将軍都落ちの事 附 薬師丸帰京の事
楠判官{*1}、山門へ帰つて、次の朝、律僧を二、三十人作り立てて京へ下し、ここかしこの戦場にして死骸をぞ求めさせける。京勢、怪しみて事の由を問ひければ、この僧ども、悲歎の涙を押さへて、「昨日の合戦に、新田左兵衛督殿、北畠源中納言殿、楠{*2}判官已下、宗徒の人々七人まで討たれさせ給ひ候程に、供養のためにその死骸を求め候なり。」とぞ答へける。
将軍を始め奉りて、高、上杉の人々、これを聞きて、「あな、不思議や。宗徒の敵どもが皆一度に討たれたりける。さては、勝軍をばしながら、官軍、京をば引きたりける。いづくにかその首どものあるらん。取つて獄門に懸け、大路を渡せ。」とて、敵御方の死骸どもの中を求めさせけれども、これこそと思しき首もなかりけり。余りにあらまほしさに、ここに面影の似たりける首を二つ、獄門の木に懸けて、新田左兵衛督義貞、楠河内判官正成と書き付けをせられたりけるを、如何なる憎さうの者{*3}かしたりけん、その札の側に、「これは、にた首なり。まさしげにも書きける虚事かな{*4}。」と、秀句をしてぞ書き副へて見せたりける。
又、同じき日の夜半ばかりに、楠判官、下部どもに松明を二、三千燃しつれさせて、小原、鞍馬の方へぞ下しける。京中の勢ども、これを見て、「すはや、山門の敵どもこそ、大将を討たれて、今夜方々へ落ち行くげに候へ。」と申しければ、将軍も、げにも{*5}とや思ひ給ひけん、「さらば、落とさぬ様に、方々へ勢を差し向けよ。」とて、鞍馬路へは三千余騎、小原口へ五千余騎、勢多へ一万余騎、宇治へ三千余騎、嵯峨、仁和寺の方まで、「洩らさぬ様に固めよ。」とて、千騎、二千騎差し分けて、勢を置かれざる方もなかりけり。さてこそ京中の大勢、大半減じて、残る兵もいたづらに用心するはなかりけれ。
さる程に、官軍、宵より西坂をおり下つて、八瀬、薮里、鷺森、下松に陣を取る。諸大将は、皆一手になつて、二十九日の卯の刻に、二條河原へ押し寄せて、在々所所に火をかけ、三所に鬨をぞ揚げたりける。京中の勢は、大勢なりし時だにも、叶はで引きし軍なり。まして勢をば大略、方々へ分かち遣はされぬ。敵寄すべしとは夢にも知らぬ事なれば、俄にあわてふためきて、或いは丹波路を指して引くもあり、或いは山崎を志して逃ぐるもあり、心も起こらぬ出家して、禅律の僧になるもあり。官軍は、さまで遠く追はざりけるを、あとに引く御方を、「追つ懸くる敵ぞ。」と心得て、久我畷、桂河辺には、自害をしたる者も数を知らずありけり。況んや馬物具を棄てたることは、足の踏み所もなかりけり。
将軍は、その日、丹波の篠村を通り、曽地の内藤三郎左衛門入道道勝が館に著き給へば、四国西国の勢は、山崎を過ぎて芥河にぞ著きにける。親子兄弟、骨肉主従、互に行方を知らず落ち行きければ、討たれたる者をも、「生きてぞあらん。」と憑み、生きたる者をも、「討たれてぞ死しつらん。」と悲しむ。されども、「将軍は、正しく別事なくて、尾宅の宿を過ぎさせ給ひ候なり。」と分明に云ふ者有りければ、兵庫湊河に落ち集まりたる勢の中より、丹波へ飛脚を立てて、「急ぎ摂州へ御越し候へ。勢を集めてやがて京都へ攻め上り候はん。」と申しければ、二月二日、将軍、曽地を立ちて、摂津国へぞ越え給ひける。
