主上都落ちの事 附 勅使河原自害の事
「山崎、大渡の陣破れぬ。」と聞こえければ、京中の貴賤上下、俄に出で来たる事の様に、あわてふためき倒れ迷ひて、車馬、東西に馳せ違ふ。蔵物財宝を上下へ持ち運ぶ。義貞、義助、未だ馳せ参らざる前に、主上は、山門へ落ちさせ給はんとて、三種の神器を玉体にそへて鳳輦に召されたれども、駕輿丁一人もなかりければ、四門を固めて候武士ども、鎧著ながらかち立ちになつて、御輿の前後をぞ仕りける。吉田内大臣定房公、車を飛ばせて参らせられたりけるが、御所中を走り廻りて見給ふに、よく近侍の人々もあわてたりけりとおぼえて、明星、日の札、二間の御本尊まで、皆捨て置かれたり。内府、心閑かに青侍どもに執り持たせて参らせられけるが{*1}、如何して見落とし給ひけん、玄象、牧馬、達磨の御袈裟、毘須羯摩{*2}が作りし五大尊、取り落とされけるこそ浅ましけれ。
公卿、殿上人三、四人こそ、衣冠正しくして供奉せられたりけれ、その外、衛府の官は、皆甲冑を著し弓箭を帯して、翠花{*3}の前後に打ち囲む。「この二、三年の間、天下、僅かに一統して、朝恩に誇りし月卿雲客、さしたる事もなきに武具を嗜み弓馬を好みて、朝儀{*4}、道に違ひ、礼法、則に背きしも、早、かかる不思議出で来るべき前表なり。」と、今こそ思ひ知られたれ。
新田左兵衛督、脇屋右衛門佐、並びに江田、大館、堀口美濃守、里見、大井田、田中、篭沢以下の一族二十余人。千葉介、宇都宮美濃将監、仁科、高梨、菊池以下の外様の大名八十余人。その勢、僅かに二万余騎、鳳輦の後を守禦して、皆東坂本へと馬を早む。事の騒がしかりし有様、ただ安禄山が潼関の軍に、官軍、忽ちに打ち負けて、玄宗皇帝自ら蜀の国へ落ちさせ給ひしに、六軍、翠花に随つて、剣閣の雲に迷ひしに異ならず。
ここに、信濃国の住人に勅使河原丹三郎は、大渡の手に向ひたりけるが、宇治も山崎も破れて、主上、早、いづちともなく東を指して落ちさせ給ひぬと披露ありければ、「危を見て命を致すは、臣の義なり。我、何の顔あつてか、亡朝の臣として不義の逆臣に従はんや。」と云ひて、三條河原より父子三騎引つ返して、鳥羽の作路、羅城門の辺にて、腹掻き切つて死にけり。
長年帰洛の事 附 内裏炎上の事
名和伯耆守長年は、勢多を固めて居たりけるが、山崎の陣破れて、主上、早、東坂本へ落ちさせ給ひぬと聞こえければ、「これより直に坂本へ馳せ参らんずる事は、易けれども、今一度内裏へ馳せ参らで直に落ち行かんずる事は、後難あるべし。」とて、その勢三百余騎にて、十日の暮程に、又京都へぞ帰りける。今日は悪日とて、将軍、未だ都へは入り給はざりけれども、四国西国の兵ども、数万騎うち入つて、京白河に充ち満ちたれば、帆掛舟の笠印を見て、ここに横切りかしこに遮つて、打ち留めんとしけれども、長年、かけ散らしては通り、打ち破つては囲みを出で、十七度まで戦ひけるに、三百余騎の勢、次第次第に討たれて、百騎ばかりになりにけり。されども長年、遂に討たれざれば、内裏の置石の辺りにて馬より下り、兜を脱ぎ、南庭に跪く。
主上、東坂本へ臨幸成つて数刻の事なれば、四門、悉く閉ぢて、宮殿、正に寂寞たり。然れば、早、甲乙人ども乱れ入りけりとおぼえて、百官、礼儀を調へし紫宸殿の上には、賢聖の障子引き破られて、雲台の画図、ここかしこに乱れたり。佳人晨装を飾りし弘徽殿の前には、翡翠の御簾、半ばより絶えて、微月の銀鉤、虚しく懸かれり。長年、つくづくとこれを見て、さしも勇める夷心にも、哀れの色や増さりけん、涙を両眼に余して鎧の袖をぞぬらしける。やや暫くやすらうて居たりけるが、敵の鬨の声、間近く聞こえければ、陽明門の前より馬に打ち乗つて、北白川を東へ今路越にかかつて、東坂本へぞ参りける。
その後、四国西国の兵ども、洛中に乱れ入つて、行幸供奉の人々の家、屋形屋形に火を懸けたれば、折節、辻風はげしく吹き敷いて、竜楼、竹苑、准后の御所、式部卿親王常盤井殿、聖主御遊の馬場の御所、煙、同時に立ち登りて、炎、四方に充ち満ちたれば、猛火内裏に懸かつて、前殿、后宮、諸司八省、三十六殿、十二門、大廈の構へ、いたづらに一時の灰燼となりにけり。越王、呉を亡ぼして、姑蘇城一片の煙となり、項羽、秦を傾けて、咸陽宮、三月の火を盛んにせし、呉越秦楚の古も、これにはよも過ぎじと、あさましかりし世間なり。
将軍入洛の事 附 親光討死の事
明くれば正月十一日、将軍{*5}、八十万騎にて都へ入り給ふ。かねては、「合戦、事ゆゑなくして入洛せば、持明院殿の御方の院、宮々の御中に一人、御位に即け奉つて、天下の政道をば武家より計らひ申すべし。」と議定せられたりけるが、持明院の法皇、儲王、儲君、一人も残らせ給はず、皆山門へ御幸成りたりける間、「将軍自ら万機の政をし給はん事も、叶ふまじ。天下の事、如何すべき。」と案じ煩うてぞおはしける。
結城太田判官親光は、この君{*6}に、「弐心なき者なり。」と、深く憑まれ参らせて、朝恩に誇る事、傍らに人なきが如くなりければ、鳳輦に供奉せんとしけるが、「この世の中、とても今は、はかばかしからじ。」と思ひければ、いかにもして将軍を狙ひ奉らんために、わざと都に落ち止まつてぞ居たりける。或る禅僧を縁に執つて、降参仕るべき由を将軍へ申し入れたりければ、「親光が所存、よも誠の降参にてはあらじ。唯、尊氏をたばからんためにてぞあるらん。さりながら、事の様を聞かん。」とて、大友左近将監をぞ遣はされける。
