将軍御進発大渡山崎等合戦の事
さるほどに、新玉の年立ち返れども、内裏には朝拝もなし。節会も行はれず。京白河には、家をこぼちて堀に入れ、財宝を積んで持ち運ぶ。唯、何といふ沙汰もなく、物騒がしくぞ見えたりける。
かかる程に、「将軍{*1}、已に八十万騎にて、美濃、尾張へ著き給ひぬ。」と云ふ程こそあれ、「四国の御敵もちかづきぬ。山陰道の朝敵も、唯今、大江山へ取り上る。」なんど聞こえしかば、この間、召しに応じて上り集まりたる国々の軍勢ども、十方へ落ち行きける程に、洛中には、残り止まる勢、一万騎までもあらじとぞ見えたりける。それも皆、勇める気色もなくて、いづ方へ向へと下知せられけれども、耳にも聞き入れざりければ、軍勢の心を勇ませんために、「今度の合戦に於いて忠あらん者には、不日に恩賞行はるべし。」と云ふ壁書を、決断所に押されたり。これを見て、その事書きの奥に、例の落書をぞしたりける。
かくばかりたらさせ給ふ綸言の汗の如くになどながるらむ{*2}
さる程に、正月七日に、義貞、内裏より退出して軍勢の手分けあり。勢多へは伯耆守長年に、出雲、伯耆、因幡三箇国の勢二千騎を副へて向けらる。供御瀬、膳所瀬二箇所に大木を数千本流し懸けて、大綱をはり乱杭を打ち、引き懸け引き懸けつなぎたれば、如何なる河伯水神なりとも、上をも泳ぎがたく、下をも潜り難し。宇治へは楠判官正成に、大和、河内、和泉、紀伊国の勢五千余騎を副へて向けらる。橋板四、五間はねはづして、河中に大石を畳みあげ、逆茂木を繁くえり立て、東の岸を高く屏風の如くに切り立てたれば、河水二つにわかれて、白浪漲り落ちたる事、あたかも竜門三級の如くなり。敵に心安く陣を取らせじとて、橘の小島、槙島、平等院のあたりを一宇も残さず焼き払ひける程に、魔風、大廈に吹きかけて、宇治の平等院の仏閣宝蔵、忽ちに焼けけることこそあさましけれ。
山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院按察大納言{*3}、文観僧正、大友千代松丸、宇都宮美濃将監泰藤、海老名五郎左衛門尉、長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向けらる。宝寺より川端まで塀を塗り堀を掘つて、高櫓、出櫓三百余箇所にかき並べたり。陣の構へ、何となくゆゆしげには見えたれども、俄に拵へたることなれば、塀の土も未だ乾かず、堀も浅し。又、防ぐべき兵も、京家の人、僧正の御房の手の者などと号する者ども多ければ、この陣の軍、はかばかしからじとぞ見えたりける。大渡には、新田左兵衛督義貞を総大将として、里見、鳥山、山名、桃井、額田、田中、篭沢、千葉、宇都宮、菊池、結城、池、風間、小国、河内の兵ども一万余騎にて固めたり。これも、橋板三間まばらに引き落として、半ばより東にかい楯をかき、櫓をかきて、川を渡す敵あらば横矢に射、橋桁を渡る者あらば、走り{*4}を以て押し落とすやうにぞ構へたる。馬の駆けあがりに逆茂木ひしと引き懸けて、後ろに究竟の兵ども、馬を引き立て引き立て並み居たれば、如何なる生唼、磨墨{*5}に乗るとも、ここを渡すべしとは見えざりけり。
さる程に、将軍は、八十万騎の勢を率し、正月七日、近江国伊岐洲の社に、山法師成願坊が三百余騎にて楯篭りたりける城を、一日一夜に攻め落として、八日に八幡の山下に陣を取る。細川卿律師定禅は、四国中国の勢を率して、正月七日、播磨の大蔵谷に著いたりけるに、赤松信濃守範資、我が国に下つて旗を挙げんために、京より逃げ下りけるに行き逢ひて、互に悦び思ふ事、限りなし。且は、元弘の佳例なりとて、信濃守を先陣にて、その勢都合二万三千余騎、正月八日の午の刻に、芥河の宿に陣を取る。久下弥三郎時重、波々伯部二郎左衛門為光、酒井六郎貞信、但馬、丹後の勢と引き合はせて六千余騎、二條大納言{*6}殿の西山の峯堂に陣を取つておはしけるを追ひ落として、正月八日の夜半より、大江山の峠にかがりをぞ焼きける。
