巻第十五
園城寺戒壇の事
山門、二心なく君を擁護し奉つて、北国、奥州の勢を相待つ由、聞こえければ、「義貞に勢の附かぬ前に、東坂本を急ぎ攻めらるべし。」とて、細川卿律師定禅、同刑部少輔、並びに陸奥守{*1}を大将として、六万余騎を三井寺へ差し遣はさる。これは、いつも山門に敵する寺なれば、衆徒の所存、よも二心あらじと憑まれける故なり。随つて、衆徒、忠節を致されば、戒壇造営の事、武家、殊に力を加へ、その功をなさるべきの由、御教書を成さる。
そもそも園城寺の三摩耶戒壇の事は、前々、已に公家尊崇の儀を以て勅裁を成され、又、関東贔負の威を添へて取り立てしかども、山門、嗷訴を恣にして猛威を振ふ間、干戈、これより動き、回禄、度々に及べり。その故を如何にと尋ぬるに、かの寺{*2}の開山、高祖智証大師と申し奉るは、最初、叡山伝教大師の御弟子にて、顕密両宗の碩徳、智行兼備の権者にてぞおはしましける。然るに、伝教大師御入滅の後、智証大師の御弟子と、慈覚大師の御弟子と、いささか法論の事あつて、忽ちに確執に及びける間、智証大師の門徒、修禅三百房引いて、三井寺に移る。時に、教待和尚、百六十年行うて祈り出だし給ひし生身の弥勒菩薩を智証大師に附属し給へり。大師、これを受けて、三密瑜伽の道場を構へ、一代説教の法席をのべ給ひけり。
その後、仁寿三年に、智証大師、求法のために御渡唐有りけるに、悪風、俄に吹き来つて、海上の御船、忽ちに覆へらんとせし時、大師、舷に立ち出でて、十方を一礼して誠精を致させ給ひしかば、仏法護持の不動明王、金色の身相を現じて、船の舳に立ち給ふ。又、新羅大明神、目の当たりに船の艫に化現して、自ら楫を取り給ふ。これに依つて、御船、恙なく明州の津に著きにけり。かくて、御在唐七箇年の間、寝食を忘れて顕密の奥義を究め給ひて、天安三年に御帰朝あり。その後、法流いよいよ盛んにして、一朝の綱領、四海の倚頼たりしかば、この寺、四箇の大寺のその一つとして、論場の公請に随ひ、宝祚の護持を致す事、諸寺に卓犖せり{*3}。
「そもそも山門、已に菩薩の大乗戒を建て、南都は又、声聞の小乗戒を立つ。園城寺、何ぞ真言の三摩耶戒を建てざらんや。」とて、後朱雀院の御宇、長暦年中に、三井寺の明尊僧正、頻りに勅許を蒙らんと奏聞しけるを、山門、堅く支へ申しけるは{*4}、「かの寺の本主、太政大臣大友皇子の後胤、大友夜須良磨呂{*5}の氏族、連署して、官符を申す。貞観六年十二月五日の状に曰く、『{*k}望み請ふ、長く延暦寺の別院として、件の円珍を以て主持の人と作し、早く恩恤を垂れ、園城寺を以て、解状の如く延暦寺の別院たるべきの由、寺牒を下さる。将に夜須良磨呂{*6}並びに氏人の愁吟を慰せしめんとす。いよいよ天台の別院として、専ら天長地久の御願を祈り、四海八埏の泰平を致すべし。』と、云々。乃ち、貞観八年五月十四日、官符を成し下されて曰く、『園城寺を以て天台の別院たるべし。{*k}』と、云々。しかのみならず、貞観九年十月三日、智証大師{*7}の記文に曰く、『{*k}円珍の門弟、南都の小乗劣戒{*8}を受くべからず。必ず大乗戒壇院に於いて、菩薩の別解脱戒を受くべし。{*k}』と、云々。
「然れば、本末の号、歴然たり。師弟の義、何ぞ同じからん。」と、証を引き理を立てて支へ申しける間、君、思し召し煩はせ給ひて、「許否、共に凡慮の及ぶ処に非ざれば、唯、冥慮に任すべし。」とて、自ら告文を遊ばされて、叡山の根本中堂に篭められけり。その詞に曰く、「{*k}戒壇立つて国家の危ふきこと無かるべくば、その旨帰を悟したまへ。戒壇立つて王者の懼れ有るべくば、その示現を施したまへ。{*k}」と、云々。この告文を篭められて、七日に当たりける夜、主上、不思議の御夢想ありけり。無動寺の慶命僧正、一紙の消息を参らせて曰く、「{*k}胎内の昔より治天の今に至るまで、忝くも宝祚の長久を祈請し奉ると雖も、三井寺の戒壇院、もし宣下せられば、本懐を失ふべし。{*k}」と、云々。
