節度使下向の事

 かかりける程に、十一月八日、新田左兵衛督義貞朝臣、朝敵追罰の宣旨を下し賜はりて、兵を召し具し、参内せらる。馬物具、誠に爽やかに勢ひあつて出で立たれたり。内弁、外弁、八座、八省、階下に陣を張り、中儀{*1}の節会行はれて、節度を下さる。治承四年に、権亮三位中将維盛{*2}を、頼朝追罰のために下さるる時、鈴ばかり賜はりたりしは、不吉の例なればとて、今度は天慶承平の例をぞ追はれける。
 義貞、節度{*3}を賜はりて、二條河原へ打ち出でて、先づ尊氏卿の宿所二條高倉へ、船田入道を差し向けて、鬨の声を三度挙げさせ、流鏑三矢射させて、中門の柱を切り落とす。これは、嘉承三年、讃岐守正盛が、義親追罰のために出雲国{*4}へ下りし時の例なりとぞ聞こえし。その後、一宮中務卿親王、五百余騎にて三條河原へ打ち出でさせたまひたるに、内裏より下されたる錦の御旗をさし上げたるに、俄に風烈しく吹いて、金銀にて打ちて著けたる月日の御紋、きれて地に落ちたりけるこそ不思議なれ。これを見るもの、「あな、浅ましや。今度の御合戦はかばかしからじ。」と、忌み思はぬ者は無かりけり。
 さる程に、同じき日の午の刻に、大将新田左兵衛督義貞、都を立ち給ふ。元弘の初めに、この人、さしもの大敵を亡ぼして、忠功人に超えたりしかども、尊氏卿、君に咫尺し給ふに依つて、抽賞さまでもなかりしが、陰徳、遂に露はれて、今天下の武将に備はり給ひければ、当家{*5}も他家も押し並べて偏執の心を失ひつつ、附き随はずといふ者なかりけり。
 先づ当家の一族には、舎弟脇屋右衛門佐義助、式部大輔義治、堀口美濃守貞満、綿打刑部少輔、里見伊賀守、同大膳亮、桃井遠江守、鳥山修理亮、細屋右馬助、大井田式部大輔、大島讃岐守、岩松民部大輔、篭守沢入道、額田掃部助、金谷治部少輔、世良田兵庫助、羽川備中守、一井兵部大輔{*6}、堤宮内卿律師、田井蔵人大夫、これ等を宗徒の一族として、末々の源氏三十余人、その勢都合七千余騎、大将の前後に打ち囲うだり。他家の大名には、千葉介貞胤、宇都宮治部大輔公綱、菊池肥後守武重、大友左近将監、厚東駿河守、大内新介、佐々木塩冶判官高貞、同加治源太左衛門、熱田摂津大宮司{*7}、愛曽伊勢三郎、遠山加藤五郎、武田甲斐守、小笠原信濃守、高山遠江守、河越三河守、児玉{*8}庄左衛門、杉原下総守、高田薩摩守義遠、藤田三郎左衛門、難波備前守、田中三郎右衛門、船田入道、同長門守、由良三郎左衛門、同美作守、長浜六郎左衛門、山上六郎左衛門、波多野三郎、高梨、小国、河内、池、風間。山徒には道場坊。これ等を宗徒の兵として、諸国の大名三百二十余人、その勢都合六万七千余騎。前陣、已に尾張の熱田に著きければ、後陣は未だ相坂の関、四宮河原に支へたり。
 東山道の勢は搦手なれば、大将に三日ひき下がつて都を立ちけり。その大将には、先づ大智院宮、弾正尹宮、洞院左衛門督実世、持明院兵衛督入道道応、園中将基隆、二條中将為冬。侍大将には、江田修理亮行義{*9}、大館左京大夫氏義、島津上総入道、同筑後前司、饗庭、石谷、猿子、落合、仁科、伊木、津志、中村、村上、纐纈、高梨、志賀、真壁十郎、美濃権介助重、これ等を宗徒の侍として、その勢都合五千余騎。黒田の宿より東山道を経て信濃国へ入りければ、当国の国司堀河中納言{*10}、二千余騎にて馳せ加はる。その勢を合はせて一万余騎、大井城を攻め落として、同時に鎌倉へ寄せんと、大手の相図をぞ待ちたりける。
 「討手の大勢、已に京を立ちぬ。」と鎌倉へ告げける人多ければ、左馬頭直義、仁木、細川、高、上杉の人々、将軍の御前へ参じて、「已に御一家を傾け申さんために、義貞を大将にて、東海東山の両道より攻め下り候なる。敵に難所を越えられなば、防ぎ戦ふとも甲斐あるまじ。急ぎ矢矧、薩埵山の辺りに馳せ向つて、御支へ候へかし。」と申されければ、尊氏卿、黙然として、暫しは物も宣はず。ややあつて、「我、譜代弓箭の家に生まれ、僅かに源氏の名を残すといへども、承久以来、相模守が顧命に随つて、家を汚し名を羞かしむる恨みを積んだりしを、今度、絶えたるを継ぎ、職、征夷将軍の望みを達し、廃れたるを興し、位、従上三品を極む。これ、臣が微功に依るといへども、豈君の厚恩に非ずや。恩を戴いて恩を{*11}忘るる事は、人たる者の為さざる所なり。
 「そもそも今、君の逆鱗ある処は、兵部卿親王{*12}を失ひ奉りたると、諸国へ軍勢催促の御教書を下したるといふ両條の御咎めなり。これ、一つも尊氏が所為にあらず。この條々、謹しんで事の仔細を陳じ申さば、虚名、遂に消えて、逆鱗などか静かならざらん。方々は、ともかくも身の進退を計らひ給へ。尊氏に於いては、君に向ひ奉りて、弓を引き矢を放つ事あるべからず。さても猶、罪科遁るる所なくば、剃髪染衣のかたちにもなつて、君の御ために不忠を存ぜざる{*13}処を、子孫のために残すべし。」と、気色を損じて宣ひもはてず、後の障子を引き立てて、内へぞ入り給ひける。かかりしかば、甲冑を帯して参り集まりたる人々、皆興を醒まして退出し、「思ひの外なる事かな。」とささやかぬ者ぞなかりける。
