正月二十七日合戦の事
かかる処に、去年十二月に、一宮{*1}、関東へ御下りありし時、搦手にて東山道より鎌倉へ御下りありし大智院宮、弾正尹宮、竹下箱根の合戦には、相図相違して逢はせ給はざりしかども、甲斐、信濃、上野、下野の勢ども馳せ参りしかば、御勢、雲霞の如くに成つて、鎌倉へ入らせ給ふ。ここにて事の様を問へば、「新田、竹下箱根の合戦に打ち負けて、引き返す。尊氏朝臣、逃ぐるを追ひて上洛せられぬ。その後、奥州国司顕家卿、又尊氏朝臣の後を追ひて、攻め上られ候ひぬ。」とぞ申しける。「さらば、如何様、道にても新田踏み留まらば、合戦ありぬべし。鎌倉に逗留すべき様なし。」とて、公家には洞院左衛門督実世、持明院右衛門督入道、信濃国司堀河中納言{*2}、園中将基隆、二條少将為次、武士には、島津上野入道、同筑後前司{*3}、大伴、猿子の一党、落合の一族、饗庭、石谷、纐纈、伊木、津志、中村、村上、信濃源氏、仁科、高梨、志賀、真壁、これ等を宗徒の者として、都合その勢二万余騎、正月二十日の晩景に、東坂本にぞ著きにける。
官軍、いよいよ勢ひを得て、翌日にも、「やがて京都へ寄せん。」と議しけるが、打ち続き悪日なりける上、余りに強く乗つたる馬どもなれば、皆すくんで更にはたらき得ざりける間、とにかくに延引して、今度の合戦は二十七日にぞ定められける。
既にその日に成りぬれば、人馬を休めんために、宵より楠、結城、伯耆、三千余騎にて西坂を下りさがつて、下松に陣を取る。顕家卿は、三万余騎にて大津を経て山科に陣を取る。洞院左衛門督、二万余騎にて赤山に陣を取る。山徒は、一万余騎にて竜花越を廻つて鹿谷に陣を取る。新田左兵衛督兄弟{*4}は、二万余騎の勢を率し、今道より向つて北白河に陣を取る。大手搦手都合十万三千余騎{*5}、皆宵より陣を取り寄せたれども、敵に知らせじと、わざと篝火をば焼かざりけり。
「合戦は、明日辰の刻。」と定められけるを、機早なる若大衆ども、武士に先をせられじとや思ひけん、まだ卯の刻の始めに神楽岡へぞ寄せたりける。この岡には、宇都宮、紀清両党、城郭を構へてぞ居たりける。されば、左右無く寄り著きて、人の攻むべき様もなかりけるを、助註記祐覚が同宿ども三百余人、一番に木戸口に著きて、塀を隔てて闘ひけるが、高櫓より大石あまた投げ懸けられて引き退く処に、南岸円宗院が同宿ども五百余人、入り替はつてぞ攻めたりける。これも、城中に名誉の精兵ども多かりければ、走り廻つて射けるに、多く物具を徹されて、叶はじとや思ひけん、皆持楯の蔭に隠れて、「新手、替はれ。」とぞ招きける。
ここに、妙観院の因幡豎者全村とて、三塔名誉の悪僧あり。鎖の上に大荒目の鎧を重ねて、備前長刀のしのぎさがりに菖蒲形なるを脇に挟み、箆の太さは尋常の人の蟇目がらにするほどなる三年竹を、もぎつけに押し削りて、長船打ちの鏃の五分鑿ほどなるを、筈元まで中子をうち徹しにしてねぢすげ、沓巻のうへを琴の糸をもつてねた巻に巻いて、三十六差したるを森の如くに負ひなし、わざと弓をば持たず。これは、手突き{*6}にせんがためなりけり。
切り岸の面に二王立ちに立つて名乗りけるは、「先年、三井寺の合戦の張本に召されて、越後国へ流されたりし妙観院の高因幡全村と云ふは、我が事なり。城中の人々、この矢一つ参らせ候はん。遊ばされて御覧候へ。」と云ふままに、上差一筋抜き出でて、櫓の矢間を手突きにぞ突きたりける。この矢、誤たず、矢間の蔭に立ちたりける鎧武者の、せんだんの板より後ろの角総著けの金物まで、裏表二重を徹りて、矢先二寸ばかり出でたりける間、その兵、櫓より落ちて、二言もいはず死にけり。これを見ける敵ども、「あな、おびただし。凡夫の技にあらず。」と、懼ぢて色めきける処へ、禅智房、護聖院{*7}の若者ども千余人、抜き連れて攻め入りける間、宇都宮、神楽岡を落ちて二條の手に馳せ加はる。これよりしてぞ、全村を、手突きの因幡とは名附けける。
山法師、鹿谷より寄せて、神楽岡の城を攻むる由、両党の中より申しければ、将軍、「やがて後詰めをせよ。」とて、今川、細川の一族に三万余騎を差し副へて遣はされけるが、城ははや攻め落とされ、敵、入り替はりければ、後詰めの勢もいたづらに京中へぞ帰りける。
さる程に、楠判官、結城入道、伯耆守、三千余騎にて糺の前より押し寄せて、出雲路の辺に火を懸けたり。将軍、これを見たまひて、「これは、如何様、神楽岡の勢どもとおぼゆるぞ。山法師ならば、馬上の懸け合ひは心にくからず。急ぎ向つて駆け散らせ。」とて、上杉伊豆守、畠山修理大夫、足利尾張守に五万余騎を差し副へてぞ向かはせられける。楠は、元より勇気無双の上、智謀第一なりければ、一枚楯の軽々としたるを五、六百帖はがせて、板の端に懸金と壺{*8}とを打つて、敵の駆けんとする時は、この楯の懸金を懸け、城の掻楯の如く一、二町が程につきならべて、透間より散々に射させ、敵引けば、究竟の駆け武者を五百余騎すぐつて、同時にばつと駆けさせける間、防ぎ手の上杉、畠山が五万余騎、楠木が五百余騎に揉み立てられて、五條河原へ引き退く。