京中には、時に取つて弱からん方へ向くべしとて、新田の一族三十余人、国々の勢五千余騎を遺されたりければ、「大江山の敵を追ひ払ふべし。」とて、江田兵部大輔行義を大将として、三千余騎を丹波路へ差し向けらる。この勢、正月八日の暁、桂河を打ち渡つて、朝霞のまぎれに大江山へ押し寄せ、一矢射違ふるほどこそありけれ、抜き連れて攻め上りける間、一陣に進んで戦ひける久下弥三郎が舎弟五郎長重、痛手を負ひて討たれにけり。これを見て、後陣の勢、一戦も戦はずして、捨て鞭を打つて引きける間、敵、さまでは追はざりけれども、十里二十里の外まで引かぬ兵はなかりけり。
明くれば正月九日の辰の刻に、将軍、八十万騎の勢にて大渡の西の橋詰に押し寄せ、「橋桁をやわたらまし、川をや渡さまし。」と見給ふに、橋の上も川の中も、敵の構へきびしければ、如何すべきと思案して、時移るまでぞ控へたる。時に官軍の陣より、はやりを{*7}の者どもと見えたる兵百騎ばかり、川端へ進み出でて、「足利殿の搦手に、憑み思し召して候ひつる丹波路の御敵どもをこそ、昨日追ひ散らして、一人も残さず討ち取つて候へ。御旗の紋を見候に、宗徒の人々は大略この陣へ御向ひありとおぼえて候。治承には足利又太郎、元暦には佐々木四郎高綱、宇治川を渡して名を後代に揚げ候ひき。この川は、宇治川よりも浅くして、しかも早からず。ここを渡され候へ。」と声々に欺いて{*8}、箙を敲いてどつと笑ふ。
武蔵、相模の兵ども、「敵に招かれて、如何なる早き淵川なりとも、渡さずと云ふ事やあるべき。たとひ川深くして、馬人ともに沈みなば、後陣の勢、それを橋に踏んで渡れかし。」とて、二千余騎、一度に馬を打ち入れんとしけるを、執事武蔵守師直、馳せ廻つて、「これはそも、物に狂ひ給ふか。馬の足もたたぬ大河の、底は早くして上は静かなるを、渡さば渡されんずるか。暫く閑まり給へ。在家をこぼち、筏に組んで渡らんずるぞ。」と下知せられければ、さしも進みける兵、実にもとや思ひけん、やがて近辺の在家数百家を壊ち連ねて、面二、三町なる筏をぞ組んだりける。
武蔵、相模の兵ども五百余人、こみ乗つて、橋より下を渡しけるが、河中に打ちたる乱杭に懸かつて、棹を差せども行きやらず。敵は、雨の降る如く散々に射る。筏は、ちともはたらかず。とかくしける程に、流れ淀みたる浪に筏の舫{*9}を押し切られて、竿にも留まらず流れけるが、組み重ねたる材木ども、次第に別々になりければ、五百余人乗つたる兵、皆水に溺れて失せにけり。敵は、楯を敲いて、「あれ、見よ。」と笑ふ。御方は、手をあがいて、「如何せん。」と騒ぎ悲しめども、叶はず。
又、この軍散じて後、橋の上なる櫓より武者一人、矢間の板を押し開いて、「治承に高倉の宮の御合戦の時、宇治橋を三間引き落として、橋桁ばかり残りて候ひしをだに、筒井浄妙、矢切但馬なんどは、一條、二條の大路よりも広げに、走り渡つてこそ{*10}合戦仕つて候ひけるなれ。況んやこの橋は、かい楯の料に所々板を外して候へども、人の渡り得ぬ程の事はあるまじきにて候。坂東より上つて京を攻められんに、川を隔てたる合戦のあらんずるとは、思ひ設けられてこそ候ひつらめ。舟も筏も、事の煩ひばかりにて、よも叶ひ候はじ。唯、橋の上を渡つて、手詰めの軍に我等{*11}が手なみの程を御覧じ候へ。」と、敵を欺き恥ぢしめて、あざ笑うてぞ立ちたりける。
これを聞いて、武蔵守師直が内に、野木与一兵衛入道頼玄とて、大力の早業、打ち物取つて世に名を知られたる兵ありけるが、胴丸の上に捃縄目の大鎧、透間もなく著なし、獅子頭の兜に目の下の頬当てして、四尺三寸のいか物作りの太刀をはき、大たて上げの臑当、脇楯の下へ引きこうで、柄も五尺、身も五尺の備前長刀、右の小脇にかいこみて、「治承の合戦は、音に聞いて、目に見たる人なし。『浄妙にや劣る。』と、我を見よ。敵を目にかくる程ならば、天竺の石橋、蜀川の縄の橋なりとも、渡り得ずといふ事やあるべき。」と高声に広言吐いて、橋桁の上にぞ進みたる。櫓の上の掻楯の蔭なる官軍ども、これを射て落とさんと、差し詰め引き詰め散々に射る。面僅かに一尺ばかりある橋桁の上を、歩めば{*12}矢に違ふやうもなかりけるに、上がる矢にはさしうつぶき、下がる矢をば跳り越え、弓手の矢には右の橋桁に飛び移り、馬手の矢には左の橋桁へ飛び移り、ただ中を指して射る矢をば、矢切但馬にはあらねども、切つて落とさぬ矢はなかりけり。
