矢矧、鷺坂、手越河原闘ひの事

 さる程に、十一月二十五日の卯の刻に、新田左兵衛督義貞、脇屋右衛門佐義助、六万余騎にて矢矧河に押し寄せ、敵の陣を見渡せば、その勢二、三十万騎もあるらんと思しくて、河より東、橋の上下三十余町に打ち囲みて、雲霞の如くに充ち満ちたり。
 左兵衛督義貞、長浜六郎左衛門尉を呼びて、「この河、いづくか渡りつべき処ある。委しく見て参れ。」と宣ひければ、長浜六郎左衛門、唯一騎、河の上下を打ち廻り、やがて馳せ帰つて申しけるは、「この河の様を見候に、渡りつべき所は三箇所候へども、向うの岸高くして、屏風を立てたるが如くなるに、敵、鏃をそろへて支へて候。されば、こなたより渡つては、中々敵に利を得られんと存じ候。只暫く河原面に御控へ候うて、敵を欺かれば、定めて河を渡つてぞ懸かり候はんずらん。その時、相懸かりにかかつて、河中へ敵を追うて手痛くあつるほどならば、などか勝つ事を一戦に得では候べき。」と申しければ、諸卒、皆この議{*1}に同じて、わざと敵に河を渡させんと、河原面に馬の駆け場を残し、西宿の端に南北二十余町に控へて、射手を河中の洲崎へ出だし、遠矢を射させてぞおびきける。
 案に違はず、吉良左兵衛佐{*2}、土岐弾正少弼頼遠、佐々木佐渡判官入道、かれこれその勢六千余騎、上の瀬を打ち渡つて、義貞の左将軍堀口、桃井、山名、里見の人々に打つて懸かる。官軍五千余騎、相懸かりにかかつて、互に命を惜しまず、火を散らして攻め戦ふ。吉良左兵衛佐{*3}の兵、三百余騎討たれて本陣へ引き退けば、官軍も、二百余騎ぞ討たれける。
 二番には、高武蔵守師直、越後守師泰、二万余騎にて橋より下の瀬を渡して、義貞の右将軍大島、額田、篭沢、岩松が勢に打ち懸る。官軍七千余騎、喚いて真中にかけ入つて、東西南北へかけちらし、半時ばかりぞ揉み合ひける。高家の兵、又五百余騎討たれて、又本陣へ引き退く。
 三番に仁木、細川、今川、石堂一万余騎、下の瀬を渡つて、官軍の総大将新田義貞に打つて懸かりたり。義貞は、かねてより馬廻りに勝れたる兵を七千余騎囲ませて、栗生、篠塚、名張八郎とて、天下に名を得たる大力を真先に進ませ、八尺余りの金棒に畳楯{*4}の広く厚きを突きならべ、「たとひ敵かかるとも、みだりにかくべからず。敵引くとも、しどろに追ふべからず。かけ寄せて切つておとせ。中を破らんとせば、馬を透間もなく打ち寄せて、轡を並べよ。一足も、敵には進むとも、退く心あるべからず。」と諸軍を勇めて下知せられける。
 敵一万余騎、陰に閉ぢて囲まんとすれども囲まれず、陽に開いてかけ乱さんとすれども敢へて乱されず{*5}。かけいつては討たれ、破つて通れば切つて落とされ、少しも漂はず戦ひける間、人馬共に気疲れて、左右に分かれて控へたる処に、総大将義貞、副将軍義助、七千余騎にて、香象{*6}の浪を踏んで大海を渡らん勢ひの如く、閑かに馬を歩ませ、鋒を並べて進みける間、敵一万余騎、その勢ひに辟易して河より向うへ引き退き、その勢若干討たれにけり。
 日、已に暮れければ、合戦は明日にてぞあらんずらんと、鎌倉勢、皆河より東に陣を取つて居けるが、如何思ひけん、ここにては叶はじとて、その夜、矢矧を引き退き、鷺坂に陣をぞ取りたりける。かかる処に、宇都宮、仁科、愛曽伊勢守、熱田摂津大宮司、後れ馳せにて三千余騎、義貞の陣に著きたりけるが、矢矧の合戦に合はざる事を無念に思ひて、打ち寄すると等しく鷺坂へ押し寄せて、矢一つをも射ず、抜き連れて攻めたりける。引き立ちたる鎌倉勢、鷺坂をも又破られて、立つ足もなく引きけるが、左馬頭直義朝臣の兵二万余騎、新手にて馳せ著きたり。敗軍、これに力を得て、手越に陣をぞ取つたりける。
 同じき十二月五日、新田義貞、矢矧、鷺坂にて降人に出でたりける勢を併せて八万余騎、手越河原に打ち臨んで、敵の勢を見たまへば、新手加はりたりとおぼえて、見しより大勢なり。「たとひ何百万騎の勢加はりたりとも、気疲れたる敗軍の士卒、半ば交じはりて、後より引かば、敵、立て直すことあるべからず。唯かけて見よ。」とて、脇屋右衛門佐義助、千葉介、宇都宮、六千余騎にて手越河原に押し寄せて、東西へ渡しつ渡されつ、午の刻の始めより酉の下がりまで、十七度までぞ戦ひたる。夜に入りければ、両方、人馬を休めて、河を隔てて篝火を焼き、初めは月、雲に隠れて、夜、已に更けにければ、義貞の方より究竟の射手をすぐつて、薮の蔭より敵の陣近く忍び寄り、後陣に控へたる勢の中へ、雨の降る如く、込み矢をぞ射たりける。数万の敵、これにあわて騒いで、後より引きける間、新手の兵ども、命を軽んずる勇士ども、「これは、如何なる事ぞ。返せ、返せ。」といひながら、落ち行く勢に引つ立てられて、鎌倉までぞ落ちたりける。
