箱根竹下合戦の事

 さる程に、同じき十二月十一日、両陣の手分けあつて、左馬頭直義、箱根路を支へ、将軍は竹下へ向ふべしと定められにけり。この間、度々の合戦に打ち負けたる兵ども、未だ気を直さで勇まず。昨日今日馳せ集まつたる勢は、大将を待つて猶予しける間、「敵、已に伊豆の国府{*1}を打つ立つて、今夜、野七里山七里{*2}を越ゆる。」と聞こえしかば、足利尾張右馬頭高経、舎弟式部大輔、三浦因幡守、土岐弾正少弼頼遠、舎弟道謙、佐々木佐渡判官、赤松雅楽助貞則、「かやうに目くらべ{*3}して鎌倉に集まり居ては、叶ふまじ。人の事は、よし。ともかくもあれ、いざや、先づ竹下へ馳せ向つて、後陣の勢のつかぬ先に敵寄せば、一合戦して討死せん。」とて、十一日、まだ宵に竹下へ馳せ向ふ。その勢、僅かなりしかば、物寂しくぞ見えたりける。
 されども、義を守る勇士なれば、「あながちに{*4}多少に依るべからず。」とて、竹下へ打ち上がつて、敵の陣を遥かに見下したれば、西は伊豆の国府{*5}、東は野七里山七里に焼き並べたる篝火の数、幾千万とも知らざりけり。唯晴天の星の影、滄海に移る如くなり。「さらば、御方にも篝火を焼かせん。」とて、雪の下草打ち払ひ、処々刈り集めて、幽かに火を吹きつけたれば、夏山のしげみが下に夜を明かす、ともしの影に異ならず。されども武運強ければにや、敵、今夜は寄せ来らず。夜、已に明けなんとしける時、将軍、鎌倉を打つ立たせ給へば、仁木、細川、高、上杉、これ等を宗徒の兵として、都合その勢十八万騎、竹下へ著き給へば、左馬頭直義、六万余騎にて箱根峠へ著き給ふ。
 さる程に、明くれば十二日辰の刻に、京勢ども、伊豆の国府{*6}にて手分けして、竹下へは中務卿親王に、卿相雲客十六人、副将軍には脇屋治部大輔義助{*7}、細屋右馬助、堤卿律師、大友左近将監、佐々木塩冶判官高貞を相副へて、已上その勢七千余騎、搦手にて向はれけり。箱根路へは又、新田義貞宗徒の一族二十余人、千葉、宇都宮、大友千代松丸{*8}、菊池肥後守武重、松浦党を始めとして、国々の大名三十余人、都合その勢七万余騎、大手にてぞ向はれける。
 同じき日午の刻に、軍、始まりしかば、大手搦手、敵御方、互に鬨を作りつつ、山川を傾け天地を動かし、喚き叫んで{*9}攻め戦ふ。さる程に、菊池肥後守武重、箱根の軍の先駆けして、敵三千余騎を遥かの峯へまくり上げ、坂中に楯を突き並べて、一息継いでこらへたり。これを見て、千葉、宇都宮、河越、高坂、愛曽、熱田の大宮司、一勢一勢陣を取つて、えいや声を出だして攻め上がり攻め上がり、喚き叫んで{*10}戦ひたり。
 中にも道場坊助註記祐覚は、児十人、同宿三十余人、紅下濃の鎧を一様に著て、児は紅梅の作り花を一枝づつ兜の真向に挿しはさみたりけるが、楯に外れて一陣に進みけるを、武蔵、相模の荒夷ども、「児とも云はず、唯射よ。」とて、散々に指し詰めて射ける間、面に進みたる児八人、矢庭に倒れて小篠の上にぞ伏したりける。党の者どもこれを見て、頚を取らんと抜き連れて打つて下りけるを、道場坊が同宿ども、児を討たせて何かこらふべき。三十余人、太刀長刀の鋒を並べて、手負の上を飛び越え飛び越え、「坂本やうの袈裟切り{*11}に成仏せよ。」といふままに、追ひ詰め追ひ詰め切つて廻りける間、武士、散々に切り立てられて、北なる峯へ颯と引きて、暫し息をぞ継ぎたりける。この隙に、祐覚が同宿ども、面々の手負を肩に引つ懸けて、麓の陣へぞ下りける。
 義貞の兵の中に、杉原下総守、高田薩摩守義遠、葦堀七郎、藤田六郎左衛門、川波新左衛門、藤田三郎左衛門{*12}、同四郎左衛門、栗生左衛門、篠塚伊賀守、難波備前守、河越三河守、長浜六郎左衛門、高山遠江守、園田四郎左衛門、青木五郎左衛門、同七郎左衛門、山上六郎左衛門とて、党を結びたる精兵の射手十六人あり。一様に笠印をつけて、進むにも同じく進み、又引く時も共に引きける間、世の人、これを十六騎が党とぞ申しける。彼等が射ける矢には、楯も物具も堪らざりければ、向ふ方の敵を射すかさずといふ事なし。執事船田入道は、馳せ廻つて士卒を勇め、大将軍義貞は、一段高き処に諸卒の振舞を実検せられける間、名を重んじ命を軽んずる千葉、宇都宮、菊池、松浦の者ども、勇み進んで戦ひける間、鎌倉勢、馬の足を立てかねて、引き退く者、数を知らざりけり。
