三井寺合戦 並 当寺{*1}撞鐘の事 附 俵藤太が事

 東国の勢、既に坂本に著きければ、顕家卿、義貞朝臣、その外宗徒の人々、聖女{*2}の彼岸所に会合して、合戦の評定あり。「いかさま{*3}、一両日は馬の足を休めてこそ、京都へは寄せ候はめ。」と、顕家卿、宣ひけるを、大館左馬助{*4}、申されけるは、「長途に疲れたる馬を、一日も休め候はば、中々血下つて、四、五日は物の用に立つべからず。その上、この勢、坂本へ著きたりと、敵、たとひ聞きおよぶとも、やがて寄すべしとは、よもおもひより候はじ。軍は、不意に起こせば、必ず敵を拉ぐならひなり。ただ今夜の中に志賀、唐崎の辺までうち寄せて、未明に三井寺へ押し寄せ、四方より鬨を作つて攻め入るほどならば、御方、治定の勝ち軍とこそ存じ候へ。」と申されければ、義貞朝臣も楠判官正成も、「この議、誠に然るべく候。」と同ぜられて、やがて諸大将へぞ触れられける。
 今上りの千葉勢、これを聞いて、まだ宵より千余騎にて志賀の里に陣を取る。大館左馬助、額田、羽川、六千余騎にて夜半に坂本を立つて、唐崎の浜に陣を取る。戸津、比叡辻、和爾、堅田の者どもは、小舟七百余艘に取り乗つて、沖に浮かめて明くるを待つ。山門の大衆は二万余人、大略かち立ちなりければ、如意越を搦手に廻り、鬨の声を揚げば{*5}、同時に落とし合はせんと、鳴りを静めて待ち明かす。
 さる程に、坂本に大勢の著きたるありさま、舟の往反に見えておびただしかりければ、三井寺の大将細川卿律師定禅、高大和守が方より京都へ使を馳せて、「東国の勢、坂本に著きて、明日寄すべき由、その聞こえ候。急ぎ御勢を添へられ候へ。」と、三度まで申されたりけれども、「関東より何勢かその程まで多くは上るべきぞ。勢は大略、宇都宮、紀清の両党の者とこそ聞こゆれ。その勢、たとひ誤つて坂本へ著きたりとも、宇都宮、京に在りと聞こえなば、やがて主のもとへこそ馳せ来らんずらん。」とて、将軍、事ともし給はざりければ、三井寺へは、勢の一騎をも添へられず。
 夜、既に明け方になりしかば、源中納言顕家卿二万余騎、新田左兵衛督義貞三万余騎、脇屋、堀口、額田、鳥山の勢一万五千余騎、志賀、唐崎の浜路に駒を進めて押し寄せて、後陣遅しとぞ待ちにける。前陣の勢、先づ大津の西の浦、松本の宿に火をかけて、鬨の声を揚ぐ。三井寺の勢ども、かねてより用意したる事なれば、南院の坂口に下り合つて、散々に射る。
 一番に千葉介、千余騎にておし寄せ、一二の木戸を打ち破り、城の中へ切つて入り、三方に敵を受けて、半時ばかり闘ひたり。細川卿律師定禅が横合にかかりける四国の勢六千余騎に取り篭められて、千葉新介、矢庭に討たれにければ、その手の兵五百余騎、当の敵を討たんと、駆け入り駆け入り戦うて、百五十騎討たれにければ、後陣に譲りて引き退く。
 二番に顕家卿、二万余騎にて入れ替へ乱れ合つて攻め戦ふ。その勢、一軍して馬の足を休むれば、三番に結城上野入道、伊達、信夫の者ども五千余騎、入れ替はつて面も振らず攻め戦ふ。その勢、三百余騎討たれて引き退きければ、敵、勝つに乗つて、六万余騎を二手に分けて、浜面へぞ打つて出でたりける。新田左衛門督{*6}、これを見て、三万余騎を一手に合はせて、利兵、堅きを破つて進まれたり。細川、大勢といへども、北は大津の在家まで焼くる最中なれば、通り得ず。東は湖海なれば、水深くして、廻らんとするに便りなし。僅かに半町にもたらぬ細道を、唯一巡に進まんとすれば、和爾、堅田の者どもが渚に舟を漕ぎ並べて射ける横矢に防がれて、懸け引き自在にもなかりけり。
