これよりも甚しきは無し。その罪、五つ。天運循環し、往いて還らざること無しと雖も、成敗一統に帰し、大化万葉に伝ふること、偏に兵部卿親王の智謀に出でたり。而るに尊氏、種々の讒を構へ、遂に流刑に陥れ奉り訖んぬ。讒臣国を乱るの暴逆、誰かこれを憎まざらん。その罪、六つ。親王、刑を贖ふ事は、侈を押さへ正に帰らしめむ為のみ。古、太甲{*18}、桐宮に放たる、豈この謂ひに非ずや。而るに尊氏、かだましく宿意を公議の外に仮り、尊体を囹圄の中に苦しめ奉る{*19}。人面獣心の積悪、これをも忍ぶべくんば、孰れをか忍ぶべからざらんや。その罪、七つ。直義朝臣、相模次郎時行が軍旅に脅かされ、戦はずして鎌倉を退くの時、竊かに使者を遣はし、兵部卿親王を誅し奉る。その意、偏に将に国家を傾けんとするの端に在り。この事、隠れて未だ叡聞に達せずと雖も、世の知る所、遍界何ぞ蔵さん。大逆無道の甚だしきこと、千古未だこの類を聞かず。その罪、八つ。この八逆は、乾坤、暫くもその身を容れざる所なり。もし刑、置いて用ゐずんば、四維、将に絶え、八柱再び傾いて{*20}、臍を噬むに益無かるべし。そもそも義貞、一たび大軍を挙げ、百戦堅きを破り、万卒死を顧みずして、逆徒を干戈の下に退け、静謐を尺寸の中に得たり。而るに尊氏、驥尾に附いて険雲を超え、弾丸を引いて篭鳥を殺す。大功の建つる所、綸言の最とする所に孰れぞ。尊氏、漸く天下を奪はんが為に、義士の朝に在るを憂へて、義貞を誅せんと請ふ。而るに義貞、忠心を傾け正義を尽くし、朝家の為に命を軽んじて、勾萌に先んじて尊氏を罰せんと奏す。国家の用捨、理世安民の政に孰れぞや。望み請ふ、乾臨、明らかに中正を照らし、断割を昆吾の剣に加へ、尊氏直義以下の逆党等を誅罰せしむべきの由、宣旨を下し賜はば、忽ちに浮雲の擁弊を払つて、将に白日の余光を輝かさんとす。
        義貞誠惶誠恐謹言。
    建武二年十月日{*k}
とぞ書かれたりける。
 則ち諸卿参列して、「この事、如何あるべき。」と僉議ありけれども、大臣は、禄を重んじて口を閉ぢ、小臣は、聞を憚りて言を出ださざる処に、坊門宰相清忠、進み出でて申されけるは、「今、両方の表奏を披いて、つらつら一致の道理を案ずるに、義貞が指し申す処の尊氏が八逆、一々にその罪軽からず。なかんづく兵部卿親王を禁殺し奉る由、初めて上聞に達す。この一事、申す処実ならば、尊氏直義等、罪責、遁れ難し。但し、片言を以て訟を極むる事、卒爾に出でて、制すとも止むべからず。暫く東説の実否を待つて、尊氏が罪科を定めらるべきか。」と申されければ、諸卿、皆この議に同ぜられ、その日の議定は果てにけり。
 かかる処に、大塔宮の御介錯に附き参らせ給ひし南の御方と申す女房、鎌倉より帰り上つて、事の様、有りのままに奏し申させ給ひければ、「さては、尊氏直義が叛逆、仔細なかりけり。」とて、叡慮、更に穏やかならず。これをこそ不思議の事と思し召す処に、又、四国西国より、「足利殿のなさるる軍勢催促の御教書。」とて、数十通進覧す。これに就いて、諸卿、重ねて僉議あつて、「この上は、疑ふ処にあらず。急に討手を下さるべし。」とて、一宮中務卿親王{*21}を東国の御管領に成し奉り、新田左兵衛督義貞を大将軍に定めて、国々の大名どもをぞ添へられける。
 元弘の兵乱の後、天下一統に帰して、万民無事に誇るといへども、その弊え猶残つて、四海未だ安堵の思ひをなさざる処に、この事出で来て、諸国の軍勢ども催促に随へば、「こは、如何なる世の中ぞや。」とて、安き心もなかりけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「扶持を給せられた侍。」とある。
 2:底本は、「曩祖(なうそ)八幡殿」。底本頭注に、「〇曩祖 先祖。」「〇八幡殿 太郎義家。」とある。
 3:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 4:底本頭注に、「〇親房 師重の子。北畠准后と称す。」「〇公明 藤原実家の子。」とある。
 5:底本頭注に、「成文を守つて武力を用ゐぬこと。」とある。
 6:底本頭注に、「北條氏。」とある。
 7:底本は、「麾(さしまね)(ク)(二)同志之師(ヲ)(一)」。『太平記 二』(1980年)及び頭注に従い改めた。
 8:底本頭注に、「鶏の肋骨は食へないが捨てがたい物故無用だが捨て難い物の譬へ。」とある。
 9:底本頭注に、「陣法の名。こゝでは唯兵を挙げ陣を布いた事を云ふ。」とある。
 10:底本頭注に、「天子の臨鑑。」とある。
 11:底本は、「知る人なき」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 12:底本頭注に、「〇徇(二)天下(一) 天下を王化に従はせんの意。」とある。
 13:底本頭注に、「三皇五帝。」とある。
 14:底本頭注に、「〇散木 不才。」「〇青雲 朝廷。」とある。
 15:底本は、「豈不(ン)(レ)然(ラ)乎。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 16:底本頭注に、「将軍の陣営。こゝは大塔宮の事。」とある。
 17:底本頭注に、「かまきり。力の微弱なるに譬へる。時行等を指す。」とある。
 18:底本は、「武丁」。底本頭注及び『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
 19:底本頭注に、「〇尊体 大塔宮。」「〇囹圄 牢獄。」とある。
 20:底本頭注に、「〇四維八柱 天を支へる四綱と八柱。」とある。
 21:底本頭注に、「尊良。」とある。
 k:底本、この間は漢文。