官軍箱根を引き退く事
追手箱根路の合戦は、官軍、戦ふ毎に利を得しかば、「僅かに控へて支へたる足利左馬頭{*1}を追ひ落として鎌倉へ入らんずる事、掌の内にあり。」と、寄せ手、皆勇んで{*2}、明くるを遅しと待ちける処に、搦手より、「軍破れて、寄せ手、皆追つ散らされぬ。」と聞こえければ、諸国の催し勢、路次の軍に降人に出でたりつる坂東勢、幕を捨て旗をそばめて、我先にと落ち行きける間、さしも広き箱根山に透間{*3}もなく充満したりつる陣に、人ありとも見えずなりにけり。
執事船田入道は、一の攻め口に敵を攻めて居たりけるが、敵陣に、「竹下の合戦は、将軍{*4}、打ち勝たせ給ひて、敵を皆追つ散らして候なり。」と、早馬のまゐつて罵る声を聞いて、誠やらん、覚束なくおもひければ、只一騎御方の陣々を打ち廻つて見るに、幕ばかりのこつて、人のある陣はなかりけり。「さては竹下の合戦に、御方、早打ち負けてげり。かくては叶ふまじ。」とおもひて、急ぎ大将の陣へ参つて、事の仔細を申しければ、義貞、暫く思案し給ひけるが、「いかさま{*5}、陣を少し引き退いて、落ち行く勢を留めてこそ合戦をもせめ。」とて、船田入道を打ち連れて、箱根山を引きて下り給ふ。その勢、僅かに百騎には過ぎざりけり。
暫く馬を控へて後を見給へば、例の十六騎の党、馳せ参じたり。又、北なる山に添うて、三つ葉柏の旗の見えたるをば{*6}、「敵か、味方か。」と問ひ給へば、熱田の大宮司、百騎ばかりにて待ち奉る。その勢を併せて野七里にうち出でたまひたれば、鷹の羽の旗一流れ指し揚げて、菊池肥後守武重、三百余騎にて馳せ参る。ここに、散所法師一人、西の方より来りけるが、船田が馬の前に畏まつて、「これは、いづくへとて御通り候やらん。昨日の暮程に脇屋殿、竹下の合戦に打ち負けて落ちさせたまひ候ひし後、将軍の御勢八十万騎、伊豆の国府{*7}に居余つて、木の下岩の蔭、人ならずといふ所候はず。今この御勢ばかりにて御通り候はん事、ゆめゆめ叶ふまじき事にて候。」とぞ申しける。
これを聞きて、栗生と篠塚と打ち並べて候ひけるが、鐙踏ん張り、つとのびあがり、御方の勢を打ち見て、「あはれ、兵どもや。一騎当千の武者とは、この人々をぞ申すべき。敵八十万騎に御方五百余騎、よき程の相手なり。いでいで、駆け破つて道開いて参らせん。続けや、人々。」と勇めて、数万騎打ち集まつたる敵の中へかけて入る。
府中にて一條次郎、三千余騎にて戦ひけるが、新田左兵衛督を見て、よき敵と思ひけるにや、馳せ並んで組まんとしけるを、篠塚、中に隔たつて、打ちける太刀を弓手の袖に受けとめ、大の武者をかい掴んで、弓杖二丈ばかりぞ投げたりける。一條も大力の早業なりければ、抛げられたれども倒れず。漂ふ足を踏み直して、猶義貞に走り懸からんとしけるを、篠塚、馬より飛んで下り、両膝合はせてさかさまに蹴倒す。倒るると等しく、一條を起こしも立てず、抑へて首かき切つてぞさし揚げける。
一條が郎等ども、目の前に主を討たせて心うき事に思ひければ、篠塚を討たんと、馬より飛び下り飛び下り打つて懸かれば、篠塚、かい違うては蹴倒し、蹴倒しては首を取り、足をもためず一所にて九人までこそ討つたりけれ。
これを見て、敵、数十万騎ありといへども、敢へて懸け合はせんともせざりければ、義貞、しづしづと伊豆の国府{*8}を打つて通り給ふに、宵より落ちてその辺に紛れ居たる官軍ども、ここかしこより馳せ附きける程に、義貞の勢、二千騎ばかりになりにけり。「この勢にては、たとひ百重千重に取り篭めたりとも、などか駆け破つて通らざるべき。」と、悦びて行く処に{*9}、木瀬川に旗一流れ打つ立つて、勢の程二千騎ばかり見えたり。近々と打ち寄つて、旗の紋を見れば、二つ巴を旗にも笠印にも書きたり。「さては、小山判官にてぞあるらん。一騎も余さず討ち取れ。」とて、山名、里見の人々、馬の鼻を並べてをめいて懸かりける程に、小山が勢、四角八方にかけ散らされて、百騎ばかりは討たれにけり。
かくて浮島が原を打ち過ぐれば、松原の蔭に旗三流れ差して、勢の程五百騎ばかり控へたり。「これは、敵か、御方か。」と在家の者に問ひ給へば、「これは、昨日、竹下より一宮を追ひ参らせて、所々にて合戦し候ひし甲斐の源氏にて候。」とぞ答へ申しける。「さては、よき敵ぞ。取り篭めて討て。」とて、二千余騎の勢を二手に分けて、北南より押し寄すれば、叶はじとや思ひけん、一矢をも射ずして降人になつてぞ出でたりける。