又、その次の夜の御夢に、かの慶命僧正、参内して、紫宸殿に立たれたりけるが、大きに怒れる気色にて、「昨日、一紙の状を進覧すといへども、叡慮、更に驚き給はず。所詮、三井寺の戒壇勅許あらば、年ごろの御祈りを変じ、忽ちに怨心をなすべし。」と宣ふ。又、その次の夜の御夢に、一人の老翁、弓箭を帯して殿上に候す。主上、「汝は、何者ぞ。」と御尋ねありければ、「円宗擁護の赤山大明神にて候。三井寺の戒壇院、執奏の人に向つて、矢一つ仕らんために参内して候なり。」とぞ申されける。夜々の御夢想に、君も臣も恐れを成されければ、遂に寺門{*9}の所望、黙止され、山門に道理をぞ附けられける。
かくて、遥かにほど経て、白河院の御宇に、江帥匡房の兄に三井寺の頼豪僧都とて、貴き人有りけるを召され、皇子御誕生の御祈りをぞ仰せ付けられける。頼豪、勅を承つて、肝胆を砕いて祈請しけるに、陰徳忽ちに顕はれて、承保元年十二月十六日に、皇子御誕生有つてげり。帝、叡感の余りに、「御祈りの勧賞、宜しく請ふに依るべし。」と宣下せらる。頼豪、年ごろの所望なりければ、他の官禄、一向これを差し置いて、園城寺の三摩耶戒壇造立の勅許をぞ申し賜はりける。山門、又これを聴いて、款状を捧げて禁庭に訴へ、先例を引いて停廃せられんと奏しけれども、「綸言、再びかへらず。」とて、勅許なかりしかば、三塔{*10}、嗷議を以て谷々の講演を打ち止め、社々の門戸を閉ぢて御願を止めける間、朝議、黙止し難くして、力なく三摩耶戒壇造立の勅裁をぞ召し返されける。
頼豪、これを怒つて、百日の間、髪をも剃らず爪をも切らず、炉壇の煙にふすぼり、嗔恚の炎に骨を焦がして、「我、願はくは即身に大魔縁と成つて、玉体を悩まし奉り、山門の仏法を滅ぼさん。」と云ふ悪念をおこして、遂に三七日が中に壇上にして死にけり。その怨霊、果たして邪毒を成しければ、頼豪が祈り出だし奉りし皇子、未だ母后の御膝の上を離れさせ給はで、忽ちに御隠れありけり。叡襟、これに依つて堪へず、山門の嗷訴、園城の効験、得失甚だしき事、隠れなかりければ、且は山門の恥をすすぎ、又は継体の世継ぎを全くせんために、延暦寺の座主良真{*11}大僧正を申し請じて、皇子御誕生の御祈りをぞ致されける。
先づ御修法の間、種々の奇瑞有つて、承暦三年七月九日、皇子御誕生あり。山門の護持、隙なかりければ、頼豪が怨霊も近づき奉らざりけるにや、この宮、遂に玉体恙なうして、天子の位を践ませ給ふ。御在位の後、院号有つて、堀河院と申ししは、則ちこの第二の宮の御事なり。その後、頼豪が亡霊、忽ちに鉄の牙、石の身なる八万四千の鼠と成つて、比叡山に登り、仏像経巻を食ひ破りける間、これを防ぐに術なくして、頼豪を一社の神に崇めて、その怨念を鎮む。鼠の祠、これなり。
かかりし後は、三井寺もいよいよ意趣深くして、ややもすれば、戒壇の事を申し達せんとし、山門も又、以前の嗷議を例として、理不尽にこれを徹却せんと欲す。されば、はじめ承暦年中より、去る文保元年に至るまで、この戒壇ゆゑに園城寺の焼くること、已に七箇度なり。近年は、これに依つてその企てもなかりつれば、中々寺門繁昌して、三宝の住持も全かりつるに、いま将軍、妄りに衆徒の心を取らんために、山門の怒りをもかへりみず、楚忽に御教書を成されければ、「かへつて天魔の所行、法滅の因縁かな。」と、聞く人ごとに唇をひるがへしけり。