敵は、こればかりかと見る処に、奥州国司顕家{*9}卿、二万余騎にて粟田口より押し寄せて、車大路に火を懸けられたり。将軍、これを見給ひて、「これは如何様、北畠殿とおぼゆるぞ。敵も敵にこそよれ。尊氏向かはでは、叶ふまじ。」とて、自ら五十万騎を率し、四條五條の河原へ馳せ向ひて、追つつ返しつ入れ替へ入れ替へ、時移るまでぞ闘はれける。尊氏卿は、大勢なれども軍する勢少なくして、大将、已に戦ひくたびれ給ひぬ。顕家卿は、小勢なれば、入れ替はる勢無くして、諸卒、忽ちに疲れぬ。両陣、互に戦ひ屈して、怒りを抑へ、馬の息つぎ居たる処へ、新田左兵衛督義貞、脇屋右衛門佐義助、堀口美濃守貞満、大館左馬助氏明、三万余騎を三手に分け、双林寺、将軍塚、法勝寺の前より、中黒の旗五十余流れ差させて、二條河原に雲霞のごとくに打ち囲みたる敵の中を、真横様にかけとほりて、敵の後ろを切らんと、京中へこそ駆け入られけれ。
敵、これを見て、「すはや、例の中黒よ。」と云ふほどこそあれ、鴨川、白河、京中に、稲麻竹葦のごとく打ち囲うだる大勢ども、馬を馳せ倒し、弓矢をかなくり捨てて、四角八方へ逃げ散ること、秋の木の葉を山颪の吹き立てたるに異ならず。義貞朝臣は、わざと鎧を脱ぎ替へ、馬を乗り替へて、唯一騎敵の中へ駆け入り駆け入り、「いづくにか尊氏卿のおはすらん。選び討ちに討たん。」と伺ひ給ひけれども、将軍、運強くして、遂に見え給はざりければ、力なくその勢を十方へ分けて、逃ぐる敵をぞ追はせられける。中にも、里見、鳥山の人々は、僅かに二十六騎の勢にて、丹波路の方へ落ちける敵二、三万騎ありけるを、将軍にてぞおはすらんと心得て、桂河の西まで追ひける間、大勢に返し合はせられて、一人も残らず討たれにけり。さてこそ、十方に分かれて追ひける兵も、「そぞろに長追ひなせそ。」とて、皆京中へは引き返しける。
かくて、日、已に暮れければ、楠判官、総大将の前に来つて申しけるは、「今日の御合戦、不慮に八方の衆を傾くと申せども、さして討たれたる敵も候はず。将軍{*10}の落ちさせ給ひける方をも知らず。御方、僅かの勢にて京中に居候程ならば、兵、皆財宝に心をかけて、如何に申すとも、一所に打ち寄する事、あるべからず候。さる程ならば、前の如く、又敵に取つて返され、度方を失ふこと、治定{*11}有るべしとおぼえ候。敵に少しも機{*12}をつけぬれば、後の合戦、しにくき事にて候。唯このままにて、今日は引き返させたまひ候うて、一日馬の足を休め、明後日の程に寄せて、今一あて手痛く戦ふ程ならば、などか敵を十里、二十里が外まで追ひ靡けでは候べき。」と申しければ、大将、誠にげにもとて、坂本へぞ引き返されける。
将軍は、今度も丹波路へ引きたまはんと、寺戸の辺までおはしたりけるが、京中には敵一人も残らず、皆引き返したりと聞こえければ、また京都へぞかへり給ひける。この外、八幡、山崎、宇治、勢多、嵯峨、仁和寺、鞍馬路へかかりて落ち行きける者どもも、これを聞きて、皆、我も我もと立ち帰りけり。「入洛の体こそ恥づかしけれども、今も敵の勢を見合はすれば、百分が一もなきに、毎度かく追ひ立てられ、見苦しき負けをのみするは、只事にあらず。我等、朝敵たる故か。山門に呪詛せらるる故か。」と、謀りごとの拙き所をば差し置いて、人々、怪しみ思はれける心の程こそ愚かなれ。
校訂者注
1:底本頭注に、「尊良親王。」とある。
2:底本頭注に、「光継。」とある。
3:底本頭注に、「〇島津上野入道 義淳。」「〇筑後前司 中弼。」とある。
4:底本頭注に、「義貞と義助。」とある。
5:底本は、「十万三千騎、」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
6:底本頭注に、「矢を投げて突くこと。」とある。
7:底本は、「聖護院」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
8:底本頭注に、「懸金の受け壺。」とある。
9:底本頭注に、「北畠親房の子。」とある。
10:底本頭注に、「足利尊氏。」とある。
11:底本は、「治定(ぢぢやう)」。底本頭注に、「必ず。」とある。
12:底本頭注に、「元気。」とある。
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