この勢を先に打たせて遥かに行けば、中黒の旗を見つけて、落ち隠れ居たる官軍ども、かなたこなたより馳せつきて、七千余騎になりにけり。「今は、かう。」と勇みて、今井、見附を過ぐる処に、又旗五流れさしあげて、小山の上に敵二千騎ばかり控へたり。降人に出でたりつる甲斐源氏に、「この敵は、誰そ。」と問ひ給へば、「これは、武田、小笠原の者どもにて候なり。」と答ふ。「さては、攻めよ。」とて、四方より攻め上りけるを、高山薩摩守義遠、「この敵を余さず討たんとせば、御方も若干亡ぶべし。大敵をば、開いて攻むるにこそ、利は候へ。」と申しければ、由良、船田、げにもとて、東一方をば開けて、三方より攻め上りければ、この敵ども、遠矢少々射捨てて、東を指してぞ落ち行きける。これより後は、敢へて遮る敵もなかりければ、手負を相助け、さがる勢を待ち連れて、十二月十四日の暮程に、天竜河の東の宿に著き給ひにけり。
折節、河上に雨降りて、河の水、岸を浸せり。「長途に疲れたる人馬なれば、渡す事叶ふまじ。」とて、俄に在家をこぼちて浮橋をぞわたされける。この時、もし将軍の大勢、後ろより追つ懸けてばし寄せたらましかば、京勢は一人もなく亡ぶべかりしを、吉良、上杉の人人、長僉議に三、四日逗留ありければ、川の浮橋程なく渡しすまして、数万騎の軍勢、残る所なく、一日がうちに渡してげり。
諸卒を皆渡しはてて後、船田入道と大将義貞朝臣と二人、橋を渡り給ひけるに、如何なる野心の者かしたりけん、浮橋を一間、張り綱を切つてぞ捨てたりける。舎人、馬を引いて渡りけるが、馬と共にさかしまに落ち入つて、浮きつ沈みつ流れけるを、船田入道、「誰かある。あの御馬、引き上げよ。」と申しければ、後ろに渡りける栗生左衛門、鎧著ながら川中へ飛びつかり、二町ばかり泳ぎつきて、馬と舎人とを左右の手にさし揚げて、肩を越しける水の底を閑かに歩んで、向うの岸へぞ著きたりける。
この馬の落ち入りける時、橋二間ばかり落ちて、渡るべき様もなかりけるを、船田入道と大将と二人、手に手を取り組んで、ゆらりと飛び渡り給ふ。その後に候ひける兵二十余人、飛びかねて暫し徘徊しけるを、伊賀国の住人に名張八郎{*10}とて、名誉の大力のありけるが、「いで、渡して取らせん。」とて、鎧武者の総角を取つて宙にひつ提げ、二十人までこそ投げ越しけれ。今二人残つてありけるを、左右の脇に軽々とさし挟んで、一丈余り落ちたる橋をゆらりと飛んで、向うの橋桁を踏みけるに、踏む所少しも動かず、誠に軽げに見えければ、諸軍勢、遥かにこれを見て、「あな、いかめし。いづれも凡夫の技にあらず。大将といひ、手の者どもといひ、いづれを捨つべしともおぼえねども、時の運に引かれてこの軍に打ち負け給ひぬるうたてさよ。」と、いはぬは人こそなかりけれ。
その後、浮橋を切りて、つき流されたれば、敵、たとひ寄せ来るとも、左右なく渡すべき様もなかりけるに、引き立ちたる勢の習ひなれば、「大将と同心になつて、今一軍せん。」と思ふ者なかりけるにや、矢矧に一日逗留し給ひければ、昨日まで二万余騎ありつる勢、十方へ落ち失せて、十分が一もなかりけり。
早旦に宇都宮治部大輔、大将の前に来つて申されけるは、「今夜官軍ども、夜もすがら落ち候ひけると承るが、実にも陣々まばらになつて、いづくに人ありとも見え{*11}候はず。ここにてもし数日を送らば、後ろに敵いで来て、路を塞ぐことありぬとおぼえ候。あはれ、今少し引き退きて、足近{*12}、洲俣を前に当てて、京近き国々に御陣を召され候へかし。」と申されければ、諸大将、「げにも、皇居の事、覚束なく候へば、さのみ都遠き所の長居は、然るべしとも存じ候はず。」とぞ同じける。義貞、「さらば、ともかくも面々の御意見にこそ従ひ候はめ。」とて、その日、天竜川を立ちてこそ尾張国まで引かれけれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「直義。」とある。
2:底本は、「勇み勇んで」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い削除した。
3:底本は、「透(す)きもなく」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
4:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
5:底本は、「何様(なにさま)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
6:底本は、「見えたるは、」。底本頭注に従い改めた。
7・8:底本は、「伊豆の府(こふ)」。
9:底本は、「行く処へ、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
10:底本頭注に、「久富。」とある。
11:底本は、「覚え候はず。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
12:底本は、「あしか、」。『太平記 二』(1980年)本文及び頭注に従い改めた。
コメント