 官軍、これに力を得て、透間もなくかかりける間、細川が{*7}六万余騎の勢、五百余騎討たれて、三井寺へぞ引き返しける。額田、堀口、江田、大館、七百余騎にて、逃ぐる敵に追ひすがうて、城の中へ入らんとしける処を、三井寺の衆徒五百余人、木戸の口に下り塞がつて、命を捨てて闘ひける間、寄せ手の勢百余人、堀の際にて討たれければ、後陣を待つて進み得ず。その間に城中より木戸を下して、堀の橋を引きたりけり。義助、これを見て、「云ふ甲斐なき者どもの作法かな。僅かの木戸一つに支へられて、これ程の小城を攻め落とさずと云ふ事やある。栗生、篠塚はなきか。あの木戸取つて引き破れ。畑、亘理はなきか。切つて入れ。」とぞ下知せられける。
 栗生、篠塚、これを聞きて、馬より飛んで下り、木戸を引き破らんと走り寄つて見れば、塀の前に深さ二丈余りの堀をほりて、両方の岸、屏風を立てたるが如くなるに、橋の板をば皆刎ねはづして、橋桁ばかりぞ立ちたりける。二人の者ども、如何にして渡るべきと、左右をきつと見る処に、傍なる塚の上に、面三尺ばかりあつて、長さ五、六丈もあるらんとおぼえたりける大卒堵婆二本あり。「ここにこそ究竟の橋板はありけれ。卒堵婆を立つるも、橋を渡すも、功徳は同じ事なるべし。いざや、これを取つて渡さん。」と云ふままに、二人の者ども走り寄つて、小脇に挟んで、「えいやつ。」と抜く。土の底五、六尺掘り入れたる大木なれば、辺りの土一、二尺が程、くわつと崩れて、卒堵婆は念なう抜けにけり。彼等二人、二本の卒堵婆を軽々と打ちかたげ、堀のはたに突き立てて、先づ自讃をこそしたりけれ。
 「異国には烏獲、樊噲。吾が朝には和泉小次郎、朝夷奈三郎。これ皆、世に双びなき大力と聞こゆれども、我等が力に幾程か勝るべき。云ふ所、傍若無人なりと思はん人は、寄せ合はせて{*8}力根の程を御覧ぜよ。」と云ふままに、二本の卒堵婆を同じやうに、向ひの岸へぞ倒しかけたりける。卒堵婆の面、平らかにして、二本相並べたれば、さながら四條、五條の橋の如し。ここに、畑六郎左衛門、亘理新左衛門{*9}二人、橋の詰めにありけるが、「御辺達は、橋渡判官{*10}になり給へ。我等は合戦をせん。」と戯れて、二人共に橋の上をさらさらと走り渡り、堀の上なる逆茂木ども取つて引き除け、各、木戸の脇にぞ著いたりける。
 これを防ぎける兵ども、三方の土矢間より槍長刀を差し出して、散々に突きけるを、亘理新左衛門、十六まで奪うてぞ捨てたりける。畑六郎左衛門、これを見て、「のけや、亘理殿。その塀引き破つて、心安く人々に合戦せさせん。」と云ふままに、走り懸かり、右の足を揚げて、木戸の閂の辺を、二踏み三踏みぞ踏みたりける。余りに強く踏まれて、二筋渡せる七、八寸の閂、中より折れて、木戸の扉も塀柱も、同じくどうと倒れければ、防がんとする兵五百余人、四方に散つて、颯とひく。一の木戸、已に破れければ、新田の三万余騎の勢、城の中へ駆け入つて、先づ合図の火をぞ揚げたりける。
 これを見て、山門の大衆二万余人、如意越より落ち合ひて、則ち院々谷々へ乱れ入り、堂舎仏閣に火をかけて、喚き叫んでぞ攻めたりける。猛火、東西より吹き懸けて、敵、南北に充ち満ちたれば、今は叶はじとや思ひけん、三井寺の衆徒ども、或いは金堂に走り入つて、猛火の中に腹を切つて伏し、或いは聖教を抱きて幽谷に倒れ転ぶ。多年止住の案内者だにも、時に取つては行き方を失ふ。況んや四国西国の兵ども、方角も知らぬ煙の中に、目をも見上げず迷ひければ、唯ここかしこの木の下岩の蔭に疲れて、自害をするより外の事はなかりけり。されば、半日ばかりの合戦に、大津、松本、三井寺の内に討たれたる敵を数ふるに、七千三百余人なり。
 そもそも金堂の本尊は、生身の弥勒にて渡らせ給へば、かくては如何とて、或る衆徒、御首ばかりを取つて、薮の中に隠し置きたりけるが、多く討たれたる兵の首どもの中に交じはりて、切り目に血の附きたりけるを見て、山法師や仕たりけん、大札を立てて、一首の歌に事書きを副へたりける。「建武二年の春の頃、何とやらん、事の騒がしき様に聞こえ侍りしかば、早、三会の暁になりぬるやらん。いで、さらば、八相成道して説法利生せんと思ひて、金堂の方へ立ち出でたれば、業火盛んに燃えて、修羅の闘諍、四方に聞こゆ。こは何事かと、思ひ分く方もなくて居たるに、仏地坊の某とやらん、堂の内へ走り入り、所以もなく、鋸を以て我が首を切りし間、『阿逸多{*11}。』といへども叶はず、堪へかねたりし悲しみの中に、思ひつづけ侍りし。