数万騎の敵御方、立ち合つて見ける処に、又、山川判官{*13}が郎等二人、橋桁を渡つて続いたり。頼玄、いよいよ力を得て、櫓の下へかづき入り、掘り立てたる柱を、えいやえいやと引くに、橋の上にかいたる櫓なれば、橋共にゆるぎ渡つて、「すはや、ゆり倒しぬ。」とぞ見えたりける。櫓の上なる射手ども四、五十人、叶はじとや思ひけん、飛び下り飛び下り倒れふためいて、二の木戸の内へ逃げ入りければ、寄せ手数十万騎、同音に箙を敲いてぞ笑ひける。
「すはや、敵は引くぞ。」と云ふ程こそありけれ、三河、遠江、美濃、尾張のはやり雄の兵ども千余人、馬を乗り放し乗り放し、我先にとせき合つて渡るに、射落とされ、せき落とされて水に溺るる者、数を知らず。それをも顧みず、幾程もなき橋の上に、沓の子{*14}を打つたるが如く立ち並んで、重々に構へたる櫓、かい楯を引き破らんと引きける程に、敵や、かねて構へをしたりけん、橋桁四、五間、中より折れて、落ち入る兵千余人、浮きぬ沈みぬ流れ行く。数万の官軍、同音に楯を敲いてどつと笑ふ。されども野木与一兵衛入道ばかりは、水練さへ達者なりければ、橋の板一枚に乗り、長刀を棹に差して、元の陣へぞ帰りける。
これより後は、橋桁もつづかず、筏も叶はず。かくてはいつまでか向ひ居るべきと、攻めあぐんで思ひける処に、さも小賢しげなる力者一人、縦封したる文を持つて、「赤松筑前殿の御陣は、いづくにて候ぞ。」と、問ひ問ひ走りて出で来る。筑前守は、八日の宵より、桃井修理亮、土屋三河守、安保丹後守と陣を並べて、橋の下に居たりけるが、この使を見附けて、急ぎ文を披いて見れば、舎兄信濃守範資の自筆にて、「義貞以下の逆徒等退治の事、将軍家の御教書到来の間、義兵を挙げんために播州に罷り下る処に、細川卿律師定禅、京都に攻め上らるる間、路次に於いて参会す。且は元弘の佳例に任せて、範資、先陣を打つべき由、一諾、事訖はり、今日、已に芥河の宿に著き候なり。明日十日辰の刻には、山崎の陣へ押し寄せて合戦を致すべきにて候。このよしを又、将軍へ申さしめ給ふべし。」とぞ書きたりける。筑前守、この状を持参して読み上げたりければ、将軍を始め奉つて、吉良、石堂、高、上杉、畠山の人々、「今は、かうぞ。」と悦び合へる事、ななめならず。
この使、立ち帰つて後、相図の程にもなりければ、細川卿律師定禅、二万余騎にて桜井の宿の東へ打ち出で、赤松信濃守範資、二千余騎にて川に副うて押し寄する。筑前守貞範、川向うより旗の紋を見て、小舟三艘に取り乗り押し渡りて、兄弟一所になる。「このあひだ、東西数百里を隔てて、安否、更に知らざりしかば、いづくの陣にか討たれぬらんと、安き心もなかりつるに、互に恙なかりける天運の程の不思議さよ。」と、手に手を取り組み額を合はせて、先づ悦び泣きにぞ泣きたりける。
山崎の合戦は、元弘の吉例に任せて、赤松、先づ矢合はせをすべしと、かねて定められたりけるを{*15}、播磨の紀氏の者ども三百余騎、抜け懸けして一番に押し寄せたり。官軍、敵を小勢と見て、木戸を開き、逆茂木を引き除けて、五百余騎抜き連れて駆け出でたるに、寄せ手、一たまりもたまらず追つ立てられて、四方に逃げ散る。二番に、坂東坂西の兵ども二千余騎、桜井の宿の北より山に副うておし寄せたり。城中の大将脇屋右衛門佐義助の兵、並びに宇都宮美濃将監泰藤が紀清両党二千余騎、二の木戸より同時に打ち出でて、東西にひらきあひ、南北へ追つつ返しつ、半時ばかり相戦ふ。汗馬の馳せ違ふ音、鬨作る声、山に響き地を動かして、雌雄未だ決せず、戦ひ半ばなる時、四国の大将細川卿律師定禅六万余騎、赤松信濃守範資二千余騎、二手に分けて押し寄せたり。官軍、敵の大勢を見て、叶はじとやおもひけん、引き返して城の中に引き篭る。