奥州勢坂本に著く事
去年十一月に、義貞朝臣、討手の大将を承つて、関東へ下向せらるる時、奥州の国司北畠中納言顕家{*12}卿の方へ、合図の時をたがへず攻め合はすべきよし、綸旨を下されたりけるが、大軍を起こす事たやすからざる間、とかく延引す。あまつさへ、路すがらの軍に日数を送りける間、心ばかりは急がれけれども、ここかしこの逗留に依つて、箱根の合戦にははづれ給ひにけり。されども、幾程もなく鎌倉に打ち入り給ひたれば、「将軍は早、箱根竹下の戦に打ち勝つて、やがて上洛し給ひぬ。」と申しければ、さらば、後より追つてこそ上らめとて、夜を日に継いでぞ上洛せられける。
さる程に、越後、上野、常陸、下野に残りたる新田の一族、並びに千葉、宇都宮が手勢ども、これを聞き伝へて、ここかしこより馳せ加りける間、その勢、程なく五万余騎になりにけり。鎌倉より西には、手ざす者{*13}もなかりければ、夜昼馬を早めて、正月十二日、近江の愛智河の宿に著かれけり。その日、大館中務大輔{*14}、佐々木判官氏頼、その頃未だ幼稚にて楯篭りたる観音寺の城郭を攻め落として、敵を討つこと、すべて五百余人。翌日、早馬を先立てて、事の由を坂本へ申されたりければ、主上を始め参らせて、敗軍の士卒、悉く悦びをなし、志を蘇せしめずと云ふものなし。則ち、道場坊の助註記祐覚に仰せ付けられ、湖上の船七百余艘を点じて、志那浜より一日が中にぞ渡されける。ここに、宇都宮、紀清両党、主の催促に依つて、五百余騎にて打ち連れたりけるが、宇都宮は将軍方に在りと聞こえければ、面々に暇を請ひ、色代{*15}して志那浜より引き分かれ、芋洗を廻つて京都へこそ上りけれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「〇同刑部少輔 頼春。」「〇陸奥守 顕氏。」とある。
2・9:底本頭注に、「三井寺。」とある。
3:底本は、「公請(くしやう)に随ひ、宝祚(ほうそ)の護持を致す事諸寺に卓犖(たくらく)せり。」。底本頭注に、「〇公請 朝廷から招かれること。」「〇卓犖 超越。」とある。
4:底本は、「支へ申しければ、」。底本頭注に、「〇支へ 故障し。」とある。
5・6:底本は、「大友(の)夜須磨呂(やすまろ)」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
7:底本は、「智証(ちしよう)の記文(きもん)」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
8:底本頭注に、「奈良の東大寺興福寺の執る所の戒は小乗戒であるから大乗戒に対して劣戒といふ。」とある。
10:底本頭注に、「比叡山の三塔(東塔、西塔、横川)。」とある。
11:底本は、「良信(りやうしん)」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
12:底本頭注に、「親房の子。」とある。
13:底本頭注に、「敵対するもの。」とある。
14:底本頭注に、「名は幸氏。」とある。
15:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
k:底本、この間は漢文。
k:底本、この間は漢文。
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