 されば、新田義貞、度々の軍に打ち勝つて、伊豆の国府{*7}に著き給へば、落ち行く勢ども、弦を巻き兜を脱ぎ降人に出づる者、数を知らず。宇都宮遠江入道、元来総領宇都宮、京方にありしかば、縁にふれて馳せ著きたり。佐々木佐渡判官入道、太刀打ちして痛手あまた所に負ふ。舎弟五郎左衛門は、手越にて討たれしかば、「世の中、さて。」とや思ひけん、降参して義貞の前陣に打ちけるが、後の箱根の合戦の時、又将軍へは参りける。官軍、この時もし足をもためず追つ懸けたらましかば、敵、鎌倉にもこらふまじかりけるを、「今は何となくとも、東国の者ども、御方へぞ参らんずらん。その上、東山道より下りし搦手の勢をも待つべし。」とて、伊豆の国府{*8}に逗留せられけるこそ、天運とはいひながら、うたてかりしことどもなり。
 さる程に、足利左馬頭直義朝臣は、鎌倉に打ち帰つて、合戦の様を申さんために、将軍の御屋形へ参られたれば、四門空しく閉ぢて人もなし。荒らかに門を敲きて、「誰かある。」と問ひ給へば、須賀左衛門、出で合ひて、「将軍は、矢矧の合戦のことを聞こし召し候ひしより、建長寺へ御入り候うて、已に御出家候はんと仰せ候ひしを、面々、様々申し留めて置き参らせて候。御本結は切らせ給ひて候へども、未だ御法体には成らせ給はず。」とぞ申しける。左馬頭、高、上杉の人々、これを聞きて、「かくてはいよいよ軍勢ども、憑みを失ふべし。如何せん。」と仰天せられけるを、上杉伊豆守重能、暫く思案して、「将軍、たとひ御出家あつて法体に成らせ給ひ候とも、勅勘、遁るまじき様をだに聞こし召し候はば、思し召し直す事、などかなくて候べき。謀りごとに綸旨を二、三通書きて、将軍に見せ参らせ候はばや。」と申されければ、左馬頭、「ともかくも、事のよからんやうに計らひ、沙汰候へ。」とぞ任せられたりける。
 伊豆守、「さらば。」とて、宿紙{*9}を俄に染め出だし、能書を尋ねて、職事の手に少しも違はずこれを書く。その詞に曰く、
  {*k}足利宰相尊氏、左馬頭直義以下の一類等、武威に誇り朝憲を軽んずるの間、征罰せらるる所なり。かの輩、たとひ隠遁の身と為ると雖も、刑罰を緩うすべからず。深くかの在所を尋ね、不日に誅戮せしむべし。戦功有るに於いては抽賞せらるべし。てへれば綸旨かくの如し。これを審らかにするに{*10}状を以てす。
    建武二年十一月二十三日  右中弁光守{*11}
        武田一族中
        小笠原一族中{*k}
へと、同じ文章に名字を替へて、十余通書いてぞ出だしたりける。
 左馬頭直義朝臣、これを持ちて、急ぎ建長寺へ参り給ひて、将軍に対面あつて、涙を抑へて宣ひけるは、「当家勅勘の事、義貞朝臣が申し勧むるに依つて、則ち新田を討手に下され候間、この一門に於いては、たとひ遁世降参の者なりとも、求め尋ねて誅すべしと議し候なる。叡慮の趣も又同じく、遁るる所候はざりける。先日、矢矧、手越の合戦に討たれて候ひし敵の肌の守りに入れて候ひし綸旨ども、これ、御覧候へ。かやうに候上は、とても遁れぬ一家の勅勘にて候へば、御出家の儀を思し召し翻へされて、氏族の陸沈を御助け候へかし。」と申されければ、将軍、この綸旨を御覧じて、謀書とは思ひも寄り給はず。「誠にさては、一門の浮沈、この時にて候ひける。さらば、力なし。尊氏も、方々と共に弓矢の義を専らにして、義貞と死を共にすべし。」とて、忽ちに道服を脱ぎ給ひて、錦の直垂をぞ召されける。されば、その頃鎌倉中の軍勢どもが、一束切とて髻を短くしけるは、将軍の髪を紛らかさんがためなりけり。
 さてこそ、「事、叶はじ。」とて京方へ降参せんとしける大名どもも、右往左往に落ち行かんとしける軍勢も、俄に気を直して馳せ参じければ、一日も過ぎざるに、将軍の御勢は三十万騎になりにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「儀」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 2・3:底本は、「佐兵衛(の)佐」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 4:底本は、「畳楯(でふだて)」。底本頭注に、「蝶番ひで畳むやうに造つた楯。」とある。
 5:底本は、「乱れず、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
 6:底本は、「香象(かうざう)」。底本頭注に、「象の名。此の象は河を渡るに底を徹して流れを截ると云はれる。」とある。
 7・8:底本は、「伊豆の府(こふ)」。底本頭注に、「三島の。」とある。
 9:底本は、「宿紙(しゆくし)」。底本頭注に、「すきがへしの紙。山城の神屋川で製せらる。」とある。
 10:底本は、「悉(スニ)(レ)之(ヲ)以(テス)(レ)状(ヲ)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 11:底本は、「右中将弁光守(みつもり)」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。
 k:底本、この間は漢文。