  山を我が敵とはいかで思ひけむ寺法師にぞ首をきらるる」
 前々炎上の時は、寺門の衆徒、これを一大事にして隠しける九乳の鳧鐘{*12}も、取る人なければ、空しく焼けて地に落ちたり。この鐘と申すは、昔、竜宮城より伝はりたる鐘なり。その故は、承平の頃、俵藤太秀郷と云ふ者ありけり。或る時、この秀郷、唯一人勢多の橋を渡りけるに、たけ二十丈ばかりなる大蛇、橋の上に横たはりて臥したり。両の眼は輝いて、天に二つの日を懸けたるが如く、並べる角、鋭にして、冬枯れの森の梢に異ならず。鉄の牙、上下に生ひ違うて、紅の舌、炎を吐くかと怪しまる。もし尋常の人、これを見ば、目もくれ魂消えて、則ち地にも倒れつべし。されども秀郷、天下第一の大剛の者なりければ、更に一念も動ぜずして、かの大蛇の背の上を荒らかに踏んで、閑かに上をぞ越えたりける。
 然れども、大蛇も敢へて驚かず。秀郷も、後ろを顧みずして、遥かに行き隔たりける処に、賤しげなる小男一人、忽然として秀郷が前に来つて云ひけるは、「我、この橋の下に住む事、已に二千余年なり。貴賤往来の人を量り見るに、今、御辺ほどに剛なる人、未だ見ず。我に年ごろ地を争ふ敵あつて、ややもすれば彼がために悩まさる。然るべくは、御辺、我が敵を討ちてたび候へ。」と、懇ろにこそ語らひけれ。秀郷、一義も謂はず、「仔細あるまじ。」と領状して、則ちこの男を先に立てて、又、勢多の方へぞ帰りける。
 二人共に湖水の波を分けて、水中に入る事、五十余町有つて、一つの楼門あり。開いて内へ入るに、瑠璃の沙厚く、玉の甃暖かにして、落花自ら繽紛たり。朱楼紫殿、玉の欄干、金を鐺にし、銀を柱とせり。その壮観奇麗、未だかつて目にも見ず、耳にも聞かざりし所なり。この賤しげなりつる男、先づ内へ入つて、須臾の間に衣冠を正しくして、秀郷を客位に請ず。左右侍衛の官、前後花の粧ひ、善尽くし、美尽くせり。酒宴、数刻に及んで、夜既に更けければ、「敵の寄すべき程になりぬ。」と、あわて騒ぐ。秀郷は、一生涯が間、身を放たで持ちたりける五人張にせき弦懸けて、食ひ湿し、三年竹の節近なるを十五束三伏に拵へて、鏃の中子を筈元まで打ちとほしにしたる矢、唯三筋を手挟みて、今や今やとぞ待ちたりける。
 夜半過ぐる程に、雨風一通り過ぎて、電火の激する事、隙なし。暫く有つて、比良の高峯の方より、松明二、三千が程、二行に燃えて、中に島の如くなる物、この竜宮城を指してぞ近づきける。事の体をよくよく見るに、二行にとぼせる松明は、皆己が左右の手にともしたりと見えたり。「あはれ、これは、蜈蚣の化けたるよ。」と心得て、矢頃近く成りければ、くだんの五人張に十五束三伏、忘るるばかり引きしぼりて、眉間の真中をぞ射たりける。その手答へ、鉄を射る様に聞こえて、筈を返してぞ立たざりける。秀郷、一の矢を射損じて、安からず思ひければ、二の矢を番ひて、一分も違へず、わざと前の矢壺をぞ射たりける。この矢も又、前の如くに躍り返りて、これも身に立たざりけり。
 秀郷、「二つの矢をば、皆射損じつ。憑む所は、矢一筋なり。如何せん。」と思ひけるが、屹と案じ出だしたる事有つて、この度射んとしける矢さきに、唾を吐き懸けて、又同じ矢壺をぞ射たりける。この矢に毒を塗りたる故にや依りけん、又、同じ矢壺を三度まで射たる故にや依りけん、この矢、眉間のただ中を徹りて、喉の下まで羽ぶくろ{*13}責めてぞ立ちたりける。二、三千見えつる松明も、光、忽ちに消えて、島の如くにありつる物、倒るる音、大地を響かせり。立ち寄りてこれを見るに、果たして百足の蜈蚣なり。竜神は、これを悦びて、秀郷を様々にもてなしけるに、太刀一振、巻絹一つ、鎧一領、頚結ひたる俵一つ、赤銅の撞き鐘一つを与へて、「御辺の門葉に、必ず将軍になる人多かるべし。」とぞ示しける。
