建武三年{*1}正月十六日合戦の事
三井寺の敵、事ゆゑなく攻め落とされたりければ、長途に疲れたる人馬、一両日機を助けてこそ又合戦をも致さめとて、顕家卿、坂本へ引き返されければ、その勢二万余騎は、かの趣に相従ふ。
新田左兵衛督{*2}も、同じく坂本へ帰らんとし給ひけるを、船田長門守経政、馬を控へて申しけるは、「軍の利、勝つに乗る時、逃ぐるを追ふより外の手立てはあらじと存じ候。この合戦に討ち漏らされて、馬を棄て物具を脱いで、命ばかりを助からんと落ち行き候敵を追つ懸けて、京中へ押し寄する程ならば、臆病神の附きたる大勢に引つ立てられ、自余の敵も、定めて機を失はんか。さるほどならば、官軍、敵の中へ紛れ入りて、勢の分際を敵に見せずして、ここに火をかけ、かしこに鬨をつくり、縦横無碍に駆け立つるものならば、などか足利殿御兄弟{*3}の間に近づき奉つて、勝負を仕らでは候べき。落ち候ひつる敵、よも幾程も隔たり候はじ。如何様、一追ひ追つ懸けて見候はばや。」と申しければ、義貞、「我も、この議を思ひつる処に、いしくも{*4}申したり。さらば、やがて追つ懸けよ。」とて、又、旗の手を下して馬を進め給へば、新田の一族五千余人、その勢三万余騎、走る馬に鞭を進めて、落ち行く敵をぞ追つ懸けたる。
敵、今は遥かに隔たりぬらんとおぼゆる程なれば、逃ぐるは大勢にて遅く、追ふは小勢にて早かりければ、山階辺にて漸う敵にぞ追ひ附きける。由良、長浜、吉江、高橋、真先に進んで追ひけるが、大敵をば欺く{*5}べからずとて、広みにて敵の返し合ひつべき所までは、さまで追はず、遠矢射懸け射懸け、鬨を作るばかりにて、静々とこれを追ひ、道迫りて、しかも敵の行く先難所なる山路にては、かさより落としかけて、透間もなく射落とし切り伏せける間、敵、一度も返し得ず、ただ我先にとぞ落ち行きける。されば、手を負ひたる者は、そのまま馬人に踏み殺され、馬離れたる者は、引きかねて力なく腹を切りけり。その死骸、谷をうめ、溝を埋づみければ、追手のためには道平らかに成つて、いよいよ輪宝の山谷を平らぐるに異ならず。
将軍{*6}、三井寺に軍始まりたりと聞こえて後、黒煙、天に覆うて見えければ、「御方、如何様、負け軍したりとおぼゆるぞ。急ぎ勢を遣はせ。」とて、三條河原に打ち出で、先づ勢ぞろへをぞし給ひける。かかる処に、粟田口より馬煙を立てて、その勢、四、五万騎が程、引いて出で来たり。誰やらんと見給へば、三井寺へ向ひし四国西国の勢どもなり。誠にみな、軍、手痛くしたりと見えて、薄手少々負はぬ者もなく、鎧の袖、兜の吹き返しに、矢三筋四筋折りかけぬ人もなかりけり。
さる程に、新田左兵衛督、二万三千余騎を三手に分けて、一手をば将軍塚の上へ挙げ、一手をば真如堂の前より出だし、一手をば法勝寺を後ろに当てて、二條河原へ出だして、則ち相図の煙をぞ挙げられける。自らは花頂山に打ち上つて、敵の陣を見渡したまへば、上は河合森より下は七條河原まで、馬の三頭に手綱を打ち懸け{*7}、鎧の袖に袖をかさねて、東西南北四十余町が間、錐を立つるばかりの地も見えず、身をそばだてて打ち囲みたり。