さる程に、大友と太田判官と、楊梅東洞院にて行き合ひたり。大友は、元来少し思慮なき者なりければ、結城に向つて、「御降参の由を申され候ひつるに依つて、某を御使にて、事の由をよくよく尋ねよと仰せらるるにて候。何様、降人の法にて候へば、御物具を脱がせ給ひ候べし。」と、荒らかに詞をぞかけたりける。親光、これを聞きて、「さては将軍、はや我が心中を推量あつて、討手の使に大友を出だされたり。」と心得て、「物具を脱がせよとの御使にて候はば、参らせ候はん。」と云ふままに、三尺八寸の太刀を抜いて、大友に馳せ懸かり、兜の錏より本頚まで、鋒五寸ばかりぞ打ちこみたる。大友も、太刀を抜かんとしけるが、目やくれけん、一尺ばかり抜きかけて、馬よりさかさまに落ちて死にけり。
これを見て、大友が若党三百余騎、結城が手の者十七騎を中に取り篭めて、余さずこれを討たんとす。結城が郎等どもは、元より主と共に討死せんと、思ひ切つたる者どもなれば、中々戦ひては何かせんとて、引つ組んでは刺し違へ刺し違へ、一足も引かず、一所にて十四人まで討たれにけり。
敵も御方もこれを聞いて、「あたら兵を、時の間に失ひつる事のうたてさよ。」と、惜しまぬ人こそなかりけれ。
坂本御皇居 並 御願書の事
主上、已に東坂本に臨幸成つて、大宮の彼岸所に御座あれども、未だ参ずる大衆、一人もなし。「さては、衆徒の心も変じぬるにや。」と叡慮を悩まされける処に、藤本房英憲僧都、参つて、申し出でたる詞もなく、涙を流して大床の上に畏まつてぞ候ひける。主上、御簾の内より叡覧ありて、名字を委しく尋ね仰せらる。さて、その後、「硯やある。」と仰せられければ、英憲、急ぎ硯を召し寄せて、御前に差し置く。自ら宸筆を染められて御願書をあそばされ、「これを、大宮の神殿に篭めよ。」と仰せ下されければ、英憲、畏まつて、右方権禰宜行親を以て、これを納め奉る。
暫くありて、円宗院法印定宗、同宿五百余人召し具して参りたり。君、大きに叡感あつて、大床へ召さる。定宗、御前に跪いて申しけるは、「桓武皇帝の御宇に、高祖大師{*7}、当山を開基して、百王鎮護の伽藍を立てられ候ひしより以来、朝家に悦びある時は、九院、こぞつて掌を合はせ、山門に愁へある日は、百司、等しく心を傾けられずと申す事、候はず。誠に、仏法と王法と相比する故、比叡山と云ふこと、人として知らずと云ふ者、候べからず。されば今、逆臣、朝廷を危ぶめんとするに依つて、忝くも万乗の聖主、吾が山を御憑みありて、臨幸成りて候はんずるを、さみし{*8}申す衆徒は、一人もあるまじきにて候。身、不肖に候へども、定宗一人、忠貞を存ずるほどならば、三千の宗徒、弐心はあらじと思し召し候べし。供奉の官軍、さこそ窮屈に候らめ。先づ御宿を点じて参らせ候べし。」とて、二十一箇所の彼岸所、その外、坂本、戸津、比叡辻、坊々家々に札を打つて、諸軍勢をぞ宿しける。
その後又、南岸坊の僧都、道場坊の祐覚、同宿千余人召し具して、先づ内裏に参じ、やがて十禅師に立ち登つて大衆を起こし、僉議の趣を院々谷々へぞ触れ送りける間、三千の衆徒、悉く甲冑を帯して馳せ参る。先づ官軍の兵粮とて、銭貨六万貫、米穀七千石、橋殿{*9}の前に積んだりければ、祐覚、これを奉行して、諸軍勢に配分す{*10}。さてこそ、「未だ医王山王も、我が君を捨てさせ給はざりけり。」と、敗軍の士卒、悉く憑もしき事には思ひけれ。
校訂者注
1:底本は、「執(と)り持(も)たせられけるが、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い改めた。
2:底本は、「毘首羯摩(びしゆかつま)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
3:底本は、「翠花(すゐくわ)」。底本頭注に、「天子の旗。鳳輦を云ふ。」とある。
4:底本は、「朝義(てうぎ)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
5:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
6:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
7:底本頭注に、「伝教大師。」とある。
8:底本は、「褊(さみ)し」。底本頭注に、「侮り。」とある。
9:底本は、「波止土濃(はしどの)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
10:底本は、「諸軍勢を配分(はいぶん)す。」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
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