 秀郷、都に帰つて後、この絹を切つてつかふに、更に尽くる事なし。俵は、中なる入れ物を、取れども取れども尽きざりける間、財宝、倉に満ちて、衣裳、身に余れり。故に、その名を俵藤太とは云ひけるなり。これは、産業の宝なればとて、これを倉廩{*14}に収む。鐘は、梵砌{*15}のものなればとて、三井寺へこれを奉る。
 文保三年{*16}、三井寺炎上の時、この鐘を山門へ取り寄せて、朝夕これを撞きけるに、敢へて少しも鳴らざりける間、山法師ども、「憎し。その儀ならば、鳴るやうに撞け。」とて、撞木を大きに拵へて、二、三十人立ちかかりて、破れよとぞ撞きたりける。その時、この鐘、海鯨の吼ゆる声を出だして、「三井寺へゆかう。」とぞ鳴いたりける。山徒、いよいよこれを憎みて、無動寺の上よりして、数千丈高き岩{*17}の上をころばかしたりける間、この鐘、微塵に砕けにけり。「今は、何の用にか立つべき。」とて、そのわれを取り集めて、本寺へぞ送りける。或る時、一尺ばかりなる小蛇来つて、この鐘を尾を以て敲きたりけるが、一夜の内に又、元の鐘に成つて、疵つける所一つもなかりけり。されば、今に至るまで、三井寺に有つて、この鐘の声を聞く人、無明長夜の夢を驚かして、慈尊出世の暁を待つ。末代の不思議、奇特の事どもなり。

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校訂者注
 1:底本は、「当時」。底本目次に従い改めた。
 2:底本は、「聖女(しやうによ)」。底本頭注に、「坂本にある稲荷社の称。」とある。
 3:底本は、「何様(なにさま)」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 4:底本頭注に、「氏明。」とある。
 5:底本は、「揚(あ)ぐれば」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 6:底本は、「出でたりける。これを見て、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 7:底本は、「細川(ほそかは)六万余騎」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
 8:底本は、「寄り合つて」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
 9:底本は、「亘理(わたり)新左衛門の二人」。『太平記 二』(1980年)に従い削除した。底本頭注に、「〇畑六郎左衛門 名は時能。」「〇亘理新左衛門 名は政董。」とある。
 10:底本は、「橋渡(はしわたしの)判官」。底本頭注に、「行幸の時検非違使の判官が浮橋を作つて渡した故に此の称あり。」とある。
 11:底本は、「阿逸多(あいつた)」。底本頭注に、「祖庭事苑に『此云無能勝、弥勒姓。』と見ゆ。これに嗚呼痛いの意を兼ねる。」とある。
 12:底本は、「九乳(きうにう)の鳧鐘(ふしよう)」。底本頭注に、「鳧氏が鐘を作つてから鐘を鳧鐘と云ひ九乳は鐘に附けた九個の疣。」とある。
 13:底本頭注に、「矢羽。」とある。
 14:底本は、「倉廩(さうりん)」。底本頭注に、「米倉。」とある。
 15:底本は、「梵砌(ぼんぜい)」。底本頭注に、「寺院。」とある。
 16:底本は、「文保二年」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
 17:底本は、「岸」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。