義貞朝臣、弓杖にすがり下知せられけるは、「敵の勢に御方を合はすれば、大海の一滴、九牛が一毛なり。唯尋常の如くに軍をせば、勝つことを得難し。相互に面を知り知られたらんずる侍ども、五十騎づつ手を分けて、笠印を取り捨て、旗を巻いて敵の中に紛れ入り、ここかしこに控へ控へ、暫く相待つべし。将軍塚へ上せつる勢、既に軍を始むと見ば、この陣より兵を進めて闘はしむべし。その時に至つて御辺達、敵の前後左右に旗をさし挙げて、馬の足を静めず、前に在るかとせば後へぬけ、左に在るかとせば右へ廻つて、七縦八横に乱れて敵に見するほどならば、敵の大勢は、かへつて御方の勢に見えて、同士討をするか、引いて退くか、尊氏、この二つの中を出づべからず。」と、韓信が謀りごとを出だされしかば、諸大将の中より逞兵五十騎づつすぐり出だして、二千余騎、各一様に中黒の旗{*8}を巻いて紋を隠し、笠印を取つて袖の下に収め、三井寺より引き後れたる勢の真似をして、京勢の中へぞ馳せ加はりける。
敵、かかる謀りごとありとは、将軍、思ひ寄り給はず、宗徒の侍どもに向うて下知せられけるは、「新田は、いつも平場の駆けをこそ好むと聞きしに、山を後ろに当てて、やがても駆け出でぬは、如何様、小勢の程を敵に見せじと思へるものなり。将軍塚の上に取り上がりたる敵を置いては、いつまでか守り上ぐべき。師泰、かしこに馳せ向つて追ひ散らせ。」と宣ひければ、越後守、畏まつて、「承り候。」と申して、武蔵、相模の勢二万余騎を率して、双林寺と中霊山とより、二手に成つてぞ上がりたりける。ここには、脇屋右衛門佐、堀口美濃守、大館左馬助、結城上野入道以下、三千余騎にて向ひたりけるが、その中より逸物の射手六百余人をすぐつて、馬よりおろし、小松の陰を木楯に取つて、指し詰め引き詰め散々にぞ射させたりける。
嶮しき山を上がりかねたりける武蔵、相模の勢ども、物具を徹されて矢庭に伏し、馬を射られてはね落とされけるあひだ、少し猶予して見えける処を、「得たり賢し。」と、三千余騎の兵ども、抜き連れて、大山の崩るるが如く、真さかさまに落とし懸けたりける間、師泰が兵二万余騎、一足をもためず、五條河原へ颯と引き退く。ここにて、杉本判官、曽我二郎左衛門も討たれにけり。官軍、わざと長追ひをばせで、なほ東山を後ろに当てて、勢の程をぞ見せざりける。
搦手より軍始まりければ、大手、声を受けて鬨を作る。官軍の二万余騎と将軍の八十万騎と、入れ替へ入れ替へ天地を響かしてぞ戦ひたる。漢楚八箇年の戦ひを一時に集め、呉越三十度の軍を百倍になすとも、猶これには過ぐべからず。寄せ手は小勢なれども、皆心を一つにして、懸くる時は一度に颯と懸かつて敵を追ひまくり、引く時は手負を中に立てて静かに引く。京勢は大勢なりけれども、人の心そろはずして、懸くる時もそろはず、引く時も助けず、思ひ思ひ、心々に闘ひける間、午の刻より酉の終はりまで六十余度の懸け合ひに、寄せ手の官軍、度毎に勝つに乗らずと云ふ事なし。
されども将軍方、大勢なれば、討たるれども勢もすかず、逃ぐれども遠引きせず、唯一所にのみこらへ居たりける処に、最初に紛れて敵に交じはりたる一揆の勢ども、将軍の前後左右に中黒の旗を差し揚げて、乱れ合ひてぞ戦ひける。いづれを敵、いづれを御方とも弁へ難ければ、東西南北喚き叫んで、唯同士討をするより外の事ぞなかりける。将軍を始め奉りて、吉良、石堂、高、上杉の人々、これを見て、「御方の者どもが敵と成り合ひて、後矢を射るよ。」と思はれければ、心を置き合ひて、高、上杉の人々は、山崎を指して引き退き、将軍、吉良、石堂、仁木、細川の人々は、丹波路へ向つて落ち給ふ。