この時、熊野山の別当四郎法橋道有が末に、薬師丸とて、童体にて御供したりけるを、将軍、呼び寄せ給ひて、忍びやかに宣ひけるは、「今度、京都の合戦に、御方毎度打ち負けたる事、全く戦ひの咎にあらず。つらつら事の心を案ずるに、唯、尊氏ひたすら朝敵たるゆゑなり。されば、如何にもして持明院殿{*6}の院宣を申し賜はつて、天下を君と君との御争ひになして、合戦を致さばやと思ふなり。御辺は、日野中納言殿に所縁ありと聞き及べば、これより京都へ帰り上つて、院宣を伺ひ申して見よかし。」と仰せられければ、薬師丸、「畏まつて承り候。」とて、三草山より暇申して、則ち京へぞ上りける。
大樹摂津国豊島河原合戦の事
将軍、湊河に著き給ひければ、機を失ひつる{*7}軍勢ども、又、色を直して方々より馳せ参りける間、程なくその勢二十万騎になりにけり。この勢にて、やがて攻め上り給はば、又、官軍、京にはたまるまじかりしを、湊河の宿に、その事となく三日まで逗留ありける間、宇都宮五百余騎、道より引き返して官軍に属し、八幡に置かれたる武田式部大輔も、堪へかねて降人に成りぬ。その外、ここかしこに隠れ居たりし兵ども、義貞に属しける間、官軍、いよいよ大勢に成つて、竜虎の勢ひを振へり。二月五日、顕家卿、義貞朝臣、十万余騎にて都を立つて、その日、摂津国の芥河にぞ著かれける。将軍、この由を聞き給ひて、「さらば、行き向つて合戦を致せ。」とて、将軍の舎弟左馬頭{*8}に十六万騎を差し副へて、京都へぞ上せられける。
さる程に、両家の軍勢、二月六日の巳の刻に、端なく豊島河原にてぞ行き合ひける。互に旗の手を下して{*9}東西に陣を張り、南北に旅を屯す{*10}。奥州国司、まづ先にわたり合うて、軍、利あらず、引き退いて息を継げば、宇都宮、入れ替はつて、一面目に備へんと攻め戦ふ。その勢二百余騎討たれて引き退けば、脇屋右衛門佐、二千余騎にて入り替はりたり。敵には仁木、細川、高、畠山、先日の恥を清めんと、命を棄てて戦ふ。官軍には、江田、大館、里見、鳥山、ここを破られてはいづくへか引くべきと、身を無きに成してぞ防ぎける。されば、互に死を軽んぜしかども、遂に雌雄を決せずして、その日は戦ひ暮らしてけり。
ここに、楠判官正成、後れ馳せにて下りけるが、合戦の体を見て、面よりは懸からず、神崎より打ち廻つて、浜の南よりぞ寄せたりける。左馬頭の兵、終日の軍に戦ひくたびれたる上、敵に後ろをつつまれじと思ひければ、一戦ひもせで、兵庫を指して引き退く。義貞、やがて追つ懸けて、西宮に著き給へば、直義は猶相支へて、湊河に陣をぞ取られける。
同じき七日の朝なぎに、遥かの沖を見渡せば、大船五百余艘、順風に帆を揚げて、東を指して馳せたり。「いづ方に附く勢にか。」と見る処に、二百余艘は楫を直して兵庫の島へ漕ぎ入る。三百余艘は帆をついて、西宮へぞ漕ぎ寄せける。これは、大伴、厚東、大内介が、将軍方へ上りけると、伊予の土居、得能が、御所方{*11}へ参りけると、漕ぎ連れて、昨日までは同じ湊に泊りたりしが、今日は両方へ引き分かれて、心々にぞ著きたりける。新手の大勢、両方へ著きにければ、互に兵を進めて、小清水の辺に馳せ向ふ。
将軍方は、目に余る程の大勢なりけれども、日頃の兵、「新手にせさせん。」とて軍をせず。厚東、大伴は、又あながちに我等ばかりが大事にあらずと思ひければ、さしも勇める気色もなし。官軍方は、並べていふべき程もなき小勢なりけれども、元来の兵は、「これ、人の大事に非ず。我が身の上の安否。」と思ひ、新手の土居、得能は、「今日の合戦、云ふ甲斐なくしては、河野の名を失ふべし。」と、機を研ぎ心を励ませり。されば、両陣未だ闘はざる前に、安危の端、機に顕はれて、勝負の色、暗に見えたり。