 かかる処に、竹下へ向はれたる中書王{*13}の御勢、諸庭の侍、北面の輩五百余騎、なまじひ武士に先を懸けられじとや思ひけん、錦の御旗を先に進め、竹下へ押し寄せて、敵、未だ一矢も射ざる先に、「一天の君に向ひ奉つて弓を引き矢を放つ者、天罰を蒙らざらんや。命惜しくば兜を脱ぎ、降人に参れ。」と声々にぞ呼ばはりける。
 これを見て、尾張右馬頭、舎弟式部大輔、土岐弾正少弼頼遠、舎弟道謙、三浦因幡守、佐々木佐渡判官入道、赤松筑前守貞則、宵より一陣にありけるが、「敵の馬の立て様、旗の紋、京家の人とおぼゆるぞ。矢だうな{*14}に遠矢な射そ。唯抜き連れて懸かれ。」とて、三百余騎、轡を並べ、「弓馬の家に生まれたる者は、名をこそをしめ。命をば惜しまぬものを。云ふ処、そらごとかまことか、戦うて手並の程を見給へ。」とて、一同に鬨をどつと挙げ、喚いてこそかかりたりけれ。官軍は、敵をかさに受けて麓に控へたる勢なれば、何かは一たまりもたまるべき。一戦にも及ばずして、捨て鞭を打つてぞ引きたりける。これを見て、土岐、佐々木、一陣に進んで、「詞にも似ぬ人々から。きたなし、返せ。」と恥ぢしめて、追つ立て追つ立て攻めける間、後れて引く兵五百余騎、或いは生け捕られ、或いは討たれ、残り少なになりにけり。
 手合はせの合戦をし違へて、官軍、漂ひて見えければ、仁木、細川、高、上杉の人々、勇み進んで、中書王の御陣へ会釈もなく打つてかかる。されば、引き漂ひたる京勢にて、叶ふべきやうなかりけるを、中書王の副将軍脇屋右衛門佐、「いふがひなき者どもが、なまじひに一陣に進みて、御方の力を失ふこそ遺恨なれ。ここを散らさでは叶ふまじ。」とて、七千余騎を一手になして、馬の頭を雁行に連ねて、旗の足を竜粧{*15}に進めて、横合ひにしづしづとかけられける。
 勝ち誇つたる敵なれば、何かは少しもひるむべき。十文字に合つて、八文字に破る。大中黒と二つ引両と、二つの旗を入れ替へ入れ替へ、東西に靡き南北に分かれ、万卒に面を進め、一挙に死をぞ争ひける。誠に両方、名を知られたる兵どもなれば、誰かは一人も遁るべき。互に討ちつ討たれつ、馬の蹄を浸す血は混々として、洪河の流るるが{*16}如くなり。死骸を積める地は、累々として屠所の肉の如くなり。無慙といふもおろかなり。
 ここに、脇屋右衛門佐の子息式部大輔とて、今年十三になりけるが、敵御方引き分かれける時、如何にして紛れたりけん、郎等三騎相共に、敵の中にぞ残りける。この人、幼稚なれども心はやき人にて、笠印引つ切つて投げ捨て、髪を乱し、顔に振り懸けて、敵に見知られじと、騒がぬ体にてぞおはしましける。父義助、これをば知らず、「義治が見えぬは、討たれぬるか、又、生け捕られぬるか、二つの間をば離れじ。かれが死生を見ずば、片時の命、生きても何かはすべき。勇士の戦場に命を捨つること、只これ、子孫の後栄を思ふ故なり。されば、未だ幼き身なれども、片時の別れを悲しんで、この戦場にも伴ひつるなり。その死生を知らでは、如何さてあるべき。」とて、鎧の袖に涙をかけ、大勢の中へかけ入りたまひけるが、「誠に、父の子を思ふ志、今に初めぬ事なれども、哀れなる御事かな。いざや、御伴仕らん。」とて、義助の兵ども、轡を並べ三百余騎、主を討たせじとかけ入りける。
 義助の二度のかけに、さしもの大勢、戦ひ疲れて、一度にばつとぞ引きたりける。これに利を得て、義助、尚、逃ぐるを追ひて進まれける処に、式部大輔義治、我が父と見なして、馬をひき返し、主従四騎にて脇屋殿に馳せ加はらんと馬を進められけるを、誰とは知らず、片引両の笠印著けたる兵二騎、「御方が返すぞ。」と心得て、「優しくこそ見えさせ給ひ候へ。御供申して討死し候はん。」とて、連れてこれも返しけり。式部大輔義治は、父の義助の勢の中へ、つとかけ入りさまに、若党にきと目くはせせられければ、義治の郎従、よせ合つて、続いて返しつる二騎の兵を切り落とし、首を取つてぞ指し挙げたる。義助、これを見給ひて、死したる人の蘇生したる様に悦びて、今一際の勇みを成し、「暫く人馬を休めよ。」とて、又、元の陣へぞ引き返されける。