官軍、いよいよ勝つに乗つて、短兵急にとり拉ぐ。将軍、今は遁るる所なしと思し召しけるにや、梅津、桂河辺にては、鎧の草摺畳み上げて、腰の刀を抜かんとし給ふこと、三箇度に及びけり。されども将軍の御運や強かりけん、日、既に暮れけるを見て、追手、桂河より引き返しければ、将軍も暫く松尾、葉室の間にひかへて、梅酸の渇{*9}をぞ休められける。
ここに細川卿律師定禅、四国の勢どもに向つて宣ひけるは、「軍の勝負は、時の運に依る事なれば、あながちに恥ならねども、今日の負けは、三井寺の合戦より事始まりつる間、我等が瑕瑾、人の嘲りを遁れず。されば、わざと他の勢を交じへずして、花やかなる軍、一軍して、天下の人口を塞がばやと思ふなり。推量するに、新田が勢は、終日の合戦にくたびれて、敵に当たり変に応ずる事、自在なるまじ。その外の敵どもは、京白河の財宝に目をかけて、一所に在るべからず。その上、赤松筑前守、僅かの勢にて下松に控へてありつるを、無体に討たせたらんも口惜しかるべし。いざや、殿原。蓮台野より北白河へ打ち廻つて、赤松が勢となりあひ、新田が勢を一あてあてて見ん。」と宣へば、藤、橘、伴の者ども、「仔細候まじ。」とぞ同じける。
定禅、ななめならず喜んで、わざと将軍にも知らせ奉らず、伊予、讃岐の勢の中より三百余騎をすぐつて、北野の後ろより上賀茂を経て、ひそかに北白河へぞ廻りける。糺の前にて三百余騎の勢、十方に分けて、下松、薮里、静原、松崎、中賀茂、三十余箇所に火をかけて、ここをば打ち捨てて、一條二條の間にて、三所に鬨をぞ揚げたりける。実にも、定禅律師推量の如く、敵、京白河に分散して、一所へ寄する勢すくなかりければ、義貞、義助、一戦に利を失うて、坂本を指して引き返しけり。所々に打ち散りたる兵ども、俄にあわてて引きけるあひだ、北白河、粟田口の辺にて、船田入道、大館左近蔵人、由良三郎左衛門尉、高田七郎左衛門以下、宗徒の官軍、数百騎討たれけり。卿律師、やがて早馬を立てて、この由を将軍へ申されたりければ、山陽山陰両道へ落ち行きける兵ども、皆又京へぞ立ち帰る。
義貞朝臣は、僅かに二万騎の勢を以て将軍の八十万騎をかけ散らし、定禅律師は又、三百余騎の勢を以て官軍の二万余騎を追ひ落とす。彼は項王が勇みを心とし、これは張良が謀りごとを宗として、智謀勇力、いづれもとりどりなりし人傑なり。
校訂者注
1:底本は、「建武二年」。『太平記 二』(1980年)頭注に従い改めた。
2:底本頭注に、「義貞。」とある。
3:底本頭注に、「尊氏と直義。」とある。
4:底本頭注に、「よくも。」とある。
5:底本頭注に、「侮る。」とある。
6:底本頭注に、「尊氏。」とある。
7:底本は、「馬の三頭(づ)に手縄を打懸け、」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に「手縄(タヅナ)」とある。底本頭注に、「〇三頭 馬の尾元の上で左右の後足のつけ際の辺。」とある。
8:底本は、「中黒(なかぐろ)の旗」。底本頭注に、「中黒の紋所を染め出した旗。中黒は一つ引両とも云ひ丸の中に太き黒線を横に書きたるもの、新田氏の旗印。」とある。
9:底本は、「梅酸(ばいさん)の渇(かつ)」。底本頭注に、「魏の武帝の故事で前途に梅林が有つて実を結んで甘酸だと聞いて士卒が渇を癒した故事。こゝは暫く休息して渇を休めること。」とある。
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