 かくて一両日を過ぎける処に、「討手の大将一宮を始め参らせて、新田の人々、三河、遠江まで近づきぬ。」と騒ぎければ、上杉兵庫入道道欽、細川阿波守和氏、佐々木佐渡判官入道道誉、左馬頭{*14}殿の御方へ参つて、「この事、如何あるべき。」と評定しけるに、「将軍の仰せもさる事なれども、今の如く公家一統の御代とならんには、天下の武士は、さしたる事もなき京家の人々に附き従ひて、唯、奴婢僕従の如くなるべし。これ、諸国の地頭御家人の、心に憤り望みを失ふといへども、今までは、武家の棟梁と成りぬべき人なきに依つて、心ならず公家に相従ふものなり。さればこの時、『御一家の中に、思し召し立つ御事あり。』と聞きたらんに、誰か馳せ参らで候べき。これこそ当家の御運の開かるべき初めにて候へ。
 「将軍も、一往の理の推す処を以て、かやうに仰せ候とも、実に御身の上に禍ひ来らば、よもさてはおはしまし候はじ。とやせまし、かくやあるべきと長僉議して、敵に難所を越されなば、後悔すとも益あるまじ。将軍をば鎌倉に残し留め奉りて、左馬頭殿、御向ひ候へ。我等、面々に御供仕つて、伊豆駿河辺に相支へ、合戦仕つて、運のほどを見候はん。」と申されければ、左馬頭直義朝臣、ななめならず喜んで、やがて鎌倉をうち立つて、夜を日に継いで急がれけり。
 相随ふ人々には、吉良左兵衛尉、同三河守、子息三河三郎、石堂入道、その子中務大輔、同右馬頭、桃井修理亮、上杉伊豆守、同民部大輔、細川陸奥守顕氏、同刑部大輔頼春、同式部大輔繁氏、畠山左京大夫国清、同宮内少輔、足利尾張右馬頭高経、舎弟式部大輔時家、仁木太郎頼章、舎弟二郎義長、今川修理亮{*15}、岩松禅師頼有、高武蔵守師直、越後守師泰、同豊前守、南部遠江守、同備前守、同駿河守、大高伊予守。外様の大名には、小山判官、佐々木佐渡判官入道道誉、舎弟五郎左衛門尉、三浦因幡守、土岐弾正少弼頼遠、舎弟道謙、宇都宮遠江守、佐竹左馬頭義敦、舎弟常陸守義春、小田中務大輔、武田甲斐守、河越三河守、狩野新介、高坂七郎、松田、河村、土肥、土屋、坂東の八平氏、武蔵七党を始めとして、その勢二十万七千余騎。十一月二十日、鎌倉を打つ立ちて、同じき二十四日、三河国矢矧の東の宿に著きにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「中議」。『太平記 二』(1980年)本文及び頭注に従い改めた。
 2:底本は、「惟盛」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「節刀。」とある。
 4:底本は、「出羽国」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
 5:底本頭注に、「源氏。」とある。
 6:底本頭注に、「〇里見伊賀守 時成。」「〇大井田式部 氏経。」「〇大島讃岐守 義政。」「〇岩松民部 経家。」「〇額田掃部助 正忠。」「〇金谷治部 経氏。」「〇一井兵部 貞政。家貞の子。」とある。
 7:底本頭注に、「〇大友左近 貞蔵。近江守貞宗の子。」「〇熱田摂津大宮司 昌能。家範の子。」とある。
 8:底本は、「皃玉(こだま)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「〇弾正尹宮 忠房。源彦仁の子。」「〇基隆 基成の子。」「〇行義 得川義孝の孫。」とある。
 10:底本頭注に、「光継。光泰の子。」とある。
 11:底本は、「恩を戴(いたゞ)いて忘るゝ事は」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 12:底本頭注に、「大塔宮。」とある。
 13:底本は、「存せざる」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「〇上杉兵庫入道 俗名は憲房。頼重の子。」「〇左馬頭 直義。」とある。
 15:底本頭注に、「〇吉良左兵衛尉 満義。」「〇石堂入道 義房。」「〇中務大輔 頼房。」「〇桃井修理亮 義盛。」「〇上杉伊豆守 重能。」「〇同民部大輔 憲顕。」「〇細川陸奥守 頼春の従弟。」「〇畠山左京大夫 家国の子。」「〇同宮内少輔 国頼。」「〇今川修理亮 貞世。剃髪して了俊といふ。」とある。