されども、新手の験なれば、大伴、厚東、大内が勢三千余騎、一番に旗を進めたり。土居、得能、後ろへつとかけぬけて、左馬頭の控へ給へる打出宿の西の端へ駆け通り、「葉武者どもに目な懸けそ。大将に組め。」と下知して、風の如くに{*12}散じ、雲の如くに集まつて、喚いて駆け入り、駆け入つては戦ひ、戦うては駆け抜け、「千騎が一騎になるまでも、引くな。」と互に恥ぢしめて、面も振らず闘ひける間、左馬頭、叶はじとや思はれけん、又、兵庫を指して引き給ふ。
千度百度戦へども、御方の軍勢の軍したる有様、見るに叶ふべしともおぼえざりければ、将軍も、早、退屈の体見え給ひける処へ、大伴、参つて、「今の如くにては、何としても御合戦よかるべしともおぼえ候はず。幸ひに船どもあまた候へば、唯先づ筑紫へ御開き候へかし。小弐筑後入道も御方にて候なれば、九国の勢多く附き参らせ候はば、やがて大軍を動かして、京都を攻められ候はんに、何程の事か候べき。」と申しければ、将軍、げにもとや思し召しけん、やがて大伴が船にぞ乗り給ひける。
諸軍勢、これを見て、「すはや、将軍こそ御船に召されて落ちさせ給へ。」とののめき立つて{*13}、取る物も取り敢へず、乗り後れじとあはて騒ぐ。船は、僅かに三百余艘なり。乗らんとする人は、二十万騎に余れり。一艘に二千人ばかりこみ乗りける間、大船一艘乗り沈めて、一人も残らず失せにけり。自余の船ども、これを見て、さのみは人を乗せじと、纜を解いてさし出だす。乗り後れたる兵ども、物具衣裳を脱ぎ捨てて、遥かの沖に泳ぎ出で、船に取り著かんとすれば、太刀長刀にて切り殺し、櫓かいにて打ち落とす。乗り得ずして渚に帰る者は、いたづらに自害をして、磯越す波に漂へり。
尊氏卿は、福原の京をさへ追ひ落とされて、長汀の月に心を傷ましめ、曲浦の波に袖を濡らして、心つくし{*14}に漂泊し給へば、義貞朝臣は、百戦の功を高くして、数万の降人を召し具し、天下の士卒に将として、花の都に帰り給ふ。憂喜、忽ちに相替はつて、うつつもさながら夢の如くの世に成りにけり。
校訂者注
1:底本は、「正成」。
2:底本頭注に、「〇新田 義貞。」「〇北畠 顕家。」「〇楠 正成。」とある。
3:底本は、「にくさうの者」。底本頭注に、「憎らしきさました者。」とあるのに従い改めた。
4:底本頭注に、「〇にた首 似たと新田とを云ひ懸く。」「〇まさしげ 誠らしげの正しげと正成を云ひ懸く。」とある。
5:底本は、「げにと」。『太平記 二』(1980年)に従い補った。
6:底本頭注に、「後醍醐帝の大覚寺殿に対して光厳帝の方を称す。」とある。
7:底本頭注に、「元気を失つた。」とある。
8:底本頭注に、「足利直義。」とある。
9:底本頭注に、「旗をひろげて。」とある。
10:底本は、「旅(りよ)を屯(たむろ)す」。底本頭注に、「軍陣を張る。」とある。
11:底本頭注に、「〇将軍方 尊氏方。」「〇御所方 天皇方。」とある。
12:底本は、「如く散(さん)じ、」。『太平記 二』(1980年)に従い改めた。
13:底本頭注に、「声高にさわぎ立つて。」とある。
14:底本頭注に、「心を尽すと筑紫(九州)とを云ひ懸く。」とある。
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