 一陣、余りに闘ひくたびれしかば、新手を入れ替へて戦はしめんとしける処に、大友左近将監、佐々木塩冶判官が、千余騎にて後ろに控へたるが、如何おもひけん、一矢射て後、旗を巻いて将軍方に馳せくははり、かへつて官軍を散々に射る。中書王の御勢は、初度の合戦に若干討たれて、又も戦はず。右衛門佐の兵は、両度の懸け合ひに、人馬疲れて無勢なり。「これぞ、新手にて一戦もしつべき者。」と憑まれつる大友、塩冶は、忽ちに翻つて、親王に向ひ奉りて弓を引き、右衛門佐に懸け合はせて戦ひしかば、官軍、いかでかこらふべき{*17}。「敵の後ろを遮らぬさきに、大手の勢となりあはん。」とて、佐野原へ引き退く。
 仁木、細川、今川、荒川、高、上杉、武蔵、相模の兵ども、三万余騎{*18}にて追つ懸けたり。これにて中書王の股肱の臣下と憑み思し召したりける二條中将為冬、討たれ給ひければ、右衛門佐の兵ども、返し合はせ返し合はせ、三百騎、所々にて討死す。これをも顧みず、引き立つたる官軍ども、我先にと落ち行きける程に、佐野原にもたまり得ず、伊豆の国府{*19}にも支へずして、搦手の寄せ手三百余騎は、海道を西へ落ちて行く。

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校訂者注
 1・5・6・19:底本は、「伊豆の府(こふ)」。
 2:底本は、「野七里山七里(のくれやまくれ)」。底本頭注に、「伊豆国田方郡本山中の辺、箱根山を登るに麓より四十二町許りを野七里とし更に四十二町許りを山七里と云ふ。」とある。
 3:底本頭注に、「にらみ合ひ。」とある。
 4:底本は、「強(あなが)ち多少に」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 7:底本は、「右衛門(の)佐義助」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 8:底本頭注に、「氏泰。貞宗の子。」とある。
 9・10:底本は、「叫(をめ)き喚(さけ)んで」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)及び『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 11:底本は、「坂本様(さかもとやう)の袈裟(けさ)切」。底本頭注に、「袈裟切とは袈裟懸の形に切ること。坂本様は前に坂本様の拝み切りとあつたと同様に仏縁によつて袈裟とつゞけて云ふ。」とある。
 12:底本は、「藤田三郎衛門、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「中務卿の唐名。これは尊良親王を指す。」とある。
 14:底本頭注に、「矢だくなの音便。だくなは費えの意。あだ矢を射ること。」とある。
 15:底本は、「竜粧(りうさう)」。底本頭注に、「竜の昇天せんとする様で旗の風に靡くさまを云ふ。」とある。
 16:底本は、「流るゝ如くなり。」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 17:底本は、「いかでこらふべき。」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。底本頭注に、「〇右衛門佐 脇屋義助。」とある。
 18:底本は、「三百余騎」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。