寄せ手、いよいよ機に乗つて、堀に飛び漬かり、逆茂木引き除けて、射れども痛まず、打てども漂はず、乗り越え乗り越え攻め入りける程に、堀は死人に埋まつて平地になり、矢間は皆射とぢられて開きえず。城中、早、色めき立つて見えけるが、一番に但馬国の住人長九郎左衛門、同意の兵三百余騎、旗を巻いて降人に出づ。これを見て、洞院按察大納言殿の御勢、文観僧正の手の者なんど云ひて、この間畠水練しつる者{*16}ども、弓を外し兜を脱いで、我先にと降人に出でける間、城中の官軍、力を失つて防ぎ得ず。「さらば{*17}、淀、鳥羽の辺へ引き退いて、大渡の勢と一つに成つて戦へ。」とて、討ち残されたる官軍三千余騎、赤井を指して落ち行けば、山崎の陣は破れにけり。「かくては、敵、皇居に乱れ入りぬとおぼゆるぞ。主上{*18}を先づ山門へ行幸成し奉つてこそ、心安く合戦をもせめ。」とて、新田左兵衛督{*19}、大渡を捨てて都へ帰り給へば、大友千代松丸、宇都宮治部大輔、降人に成つて、将軍の御方に馳せ加はる。
義貞、義助、一手に成つて淀の大明神の前を引く時、細川卿律師定禅、六万余騎にて追つ懸けたり。新田越後守義顕、後陣に引きけるが、三千余騎にて返し合はせ、相撲辻に陣を取つて、旗を颯と指し揚げたりけれども、後に合戦ありとは義貞には告げられず。先づ山門へ行幸を成し奉らんためなり。越後守義顕、矢軍にて暫く時を移し、義貞、今は内裏へ参られぬらんとおぼゆる程に成つて、三千余騎を二手に分かちて、東西よりどつと喚いて駆け入り、大勢に颯と乱れ合ひ、火を散らしてぞ闘ひたる。唯今まで御方にあつて、敵になりぬる大友、宇都宮が兵どもなれば、越後守を見知つて、自余の勢には目を懸けず、ここに取り篭めかしこによせ合はせて、討ち留めんとしけるを、義顕、打ち破つては囲みを出で{*20}、取つて返しては追ひ退け、七、八度まで自ら戦はれけるに、鎧の袖も兜のしころも皆切り落とされて、深手あまた所負ひければ、半死半生に切り成されて、僅かに都へ帰り給ふ。
校訂者注
1:底本頭注に、「尊氏。」とある。
2:底本頭注に、「〇たらさせ だましなさると汗を垂らしなさるとを云ひ懸く。」「〇綸言 天子の御詞。」「〇汗の如く 綸言は汗のやうで一度口から出ればかへらない譬へ。」「〇など なぜ。」とある。
3:底本頭注に、「公泰。実泰の子。」とある。
4:底本頭注に、「木を滑らせて投げやること。及びその木の名。」とある。
5:底本は、「生唼磨墨(いけづきするすみ)」。底本頭注に、「佐々木と梶原とが宇治川の先陣を争つた時に乗つた名馬。」とある。
6:底本頭注に、「師基。」とある。
7:底本頭注に、「心の勇む男。」とある。
8:底本頭注に、「あざけつて。」とある。
9:底本は、「筏の舫(もやひ)」。底本頭注に、「舫は二つの船又は筏を続ぎあはせたもの。こゝではその続ぎ合はせた綱。」とある。
10:底本は、「走(はし)り渡(わた)つて合戦(かつせん)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
11:底本は、「我が手なみ」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
12:底本は、「歩んでは矢に違へ、弓手(ゆんで)の矢には」。『太平記 二』(1980年)に従い補い、改めた。
13:底本頭注に、「敏列。」とある。
14:底本は、「沓(くつ)の子」。底本頭注に、「沓裏の鋲。」とある。
15:底本は、「定められけるを、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
16:底本は、「畠水練(はたけすゐれん)しつる者」。底本頭注に、「実地に通ぜぬ者。」とある。
17:底本は、「更に淀(よど)、鳥羽(とば)の辺へ引退(ひきしりぞ)いて、大渡(おほわたり)の勢と一つに成つて戦へ、討ち」。『太平記 二』
(1980年)に従い改め、補った。
18:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
19:底本頭注に、「義貞。」とある。
20:底本は、「囲(めぐ)り出で、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
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